第六章
朝、目が覚めた瞬間世界が回っていた。チカチカと目の前が点滅し、割れそうな程の頭痛が詩月を襲う。薬を飲もうと身体を起こそうとするけれど、少しでも起き上がろうと頭を動かした瞬間、猛烈な吐き気に襲われた。
「うっ……ぐ……」
それでもなんとか、ベッドの横に置いてあったペットボトルと薬に手を伸ばすと、無理矢理掴むようにして口の中に入れた。
数日前から、どんどん症状が悪化していることはわかっていた。最初はすぐに効いていた薬も、最近では効くまでの時間は長くなり、そして効果の持続時間はどんどんと短くなっていっていた。
いつかこのまま薬が効かなくなれば、入院するしかなくなると、広瀬に言われたのはいつのことだったか。欺し欺し効いているフリをしていたけれど、それもそろそろ限界かもしれなかった。
頭の痛みが治まらない。グルグルと回る世界を見つめ続けることに限界を覚え、詩月は意識を手放した。
次に目覚めると、真っ白な部屋にいた。天井も壁も見覚えのないはずの部屋なのに、ここがどこかわかるような気がした。
「詩月……!」
母親の声がして、そちらに視線を向けようとして、その拍子に自分の腕から管が繋がっているのが見えた。管の先は、天井からぶら下がった透明な液体の入った容器に繋がっていた。
「あー……そっかぁ」
「詩月……! あなた、どうして……!」
「お母さん……」
泣きながら詩月の名前を呼ぶ母親に申し訳なく思いながらも、ついにこのときがやってきたのだと、そう思った。遅かれ早かれいつかは来る。ただそれが今日だっただけだ。
母親の後ろに見える広瀬は、怒りと悲しみが入り交じったような、そんな表情を浮かべていた。
「詩月ちゃん」
「……ごめんなさい」
「謝るってことは、何か悪いことをしたの?」
広瀬の問いかけに、詩月は――首を振った。
「してない。けど、みんなに心配をかけたから」
「……そうだね」
頷くと、広瀬はいつものように柔らかい笑みを浮かべる。
「君の身体だから、無茶をしても僕らには止める権利はない。君の命で、君の人生だ。でもね、君が自分を大事にしなかった結果、悲しむ人がいることを忘れないで」
「あ……」
こんなふうに母親が泣くのを見たのは、五年前のあのとき以来だ。ベッドのシーツに小さな染みがいくつもあった。詩月が目覚めるまで、いったいどれほどの時間、ここで泣き続けていたのだろう。謝らなきゃ、そう思った瞬間――。
「ごめんなさい」
詩月が口を開くよりも早く、母親が頭を下げた。
「お、かあさ……なん、で」
意味がわからなかった。何をやっているんだと、怒られるならわかる。もっと身体を大事死してと悲しまれるならわかる。けれど、母親が詩月に謝る必要なんてどこにもないはずなのに、どうして。
「健康な身体に、産んであげられなくて……ごめんなさい……」
「なんで! どうして! そんなことないよ! 私風邪も引かないし、インフルエンザにだってずっと罹ってない。骨折だってしたことない。健康に産んで、育ててくれたからでしょ!?」
「多少風邪を引いても、たまに骨折したとしても、こんなふうに……苦しんでるあなたをみるよりもずっとずっとよかった……」
「お母さん……」
ずっと責め続けていたのだろうか。詩月がこうなったのは自分のせいだと。そんなことあるわけがないのに。
もしかしたら。ふと、思う。詩月が周りの友人たちに比べて風邪を引かないのは、インフルエンザなどの季節性の病気に罹らなかったのは、自分を責め続けた母親が、せめてそれぐらいは、と必死に頑張ってきてくれたからなのではないか。
「お母さん、以前もお伝えしましたがこれは細胞分裂の過程で起こることで、決してお母さんのせいではないのです」
「でも……!」
