第三章

 月曜日。けだるさが抜けないまま登校し、頭痛を堪えながら詩月は授業を受けていた。最初は疲れたときだけだった頭痛が、気付けば眠りから目覚めたとき、そしてなんでもないときと頻度が高くなるまでにそう時間はかからなかった。

「詩月……? 大丈夫?」

「うん……。最近ちょっと頭痛が酷くて」

 休み時間に机に突っ伏していると、心陽が心配そうに声をかけてくれる。けれど頭を上げるだけの気力は残っていなくて、どうにか片手を振って返事だけした。

「あまり酷いようなら保健室に行った方がいいと思うよ」

「うん、ありがとう」

 けれど保健室には行けない。行けばきっと両親に連絡が入ってしまう。入学当初に提出した書類には、過去に詩月が患った病気のことも書かれているはずだから。

 両親には知られたくない。あのときどれだけ両親が心配して、詩月のことを思って泣いていたか知っているから。

 詩月はポケットから錠剤を取り出す。近所のドラッグストアで買った少し強めの頭痛薬。誰でも買えるものと比べると効き目は強くなった。それでも頭痛が完全に治まるわけではなかったけれど、飲まないよりはマシだった。

 カバンの中に入れていた水筒のお茶で薬を飲もうとしていると、目の前にペットボトルが差し出された。

「お茶で薬飲んじゃ駄目だよ」

「……凪人」

 二時間目までいなかったはずの凪人の姿がそこにはあった。凪人が遅刻なんて珍しい。どうかしたのだろうか。不思議に思い尋ねようとするけれど、詩月が口を開くよりも早く凪人はペットボトルを差し出した。

「これ買ってきたばかりで口付けてないから」

「……ありがと」

 凪人から手渡されたペットボトルの水で薬を喉の奥に流し込む。冷たい水はのどごしが良く、その瞬間だけ頭痛が和らいだような気がした。

「頭痛、だいぶ酷いの?」

「少しだけ」

 我慢できない程の痛みかかと言われるとそうでもないときもあるし、立っていられないほどの痛みに蹲らなければいけないときもあった。

「ねえ、一度病院に行った方がいいんじゃない……?」

「少し前に定期検査があったところだから大丈夫だよ」

 実際、三ヶ月前にした定期検査では何の異常もなかった。たった三ヶ月でそこまで何かがあるとも思えない。

「最近、勉強とかがんばりすぎて夜遅くまで起きていることが多かったから、それで疲れが出ちゃってるのかも。今日は早めに休むようにするよ」

 詩月の言葉に、一瞬凪人の表情が曇ったような気がした。

「凪人?」

「あ、ううん。そうだよ、遅くまで起きてたら身体に良くないぞ。俺なんて昨日二十一時には寝たんだから」

「それは寝過ぎじゃない? 小学生じゃないんだから」

「寝る子は良く育つって言うしさ」

 そう言って凪人が笑うから、先ほどの曇った表情は自分の見間違いだったのだと思うことにした。

 凪人が他の男子に呼ばれ詩月の元を離れると、心陽と唯愛がやってくる。

「少し具合落ち着いたみたいだね」

「うん、薬飲んだらマシになった。心配してくれてありがとね」

 どうにか笑みを浮かべられるぐらいには落ち着いた詩月は、心配してくれた心陽に礼を言う。心陽はホッとした様子で首を振ると「ところで」と去って行った凪人の方へ視線を向けた。

「凪人くんと仲よさそうに話してたね」

「この前までとは大違い! 何かあったの?」

「何かってわけじゃないけど……」

 けれど、あの日から凪人は詩月の後ろを歩かなくなった。詩月の隣に並んで、対等な位置にいてくれている。物理的な距離の話だけではなく、気持ちの距離も縮まったような、気がする。

「まあ仲直りできたならよかった」

「六年越しの仲直りだね」

「そう、だね」

 先日までに比べたら関係は随分良くなったと思うけれど、仲直りをしたと言ってしまえるかと言うと答えに悩んでしまう。

 詩月も凪人も、六年前のあの日の出来事については、どちらも一切触れられていないから。いつかは触れなければいけないことはわかっている。このまま逃げていてはよくないことも。

