二話

 地方にあるメーナス村の午後は、普段通りに穏やかな空気に包まれていた。今日は休日ということもあり、いつもより時間がゆっくり流れているようにも感じられた。


 立ち並ぶ民家から離れた村の外れに、ファリアの住む家はあった。自然に囲まれた場所で暮らしたいという希望を叶え、一年前にこのメーナス村へ引っ越してきたのだ。ちょうど空き家があり、格安で借りられた家は、傷んだ箇所はあったものの、家族三人が住むには十分な広さだった。おまけに家の裏には空き地があり、まるで自分達の庭のように使うことができ、ファリアは希望通りの今の暮らしに満足していた。


 昼食を終えて、ファリアは台所で三人分の食器を洗っていた。右に視線をやれば、その先の窓の外では、夫のセラと息子のハイメが楽しそうに遊んでいる。裏の空き地は、もっぱらハイメの遊び場として使われていた。赤ん坊の頃から芝生の上をはいはいするのが好きで、四歳になった今は駆け回りながら昆虫を捕ることに夢中になっている。


「ファリア、早く来いよ」


 ファリアの視線に気付いたセラが、大きく手を振って呼んだ。


「これが終わったらね」


 笑顔でファリアは水で濡れた手を振った。


 夫のセラとの出会いは、子供の頃の学校だった。同級生で、学年では一、二を争う頭の良さで、誰からも一目置かれる存在だった。だがある日、セラが養子だということがわかると、意地悪な同級生達は手のひらを返すようにからかい始めた。心無い言葉に落ち込むセラを、ファリアが励ましたことがきっかけで二人の関係は始まり、そして月日が経ち、結婚へと至った。


「とりゃあ!」


 ハイメが短い枝を振り回している。それをセラは、微笑みながら眺めていた。


「振り方が雑だ。もっと腕の動きを――」


 表情とは違い、口調は真剣だった。そんな夫の様子に、ファリアは苦笑する。


 十代の頃からセラは剣術学校へ通っており、剣に関しては常に熱心で、ひた向きに打ち込んでいた。それはすべて、幼い頃からの夢である騎士になるためで、いずれは国王直属の騎士団に入ることを目指していた。ここクランハル王国の軍では、実力さえあれば軍事学校を卒業していない一般市民でも、その土地の軍責任者に認められれば、王都へ推薦状を送ってもらえる。そして王都で実技試験を行い、そこで合否が決められる。セラは剣の腕を認められ、すでに推薦状を送ってもらっている段階で、あとは予定の日に王都へ向かうだけとなっていた。もうすぐ長年の夢が叶うかもしれない期待と喜びで、普段から笑顔は絶えないセラだったが、最近はそれに輪をかけて、見ている人間まで幸せを感じる笑顔を見せていた。おかげでファリアとの些細な喧嘩もなくなり、家の中はより平和で幸せに包まれていた。


「あっ、バッタだ!」


 枝を振っていたハイメは急に走り出した。その視線の先には地面を飛び跳ねるバッタがいた。ハイメは枝を捨て、そのバッタを追いかけ始めるが、逃げるバッタは空き地からそれ、家の正面方向へと行ってしまう。


「捕まえたら、お父さんにも見せてくれ」


「わかった!」


 大きな返事をして、ハイメは家の角を曲がっていった。息子が見えなくなると、セラはファリアの見える窓に近付き、こんこんと指で叩いた。


「……まだ残ってるの」


 ファリアは洗っている小皿を見せる。するとセラは窓を開け、窓枠に寄りかかるように腕を乗せた。


「そんなの、後でいいって」


「後でだと面倒くさくなっちゃうでしょ?」


「俺もやるよ。だから一緒に――」


「駄目」


 ファリアは食器を洗う手を止めない。それにセラは溜息を吐く。


「三人でいられる時間は、もう少ないんだぞ」


「永遠の別れじゃないんだから。ほんの数週間でしょ?」


「そうだけど……」


 セラは不満そうにうつむく。その寂しげな横顔に、ファリアは思わず手を止める。


「あなたって、そんなに寂しがりだった?」


 これにセラは、コハク色の目を細めた。


「家族ができてからは、特にな」


 養子であるセラは、人一倍家族の愛に飢えているのかもしれない。数年前には、その養父母も亡くしている。愛を与えられるのは、ファリアとハイメしかいないのだ。そう思うと、ファリアは自然と微笑んでいた。


