第3話 貴方のために、私は死ねます。 - Ⅲ -

 大会当日。僕は男子のシングルスに出場することになっていた。

 僕の試合は午後からなので、のんびりと会場のロビーを歩いていると、思いがけない人物と出会った。

「か、叶多?」

「やあ、久しぶりだな、友人」

 挨拶どおり、久しぶりだった。これまでずっと卓球部で練習づめだったため、文芸部には全く行っていなかったのだ。

「アラタから聞いたぞ。今日が試合だそうじゃないか」

「はい。でも、カナタはどうしてここに?」

「え? それは、ええと……」

 叶多が言葉を濁し、視線を徊わせる。数秒そうしてから、覚悟を決めたというような切羽詰まったような目で僕を見た。

「訊きたいことがある」

「な、なんですか? 改まって」

 叶多の真剣な眼差しに思わず緊張する。どこか硬い表情のまま、叶多は続けた。

「卓球、楽しいか?」

「……え? 何を突然……」

「いいから答えてくれ。正直に」

 叶多がどうして卓球のことなど気にするのだろう、と不思議に思いながら、僕は素直に答えた。

「楽しいですよ」

 答えると叶多は虚をつかれたように一瞬目を見開き、それから笑った。

「なら、よかった……」

 そう言って去っていく背を追おうとしたが、後ろから声がかかる。

「柊くん、準備!」

「あ、はい」

 小山先輩が近づいてきて、叶多が去った方を見やって言う。

「今の、相模さんだよね? 応援に来てくれたんだ。よかったね」

「おうえん? そうなんですか?」

「いや、むしろ他に来る理由があると思う?」

 気づかなかった。

「相模さんってかなり変わってるけど、柊くんと話しているときは普通なのね」

「え……? そうですか?」

 部員用の弁当の入った段ボールを運びながら、小山先輩が言った一言に僕は驚いた。自殺についてとうとうと語る叶多と[普通]という言葉はどうしても結びつかない。

「そうだと思うよ。あの人が普通の会話しているところ、初めて見たもの」

 そういえば確かに、先程の会話は普通の話題だった。

「卓球のこと訊いてたみたいだけど、相模さんも興味あるのかな?」

「わかりません」

 叶多についてはわからないことだらけだ。自殺志願者を名乗ってはいるけれど、しようと思うと躊躇ってしまうと言うから、実のところ、あやふやなのだ。さっきの質問にしたって、いまいち意図が掴めない。

 考え込んで黙っていると、小山先輩がそうそうと別の話題を切り出した。

「ずっと言おうと思ってたんだけどさ。柊くん、私たちの部に転部しない?」

「え……?」

 突然の提案に思考が停止し、それまで考えていたことがすっぽり抜けてしまった。

「ほら、文芸部って柊くん以外は相模さんも神田かんだくんも三年生でしょう? 二人が抜けたら一人になっちゃうじゃない。それってなんだか寂しくない? だから、卓球部に来てくれないかな? 柊くん、上手いし、戦力としては申し分ないから欲しいっていうのもあるし、三年生がいなくなるとこっちも人手が足りなくなるから、どちらにしろ、柊くんに手伝ってもらわなくちゃいけなくなると思うの。だったら、入ってもらった方がいいかなと思って。あ、いや、強要はしないよ? 柊くんがよかったらでわあぁ」

 段ボールを持っているのを忘れて身振り手振りを交えようとして、先輩が段ボールを落としかける。なんとか事なきを得たところで、僕が先輩の分も段ボールを持って歩き始めた。

「……少し、考えさせてください」

 僕がそう答えると、先輩は気を悪くした様子もなく、からっとした笑顔で頷いた。

「うん。柊くんのいいようにでいいから」

 その笑顔をちらりと見て、桜とも似たような会話をしたことを思い出す。あのときは確か、空き時間にラリーをしてほしいという頼みだった。考えさせて、と答えたら、同じ台詞が返ってきた。


