scene1-2 心に巣食う罵声

 

 ――コツ……コツ……コツ……。



「…………」


 コンビニから徒歩十数分。

 司は自宅であるアパートの前まで来たが、今日は少々タイミングが悪かった。



「うわッ! 見ろよ! あいつに入ったぜ?」


「お、おい! やめろって! ヤバイ奴とかだったらどうすんだよ!?」



 今日は休日だから目的は部活だろうか。

 大きなカバンを肩に下げた高校生らしき二人組の男子生徒の声が共同玄関の間口をくぐる司の耳に届いた。


「…………」


 よくもまぁ、そんなに平然と他人を馬鹿に出来るモノだと育ちを疑うが、すぐに「仕方ない」と割り切った司は唇を少し噛んで堪えながら錆切って赤黒くなったボコボコの集合ポスト前を横切り、奥の階段へと向かう。

 すると……。


「うひッ! うぃぃ~~おぅ、兄ちゃん……お帰り、なぁ? 金貸してくれねぇか~~?」


 ジメジメとした日陰になっている階段。

 そこに座る一人の老人が、煙草の吸殻が溢れんばかりに詰まった灰皿替わりの黄ばんだワンカップの酒瓶を足の間に置き、煤けた赤ら顔で笑みを浮かべていた。


 ヨレヨレのシャツに尻が半分出た皺塗れのズボン、所々抜け落ちた隙歯にシミまみれの肌。

 倍では利かない司との歳の差の中できっと色々な出来事を越えて今に至るのだろう。

 しかし、申し訳ないがまだ青二才の司から見ても「こうはなりたくない」と思わずにはいられない人生の落後者感が露骨に表れていた。


「…………」


 司は老人の言葉を無視してその脇を無言で抜けて階段を上がる。

 そんな司の態度が気に入らなかったのか、老人は仰け反る様にしながら呂律の回らない不明瞭な怒声を喚き始めるが、それでも司は一切反応せず早足に階段を上がる。

 そして、二階半の踊り場まで来ると司は一旦足を止めて壁にもたれ、顔を両手で覆い俯きながら震える身体を抑え付ける。


「くそ……くそッ! なんで……こんな……――くそッ!!」


 朝の爽やかな一幕の思い出も霧散する憂鬱。

 今の老人の正体は一応ここの管理人だ。

 そして、この三階建ての小さなアパートは、都心の主要部からは少し離れているが実は意外に公共機関などの利便は悪くない条件だけなら一見穴場のような物件。


 しかし、その実態は廊下も外壁も築半世紀は下らない劣化に加え、清掃なただの一度もしたことがないのではないかと思わせるほどに不衛生で汚らしく、廊下の照明は入居当初から割れていて蜘蛛の巣が張ったままもうずっと放置されている。