 けれど触れてしまえば最後、今漸く話せるようになったこの関係すらも壊れてしまいそうで怖かった。


「詩月、一緒に帰ろう」

 授業が終わり、教室を出ようとした詩月を凪人が呼び止めた。先日までは先に教室を出た詩月をただ追いかけてくるだけだったし、ここ数日も無言で追いつき気付けば隣に並んでいた。だからこんなふうに、凪人が自分の意思をはっきり示したのは初めてだった。

 詩月も驚いたけれど、クラスメイトはそれ以上に驚いたようで、あちこちから好奇の視線と、それからひそひそ話が聞こえて来た。

「詩月?」

「え、あ、うん。そうだね、帰ろっか」

 詩月はクラスメイトの視線を感じながら、凪人と並んで教室を出た。

 研修授業のために、当該クラス以外は早く帰れるということもあり今日はまだ日が高い。運動部はこのチャンスを逃すものかと言わんばかりに、颯爽と運動場へと走って行く。

「……なんで、あんなこと言ったの?」

 昇降口を出て、グラウンド横の通路を歩きながら、詩月は凪人に尋ねた。

「あんなこと?」

「さっき『一緒に帰ろう』って」

「ああ、うん。一緒に帰りたいなって思ったから。駄目?」

「駄目ってわけじゃないけど」

 凪人の行動が詩月には理解できなかった。けど、そんなところも凪人らしく思えて笑ってしまう。

「どうしたの?」

「ううん、なんか凪人だなーって思って」

「俺は俺だよ?」

「うん、わかってるんだけどね」

 けれどこの六年間の凪人は、それまでの凪人とは全く違っていた。そうさせてしまったのが詩月なのはわかっているけれど、それでも詩月に気を遣い、心配し、ただ詩月のためだけに動く凪人が大っ嫌いだった。

 でも、今の凪人は――。

「詩月? 顔赤いよ?」

「え、そ、そんなことないよ」

 凪人の言葉を慌てて否定すると顔を背けた。両手を頬に当てると、火照っているのがわかった。こんなところ凪人に見られたら、気持ちに気付かれてしまう。

 ずっと自分の気持ちに蓋をして気付かないフリをしてきた。けれど、ようやく目を背けることをやめて、向き合い始めたところだ。まだ凪人に気付かれるわけにはいかない。

「詩月?」

「う、ううん、なんでもない。そういえば土曜日の読み聞かせ凄く楽しかった!」

「本当? 来月もまたあるからさ、よければ一緒に行こうよ」

「いいの? 行きたい!」

 思わず凪人の方へと顔を向け笑われてしまう。

「なに」

「ううん、そういうところなんか詩月だなって」

 それは先ほど詩月が凪人に向かって投げた言葉と同じだった。変わってしまったようで、どこか変わらないところがあって。変わったところも変わらないところも含めて凪人なのだと、そう思えた。

「そうだ、本屋に行かない?」

「本屋?」

 凪人の言葉に、詩月は首を傾げた。この辺りで本屋に行こうとすると、駅の方まで行かなければならない。詩月たちが小学生の頃はいくつか小さな書店もあったのだけれど、年々減ってしまい気付けば駅まで行かなければいけないぐらい数が減っていた。

「そう。読み聞かせの時に二冊目からは子どもたちのリクエストの絵本を読むけど、一冊目は俺たちが読む本を決めるんだ」

「そういえばこの間も、凪人が一冊目は選んでたね」

「気付いてたんだ」

「そりゃ、まあ」

 気付いていたというか、見ていたというか。少し驚いた様子の凪人に、何でもないように詩月は言う。

「だってあれ、凪人の好きな絵本だし」

「え……覚えてたんだ」

 今度こそ驚いたように凪人は言った。

 忘れるわけがない。「これ好きなんだ!」と言っていた凪人のキラキラと輝いたような表情を今も覚えている。

 小学生になって、幼稚園の頃に好きだったものを素直に好きだと言えなくなった時があった。大好きな女の子たちのヒーローも、可愛いと思っていたキャラクターも。「まだそんな子どもっぽいものが好きなの?」と言われて、まだ好きなのに「もう好きじゃないよ!」と強がってしまうこともあった。