「お母さんも詩月ちゃんも誰も悪くない。悪いのは病気です。……そして、それを治すのが、僕たちの仕事です」
広瀬はそう言うと、真っ直ぐに詩月を見た。
「……詩月ちゃん、僕たちを信じて欲しい」
「先生……」
信じたい。信じさせて欲しい。でも。
「手術、絶対に成功しますか」
詩月の問いかけに、広瀬は――。
「大丈夫、任せて」
そう言って微笑んだ。胸に嘘の光を携えて。
こんな状態で、どうやって信じろと言うのだろう。
「……もう少し、考えさせてください」
「詩月ちゃん、もう時間がないんだ」
「それでも! 私にとってこの決断は、とても重いこと。そうでしょう?」
先ほど、広瀬がしたのと同じように真っ直ぐに見返す。その瞳が、ほんの僅かに揺らいだのがわかった。
「……そう、だね。でも、長くは待てない。三日だ。三日以内にどうするかを決めて欲しい。それを過ぎると……手術をすることさえ、できなくなるかもしれないから」
言外にそれほど酷い状態なのだと言っていることに、病室にいる人間全員がわかっていた。けれど誰一人としてそのことに、言及することはなかった。
ガタッと勢いよく音を立てて、病室のドアが開いたのは夕方になってからだった。薬のおかげで頭痛も落ち着き、ベッドを起こして外を見ていた詩月は振り返らなくても誰が来たのかわかった。
「病院内は走っちゃ駄目なんだよ、凪人」
「詩月……大丈夫、なのか……?」
「大丈夫か大丈夫じゃないかって聞かれたら、多分大丈夫じゃないと思う。さっきまで点滴が入ってたからそのおかげで今は落ち着いてる感じかな」
「感じかなって……」
ツカツカと音を立てて凪人は詩月のいるベッドに近づいてくると、布団に手を突くようにして詩月を見つめた。
「わかってんのか!? このままじゃ死んじゃうんだぞ!」
「わかってるよ」
「なら、どうして……!」
凪人の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
「どうして、生きたいと……思ってくれないんだよ……」
真っ直ぐに詩月を見つめたまま、苦しそうに吐き出す凪人の言葉が、詩月の胸に突き刺さる。ああ、もうだめだ。もう隠せない。もう嘘を吐けない。
息をするように嘘を吐く人たちを蔑んでいた。けれど、本当は詩月自身がずっと嘘を吐いてきた。他人に対しても、そして自分自身に対しても。
「生きたく、ないわけ、ない……」
「詩月……?」
「生きたくないわけないじゃない!!」
こぼれ落ちる涙と一緒に、心の奥に閉じ込めてきた思いが溢れ出た。
「私だって生きたいよ! またナギに会いに行きたいし、この間みたいに二人で出かけたい。あの映画の続編だって凪人と一緒に見に行きたい!」
「詩月……」
「本当は……あの日のお祭りだって、一緒に行きたかった……」
そういえば、今日は秋祭りの日だった。毎年、この日が来ると胸の奥がジクジクと疼く。
いっそ、倒れたのが今日でよかったのかもしれない。こうやって病室にいれば行きたかったことも行けなかったことも思い出したところでどうしようもないと諦めもつくから。
「なんてね」と、自分の言葉を冗談にしてしまおうとした詩月を、凪人は真っ直ぐに見つけた。
「行こうよ」
「え……?」
「お祭り、一緒に行こう」
「そんなの、無理だよ。私、入院してるんだよ?」
それも今日入院したところだ。祭りどころか、この部屋からさえ出ないようにと安静の指示を受けているのに、外出なんてできる訳がない。
「無理じゃない」
「無理だって」
「俺が連れて行く」
「凪人……」
笑みを浮かべると、自信満々に凪人は言った。
「俺が、詩月に嘘吐いたことあったか?」
そう言うと、凪人は詩月の病室を飛び出した。
「そりゃ、ないけど……。でも」