「……そういうのって、男は隠すものだと思ってたけど?」


 茶化すような言い方に、セラは堂々と返す。


「俺は正直者なんだ」


 二人はお互いを見て、笑い声を上げる。


「ほら、行こうって」


 セラは手招きをする。


「お願いだからこれだけ……すぐに終わらせるから。ハイメはどうしたの?」


「いつもの虫捕りだ」


「じゃあその間、セラもいつもの素振りでもしてたら? 安心するのはまだ早いでしょ」


「ファリアは俺の腕を信じてないのか?」


「もちろん信じてるわよ。でも、入念に準備をしたほうが――」


「俺は今、ファリアと話したいんだ」


 顔は笑っていても、言葉は強い。ファリアは苦笑いを浮かべるしかなかった。


「……これを片付けながらでもいい?」


「いいよ」


 セラは、にっと笑って見せた。普段の冷静で男らしい姿とは違い、セラは時々、二十七歳とは思えない子供のような面を見せる。それも寂しさから来るものだと思えば、ファリアは夫を愛おしく感じられた。洗い終わった皿を拭きながら、実に他愛ない、だが二人にとって大切な話は長く続けられた。


 その頃、家の玄関前までバッタを追っていたハイメは、草むらの中に隠れてしまった標的を懸命に探していた。


「うーん……どこ行ったんだ?」


 草の間に逃げ込んだのは見たが、その先がわからない。多分この辺りだろうという場所を手で探ってみるが、バッタは飛び出て来てはくれない。


「こっちかな」


 ハイメは別の草むらをかき分ける。秋の涼しさで枯れかけた草が、ハイメの手の甲をこする。ちくちくする痛みにも構わず、奥まで入って探すが、やはりバッタの姿は見当たらなかった。


 そんな小さな背中を、黒毛の馬に乗った男が見つめていた。フードを目深にかぶっており、表情はわからない。だが、灰色の瞳は、しゃがむ子供から離れようとはしない。


 男は馬をゆっくり進ませると、道の端に止まらせ、降りる。そして手綱を近くの木に結ぶと、まだこちらに気付いていないハイメの元へ近付いていった。全身を覆い尽くすこげ茶色のマントの下からは、歩くたびにかちゃかちゃと金属のこすれる音がした。それはバッタ探しに夢中だったハイメにも聞こえたようで、振り向いた先からやってくる一人の男を見つけ、立ち上がった。


 男はハイメの前まで来ると、周囲を見渡した。今はこの二人以外の人影はない。少し不安そうに見上げてくるハイメに、男は聞いた。


「お父さんはどこにいる?」


 親に用があるのだとわかって、ハイメの顔から不安が消える。


「向こうだよ」


 言って家のほうを指差す。男は窓の奥の部屋に目を凝らすが、人は見えない。


「そうか……君の名前は?」


「ハイメ・トランス」


 素直に教えるハイメを、男は見つめる。


「君の、お父さんの名前は?」


 一瞬、怪訝な表情を見せるが、ハイメは教えた。


「セラ・トランス」


「セラ……」


 溜息混じりに言うと、男は黙ってしまった。だがその目はハイメを見つめ続けている。戸惑い、視線を泳がせるハイメは、恐る恐る口を開いた。


「お父さん、呼んでくる……」


「いや、いいんだ」


 歩き出そうとしたハイメを、男は手で制した。


「君は、何を探していたんだ?」


「バッタ」


 草むらのほうへ、ハイメは目を向ける。


「見つかりそうか?」


「ううん」


 首を横に振るハイメの意識は、再び草むらへ集中する。すると、男は右手をマントの下に滑り込ませた。が、躊躇するように動きを止めると、すぐにマントから手を戻してしまう。男の灰色の目が、わずかに揺れていた。