 だからあんなふうに、純粋に大好きを向けられる凪人のことを凄いと思ったし、そんなふうにできない自分を恥ずかしく思ったことまで思い出してしまう。

 気落ちしそうになり、俯く詩月の耳に「それでさ」と明るい凪人の声が聞こえた。

「次は詩月の選んだ本を読んでみない?」

「……私の?」

「そう。昔好きだったのでもいいし、本屋で見て気になったのでもなんでもいいよ。詩月が子どもたちに読んであげたいって思うものを探したいんだ」

「私が、子どもたちに……」

「どう、かな?」

 少し不安そうに言う凪人に、詩月はギュッと両手を握りしめた。子どもっぽいからと言って、小学校に入ってからは絵本を読むのはやめた。他の子が教室で読んでいるのを「赤ちゃんじゃないんだから」と揶揄する友人を止めることはできなかった。そんな自分が、絵本を選ぶなんて――。

「詩月にだから、選べる絵本があると思うんだ」

「私にだから、選べるもの……」

 その言葉を凪人どういう意味で言ったのかはわからない。けれど詩月にはその言葉が、幼い頃捨てざるを得なかった大切な何かを、もう一度拾い上げるチャンスのように思えた。

「詩月?」

「私……それ、やってみたい!」

「ホント?」

「うん。私に何が選べるかわかんないけど、でもやってみたい」

 本当は自分が選んだものを子どもたちが喜んでくれるか、とか退屈だとかつまらないと思われたりしないかとか不安はあった。でも、それ以上にやってみたいとそう思えたから。

「じゃあ今から行こうか、本屋」

 凪人の言葉に頷くと、並んで駅の本屋へと向かった。

 

 駅にある百貨店の中に入っている書店は、ワンフロア展開されており、学術書から児童向け小説、漫画に絵本とたくさんのコーナーがあった。中でも絵本コーナーは、子どもたちが靴を脱いで入り、絨毯の上で座って読めるようになっていた。

「こうやって読めるようにしてたら買って帰らないんじゃあ」

 思わず疑問を口にした詩月に、凪人はふっと笑った。

「そんなことないよ。子どもってさ好きなものは何回も何回も読みたい、読んで欲しいって思うからね。ここで誰かが読んでいるのを聞いて、自分でも読んで気に入って。どうしても欲しいって強請って買ってもらって、家に買って寝る前にまたお母さんに読んでもらうんだ。それでも飽きずに毎日毎日同じ本を読んでってせがんだりしてさ」

「へえ……。でもそれって誰の話?」

 まるで見てきたかのように話すから、つい詩月は尋ねてしまう。何の悪意も意図もなく。けれど、詩月の問に凪人は何故か目を逸らした。

「凪人?」

「……俺だよ」

「え?」

「だから、子どもの頃の俺!」

 頬どころか耳まで赤くして凪人は言う。その瞬間、幼い凪人が嬉しそうに絵本を抱きしめて母親と一緒に家に帰り、寝る前に毎日同じ絵本を持ってくる。そんな姿が目に浮かんだ。

「笑うなら笑えば――」

「可愛い」

「え?」

「すっごく可愛い! あとそんなに喜んでもらえたら、きっと買ってあげたお母さんは凄く嬉しかっただろうね」

「詩月……」

 少し驚いたような表情を浮かべたあと、凪人は「ありがと」と礼を言う。礼を言われるようなことなんて言った覚えはなかったけれど、凪人が妙に嬉しそうな表情をしていたので、詩月も小さく微笑んだ。