無理だと思うのに、どうしてだろう。凪人が言うのであれば、叶いそうな気がするのは。
――そして、詩月の予感通り、数十分後凪人はピースサインとともに病室へと戻ってきた。主治医である広瀬を連れて。
「先生……」
「ほんっとうに、仕方がないな君たちは」
呆れたように首を振るけれど、その表情はどこか明るく見えた。
「詩月ちゃんは無理をしないこと。凪人くんは何かあったらすぐに連絡をすること。二十時までには戻ること。この三つを守れるなら、主治医の僕の権限で、詩月ちゃんの外出を許可します」
「いいん、ですか……?」
「本当はいいなんて言えないけどね。でも、凪人くんが」
「俺が必死に頼んだからな」
「あれは『頼んだ』じゃなくて『脅した』って言うんだよ」
いったい凪人は何と言って広瀬を説得したのか。……想像しただけで頭が痛くなりそうだったので、詩月は深く考えることはやめた。
「ね、俺が連れてくって言っただろ」
「凪人……」
「だからさ、行こうよ。詩月が望んでくれるなら、俺はそれを叶えたいんだ」
「うん……そう、だね」
詩月は広瀬の方を向くと、頭を下げた。
「お祭りに、行かせてください」
「ああ。気をつけて行ってくるんだよ」
「わかりました」
「……それから、楽しんでおいで」
「はい!」
広瀬は詩月の返答に頷くと、凪人の方に向き直る。
「凪人くん、君もね」
「……どうも」
ぶっきらぼうな態度で、凪人は小さく頭を下げる。誰にでも優しい凪人が、こんなふうな態度を取るのは珍しかった。詩月の主治医と詩月の幼なじみ。二人の間にはそれ以上の接点なんてないはずなのに、どうしてだろう。
不思議に思いながらも、気の合わない人というのもいるよね、と思い直した、
このあと着替えてから出発しよう、そう思い詩月は気付く。私服がないことを。朝起きた直後に倒れて運ばれたから、パジャマ姿のまま入院することになった。まさかパジャマで祭りに行くわけにはいかない。
「……行けないじゃん」
「え?」
ポツリと呟いた詩月の言葉に、凪人がどうしたのかと首を傾げた。
「詩月? 行けないってなんで……」
「だって、私こんな格好なんだよ? どうやってお祭りに行くの!」
一瞬でも祭りに行けると思ってしまったから、気持ちの急降下が激しかった。凪人に八つ当たりしても仕方がないとわかってはいるのに、そう思う気持ちに反して言葉尻はキツくなる。
けれど。
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって……!」
あまりにもあっけらかんと言うものだから余計に苛つきが増す。けれどそんな詩月に、凪人は笑った。
「それぐらい、考えてないとでも思った?」
「え?」
「言っただろ、俺が連れて行くって」
ポケットから取り出したスマホを見ると「そろそろかな」と凪人は呟いた。いったい何がそろそろなのだろう、と不思議に思っているとノックの音がして病室のドアが開いた。
「お母さん? どうして?」
そこにいたのは、大きな袋を持った詩月の母親だった。母親は詩月の疑問に答えるよりも先に、凪人の方を向いた。
「言われたもの、持ってきたわよ」
「すみません、お手数おかけしました」
「そんなにかしこまらないで。あなたが詩月のためにしてくれているってことはわかってるから」
詩月の母親の言葉に、凪人は静かに頭を下げる。何が起きているのか、どうなっているのか、わかっていないのは詩月ただ一人だった。
「ねえ、二人だけで会話しないで私にも教えてよ」
「……これを持ってきたのよ」
そう言うと、母親は手に持っていた大きな袋の中から何かを採りだした。
「これって、浴衣?」
「ええ。下駄は長時間歩くのに向かないからサンダルも持ってきたわ」