 振り向いたハイメが男を見上げる。じっと見てくる男の不審な空気を感じたのか、その表情がこわばる。


「……やっぱり、お父さん呼んでくる」


 不安に耐えられず、ハイメは家へ走り出した。その瞬間、男の両手がハイメの細い首へ伸ばされた――


「――って言うから、俺笑っちゃってさ」


「ふふ、あの人らしいわね」


 仕事場の同僚の話を聞きながら、ファリアは食器を棚にしまっていた。洗い物も終わり、ようやく三人の時間になる。セラは窓から離れると、空き地のほうへ目をやった。


「ハイメは何してるんだ? ぜんぜん戻ってこないぞ」


「呼びに行ったら? まだ虫に夢中なのよ、きっと」


 棚に食器を重ねながらファリアは言う。


「しょうがないな……じゃあ、虫捕りを手伝ってやるか」


 セラは空き地から家の正面へと向かう。ぐるっと回り、角を曲がった時、突然見えた人影に、セラは思わず足を止めた。


「……どなたですか?」


 話しかけると、背を向けていた人影はゆっくりセラに振り向いた。体格のいい男だというのはわかったが、深くかぶったフードのせいで、顔がよく見えない。


「セラ・トランスか?」


 落ち着いた、低い声が聞いてきた。


「そうですけど……」


 フードにマントと、いかにも怪しい雰囲気に、セラは警戒する。そんなセラを、男は凝視していた。


「身長……濃い金髪……コハク色の目……」


 ぶつぶつと何か言っている男を不審に思いながら、セラは聞いた。


「何か用ですか? 話があるなら――」


 その時、強い風が吹き抜けた。男のマントが大きくなびく。その後ろの足下に何かが見えた。同じように風で揺れる、セラとよく似た淡い金色の髪――


 はっとしてセラは男の顔を見た。そして息を呑む。風に揺れるフードがわずかに男の顔を見せた。無表情ではあるが、細められた二つの目には、冷酷な光がたたえられている。


「……息子に、何をした」


 男は答えない。考えたくなかった。だが、もうハイメは――セラの中には息が詰まりそうなほどの怒りが押し寄せていた。


「何者だ!」


 感情もあらわに睨み付けるセラに、男はゆっくり近付いてくる。


「止まれ! 答えろ!」


 これに男の足は止まったが、次に右手がマントの中を探ると、そこから掲げるように銀色の刀身を持つ剣を引き抜いた。両手で構え、敵意を見せる。男はセラも殺す気でいる。


「人殺しめ……」


 男と対峙するセラは、無意識に左側の腰を手で探っていた。だが当然、そこにはいつも使っている剣はない。小さな舌打ちをすると、セラは家のほうを見た。剣は家の中にある。しかし、取ってくるには玄関から入るしかない。この家には裏口がないのだ。その玄関も、今は男の背後に位置している。丸腰のまますり抜けていくのは困難に思えた。


 セラが必死に考えている間にも、男はにじり寄ってくる。距離を詰められたら、もうどうすることもできない。悔しい思いで、セラは空き地のほうへ走り出した。


 前掛けと布巾を畳み、机の端に置くと、ファリアは外で待つ二人の元へ行こうとした。が、視界の隅に見えたジャガイモの入った袋に、思わず足を止める。これは昨日、農業をしている住人にたくさんできたからと貰ったものだった。しまおうとしていたのをすっかり忘れていたファリアは、その袋を持って再び台所に向かった。


 台所の床下には、収納のできる空間があり、ファリアはそこを食料庫として、保存のきく野菜を中心に詰め込んでいた。ひとまず流し台にジャガイモを置くと、床の食料庫のふたを開けるため、前かがみになった時だった。