「私もそんなふうに誰かの心に残るようなお話を選びたいな」

「んー、それは違うかも」

 凪人は靴を脱ぐと、絨毯の上を歩き本棚に並ぶ絵本を選ぶ。詩月も隣に立つと、たくさん並ぶ絵本に視線を向けた。

「誰かのためにとか気に入ってもらうためにとか、そういうのじゃなくてさ。詩月がこの本が好き、この本を読みたいって思ったのでいいんだ」

「私が?」

「そう。こういうのが好きでしょ、とか思って選んだのって子どもは意外と気付くからね。それよりは自分が気に入ったものを届けるほうが、喜んでくれると思うよ」

「私が気に入ったものを」

 凪人に言われなければ、たしかにあのぐらいの年齢の子どもならこういうのが好きだろう、とか。これは理解できないだろうとか、思いながら選んでいたかもしれない。

「わざと理解できないものを選ぶ必要はないけど、それでも子どもだからって下に見て選ぶのはよくないって俺は思う」

「あ……」

 言われて初めて、自分が子どもたちのことを無意識のうちに下に見ていたことに気付く。そしてそういう態度が子どもにも伝わることも。

 子どもの頃に親戚のおじさんから「詩月だったらこれぐらいかな」と言われて渡された赤ちゃんの人形。詩月が欲しかったのは、大人っぽくて綺麗な着せ替えができる人形だったのに「こっちがいい!」という詩月に『こういう難しいのはまだ早いよ』と言わんばかりの態度を取られ酷く傷付いたことを思い出す。あれと同じだ。勝手に侮って、勝手に想像して、いいことをした気になっているけれど、実際は子どものプライドを打ち砕いている。

 自分がされて嫌だったことを、いつの間にか子どもたちにしようとしていたなんて――。

「私……」

「詩月を責めているわけじゃないんだ。ただどうせ選ぶのなら、詩月が読んであげたい、と思うものを選ぶ方が、きっと読んでもらった方も嬉しいとおもうから」

「……うん、ありがとう」

 凪人の言葉に頷くと、詩月は本棚に並んだ絵本を引き抜いては試し読みをし、何冊も何冊も、これはと思える一冊を探すために読みふけった。

 そして――。

「うん、決まった」

 詩月が呟いたのは、本屋に来てから一時間以上経ったころだった。手に持っているのは、二匹のカエルが表紙に描かれた絵本だった。

「決まったの? へえ、可愛い絵だね。どういうお話?」

 隣に立った凪人は、詩月の手元を覗き込む。思ったよりも距離が近くて、ドキドキしてしまいそうになるのを必死で堪え、声が裏返らないように咳払いをしてから口を開いた。

「大切なものを探しに行く二匹のカエルのお話だよ。いろんなところを探しているうちに喧嘩になって泣いちゃって、バラバラになったりするんだけど、最後は仲直りして手を繋いで家に帰るの」

「大切なものは見つかるの?」

「見つかるよ。近すぎて気付かなかったけど、二匹にとって大切なものはすぐそばにあったの」

 そう、二人にとって大切なのはお互いの存在。友達だった。辛いときも苦しいときもそばにいてくれて、何かあれば支えてくれる。困っていれば助けたいと思う。喧嘩をすれば寂しくなって、また一緒に笑い合いたくなる。大切で大事な友達。

「素敵な絵本だね」

「ね」

 相づちを打ちながら、詩月は思う。詩月にとって大切でなくしたくないものも、気付かなかっただけですぐそばにあった。じゃあ、凪人は? 凪人にとって大切なものはいったい――。

 隣に立つ凪人から、目が離せない。

「詩月?」

 黙ったままの詩月を不審に思ったのか、凪人が隣に立つ詩月の方を向いた。

「なっ……」

 突然、凪人がこちらを向いたおかげで凪人を見つめていた詩月と至近距離で目が合った。一歩でも踏み出せば鼻が触れあってしまいそうな距離に、詩月は一瞬で心臓の音が跳ね上がったのを感じた。

