第8話 四夜目 人化生物との会合(2)


 もう何日も忙しくて、ずっとまともに寝られてないこと。

 辞めていく人の仕事を押しつけられて、手一杯なのに人員は増やしてもらえないこと。

 若い同僚には古株扱いされて壁があるし、中堅や上司からはいいように雑用まで押しつけられる。ダメ押しで大して関わってもいない一件の責任者が突然失踪したせいで、取引先からひどく叱責されてしまったこと。


 もう嫌だぁ、とぶちまけて、おいおい泣いてしまった。

 おかしいな、と思わなくもなかった。酒を飲んでいるわけでもないのに涙が止まらない。


 猫の執事は穏やかに話を聞いて、ときおり話を整理するようにまとめてくれる。あまりに散らかりまくっていてどうにもならなかった気持ちをほぐして、ひとつずつ解決するための提案をしてくれる。


 猫の執事は、怒りしか湧かなかった職場の現状を根気よく聞いてくれた。どうするのが最良なのか、どうやったら解決できるのかを軽快に導き出す。


 でも。わかればわかるほど、これはだめだな、と思う気持ちが強くなる。

 漠然とした不安と焦りで身動きが取れなくなっていた。思考が停止して、逃げることも考えられなくなっていた。


 このままこの職場にいてもなにも変えられないし、変わりもしないんだろうな、という失望しか残らない。


「これから、どうなさりたいのかが重要ではないでしょうか」

「私、ありきたりで凡庸ぼんようだし、そもそも駄目人間だもの」

 大した学もないし、とぼやく。


 この歳になると女の価値まで下がるなんて思いたくもないけれど、回りは間違いなくそんな目で見る。


 一方的に相手を見下したりするのは、人間同士の間柄だけじゃないかと思う。


 動物同士なら明確な力の差でもないかぎり、差別の態度を取ったりしない。少なくとも、私はそう信じてる。

 人に近いところで暮らす動物たちは態度そのまま、気分そのままで動くけど、心を砕けば素直に応えてくれる。だから好きなんだもの。

 好きすぎて、飼えないあまりにこじらせ気味な妄想をする。その時間が楽しみなのは認める。でも、けっして現実に持ち出したりはしない。

 あくまでも、常識の範囲内だと思ってる。


 ちらりと猫の顔をした執事に視線を向ける。同じテーブルにつき、隣に座っている横顔が視界に入る。

 白い手袋をした両手で、紅茶の赤い液体が入ったカップを包み込んでいる。顔を斜め下に向けて、ゆらゆらと揺れる水面を見ている。


 猫なのに、お茶を飲んでもいいのかしら。身体は人間みたいだから、大丈夫なんだろうか。


 すっかり冷めてしまった紅茶からは、湯気も立たない。

 ようやく、猫の執事は美味しそうに一口をふくんだ。


 胸ポケットからハンカチを取り出し、口回りの黒い毛に残る水滴を拭く。猫らしく舐め取らないところは人間寄りの振る舞いだな、と思う。


「あなたのやりたいことはありますか?」


 突然訊ねられて、はっとして目を上げたら真正面に視線を合わせてしまった。

 吸い込まれそうなほどに青く澄んだ瞳。瞳孔の細い線の回りが濃い青になっている。こんなきれいな目は見たことがない、と感動していると、猫執事はわずかに頭を傾けた。耳が動いている。


「学生時代に、夢中になったことは? 社会人になってから、好きになったものは? 心が躍るような体験は? いつかやってみたいと思っていることはおありでしょうか」

「……」


 音楽が好きだった。映画も好き。絵も描いてみたいし、物語を読むのも好き。旅行もしたい。

 昔はやりたいことがたくさんあった。毎日がきらきらしていた。でも環境に恵まれず、思うような自由も与えられず、自分には才能がないのがわかるにつれて、ひとつふたつと夢は潰えていった。


 一日をやり過ごすのに手一杯で、しかたないと自分を誤魔化ごまかし、あきらめた。

 同僚から結婚式に呼ばれ、結婚を考えていた男に手ひどく裏切られて別れたころ、複数の友人が幸せな家庭を持ちはじめた。ひとりふたりと子どもができて、家族の繋がりも強まる。彼女たちは忙しくなって、会話も合わなくなって離れていった。


 私はひとりの時間が増えて、孤独を感じるようになった。


──結婚はしないの?