「……セラ?」


 窓の外に走っている夫を見つけ、ファリアはそちらを見る。どうも様子がおかしい。ハイメと遊んでいるにしては、表情が険しすぎる。ファリアが窓を開けようと近付いた時、セラがファリアに振り向いた。


「ファリア……!」


 家の中にはファリアがいる。剣を取るために家に入ったら、巻き込んでしまうかもしれない――咄嗟にそう判断したセラは、不思議そうに見ているファリアに、身振り手振りで隠れるよう伝える。ファリアは首をかしげながらも、どうにか伝わったようで、流し台の陰に身をかがませた。


 ファリアが隠れた直後、男も空き地へやってきた。走ることなく、堂々と歩いて入ってくる。周囲を見回すと、男は聞いてきた。


「子供の母親はどこにいる」


 セラは唾を飲み込む。この男は、家族全員を殺す気なのだ。ファリアを隠れさせたことに安堵しながら、セラは緊張の面持ちで言った。


「妻は……死んだ」


「いつ」


「……二週間前だ」


 これに男は、少し考える素振りを見せる。


「嘘を言っているな」


「事実だ!」


 セラは間髪をいれずに叫んだ。ここで怪しまれる態度を取ってしまえば、ファリアの身も危ない。迷うことは許されなかった。


「……事実かどうかは、この後で確かめるとしよう」


 言いながら男は、再び剣を構えた。フードに隠れていても、その目がセラを見据えているのがわかった。奥歯を噛み締めながら、セラはできることを考える。剣を取りに行くことはできない。武器になるものも見当たらない。剣に素手では、無謀だろうか。しかし他に方法がなかった。あわよくば男の剣を奪ってしまえば、勝てる見込みは格段に上がるだろう。だが、それも男の腕次第だ。闘ってみるまではわからない。セラは少しずつ男との距離を詰めていった。


 流し台の縁からわずかに目をのぞかせるファリアは、窓の外の光景に息を凝らしていた。なぜこんなことになっているのか、わからなかった。セラは恨みを買うようなことはしていないはずだった。村の住人とも気兼ねなく話し、仕事場の同僚とも仲良くしていた。今こうして剣を向けられる理由に心当たりはなかった。


「ど、どうしたら……」


 頭を下げたファリアは、流し台を背にしながら鼓動を速めていた。胸を押さえる手がわずかに震える。セラはハイメを呼びに行っただけなのに、なぜ襲われるような状況に――そこでファリアは、あっと声が漏れそうになるのをこらえた。ハイメは今どこにいるのか。セラは連れていなかった。ということは、まだ外のどこかにいるのかもしれない。このことに気付いて、いち早く逃げていてほしい。そう願いながら、ファリアは中腰の姿勢で玄関へ向かおうとした。しかし、手と同じように、足も震えてしまい、思うように力が入らない。動いてと足をさするが、震えは増すばかりだった。


 すると、窓の外から物音が聞こえ始めた。地面の芝を踏む靴音に、かすかな衣擦れの音、そして、動き回る息遣い――セラが闘っている。ファリアは夫を信じていたが、不安と緊張はどうしようもなく高まっていく。両手を組み合わせ、ファリアは祈るように外の物音に耳を傾け続けた。


 セラは乱れる呼吸を整えながら、男を睨み付ける。距離を詰めたいのだが、男は機敏な動きで自分の間合いを保とうとする。そして、隙のない動作で剣を振るってくるのだ。剣を奪うどころか、その攻撃を避けるのでセラは精一杯だった。男の剣の腕は、明らかにセラよりも上に見えた。