「詩月?」」

「う、ううん! なんでもないの! あ、じゃあこれ買ってくるね」

 その場から逃げ出すようにして駆け出した詩月の背中に、凪人の声が聞こえた。 

「あ、領収書! 貰っておいて」

「……わかった!」

 あまりにも平然と言う凪人の声に苛立ちを隠せないまま返事をすると、詩月はレジへと向かった。順番を待っている間も、心臓のドキドキが治まらない。

「凪人、なんにも気にしてなさそうだった」

 あんなに近くに詩月の顔があったというのに、一切動じなかった凪人。その態度が、詩月への気持ちを表しているように思えて仕方がない。

 手に持った絵本をギュッと抱きしめる。凪人にとって、詩月もすぐそばにある大切なもの、になれればいいのに。

 そんなことを思いながら、自分の順番が来るのを静まらない鼓動の音を聞きながら待っていた。


 絵本を買い、近くの自販機でジュースを買った。ベンチに並んで座ると、思ったよりも足が疲れていることに気付いた。

「一時間以上立ちっぱなしだったもんね」

「ね。私本屋さんにこんなに長いこといたの初めてかも」

 棒のようになった足を伸ばしながら、手に持ったジュースに口を付ける。冷たく冷えたジュースが乾いた喉を潤してくれた。

「これ、飲んだら帰ろうか」

「そうだね、結構遅くなっちゃった」

 学校を出たときはまだ高かった日も、すでに山の向こうに沈み始めている。あと一時間もすれば街灯がなければ歩けないぐらい真っ暗になるだろう。

「そうだね、そろそろ帰らなきゃ――」

 母親も心配するだろうし、そう続けようとした瞬間、頭が酷く痛み始めた。それだけではない。目の前がチカチカとして立っていられなくなる。

「う……ううっ」

「詩月!? 詩月!!」

 アスファルトに蹲る詩月に、凪人はそばにしゃがむと寄り添うように声を掛け続ける。

「救急車……! 今、救急車を呼ぶから!」

「まっ……て、だいじょ……ぶ……」

「大丈夫なわけないだろ! そんな……」

「本当に、だいじょうぶ……だから」

 ポケットから薬を取り出すと、詩月は凪人に見せた。

「これ、飲めば落ち着くから。ね」

「ねって……」

 カバンの中から取り出した水筒で錠剤を飲み込んだ。凪人はもう『お茶で飲んじゃ駄目』とは言わなかった。

 五分、十分と経つにつれ、少しずつ落ち着いてくる痛みに詩月はなんとか顔を上げる。酷い顔をしているのだろう。詩月の顔を見た凪人の表情が強ばるのがわかった。

 心配をかけないように必死に笑顔を作る。

「ほら、ね。もう、大丈夫、だから」

「大丈夫じゃ、ないだろ……」

「大丈夫。よくあることだから」

「よくあるのか!?」

「あっ」

 思わず口を滑らせた詩月に、凪人は噛み付くように言う。どう誤魔化したらいいものか考えているうちに、凪人はため息を一つ吐いて、それからしゃがんだまま背中を向けた。

「なぎ……」

「後ろ、乗って」

「え?」

「救急車が嫌なら俺が病院に連れて行く」

「ちょ、え、なっ……」

 無理矢理、詩月の身体を自分の背中に乗せると、凪人は近くの大学病院まで歩き出した。駅の方まで来ていたのが幸いした。そこは詩月が六年前に運ばれ、今もなお定期検査に通う病院だった。

「重いよ……」

「重くない」

 下りようと身じろぎするけれど、しっかりと詩月の身体を捕まえる凪人の腕からは逃れられない。

 どうして、こんな……。

「俺はもう、後悔したくないんだ」

「凪、人……」

「俺がいれば、ってこの六年ずっと思って来た。だから、今度こそ……!」

 凪人の方が背が高いとは言え、高校一年生の男女の体格なんて大して変わるわけではない。なのに凪人は重いともしんどいとも言うことなく、病院に向かってただひたすらに歩いて行く。

 背中から伝わる凪人のぬくもりがあまりにも優しくて。詩月はそれ以上何も言わなかった。

 

 漸くたどり着いた病院。けれど、院内はかなり混み合っていた。大学病院なんてそうでなくても予約なしでなんて見てもらうことは難しいのに、これではどう考えても不可能だろう。

「凪人、無理だよ。帰ろう……?」

「でも……!」

 一つだけ空いていた椅子に詩月を座らせると、凪人は受付へと走ろうとした。

「あ……」

「え?」

 その時、詩月の視線が一人の男の人を捉えた。白髪の交じり始めた髪を後ろになでつけるようにしてセットした白衣姿のその人は、詩月と凪人の姿を見て少し驚いた様子で近づいてきた。

