処刑された彼女の晨光(しんこう)の物語

コトウラ

プロローグ

 今、私は処刑台に立っている。私は人工色のように澄み渡った青い青い空を眺めながらふっ、と小さく息を吐き、私に向かって罵声や物を浴びせる愚民を見下ろした。


「ぁ、は!あはっ、は!」


 私は思わず笑ってしまった。

 処刑台の下から私を見上げる誰もが目に狂気を宿し、顔を汚く歪め、憎悪・嫌悪のこもった目で私に汚い唾を吐きながら罵詈雑言を浴びせてくる様子は滑稽だったのだ。しかも、そのなんとまあ、醜い豚のような、暴れ馬のような醜悪な顔が何万ーーまあ、ここからあまりに遠くにいるような奴らの顔はよく見えないがーーとあることに、私は思わず笑ってしまった。

 長いこと不衛生で暗い地下牢獄の冷たい石畳の上で重石のついた鎖をずっと繋がれていた私の体はひどく軋み、水を何日も飲んでおらず枯れた喉からは空気の抜けるような音しかしないし、小さく笑うだけで体力が奪われていく。

 しかし、そんなことがどうだって良くなるほどに、目の前の愚民の姿が面白おかしくって仕方がなかったのだ。

 考えても見て欲しい。無実潔白な人間を悪魔のように恐れ、憎み、怒り、ありとあらゆる負の感情を煮詰めて凝縮させたかのようなドロドロの感情をただでさえ崩れた顔面に塗りたくって人間から発せられる声とは明らかに異なる不快で奇怪な音と唾を口から吐き出している様を見てなぜ笑わずにいられるだろうか。しかもそれが何万人もいることにおかしくっておかしくって、腹が捩れそうだ。

 私が笑っていることに気づき、さらに激昂する愚民の顔を見て、私は哄笑した。


「おい」


 私と愚民との掛け合いーーいや、私が悪びれもなく笑っている様子にだろうがーーに苛立った第一王子エリオットがこちらに向かってきた。これは元婚約者で、「シャンタル、愛している」「俺にはお前しかいない」など今になって考えてみるとただただ気持ちの悪いセリフを毎日のように言って来ていたのに、私に関する悪い噂が広まるとすぐに婚約を破棄し、私を切り捨てるようななんともまあ情けのない男である。


「なんです」


 乾涸びた喉から何度か声を絞り出す。聞き取れたか自分でも心配になる声しか出てこない。


「お前、なぜこの場で笑っている? 皆に申し訳ないと思わないのか!?」


 エリオットは苦虫を噛み締めたような顔で凄んでくる。そんな様子を見て分かったことがある。

 こいつは、私を切り捨てて以降一切連絡をよこして来なかった。私が助けても、私が捉えられ地下牢獄に入れられてからも、一度たりとも。

 だから、ここでこいつに会うことでようやくわかったことが一つだけある。

 すまない。上述したことの一部を訂正しよう。

 こいつは私を切り捨てたんじゃない。本当に噂を間に受け、私と自分が次の被害者になることに対して恐れをなし、私から逃げたのだ。噂をすぐに事実確認することなく間に受けたのはどうかと思うし、私に対してのあの愛の囁きはなんだったのか首を傾げたくなるものの、まあこいつからしてみれば私という存在そのものが脅威だったのだろう。

 それが理解できるほど、彼の目には恐れと、安堵ーーおそらく、私が処刑されることへのだろうーーがありありと浮かんでいたのだ。


「私がここにいる人たちにそのような感情を抱かなければいけないのはなぜでしょうか。前から言っている通り、私は無実です。潔白なのです。ここにいる全員が私を、愛した人の血や肉を余すことなく食す悪鬼だという根も葉もない噂を信じていることに私は驚いています」


「根も葉もない噂だと!?証拠があるんだぞ!」


「証拠、ですか」


 彼のいう『証拠』とは捏造されたものだろう。だって、私はそんな悪行に一切手を染めていないのだ。まあ、弁明したところでこの場にいる者は、刑の執行が目前まで迫った囚人の醜い戯言としか思わないだろうが。

 私を信じてくれなかったエリオット。私の潔白を貴方は、貴方だけは信じてくれると思っていた。だけど、貴方が私に突きつけたのは婚約を破棄するための書類だった。

 あの時、あの紙を見た時、どれほど辛かったか苦しかったか死にたくなったか貴方にはわからないでしょうね。

 これは私からの復讐です。貴方が私を悪鬼に仕立て上げた犯人とは全く関係ないだとはなんとなく想像がついています。本来は犯人へ向けるための復讐心を、半ば八つ当たりで貴方に向けているのは間違っているということも分かっています。それが如何に身勝手で悪辣な行為かということも。

 しかし、それでも私は貴方に信じて欲しかったです。

 2年前、月光が降り注ぐ静かな薔薇庭園で、私たち2人だけが笑い合って踊っていたことがはるか遠くに感じる。

 パーティーを二人で抜け出して、誰も来ない庭園で、会場から聞こえるわずかな音楽に合わせて、一緒に踊った記憶は鮮明に残っている。生涯忘れることのない記憶なのだろう。


 ーーああ、あの時は幸せだった。私たちは本当に愛し合っていた。楽しかったなあ。この幸せがずっと、ずっと続くものだと思っていたのに。貴方とこれから先、ずっと笑い合って助け合って生きていくものだと疑ったことすらなかったのに。


 だめだ、もう。過去の楽しかった記憶ももう今となっては慰めにしかならない。涙が溢れそうになるのを懸命に堪える。泣いたってあの日には戻れない。こいつとの関係も、何もかも元に戻ることはないんだ。忘れるしかないんだ、シャンタル。強くなって、もう二度と過ちを犯さないように。


「永遠に貴方に合わないことを切に願っているわ」


 ーーまあ、絶対に再開するということは理解しているのだけど。


 その言葉は胸の内に留めた。

 私はあなたへの想いを捨てて過去に戻り、私や父、私と親しい使用人たちにこんな目に合わせた奴らに復讐する。


「さようなら、私の愛したエリオット。あなたには、あなただけには信じて欲しかったです」


 決心を胸に、彼に背を向けて処刑台へ向かった。彼が後ろで、一瞬の静寂の後何かを言っているのが聞こえる。恨み言か何なのか私には分からないけれど、どうせ碌でもない事を言っているに違いない。

 処刑人に首根っこを掴まれて、私は処刑台に固定された。

 どこまでも青く続く空。雲ひとつなく、ただ不気味なまでに青い空がそこには広がっていた。

 私の記憶は首の痛みと共にここで途切れた。


 未練などなかったのだ。決して。

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