「どうして……」
「お祭りに、行くんでしょう?」
その言葉で、漸く先ほどの凪人と母親の会話の意味がわかった。それから自信満々な凪人の態度にも。
「これを着て、二人でお祭りに行って来なさい」
「いいの……? と、いうかこの浴衣、まさか買って……?」
ベッドの上に載せられた浴衣は、見覚えのないものだった。詩月の言葉に母親は頷いた。
「ええ、買ったわ」
「どうして、そんな勿体ないこと……!」
今年しか着られないのに、どうして――。
けれど、母親の考えは、詩月のものとは正反対だった。
「勿体なくなんかないわよ。少し大人っぽい柄にしたから大学生ぐらいまでなら着られるわ」
「大学、生……」
「そうよ。来年も再来年も、この浴衣を着てお祭りに行くの。もちろん凪人くんとじゃなくたっていいわ」
「おばさん、さらっと酷いことを言うね」
母親の言葉に肩をすくめながらも、凪人は笑いながら言う。
「まだ高校生なんだから未来はわからないわ。あなたの未来は、無限大の可能性を秘めているの。誰と過ごすのもどこに行くのも、どうやって生きるかも、全部詩月自身に委ねられているのよ」
「私、自身に……」
だから、手術を受けろと言う意味だろうか。そうだとしたら――。
「手術を受けるのも受けないのもあなた自身が選んでいいわ。そりゃお母さんは手術を受けて欲しいって思ってる。あなたを失う明日なんて考えたくないから。でもね、それはお母さんのエゴなの。それならあなたの手術を受けたくないっていうエゴだって通っていいはずよ。さっきも言った通り、あなたの未来はね。詩月、あなた自身が選んでいいの。どの未来を掴み取るかはあなた自身が選べるの」
突き放したのとも違う。受け入れたわけでもない。ただ母親は、詩月を一人の人間として、その意志を尊重しようとしているように思えた。
生きるのも死ぬもの自分自身が決める。今まで散々手術を受けたくないと、受けるのが怖いと、生きる意味が見つけられないと言っていたはずの詩月にとって、母親の言葉は重くのしかかってきた。
「とはいえ、とりあえず今はお祭りね。楽しんでらっしゃい」
「……うん、ありがとう」
「ちゃんと先生に言われた時間には戻ってくるのよ。……凪人くんも、お願いね」
「わかりました。大丈夫です、任せてください」
まだ少し心配そうに、それでも二人の背中を押すように詩月の母親は微笑んだ。
凪人を病室から追い出すと、詩月はパジャマを脱いで襦袢を着る。その上から浴衣を羽織ると、母親が手際よく着付けていった。
「お母さん、こんなことできたんだ」
「そうよ。忘れちゃった? 昔も、着付けてあげたでしょ」
「言われてみれば、そうだったかもしれない」
「何よ言われてみればって。はい、できあがり」
大きなひまわりが描かれた真っ白な浴衣。くるりと回って見せると、母親は目尻を下げて微笑んだ。
「よく似合ってる」
「ホント? よかった! お母さん、ありがとう!」
「ま……ううん、何でもないわ」
母親が何かを言いかけて、でも口を継ぐんだ。『また来年』なのか『馬子にも衣装』とでも言いたかったのだろうか。なんて尋ねてみて、あまりに重い空気を壊してみようかと思っていると、病室のドアをノックする音が聞こえた。
広瀬か看護師だろうか。「どうぞ」と声をかけて、詩月はベッドのそばにクッションを置くと、布団に入った、
けれど、病室のドアはなかなか開くことがない。
「あの?」
「ったく、しょうがないわね」
呆れたように首を振ると、母親は溜息を一つ吐きツカツカと音を立ててドアへと向かった。そして。
「観念しなさい」
「ちょっと、待って……」
「え……」
ドアを開けた母親が誰かを引っ張るようにしたかと思うと、浴衣を着た誰かが病室に飛び込んで来た。