「今日はどうしたの? 予約は入ってなかったと思うけど」

「…………」

「あ、えっと」

「詩月の担当医の先生ですか?」

 凪人は少し強ばった声色で、目の前の男の人――広瀬は優しく頷いた。

「そうだよ。僕は詩月ちゃんの担当医もしているんだ」

「なあ、先生。詩月のこと診てやってよ。この間から頭痛が酷いって、さっきなんて蹲ったまま起き上がれなくなって」

「それは、本当?」

 目線を合わせるように身体をかがめ、真っ直ぐに広瀬は詩月を見つめる。真剣な眼差しで見つめられると、嘘を吐くことはできず小さく頷いた。

 広瀬は何かを考えるようにして目を閉じ、それからポケットの中の携帯電話を取り出すとどこかにかけ始めた。

「ああ、僕だけど。うん、ちょっと一人患者さんが来てて。そうそう、それでどこでもいいから一件入れて欲しいんだ。うん、頼んだよ」

 電話を終えると、広瀬は詩月に微笑みかけた。

「少し待ってもらうことになると思うけど、いいかな」

 嫌と言える雰囲気ではなかった。詩月が静かに頷いたのを確認すると、広瀬は立ち上がる。

「じゃあ、あとは凪人くん頼んだよ」

「……はい」

 広瀬の言葉に凪人は頷くと、気付けば空いていた詩月の隣の椅子に座った。広瀬が立ち去ったあと、詩月は凪人に声をかけた。

「もう大丈夫だよ」

「何が?」

「だからさ、広瀬先生は頼んだ、なんて言ってたけど気にしなくて大丈夫。待つぐらい私一人でもできるしさ」

「あっそ」

 けれど凪人は席を立つことなく、詩月の隣に座り続けている。

「帰らないの?」

「別に、どこにいても俺の自由だろ」

 それはそうかもしれないけれど。凪人の時間を無駄に使わせてしまうことに申し訳なく思ってしまう。

「……俺に申し訳なくなんて思う必要なんてないから。俺がしたくてしてることなんだから」

 まるで心を読んだかのような凪人の言葉に、詩月は黙ったまま頷くことしかできなかった。

 病院に来てから一時間が経った。一人また一人と待合室から人が減っていく。気付けばまばらになった待合室で、どんどんと不安な気持ちが大きくなっていく。泣きそうになるのを堪え、目を固く閉じ膝の上に載せた手をギュッと握りしめた。

 そのとき――詩月の手をふわっとあたたかいぬくもりが包む。

「え……?」

 そっと目を開けると、詩月の手を隣に座る凪人の少し大きな手のひらが包み込んでいた。

「そばにいるから」

「……うん」

 あの頃より大きくなって、骨張りゴツゴツとした凪人の手。けれど詩月のものよりも僅かに高めの体温の凪人の温かい手は、あの頃と変わっていなかった。そのことがなぜか嬉しくて、それから少しだけ安心するのを感じた。


「……ねえ」

「え?」

「それ、見てもいい?」

 ふと思い出したように凪人は詩月の隣の椅子に置いてあった茶色の紙袋を指さした。バタバタして完全に記憶から飛んでいたけれど、それは先ほど本屋で買った絵本だった。

「いいよ」

 紙袋のまま凪人に手渡すと、袋を破かないようにテープを外す。そういうふうに丁寧に扱うところも好きだな。ふとそんなことを思って、慌てて思考を打ち消した。

 それにしても――。さっきまではあんなにも楽しく過ごしていたのに、一気に現実が襲いかかってきたようで泣きたくなる。

「このカエル、さ」

 片手は詩月と繋いだまま、膝で絵本を支え繋いでいない方の手で器用にパラパラと絵本をめくっていた凪人が、不意に言った。

「なんか詩月に似てるね」

「私に?」

 リアルな姿ではなくキャラクター化されているし愛嬌のある顔をしてはいるけれど、どこからどう見ても緑色のカエルだ。似ていると言われて『ホント? 嬉しい!』とは思えないのだけれど。

「どこが似てるの?」

 ほんの少しの非難を込めて、詩月は凪人に尋ねる。けれど詩月の不服な気持ちはツあわらなかったようで、凪人は絵本の中のカエルをそっと指でなぞった。

「一生懸命なところとか、いつも前向きなところとか。あと泣き虫なのに意外と気が強いところも似てる」

「最後のって褒めてないよね?」

「似てるとは言ったけど別に褒めるつもりも貶すつもりもないよ」

 そう言われるとたしかにそうなのだけれど。どこか腑に落ちないまま詩月も絵本に視線を落とす。

 凪人が言ったカエルはこの絵本の主人公のうちの一匹で、もう一匹のカエルを巻き込みながらも率先して前に進んでいく。困ったことがあっても悲しいことがあってもいつでも前を向いて。

