第7話 籠の中の鳥、温室の中の野の花 -Ⅲ-


 ◇◇◇


 朝。学校に着くと、僕の席に置き手紙があった。[柊先輩へ]とある。ほのかの字体だ。ほのかの字体は桜とは違う。桜は少し丸い文字を書き、ほのかは実は桜より字が綺麗だ。そしてどこか女性らしさがある。それはほのかの内包する美しさの一つだと思うけれど、本人に言ったところでどうなるのだろう、と思いながら目を通す。中は[屋上へ来てください]という簡潔な文で終わっていた。

 僕は真っ直ぐ屋上へと向かった。あの手紙を断る理由がなかったから。

 屋上の扉は開いていた。嫌な予感がする。

 嫌な予感というものは往々にして当たるものという決まりがあって、これ以上、進まなければ、その予感の結果が発覚するのは明らかなのに、どうしても進まなければならないときに限って、その予感は訪れる。だから、前に進むしかない。

 半開きの扉を押せば、きい、と軋んだ音が鳴る。入ると、ほのかがいた。

「おはようございます、先輩」

 何事もなかったかのような作り笑いを浮かべて。

 僕は覚えている。昨日、この子にはっきりと[嫌いだ]と言ったことを。まさかそれに何も思っていないわけではあるまい。

 不審に思いながらも、不自然を煽る必要はない、と僕は返す。

「おはよう」

「来てくれて嬉しいです」

 フェンスに寄り添って彼女は言った。

「先輩、なのちゃんへの償い、ちゃんと考えてくれていたんですね」

「え?」

「相模さんから聞きました」

 唐突に彼女が語り出すのを黙って聞いた。

「なのちゃんのことを忘れない……先輩にとっては一番の苦痛ですよね。卓球もできなくなったんですもの。それでも、そんな道を選ぶなんてすごいです。ごめんなさい。昨日はあんな風に怒ってしまって」

 素直に謝られて拍子抜けする。どう対応していいか戸惑っているうちに、彼女は次の言葉を紡いだ。

「じゃあ、そんな先輩は、私が死んでも同じように償ってくれるんでしょうか……」

 がしゃーん!!

 彼女が後ろのフェンスを倒し、落とす音。それよりも早く僕は動き、落下していく彼女の手をすんでのところで掴んだ。──心臓が、止まるかと思った。

「何するんですか!?」

「それはこっちの台詞だ!!」

 僕は叫んだ。

「飛び降りて……死ぬつもりだったのかよ!?」

「それ以外に何をするっていうんです?」

「ふざけるなっ!!」

 怒鳴りつけると、すっとほのかの顔から表情が消えた。

「ふざけるなよ……死なせるもんか……死なせてたまるか……! 何度も何度も目の前で人に死なれてたまるかよっ!」

 そう言うと、ほのかはひどく切なげな顔で返した。

「それは、誰のためですか?」

 静かに彼女は言葉を紡いだ。僕は息を飲む。彼女の腕を掴んでいる手が震えるのは、果たして彼女の体の重さだけが原因だっただろうか。

「自殺したなのちゃんのためですか? 友達の橘先輩のためですか? 恋人の相模さんのためですか? それとも罪から逃れたいと思う自分のためですか?」

「え……?」

「結局、先輩がこうするのは[私のため]ではないんです。だから、手を離していいですよ。離してください」

 そんなことはない。そんなことはないのに。腕が痺れて、力が抜けていく。

「いや……だ……死なれて……たまるか……」

 何故だ……何故か、意識が遠のいてしまう。だめだ……!

「うあぁぁぁぁぁぁっ!!」

 右手からするりと、彼女が抜け落ちた。


 ほら、離した、という顔を、彼女はしていた。

 が。

「うおぉぉぉぉぉぉっ!!」

 [俺]は左手でほのかの手を取り、そのまま引き上げ、突き飛ばした。

 ほのかの唖然とした顔がちらりと見えた。

 けれども俺が今度は落下していき、意識が途絶えた。


 ◇◇◇


「柊さん!」

「ああ、悠斗くん。来てくれたのか」

「友人が屋上から落ちたって聞いて、すっ飛んで来ました。まあ、先生がなかなか教えてくれなかったんで、放課後になってしまいましたけど。容態は?」

「意識不明の重体……であり、ぴんぴんしている」

「はい? それってどういう……?」

「友人はもう目を覚ましている。意識不明で重体なのはサイ……君が[友人]と呼ぶ方だよ」

「まさか」

「君が会えば、何か変わるかもしれない。会ってみてくれ」


 ◇◇◇


 白い天井。白いベッド。白い床。白いカーテン。白い壁。

 何もかもが白い部屋の中に頭が真っ白な高校生が一人。

 俺は柊友人。幼い頃、母親が目の前で自殺して、そのときから性格は根暗。中学のときには同級生にひどいことを言ってその子に自殺された。それを引き摺って卓球をするたびに手が震えてできなくなる。それでも前に比べればましになった。