「凪人……?」
そこには濃紺の浴衣に紺の帯を締めた凪人の姿があった。子どもの頃、最後に見た和服は、子ども用の甚兵衛を着ている姿だったので、凪人の浴衣姿を見るのは初めてだった。
普段よりも少し大人っぽく見えて、心臓がうるさいぐらいに鳴り響いている。
なんと声をかけたらいいか考えていると、目の前の凪人が慌てたように言った。
「わ、ちょっと待って。ホント、心の準備が……」
「準備する時間なんていくらでもあったでしょ。男の子の方が着付ける時間短いんだから」
「そ、そうですけど」
腕で顔を隠してはいるけれど、耳どころか首まで赤くなっている。泳ぐようにあちらこちらに向けていた視線が、詩月とあった。
「み、見る、……な……」
最後まで言葉を言い終えるることなく、凪人は驚いたように口を開け、そしてポツリと呟いた。
「凄く、綺麗」
「えっ」
「あ、や、その! 孫にも衣装って言うか」
「なっ」
いくらそう思ったとしても、口に出していいことと悪いことがある。そんなことを言うなんて、と非難の声を詩月が上げようとするよりも早く「ちょっと待って!」と声をあげた。
「ち、ちが。ごめん、待って。今のなし。違うんだ。そうじゃなくて」
「凪人?」
「あの、その……あまりにも綺麗で、ビックリしちゃった。ホントに。その浴衣凄く似合ってる。凄く、凄く」
「なっ、えっ、あっ……ありが、とう」
あまりにも真っ直ぐに言葉を伝えられて、どうしていいのかわからなくなる。そんな二人の様子に母親は笑いながら言った。
「なんでもいいけど、さっさと行かないと行ってすぐ帰って来なくちゃいけなくなるわよ」
時計を見るとすでに十七時三十分。ここから秋祭りの神社までは歩いて十五分はかかるので行き帰りの時間を合わせると、あと二時間ぐらいしかお祭りで過ごせる時間はなかった。
「ホントだ、早く行かなきゃ」
「だな。えっと、それじゃあ行ってきます。絶対に気をつけて帰ってきますので」
「そうしてね。詩月をよろしくお願いします」
母親は丁寧に頭を下げる。そこまでするのかと戸惑う詩月とは裏腹に、凪人は神妙な面持ちで頭を下げ返していた。
病院の廊下を二人で歩く。場違いに浴衣姿な二人は他の患者さんにいい影響を与えない、とのことで人気のない普段は職員しか使わないらしい通路を歩いてから外に出た。
十一月の下旬、日が完全に暮れたこの時間は少し肌寒い。持ってきていた集めのストールを肩に羽織ると、少しだけ寒さが柔らいだ。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。凪人は?」
「俺は平気……って格好つけて言いたいけど、やっぱりちょっと寒いや。あとでどこかの自販機で温かい飲み物でも買うよ」
他愛のない話をしていると、昔に戻ったような感覚になる。今なら聞けるだろうか。あの日どうして約束を破ったのかを。待ち合わせ場所に来てくれなかったのかを。
本当は今だって聞くのは怖い。けれど、もしも手術を受けたとして失敗して死んでしまったら、きっと死んでも死に切れないから。
「あの、ね」
「あのさ」
詩月が声をかけた瞬間、凪人も詩月に向かって話しかけた。足を止めると、顔を見合わせて「ふっ」と笑い合う。
「もう、どうしたの?」
「や、詩月の方こそ。何かあった?」
「私? んー……じゃあ、凪人が言ったら言う」
意地悪く笑う詩月に、凪人は「あー」「うーん」と唸るように言ったあっと、観念したように口を開いた。
「あの、さ。昔、俺に『お祭りに行こう』って誘ってくれたの、覚えてる?」
「え……」
それはまさに詩月が凪人にしようと思った話だった。なんと返すのが正しいのか、けれど覚えていると言ってしまえば凪人を責めていると思われないだろうか。一瞬の逡巡ののち、詩月は「そう、だったかな」と少しだけあやふやに返事をした。