 凪人には、自分がこんなふうに見えているのか。そう思うと、どこかくすぐったく感じる。

「……私がこっちなら、もう一匹は凪人だね」

「俺?」

「そう。いつも私に巻き込まれて、連れ回されて、でも本当はいつだって私のことを守ってくれてる。凪人がいるから私は前だけを向いていられてたんだってそう思う」

 凪人がそばにいてくれるから、前を向いて進むことだって怖くなかった。何かあったとしても凪人が一緒なら大丈夫。繋いだ手から伝わってくるぬくもりは、安心とそれから勇気をくれていた。

 凪人は、繋いだままの手に凪人はそっと力を込める。

「今だってそばにいるよ」

「……うん」

「何があってもこの手を離さないから」

 そう言う凪人の胸は光らない。でも、きっとこんな能力がなかったとしても、凪人の言葉を疑うことはなかったはずだ。

 でも、こんな能力があるからこそ――今の詩月にとって、信じられるのは凪人だけなのかもしれない。

 

「星野さん。星野詩月さん」

「あ……はい」

 ようやく詩月の名前が呼ばれたのは、それからさらに一時間ほど経ってからだった。繋いだままの手をギュッと握りしめる。そんな詩月の手を、凪人は握り返した。

「……行ってくるね」

 診察室の中まで、凪人についてきてもらうわけにはいかない。不安な気持ちを押し隠すように平気なフリをして手を放そうとする。けれど離れかけた詩月の手を掴み直すと、凪人は握りしめる手に力を込めた。

「ここで待ってるから」

 凪人の真っ直ぐな言葉が、詩月の不安な気持ちに寄り添ってくれる。

「……うん」

 小さく頷くと、詩月はそっと凪人の手を放し、一人で診察室へと向かった。繋いでいたはずの右手に、ほんの少しだけ凪人のぬくもりを残したまま。

 真っ白な診察室、机に向かってカルテを読んでいた広瀬は、詩月が入ってきたことに気づき、椅子の方向を変えた。

「待たせてしまってごめんね」

「いえ、こちらこそ予約もなしに来てしまって」

「そんなこと気にしなくていいんだよ。具合が悪くなったらすぐに来るようにって言ってあったよね」

 咎めるような広瀬の言葉に、詩月は苦笑いを浮かべる。けれど真剣な表情で見つめてくる広瀬に「すみません」と謝ることしかできなかった。

「謝ってほしいわけじゃないよ。詩月ちゃん、君の身体のことだから大事にしてほしいだけなんだ」

 広瀬の前の席に座るように促され、クルクルと回る椅子に腰掛ける。この椅子に座るのは三ヶ月ぶりだ。次に来るのはまだ九ヶ月も先だったはずなのに、こんなにも早く座ることになるなんて。

 重い気持ちを抱えたまま、詩月はカルテを見ながらこちらを見る広瀬に視線を向けた。

「それで、いつから頭痛が? 今は大丈夫?」

「……この一ヶ月ぐらいです。今は、少し落ち着いてます」

「そっか。痛みの段階を、一か月前が一だとすると、今は十段階でどれぐらいかな」

 広瀬の問いかけに、詩月は少し悩みながら口を開いた。

「……六、か七、です」

「それは……」

 詩月の答えに、広瀬の眉間に刻まれた皺が深くなる。本当は八と答えようかと思っていた。けれど広瀬の反応を見ると、少し下げて正解だったのかもしれない。

「頻度は?」

「……最初は数日に一回ぐらいだったですけど、今は」

「毎日?」

「……いえ、一日に何度も」

 表情が険しくなり、広瀬はため息を吐いた。詩月はその表情に、慌てて取り繕うように口を開く。

「で、でも! 薬を飲めば……」

「薬?」

「あ……えっと、ドラッグストアで買ったのを」

「それで治まってると」

 治まってると言っていいのか。治まるには治まっているけれど、だんだん薬が効いている時間が短くなっていることを話した方がいいのだろうか。

 悩んで黙っていると、再び広瀬は溜息を吐く。

「効いてないんでしょう」

「少しだけなら」

「今日は検査はできないから、今度ご両親のどちらかと一緒に来てくれるかな」

 そう言いながら広瀬は、看護師に血圧の測定や採血の指示を出していく。バンドで二の腕を縛られ、空っぽの注射器に真っ赤な血が吸い上げられていく。それを見つめながら、詩月は広瀬に尋ねた。

