猿と肉食獣と沼
芦花公園
1
「遺伝子組み換えとゲノム編集の違いとか説明させられたんだよ。まったく、なんでそんなことも分かんねえようなアホに話さなきゃいけないのかって話だよ」
『ごめん、俺もきちんと他人に説明できるほどは分かってないや』
三好昴は一瞬だけ言葉を切って、軽く溜息を吐いた。
「一応俺の後輩なんだからしっかりしてくれよ敏彦。遺伝子組換えは、外から新しい遺伝子をゲノムに挿入する技術。ゲノム編集は、遺伝子を狙って切断して、変える技術。今は
『うん、聞いてる』
「ほんとかぁ? まあいいや。とにかくさ、これでノーベル賞取った奴がいるだろ。それはすげえと思うよ。だけどさ、『三好先生のシステムはそれと比べてどこがすごいんですか』とか言うわけ。まずそこと比べるのがおかしいだろ。全く何も分かっていないことの証左だよ。ホントに呆れるっていうか。そのレベルのアホの記者を俺のところに寄越すとか本当にどうかしてる。わざわざ日本から来たっていうから取材受けてやったけど、猿の考えることは」
『ノーベル賞が欲しいの?』
三好は何とも言えず、「いや別に」と言葉を濁した。
「ノーベル賞は天才に与えられる賞っていうか、運命の女神に微笑まれた人間に与えられるもんだから」
『そうだよね。俺もまあ、そう思う。それに、天才かどうかは明確に証明できることではないし……そもそも、他者からの評価って、そんなに大事なことかな。片山敏彦は誰から見ても顔がいい、三好昴は誰から見ても天才。これは己惚れじゃなくて客観的事実としてある。外の評価はいらない。分かり切ってるから』
つくづく変わった人間だ、と三好は思う。しかし、彼の言うことは何一つ間違っていない。
片山敏彦は現在存在する地球上の全人類の中で最も美しいからだ。大げさではない。疑いようのない事実だ。それは、自分の職域への自信と同じく、揺るぎないものだ。
「それは分かってるけど、評価が要らないってほど、己惚れられないかな、俺は」
敏彦の軽い笑い声が電話越しに聞こえる。
『己惚れじゃなくて事実だってば。まあ、確かに、俺の顔と違って、職業だもんね、そっちは』
低い声だ。低くて、耳心地がいい。電話から聞こえてくる声は本当の声ではない。話した声をフィルタと音源に分解し、それを「コードブック」という、音の辞書のようなものを参照し改めて音声として組み立てるのだ。「固定コードブック」から本人の声に近く聴こえる音声コードを探し、声色に合わせて一瞬にして音声は作られる。「適応コードブック」という直前につくられた音声コードをメモ書きしたような辞書も使って、数千種類もある中から効率よく選ばれる。
こんな長い説明をしたら敏彦は大きな目をくるくると動かして、興味があるようなふりをして、「そう」と短く言うのだろう。
仕組みが分かっていることを理解すること、説明することは簡単だ。三好にとってほとんどの人類は猿と変わりがない。自分が一瞬で簡単にできることが何年かかってもできるようにならない者ばかりだ。別種の生き物としか思えない。
しかし、敏彦のことは別種の生き物とは思えない。いや、ある意味、別種かもしれない。
敏彦のことは説明ができない。理解ができない。
初めて彼を認識したのは四月だった。ちょうど新入生が入ってくる頃だった。新歓に勤しむ学生たちでごった返す道で、彼だけが光って見えた。それは三好だけではなく他の学生も同じで、誰もが自然に立ち止まって、彼をぼうっと見つめた。
「あれ」
誰だ、と言う前に隣にいた同級生が口を開いた。
「ああ……すごいよな、片山敏彦っていうらしい。去年一年休学してたみたいだけど……あんなの、見たことないよな」
そうだ。度を過ぎた美貌は人間を越えていた。「あんなの」呼ばわりをされるのも、無理はない。
イケメンとか、美形とか、今風に言うなら顔面国宝とか、そんな言葉は全て敏彦に使うのは失礼にあたる。神がかった美貌、それが一番近いのだろうが、それすらも陳腐な表現だと感じる。
彼の美しさは説明することができない。理解することも難しい。敏彦を見ると魂の核を掴まれたような気分になる。
今までにも、顔の整った人間なんていくらでも見たことがある。上背が高く筋肉質の体型と、抜きんでた頭脳は、魅力に直結するようだった。容姿に自信があり、実際に人よりずっと美しい女たちが言い寄ってきたし、付き合ったこともある。しかし三好の中ではあくまで猿は猿であり、猿の中ではマシな見た目の者を選んでいた、というような感覚だった。
敏彦は違う。抗いがたい。一目見た時から、姿も言ったことも全て、頭から離れない。服装も習慣も、敏彦について、目に見える、耳で聞こえるものは全て覚えている。
『大丈夫……?』
「あ、ああ……ごめん、ぼうっとしてた」
『ふうん』
何かを嚥下する音がした。飲み物を飲んでいるのだろう。
敏彦の甲状軟骨が上下するのを想像する。薄い皮膚に皺が寄るのを。
それを目の前で見たい、と強く思う。できれば触ってみたい。
『それでさ、お前の興味ありそうなことって何? 気になる』
「あ、ああ、そうだな、それの、話」
声が震えているのが分かる。自分もまた凡百の人間で、彼の存在を理解できず、崇敬ともいえる感情を抱いていることを知られてはいけない。自分のような超越的な天才には超越的な美貌が相応しいと思っている、そのような傲慢な態度を装わなくてはいけない。
三好はミネラルウォーターを一口飲んでから、ゆっくりとした口調で敏彦に語り掛けた。
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