「……詩月にとっては思い出したくないことなのかも。だってあの日、俺が約束を破らなければ、もっと早く……」
「違う! 凪人は関係ない!」
凪人の言葉を、気付けば詩月は否定していた。
「詩月……」
「ずっと凪人があの日、約束を守れなかったことを後悔してるって気づいてた。私に話しかけなくなったのも、隣を歩いてくれなくなったのも、あの日のことを引きずってるからだって」
「バレてたんだ……」
凪人は泣きそうな顔で、小さく笑った。
「当たり前じゃん……どれだけ凪人のそばにいたと思ってんの。わかるよ……」
「そっか、ごめん」
「私、ずっと凪人のことが嫌いだった」
詩月の言葉に、凪人が息を呑んだのがわかった。
「……っ。そう、だよね。俺のせいで……」
「そうやって勝手に俺のせいだって決めつけて、一人で殻に閉じこもって、私に話しかけることもなく、何も言わずに離れていった凪人のことが大っ嫌いだった」
「詩月……」
気付けば詩月の頬を涙が濡らしていた。凪人も詩月が泣いていることに気付いたようだったけれど、ただ呆然と立ち尽くしていた。まるで大切な宝物を壊してしまった子どものように。
詩月は浴衣の袖で涙を拭うと、自分より背の高い凪人を睨むように見つめ、そして言った。
「私の病気は私のせいなの。お母さんも凪人も、勝手に自分のせいにして私の病気の責任を負おうとしないで!」
「詩月……俺、ごめん……」
「謝らないで! みんな謝ってばっかり! 私は、謝ってほしいなんて一言も言ってないのに!」
自分でも無茶苦茶なことを言っている自覚はあった。逆の立場であればきっと詩月も謝ると思うし、そもそも責め立てておいて『謝らないで』なんて、言われた方だって困るだろう。
どうすればいいかわからないまま詩月は俯いて、月明かりに照らされアスファルトに浮かび上がった小さな染みを見つめる。目の間には凪人の影。それが突然、ゆらりと動いた。
「なっ」
次の瞬間、詩月の身体は――あたたかいぬくもりに包まれていた。
「な、に……」
「好きだ」
「……え?」
「謝るなって言われたから。好きだよ。あの頃からずっと変わらず、俺は詩月のことが大好きだ」
予想もしなかった言葉を受けると、人間は動けなくなるんだと初めて知った。凪人の腕の中で、瞬き一つできないほどに詩月の身体は凍りついたままだった。
今、凪人はなんて言ったの……? 私を、好き――?
そんな言葉を言われるなんて想像もしていなかった詩月は、どうしていいかわからないままただ立ち尽くす。そんな詩月に凪人は――。
「ふっ、ふは……っ」
「なっ、い、今笑った!?」
「だって詩月ってば、顔真っ赤だし」
「うるさい!」
「耳まで真っ赤。……可愛い」
こんなこと言うような人間だっただろうか。知っているようで知らない幼なじみの姿に戸惑いを隠せない、どうすることもできず、ただ至近距離で凪人の姿を見つめ続ける。
「……そんなに見られると恥ずかしいんだけど」
「ちがっ、見つめてなんて……!」
「穴が開いたら責任取ってくれる?」
「絶対に取らない!」
言い返す詩月に凪人は笑う。詩月もそんな凪人の態度に、思わず笑ってしまう。
「……ちなみに、聞いてもいい?」
「え?」
神社に向かって歩き出してから、詩月は口を開いた。
「あの日、神社に来られなかった理由ってなんだったの?」
「それ、は……」
「あ、言いたくなかったら別に……」
「いや、詩月は知る権利があるから。……あの、鼻血か」
「鼻血?」
凪人はあの日あったことを詩月に話す。初めこそ心配したり慌てたりした詩月だったけれど、話を聞き終わるころにはなんとも言えない気持ちになり、気が抜けた。