 やっぱり、似ている。


 けれど、顔はあまり似ていない。もっと、根本的なところで、先輩と桜はよく似ている。けれども桜とは違うところもあって、この人は桜じゃないのだ、と自分に言い聞かせるたび、ひどく胸が痛む。なんとなく、この人には優しくしなくては、などと思い、言われたことを即座に否定もできず、拒否もできずになってしまう。

 卓球が楽しいのは叶多に言ったとおり、今の正直な気持ちだ。今ならもう続けても平気だと思う。ただ、そのために文芸部をやめるというのが心に引っ掛かっている。

 その引っ掛かりの正体がわからず、もやもやした気持ちを抱えて昼食を摂った。



 ◇◇◇



「おはよう、相模さん」

「おはよう、小山」

「長い間柊くん借りちゃってごめんね。おかげさまて優勝できたよ」

「……友人は今日から戻ってくるのか?」

「うん。今日は一旦私の方に顔出してから文芸部に行くって言ってたよ。多分私が頼んだことの答え、出たんじゃないかな」

「頼んだこと?」

「あ、相模さんには言ってなかったっけ? 柊くんに転部しないかって誘ったの。試合のときにね。ほら、そっちは相模さんたちが抜けたら柊くんだけじゃない」

「文芸部を潰す気か?」

「滅相もない。柊くんの意志次第」

「それで、友人の返答は?」

「だから、まだだよ。[少し考えさせてください]って言ってたから」

「そう……か……」

「あれ? 相模さん、どこ行くの?」

「すまないが……私は用があるのを思い出した……帰る」

「え? 相模さん?」

「……さようなら」




「やっぱり、変な人」



 ◇◇◇



「こんにちは、アラタ先輩。お久し振りです」

「うん、久しぶり。珍しいね、君からここに来るなんて」

 昼休み、僕は叶多と新太先輩のいるクラスへやってきた。

「カナタは休みですか? 珍しいですね」

 教室に叶多の姿はなかった。通学用の鞄が机にないところを見ると、今日は来ていないらしい。

「ああ、それがね……小山さんによると、帰っちゃったらしいんだ」

「え? そうなんですか、小山先輩」

 近くの席に座っていた小山先輩に振り返って訊くと、頷いた。

「急用を思い出したとかで帰っちゃった」

「そうですか」

「ところでユージンくんはどういう用でここに?」

 新太先輩が話題を変えてくれたので、僕は本題を切り出した。

「僕、小山先輩から転部のお誘いを受けていて、その答えを保留にしていたんです」

「うん、小山さんからだいたいのことは聞いてた。ということは、答えが出たのかな?」

「はい」

 僕は大きく頷いて続けた。

「僕は、文芸部に残ります」

「それはまたどうして?」

 新太先輩の質問に答えようとしたそのとき。

「神田、いるか!?」

 先生が一人、怒鳴るような声で入ってきた。

「はい、います!!」

「ちょっと来い。……ん? あと、そこの一年、お前もだ」

「はい……え?」

 呼ばれて戸惑いつつ、その先生についていく。[生徒指導室]という人気のない教室に導かれた。先生は誰もいないことを確認し、戸を閉め、切り出した。

「二人とも、相模叶多は知ってるな?」

「はい」

「……やつが、とうとうやった」

「えーと、……何をですか?」

 緊張感なく聞き返した僕に先生が口を開きかけて噤んだ。それで悟った。

「まさか、カナタが……」

「自殺を図ったんですね?」

 怖くて僕が紡ぎ出せなかった結論を新太先輩が引き継いで言った。先生が苦々しい顔で頷く。新太先輩は冷静に続けた。

「容態は?」

「意識不明だが、発見が早かったので一命はとりとめたという」

「遺書なんて、ありませんよね?」

「……あったらしい」

 そこで先生は視線を僕に向けた。

「柊友人、お前にだそうだ」

「え……?」

 凍りついた。僕に遺書……? 自殺……? これはまるで、まるで……

「お前ら二人は相模と同じ部で仲も良かったということだから、今すぐ早退して相模のいる病院へ行ってくれ」