 剣を構える男の呼吸は一切乱れていない。それだけ無駄な動きがなく、余裕だということだ。剣さえあれば――セラはそう思わずにはいられなかった。


「いい動きをする」


 男が感心したように言った。そんなことを褒められても、セラは悔しさと怒りを感じるだけだった。


 セラは駆け出す。突進するように男につかみかかる。想像通り、男は身をよじりセラの手をかわそうとする。そこでセラは違う動きを見せた。


「む……」


 驚いたのか、男が小さな声を漏らした。突進した勢いのまま、セラは男の背後に回り込んだ。そして剣を握る右腕をつかもうと、手を伸ばした。だが、それよりも速く体勢を立て直した男は、下げた右肘をセラの胸に力強く当てた。


「うっ」


 鈍い痛みに思わずうめき声が出る。しかし、伸ばした手は男をつかもうと、顔を隠すフードの端をつかんでいた。間合いを取ろうと離れる男の頭から、つかんだフードを強引にはがす。


「回り込まれるとは……」


 離れた男の顔があらわになった。うっすら日焼けした顔は、セラが思っていたよりも若い印象だった。長めの黒髪に、灰色の切れ長の目。その落ち着いた視線はセラを見つめている。しっかりした輪郭から太い首までを見ると、普段から鍛錬をしていることが想像できた。歳はセラと同じか、少し上くらいに見える。それほど年齢差がない相手と、ここまで実力が違うことに、セラはわずかながら衝撃を受けた。


 男は剣を構える。一度見せてしまったら、もうフードで顔を隠す気はないらしい。切れ長の目に力が宿る。


「……何で俺を殺したいんだ」


 セラは胸の痛みを感じながら聞いた。


「答えることはできない」


 即答だった。これにセラは苦笑いを浮かべる。


「理由もわからず闘うなんて……俺は嫌だね!」


 セラは立ち向かう。男の間合いをつぶせば、勝機はありそうだった。あとはどうやって隙を作らせるかだったが、それが一番難しいことだった。男の剣さばきには淀みがない。一瞬でもその動きが止まれば、セラには絶好の機会になるはずだった。


「何のために殺す!」


 攻撃を避けながら、セラは叫ぶ。だが男は何も言おうとはしない。


「剣士の端くれなら、正々堂々と言ったらどうだ!」


 これに男の顔が一瞬曇ったように見えたが、次にセラを見据えると、剣を一直線に突き出してきた。だがこれはかなりの大振りだった。動揺していると見たセラは、一気に男へ詰め寄ると、突き出した右腕をつかみにかかった。


 その時、男が右手から剣を落とした。明らかに故意だった。それに気を取られたセラは瞬間、動きを鈍らせただけだったのだが、男には十分な時間だった。地面に落ちようとする剣を、男は素早く左手でつかむと、そのままセラの腹に向けて勢いよく突き出した。


「しまっ……た……」


 腹に響いた衝撃に、セラの目が見開く。その前には、男の顔が見える。冷酷でも残忍でもなく、そこにはなぜか同情するような表情があった。


 男が剣を引き抜くと、セラはその激痛にうめきながら、地面に倒れ込んでしまった。触れた腹は異様に熱く、指に付いた血は鳥肌が立つような気味の悪い感触だった。苦しくて呼吸が上手くできず、あえぎながら真っ青な空を見上げる。するとそこには、セラを見下ろす男の姿があった。


「楽にしてほしいか」


 感情のない、冷めた口調だった。


「……黙れ」


 どうにか言えた一言だった。これに男は目を細めると、剣を鞘に納め、再びフードをかぶり、数歩後ろへ下がっていった。男はまだ去ってはおらず、セラはその気配を感じていた。死ぬまで、見ているつもりなのだ。それを確認して、男の目的は終わるのだろう。セラの意識が薄れていく。脳裏に浮かぶのはファリアとハイメの笑顔ばかりだった。悔しさと心配とが混ざり合い、腹だけでなく胸の奥まで苦しかった。二人に言葉を残そうと、セラは口を動かそうとする。だがその直後、残っていた意識は波が引くように途切れてしまった――