「なんだそんなことだったんだ」
「くだらないことだから余計に言うのが恥ずかしくて。でも、ホントごめん」
頭を下げる凪人。ずっとこんなことで、と気に病んできたのだろう。なんならこんなくだらないことじゃなければ、もっとすんなり詩月に話してくれていたのか知れないと思うと、溜息が出る。
「ご、ごめんな」
「……いいよ。それだけお祭りに一緒に行くのを楽しみにしてくれていたってことでしょ」
「当たり前だろ!」
「じゃあ許してあげる」
笑顔を浮かべた詩月に、凪人は泣きそうな顔で笑うと「ありがとう」と恥ずかしそうに言った、
ようやく神社が見えてきた。賑やかな声に、思い思いの景品や食べ物を持った人たちの姿。何を食べようか、何を買おうか。楽しみで仕方がない。凪人は何を――。
「ねえ、そういえば」
ふと思い出したように凪人は言う。
「俺もそういえば、なんだけどさ。さっき詩月って何を言おうとしたの?」
「さっきって?」
首を傾げる詩月に、凪人は「ほら」と言いながら神社の石段を登っていく。
「さっき『あのね』って俺に言っただろ? 俺が先に話したけど、詩月のは聞いてなかったなって思って。あれ、なんだったの?」
「あー、あれは……」
凪人がしたのと同じ話をしようと思った、そう素直に言おうとして、詩月はやめた。
「んーあのね」
数段先に駆け上がると、凪人を振り返って言った。
「大好きって言おうと思ったの」
「え、な、なんて……もう一回! もう一回聞かせて!」
慌てたように言う凪人に詩月は笑った。
「じゃあ次は、手術が終わったらもう一回聞かせるね」
「……それ、って」
その頃にはきっともっと素直に凪人に向き合えるはずだ。
詩月の言葉に目を見開き、凪人はボロボロと涙を流す。そんな未来がいつか来ることを夢見て。
五年越しに行くお祭りは最初から最後までとても楽しかった。綿菓子を買い、射的をし、オムフランクとフランクフルト、どちらを買うか答えが出ず二つ買って半分こした。リンゴ飴は固くて噛めず凪人が苦戦をしていたし、ヨーヨー釣りは一気に三つも取れてしまって近くにいた小さな子どもたちにあげた。そして。
「これもらっていいの? でも……」
凪人が差し出したのは、先ほど射的で取った小さなクマのぬいぐるみだった。
「うん、俺が持っててもしょうがないし。それに」
「それに?」
「詩月が欲しいって言ったから取ったんだ。責任持って連れて帰れよな」
「……ありがとう」
呟くように何の気なしに言った言葉をこんなふうに叶えてくれるなんて思ってもみなかった。
「ありがと」
「別に。どういたしまして」
凪人は笑う。詩月も笑う。そして。
「ねえ、凪人」
「ん?」
「私、手術受ける」
詩月の言葉に、凪人が息を呑んだのがわかった。けれど、すぐに笑顔を浮かべる。
「ありがとう」
「なんで凪人がお礼を言うの。……それでね、一つだけお願いがあるの」
「お願い?」
首を傾げる凪人に、詩月は頷いた。
「手術が終わって目覚めたときに、そばにいて欲しい」
「いいよ」
「いいって、夜中かも知れないし、ずっと目覚めないかもしれないよ!? それでも――」
「それでもいい。詩月が目覚めたとき必ずそばにいる。約束する」
凪人は小指を差し出した。詩月は躊躇いがちにその小指に自分の小指を絡める。相変わらず光ることのない胸元。きっと、必ず凪人はそばにいてくれる。なら――。
「私も絶対に目覚めるから」
「……うん」
「約束」
「約束な」
秋の夜、月明かりの下。二人が交わしたささやかな約束を、夜空に浮かぶ月だけが知っていた。
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