 先生の言うことは半分も理解できなかった。それを察してくれた新太先輩に手を引かれて僕は学校を出た。



「貴方のために、私は死ねます」



 ただ一行、それだけが書いてあった。

「アラタ先輩……これは、どういう意味でしょう……?」

「そうだね……」

 新太先輩は何度も何度も読み返して、こう答えた。

「本当のことはきっと、カナタにしかわからないよ」

「そう、ですね……」

 どうしてだろう、と思い続けていた。

 僕はまた、人を傷つけてしまった。

 人の心を傷つけてしまった。自覚もないうちに。

 この手紙は、きっとそういうことなんだ。

「起きたら、カナタに訊くといいよ」

「そうです、ね……」

「なのはちゃんのときとは違うから、訊けるよ」

 そうだ。

 そうだ。この人はまだ死んでいない。生きている。だからまだ、語り合える。

「小山さんによると、君の転部の話をしたときに動揺したんじゃないかって」

「そういう……ことですか……」

 まだ、本当の気持ちを明かせるチャンスがあるんだ。

「……俺の想像でよかったら、その遺書の意味、話すよ」

 不意に新太先輩が言った。僕はお願いします、と返し、聞いてみることにした。

「それ多分、告白だよ」

「こく……どういう、ことですか……?」

「カナタは、不器用だから」


 苦く笑い、天井を見上げて、先輩は続けた。

「愛情の示し方がわからなかったんだよ。知ってのとおり、頭の中には自殺以外のことは入っていないような人だから。死ねばずっと想っていてくれると思ったんじゃないかな」

 ふと、悠斗の言葉を思い出す。


「知ってたか? 桜はお前のこと、好きだったんだぞ」


 ……同じ、なのか……

「わかりづらいですよ……」

「いや、でも俺のただの想像だから、本当かどうかは」

「本当だよ」

 当事者の声がした。振り向くと、病人服を着た叶多が点滴をつけて立っていた。

「本当だよ。さすがはアラタだ。私のことなら何でもお見通しだな」

「お褒めに預かり至極光栄。……ということだから、俺はちょっと席を外すよ」

 新太先輩が去っていくと、叶多が隣にやってきた。

「……小山先輩から、転部のことは聞きましたか?」

「嫌なことを蒸し返すな、お前は」

 切なげな顔で叶多は続けた。

「お前が即答を避けたと聞いて、ああ、文芸部わたしを選んではくれないのだろうな、と思った。あとはアラタの言ったとおりさ。そして今に至る。……死ねなかったな」

 包帯の巻かれた手首を見て、叶多は自虐的な笑みを浮かべた。

「カナタの馬鹿!!」

 僕は堪らなくなって叫んだ。

「どうして僕が答えを出してもいないのに死ぬんだよ? どうして直接言わないで死のうとするんだよ!? わからないよ、わかりづらいよ。こんなやり方で伝えられても、わかりたくなんか、ない……っ!」

「友人……」

 こらえていたものが溢れてくる。僕はそれを必死で鎮めた。かなり時間はかかったけれど、叶多はずっと待っていてくれた。落ち着いて、その目を真っ直ぐ見る。

「僕は文芸部に残ります」

 一語一句をはっきりと言った。叶多が目を見開く。

 僕は繰り返し言った。

「僕は文芸部に残ります。卓球も楽しいですし、カナタやアラタ先輩はすぐに引退してしまいますけど、僕はこの部が好きです。カナタと話すのが……すごく、好きです」

 伝えなければならなかった。もう二度と、過ちを繰り返さないために。

「だから、これからもよろしくお願いします」

 頭を深く深く下げた。

 そっと頭を撫でられた。

「すまなかった、友人。でも、この言葉は本当だよ」

 叶多が僕の手からそっと遺書を抜き取り、言った。


「貴方のために、私は死ねます。……それほどに、愛しています……」


 貴方のために、私は死ねます。~了~

 されどこの物語は続く……

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