 周囲からの言葉が、酷くうっとおしくなる。


 しないんじゃない、相手がいない。あんなものは勝手に見つかるわけじゃない。見つける努力をしなくちゃいけないのはわかってる。だけど、もう疲れてしまった。


 ひとりのほうが楽だから、と自分に言い聞かせた。すべてに距離をおいて、気がついたら自宅と会社の往復だけになっていた。


「もう……いいかな……面倒だもの」

「人生は一度きりですよ」


 猫の顔を見つめて言う。「あなたが言うの?」

「猫の生は、もっと短いです」


 その言葉に呼吸を忘れた。言われてみれば、そうだ。

 猫の寿命は人間の四分の一ほど。この猫執事も、ふつうの猫と同じ寿命かどうかはわからないけれど。


「人はたくさん挑戦チャレンジをして、望む未来を選び取る機会を得られます」


 生きる期間が短いなら、そのぶんつらい経験は少なくてすむじゃない。そんなふうに考えていた。


「私からすれば、寝たいときに寝て、起きたいときに起きて、とても自由に生きられる……そんな、あなたたちがうらやましいけど」

「許されないものも、たくさんおりますよ。暗いところで、短い時しか生きられないものが大量にいるのです」


「……」


 野良に生まれたものや、心ない人間のもとで生命を奪われるもののことを言っているのだろうと想像する。


「そう……ね」


「動けなくなったのなら、まずは動けるようになるまでお休みを取るとよいのですよ」

「休み──」


 いつから有給を取ってないんだろう。


「我々はよく眠りますよ。寝ると機嫌がよくなります。気分が変わって、気力が湧きます」


 猫の執事はよく通る、素敵な低音の声でしゃべり続ける。

「我慢してもどうにもならないときは、逃げるのが有益な一手となることもあります。反りの合わない相手と自分を曲げてまでいる必要がないなら、距離を取るのも自然な行為です」


 自分で選ぼうとして選べるぶんだけ、ましな立場なのだろうか。まだ、自分が望む方向へ舵を切れるだろうか。


 やる時間がないから、やらない選択ばかりしてきた。それならば、自分で選択して、努力さえ重ねればできるかもしれない。たぶん。

 あきらめるよりは、やってから後悔したほうがいい。それくらいはわかってる。ただ、思うだけなら簡単だが、行動に移すのはとても難しい。


「生きているだけで、大変に素晴らしいことです」


 猫の執事は、そう言って目を閉じる。上向きのカーブがついた黒いアイラインの目が素敵な笑顔を作った。

 その笑顔だけで、心がとても温かくなる。





 いつのまにか夢でも眠りに落ちてしまっていた。

 気がつくと布団のなかだった。横になっているのに気づく。さっきまで椅子に座っていたのに。


 落ち着いた雰囲気の、由緒ある洋館の図書室で素敵なティータイムを過ごした。あんなに献身的に話を聞いてくれて、問題を解決しようとしてくれた猫の執事も、すべて夢だったとは。

 現実としか感じられなかった時間が幻だと知って、ひどくうろたえている自分がいる。


──どういうこと……? どこからが夢だったの?


 手に握ったままのものがあると気づいて、目の前で広げてみる。

 小さな鍵。あの遊歩道で拾った鍵。

 たしかに自分の家の鍵で扉を開けたと思ったのに。


 これまでとは違い、夢と現実の境があいまいだった。もしかして、部屋の扉を鍵で開けた時点から夢だったのか。


 まだ、口の中が甘い。美味しい香りと味が残っている。

 とても夢とは思えない。


 鍵の先を見つめる。

 長方形の板に刻まれた溝は、一本になっていた。



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