 中学のときに死んだ少女の一件から、二重人格となった柊 友人のストレス解消用人格が俺である。しかし高校に入り、友人が相模 叶多という人物と衝撃的な出会いをし、打ち解けていったことで、だいぶストレスもなくなり、俺もそろそろお役御免かと思っていた。

 違った。

 消えたのは、俺じゃなかった。──もう一人の[友人]だった。

 消えたと感じる。心の中にぽっかり穴が開いて、そこから否応なしに冷たい空気が出たり入ったりするような、空ろで、気持ちの悪い感覚がある。

 親父はいつもどおり、一目で俺であることに気づいた。俺がこの感覚をそのまま伝えると、そうか、とだけ言って出て行った。

 しばらくして、今度は別なやつが入ってきた。

「よう、ハルト」

「直接会うのは久しぶりだな、ユージン」

 悠斗だ。小学校の頃からの唯一の友達。

 どうしてそれは覚えているのに、友人はいないのだろう。

「友人は?」

「……いない」

「そうか」

 会話はすぐ途切れた。それでもしばらく悠斗は考え、病室にいた。

「なあ、ハルト」

 俺は沈黙が息苦しくて、話題を絞り出した。

「俺はどれくらい眠っていたんだ?」

「三、四時間ぐらいだってさ」

「お前はいつここに?」

「残念ながら、ついさっきだよ。先生がお前のこと、なかなか教えてくれなかったんだ」

 悠斗は肩を竦めた。場の空気に馴染まない剽軽な仕草が、少しだけ俺の心を軽くした。悠斗なりの気遣いなんだろう。

「今何時?」

「大体四時」

「放課後かよ」

「ああ、参ったよ」

「わざわざ部活も休んできてくれたのか」

「当たり前だろ、友達なんだからさ」

 いつもどおりの、ごく自然に放たれた言葉が何故だか胸に刺さった。


「それは、誰のためですか?」


 少女の声が蘇る。


「自殺したなのちゃんのためですか? 友達の橘先輩のためですか? 恋人の相模さんのためですか? それとも罪から逃れたいと思う自分のためですか?」


 少女の責め苛む声。

「俺は、何のために」

 白いシーツを握りしめた。

「俺は一体、何のために、あの子を助けたんだ……?」

 その子が誰だったかは、思い出せない。

 けれど答えは出さなくてはならない。

「それは、あの子を救うためだろう? あの子自身のため」

 悠斗はそれ以外にないだろう、と言うような目でそう口にした。

「そうか。そうだよな。それ以外、何があるっていうんだ……」

 助けたいと思ったから助けた。当然だ。死んでいい人間なんていないんだ。だから俺は、あの子自身のために、あの子を助けた。

 結論が出ると、安心のためか、頭が痛み、視界が歪んで、瞼が重くなってきた。そのまま横向きに倒れてベッドから落ちそうになる。そこを悠斗がそっと支えてくれた。

「……わりぃ」

「気にすんな。今日はもう休め。叶多さんにも連絡したら、明日来るってさ」

「親父は?」

「夕飯くらい、どうにかなるって。今日はお前は入院。他のことは気にせず休め」

 そのまま、俺をベッドに横たえて、悠斗は去って行った。


 ◇◇◇


「……そうか、友人はいなくなってしまったのか」

「意外とあっさりした反応なんですね、叶多さんは」

「そういうお前こそ、すんなり受け入れているではないか、橘。……お前も薄々気づいていたんだろう?」

「はい、まあ。だからわざとユージンって呼んで、一線引いてたんですけどね」

「やはりそうか。ではあれがそうなのだな?」

「はい。本人は違うと思っていますけど、ユージンが柊友人の主人格です。──[友人]の方が、仮初めだったんですよ」


 ◇◇◇


 もう二度と[彼]は目覚めない。

 [彼]はその役目を終えたのだから。


 to be continued...


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