 音が聞こえない。ファリアは未だに速い自身の鼓動を聞きながら、台所で一人そわそわとしていた。手足の震えは大分治まっていた。動こうと思えば動けるはずだが、先ほどまで聞こえていた物音が、今はまったく聞こえてこない。闘いに決着がついたのだろうか。セラは無事でいるだろうか――ファリアは不気味な静寂に怯えながらも、意を決してのぞいてみることにした。


 流し台から顔を出し、窓の外にいるはずのセラを捜す。だが、そこに見えたのは、マントを着た人間が一人だけで立っている光景だった。視線をずらすと、その足下には、毎日見ていた愛しい横顔が横たわっている。途端にファリアの心臓が跳ね上がった。見間違いであってほしい。でもそれは見間違いようがなかった。毎日見ている夫の顔を間違えるはずがない。濃い金色の髪が風に揺れているが、その下の目は開いていない。開けていないだけか、それとも、もう開かないのか――答えは明白だった。ファリアは両手で口をふさぎ、嗚咽をこらえた。過呼吸になりそうな自分を無理に落ち着かせる。セラは殺された。あのマントを着た人物に、殺された――


 すると、マントの人物の足がおもむろに動き、家のほうへ振り向こうとした。ファリアは咄嗟に身をかがめ、流し台に背中を付ける。再び体が震え始めていた。静寂の中に聞こえてきたのは、芝の上を歩く音。それはどんどんファリアのほうへ近付いてくる。見つかったのだろうか――言い知れぬ恐怖が全身を覆っていく。


 近付く足音は窓際で止まった。壁を隔てたすぐそこに、セラを殺した人物がいる。ファリアは呼吸もできなかった。わずかでも動けば、自分も殺されると感じていた。ふと床に目を落とすと、窓から差し込む陽光の中に、マントの人物の影が映っていた。フードをかぶった丸みを帯びた頭部は、外から部屋をのぞいているようだった。他に誰かいないか捜しているのだ。ファリアはその影から目を離さず、ただ固まり続ける。自分の鼓動が、まるで誰かに叩かれているような衝撃に変わっていく。早く行ってと、心の中で叫び続け、恐怖が過ぎ去るのを待ちわびる。


 しばらくすると、影は陽光の中から消えた。窓から離れたらしい。ファリアは息を静かに吐き出した。行ってくれた――そう安堵したのもつかの間だった。家の側面にある窓の外に、マントの人物の後ろ姿が見えた。その先を曲がれば、家の玄関にたどり着く。まさか、家の中に入ってくる気では――


 ファリアは途端に慌てた。入ってこられたら確実に命はない。どうにかして逃げなければいけなかった。だが、逃げ道は玄関しかない。台所の窓から出られないこともなかったが、人一人がぎりぎり通れる幅しかなく、少しでも引っ掛かれば見つかる可能性が高く、ファリアは二の足を踏んだ。


 そうなるともう行き場はなかった。台所に追い詰められて、覚悟を決めるしかなかった。だがファリアの目は、助けを求めるように自然と周囲をさまよっていた。死を恐れる意識が、死にたくないともがいていた。まだ何か方法があるはず――こわばる動きで辺りを見回した時、流し台に置いたジャガイモに目が留まった。はっとしたファリアは、自分の足下の床を見る。ここなら見つからないかもしれない――ファリアはすぐに食料庫のふたに手をかけた。正方形の床板を持ち上げ、長いスカートの裾をまとめると、つま先で保存してある野菜を隅に押しやり、両足から中に入った。


 その時、玄関の扉のきしむ音が響いた。やはりマントの人物は家に入ってきた。ファリアの緊張が一気に増す。音を立てず慎重に、だが急いで全身を食料庫に収めると、床板のふたを裏から支え、静かにずらして頭上にふたをした。玄関のある居間からは、歩き回る靴音が聞こえてくる。


