「先輩って、なんでこの会社で働いてるんですか?」


 亜衣さんと一緒に帰っている途中、ふと亜衣さんが口にした質問だった。


「その質問、何回も自問自答したことがあります」

「そ、そうなんですか?」


 何度も、家に帰ってビール飲んで、特に楽しい変化や娯楽もない部屋の中で、ただ仰向けに寝っ転がって、そのたびに自分の胸に聞いた。


 努力に見合わない人生だ。何度もそう思った。けれど、その答えは分からなかった。いや、一回だけ結論にたどり着いたことがあった。


 それは、変化を恐れているからだということだ。きっと、大した学歴もない俺でも、多少なり今の会社よりは境遇のいい会社に着ける可能性はないわけではない。それでも、そうしないのは、きっと、俺は変化を恐れているのだと……。


「……まぁ、分からないですね。なんか、転職を考えるたびに別にいいかなって……」

「…………そうですか」


 ただ、変化を恐れているのに、心のどこか、俺にも触れられないどこか遠くに、変化を望む俺がいた。今まで俺を足蹴にしてきた人たちが俺の前から消え去って、家に戻ると、無駄を突き詰めた人間らしい時間があって……。


 そんなものをどうしようもないほど望む俺が、どこかにいる。


「亜衣さんはどうしてやめないんですか?」

「……気まぐれです」

「気まぐれって……。亜衣さんならもっといい会社に行けるでしょ」

「まぁ、そうなんですけど……。いい人見つけちゃって」

「え⁉ 亜衣さん気になってる人いるんですか⁉」


 これはびっくりだ。亜衣さんは社内のアイドル。彼女に狙われる男なんて、めちゃくちゃラッキーだ。


「……気になってるっていうか、尊敬できるというか……。まぁ、そんな感じです」

「へぇ~……。まぁでも確かに、尊敬できる人が近くにいると、多少嫌な仕事でも我慢できるものか……」

「まぁ、私の場合、色々と副業してるのもありますけどね」

「ただでさえブラックなのに、さらに働こうとするその根性。尊敬するよ。あ、今俺がこの会社にいる理由が一つ見つかりましたね」

「…………先輩、もし私が会社を辞める時は、二人で退職届けだしに行きましょうか」

「とんでもないこと言うな……」


 亜衣さん、ちょっとだけ深夜テンション入ってるな……。


「それにしても、ほんと美人でしたね。シズさんでしたっけ」

「まぁ、確かに綺麗ですよね……」

「…………先輩はあーいう人、タイプなんですか?」

「う~ん……、いかんせん恋愛経験が少ないせいであんまりわからないんですよね……。それに、まだ会ったばっかですし……」

「へぇ~……」


 しばらく夜道を歩いていくと、亜衣さんが少し顎を上げて、マンションを見上げていた。


「あ、ここですか? なら、俺はここらへんで……」

「ちょっと待ってください」


 亜衣さんは踵を返した俺の肩をガシッと掴み、いたって普通の笑顔で圧をかけてくる。


「な、なんですか?」

「女の子が狙われるのは、自分の家に入る瞬間だと思うんです。家に入られたら逃げる場所ないですし……」

「……じ、じゃあ、ここで部屋に入るまで見張っておくよ」

「それだと、後手に回りませんか?」


 なんでこんなに圧をかけてくるのか、そこまで俺に付き添わそうとするのか、俺には得体のしれない疑問だった。


「わ、分かりましたよ……。ちゃんとついていきますよ。でも、シズさんがおなかすかせてるので、少し急ぎますからね?」

「むー……」


 亜衣さんはあいまいな返事をして、半ば強引に俺の腕を引っ張ってくる。エレベーターに乗っても、掴まれた腕が離されることは無く、俺も無意識にそれを許していた。


 しばらく会話を交わすでもなく、エレベータの小さな空間で二人きり。この無言の時間が一番好きだ。昔は会話をしていないと落ち着かなかったけど、最近はそうでもない。これぐらいがいい。


 ちーん。エレベーターが⑥と書かれたところに光がともるとそんな音を鳴らした。


 そしたらまた亜衣さんは俺を引っ張りだした。


「地味にここから長いんですよね……」

「そうなのか。というか、ここ結構いいところじゃないの? 亜衣さんって副業でどれだけ儲けてるの?」

「そ、それは言えません!」

「まぁ、そうだよね……」


 亜衣さんの部屋の玄関の前に立つと、扉だけでも俺の住んでるところとの差をいやというほど感じた。


「…………」


 亜衣さんがカチャカチャと鍵を慣れた手つきでいじくった後、扉があっけなく開けられた。その先には、俺が思い浮かべていた通り、立派な部屋が目に入ってきた。


「おぉ……。そ、それじゃ、この辺で……うお⁉」


 俺が今度こそとさっきよりも少し気合を入れて踵を返すと、亜衣さんがさっきよりも強引に俺を引っ張って自分の部屋に呑み込ませた。


 あまりに不意を突かれたもので、俺は体勢を崩したまま玄関の段差に引っかかって倒れてしまう。


 亜衣さんは仰向けに倒れてしまった俺の顔の両隣に手をそっと置いた。


「な、何を……」

「先輩。折角ですし、今日は泊っていきませんか?」

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