「先生」

「うん?」

「……再発、ですか?」

 すぐ隣で注射器を握っていた看護師が、息を呑んだのがわかった。一瞬の静寂の後、広瀬はふっと表情を和らげた。

「念のための検査だから大丈夫だよ」

 微笑む広瀬とは対照的に、詩月は自分の表情が硬くなるのを感じる。頭のてっぺんから冷たくなっていくのを感じた。

 詩月の目の前で、広瀬が何かを話しているけれど、何を言っているのか理解できない。ただ光り続ける広瀬の胸元を見つめ続けていた。


 診察室にいたのは時間にして三十分ほどだったと思う。けれど詩月には一時間にも二時間にも感じられた。

「詩月!」

 呆然としたまま診察室を出ると、凪人が駆け寄ってくる。もう待合室には誰もおらず、ただ一人で待ち続けてくれていたようだ。

「あ……」

 お礼を言うべきだとわかっている。けれど口を開ければ、不安な気持ちをぶつけてしまいそうで、詩月は頷くことしかできない。

「大丈夫か?」

 大丈夫、ではない。では、ないのだけれど。

「大丈夫、だよ」

 俯きながらそう呟いた。

 人は嘘を吐く生き物だ。嫌悪感を持ってそう思っていた詩月だったけれど、こうやって自分も嘘を吐いてしまう。

「そっか」

 きっと凪人は詩月の言う「大丈夫」が嘘だとわかっている。それでも否定することもそれ以上追求することもなかった。

 受付で領収書を受け取る。本来であれば保険証の提出が必要だったけれど、次回持ってきてくれたらいいと言われ、次回の予約を取ってこの日の診療は終わった。

「十八歳まで医療費が無料なのを、こんなところで感謝するなんてな」

「え? あ、うん。そうだね。じゃなかったらさすがに急には病院に行けないもんね」

 詩月は返事をするけれど、どこか生返事になってしまう。どうしても先ほどの広瀬の言葉が気にある。やはり再発なのだろうか。ううん、でもまだ確定したわけではない。でも……。

 この頭痛が起き始めてからずっと、再発なのではという思いが頭を離れなかった。六年経てばと思う気持ちと、もしも六年以内に再発したらどうしようという思いをずっと抱えながら生きてきた。

 だからこそ、頭痛が起きたとき『やっぱり』と思った。再発を免れなかったのだと。

「はぁ……」

 思わず溜息を吐いてしまう。そんな詩月に、凪人は足を止めた。

「……凪人?」

「俺じゃ、力になれない?」

 その言葉に、詩月は顔を背ける。縋る、ということは再発の不安を凪人にも共有させるということだ。こんなにも苦しい思いを、凪人にまで背負わせるわけにはいかない。

「な、にを」

 言っているの、と笑い飛ばそうとした。けれど詩月がそうするよりも早く、凪人は詩月の手を握りしめた。

「詩月」

「……っ」

「何があってもそばにいるから。だから、俺のことを頼ってよ」

「凪人……」

「受け止めるから。詩月の不安な気持ちも、苦しい思いも全部」

「なぎ……っ」

 もう耐えきれなかった。詩月は凪人の手を握り返すと、その胸元に額を寄せた。

「どう、しよう……再発だったら、どうしよう……」

「詩月……」

「怖いよ。私、怖いよ……」

 怖くて怖くて仕方がない。死ぬことも、どうなるかわからない未来も、全部全部怖かった。

 泣きじゃくる詩月の背中を、凪人の手がそっと撫でた。優しく、何度も何度も。詩月の嗚咽が止まるまで。

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