 かなり窮屈で埃っぽい食料庫で、ファリアは咳き込みたいのを我慢しながら床上を凝視していた。ここは暗く、何も見えなかったが、床板の隙間からわずかに台所の様子が見えていた。思い付きで隠れたが、見つからずに済むだろうかと、拭えない不安を抱きながら、ファリアは固唾を呑んで耳を澄ませていた。


 居間からは靴音の他にも、物をどかす音や、引き出しを開ける音など、いろいろ物色している様子がうかがえた。目的は金品なのだろうかと考えていると、やがて靴音は台所へと向かってきた。ファリアの背中に嫌な汗が流れる。床板の隙間から見えたマントの人物は、台所を見回してから食料庫のあるほうへ近付いてきた。こつこつと靴音が大きくなっていく。革のブーツがすぐ側まで来た時、その動きが止まった。ファリアの心臓も止まりそうだった。なぜここで止まったのか――すると、頭上からがさがさと音がした。ジャガイモの入った袋を探っているらしい。だが興味を引くものがなかったのか、マントの人物は流し台から離れると、また居間へと戻り、そのままきしむ扉を開けて出ていったようだった。床下の食料庫には気付かなかった。自分は助かったのだろうか――ファリアは汗ばんだ両手を握り締め、外に意識を集中させる。遠くから馬のひづめの音が聞こえた気がした。それは遠ざかり、すぐに聞こえなくなった。辺りにはまた静寂が広がっていた。


 マントの人物の気配がなくなった後も、ファリアは食料庫に隠れ続けていた。まだ近くにいるかもしれないという恐怖は、そう簡単には拭えず、警戒心は解けなかった。そんな気持ちがやっと薄れ、怯えながらも食料庫から出てきたのは、日も暮れかけた夕方だった。


 西日が差し込む家の中は、不気味なほど静かに感じられた。マントの人物は部屋中を物色していたようだが、見た感じ、荒らされている様子はなかった。だがそんなことよりも、ファリアはまず息子を捜さなければいけなかった。森へ逃げたか、もしくは村の方達に助けてもらっているかもしれない。そう考えながら、勢いよく玄関を飛び出した。しかし、それはあっけなく否定されてしまった。扉を開けたすぐ脇に、ハイメはうつ伏せで倒れていたのだ。


「ハイメ!」


 ファリアは悲鳴のように呼ぶと、傍らに膝を付き、抱き起こそうとした。が、ハイメの全身はすでに硬くなり、動かなかった。


「何で……」


 抱き上げるのを諦めたファリアは、青白く変わった息子の頬を指でなぞる。人とは思えない冷たさを感じ、ファリアはハイメの死を受け入れるしかなかった。あまりに理不尽な現実に、どこにもぶつけられない感情は大粒の涙になっていくつも流れた。今は恐怖ではなく、深すぎる悲しみが体を震わせている。ファリアはこらえることなく、嗚咽を漏らし、ハイメにすがり付いて泣いた。秋の冷たい風が、ファリアの濡れた頬をさらに冷たくして通り過ぎていく。


 もう一つの死を目の当たりにしたのは、それから四十分後のことだった。すっかり暗くなってしまった空き地に、打ちひしがれたファリアは呆然とした表情で立っていた。目の前には地面に横たわる夫がいた。真っ赤に染まった腹に手を置き、仰向けになって眠っている。固まってしまった血の染みさえなければ、本当にただ眠っているだけのように見えた。月明かりがセラの白い顔を綺麗に照らしている。こんなに綺麗でも、やはり死んでいるのだ。ハイメと同じコハク色の目は、もう二度と開かない。


 ファリアはセラの横に座ると、その胸に顔を寄り添わせた。何も聞こえてこない。その無はひどく悲しく、寒々しかった。


「助けてくれたのに……でも、私……どうしたら……」


 こぼれた涙がセラの服に染み込む。


「悔しい……こんなの……」


 ファリアは声を押し殺し、セラの胸に顔をうずめた。肩を震わせ、夫の冷たい胸の上でいつまでも泣き続けていた。

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