 先ほどの学生達のデリカシーの無い言葉も正直致し方なく、ある日突然行政が立ち退きを迫って来ても何ら不思議ではない廃墟同然のありさまだ。


 そのため住民の大半はまさに社会の底辺達ばかり。

 喧嘩や借金の取り立て、どこかも分からない異国語の怒声が響くことなど日常茶飯事。

 そんな掃き溜めの様なこのアパートは、近所の間で〝人間ゴミ箱〟などと呼ばれ疎まれ忌み嫌われている。

 しかし、今の司はこんな所でくらいしか生きられない身の上にいた。


「……仕方ない。こういう時も、ある」


 壁にもたれながら、司は唇を震わせて自分に言い聞かせる。

 別に司が何か社会から疎まれる悪事をした過去がある訳では無く、その身は陽の下を歩くことに何の引け目を感じる必要はない。



 しかし、司は昔から何故かいつもを感じて生きて来た。



 自分は楽しい思いをしてはいけない。

 常に周りより頭を低くして誰からも見下される様な惨めな姿であらねばならない。

 他人に馬鹿にされたら口答えなどせず、それを受け入れないといけないし、笑われている時は相手の気が済むまで笑われ続けていないといけない。

 何事においても常に〝自分が悪い〟ということを前提に行動して、本当は他の人が悪くても率先して自分がその罪を被るくらいのことをしなければならない。


 何も悪い事などしていないのに、司はいつも胸の奥から自然と湧き上がって来るこの自己卑下をこれまでずっと抱き生きて来た。


「はぁ……ホント、なんなんだろなこれ? やっぱり、生まれ付きの心の病気ってヤツなのか?」


 額に手を当て、去年隣に建った日照権無視なマンションの窓に映る青空と陽の光を薄暗い階段から見上げる司。


 いい天気だ……本当に有難い。

 あんなに心地良い青空を見上げることを許して貰えている。

 だったらさっきの学生達にもっと笑われて、土下座している姿をスマホにでも撮って貰い学校での笑い話のネタにくらいなっておくべきだろ……ホント気が利かないな、


「…………なんでだよ」


 自分の中にとてつもなく悪辣なもう一人の自分がいて、常に自分に屈辱を強要して来る。

 もちろん、おかしいとは思っている。

 だが、何故かそうあらねばならない気がして仕方なく、受け入れる自分と苦しむ自分との板挟みに、司はもう何十年も一人で苛まれ続けていた。


 そんな出所不明な罪悪感に苦しむ様になり始めたのは、まさに司が物心付いた頃。

 当時、司は自分以外の何もかも失っていた。


 朧げな記憶でも優しかったと覚えている両親はある日突然姿を消した。

 誰も帰って来ない真っ暗な家の中で、たった一人で泣き続けた幼い司を近所の人が発見して警察を呼んでくれたが、結局両親は見つからず、引き取ってくれる親類も現れず、司は児相に引き取られることになったものの、その後入所した施設からは高校卒業を機に済し崩しに自立を促されて追い出された。


 手元に残ったのは出生やら戸籍やらの書類関係と、司が保護された際にやって来た警官が見つけてくれて施設の職員に預けられていた御縁家の預金通帳。

 しかし、退所の際に返却されたその中身は身に覚えの無い引き出し履歴が羅列され、預金はほぼ使い込まれてしまっていた。


 文字通りこれから一人で生きていくための生命線だったそれを無視出来る訳も無く、司は必死に所員に問い質すも最初は半笑いでトボけられ、次に金に卑しすぎないかと呆れられ、最後は逆ギレされて蹴り出される様に施設を追い出された。


 ショルダーバッグ一つ……折悪く雨に降られる中、司はやはり不可解なほどあっさり〝仕方ない〟と突然割り切る気になって、おまけに〝これまで育てて頂いておいて文句を言うとは何事か!〟と、また自分が悪い気がして、建物の中から雨に濡れる自分をニヤニヤと眺める所員達に深々とお辞儀をして一人野に放たれた。


 本当に誰一人頼れる者がいない正真正銘の天涯孤独。

 とりあえず生活費を稼ぐため、バイトを探すがことごとく断られた。

 そもそも、小・中・高と勉強も運動も何らかの障害を教師から疑われるほど全く出来なくて、謎の罪悪感でいつもオドオドウジウジとする態度で友達も出来ず、周りからは常に失笑の対象にされて来たせいで何一つ誇れる強みも無い。


 このままでは本当に落後者になってしまう。

 誰も頼れない……自分で何とかしないといけない。

 司は考えに考え抜いた結果、極貧生活を覚悟して少しでも社会的地位を取り戻すため、手元に残った僅かな遺産を全てもう一度学費に回し、一浪して大学へ進学した。


 合格通知を見た時、司は泣いた。

 そして、大学生という肩書きが手に入りコンビニのバイトにも採用された。

 こんなごく有り触れた二つの体験に感激する司。

 しかし、すぐにそんな些細な成功体験にすら〝調子に乗るな〟と心の中の自分が罵声を浴びせて来る。


 大げさではなく、司は本当にこれまでの人生で幸せを感じたことが無い。

 いや、寧ろどうしても〝自分は幸せになってはいけない〟と思ってしまう。

 まるで誰かが司の人生を全否定している様な感覚。

 でも、それを受け入れない自分が消え切る訳ではなく足掻き続けることもやめられない。


 まさに生き地獄。

 そして今、いよいよ大学でも学力が続かず留年寸前。

 もし進学出来なければ、それこそ貯蓄は底を尽き退学せざるを得ないだろう。


 一体何だ、この人生は?

 頑張る意味も見出せず、溺れぬ様に毎日水面を藻掻き続ける無様な日々。

 ここ数年は流石にもう心が疲弊して来て、謎の罪悪感よりも明確な絶望感の方が勝って来ている。

 だからこそ、司は今その片手の掌で覆えてしまえそうなくらいの小さな光を心の拠り所にしていた。


(大丈夫……大丈夫だ……。世の中悪い事ばっかりじゃない。天沢さんや綴さんみたいな優しい人だっているじゃないか。今まで全然いいことなんてなかった。その分、これからきっといいことがあってもおかしくない! だから……大丈夫だ)


 自分なんかにも語り掛けたり親しくしてくれる人はこの世の中に確かに存在している。

 それに二回生に上がってから一浪している司から見れば一つ年下ながらも仲良くしてくれる男友達も一人出来た。そうした知り合いが持てただけでも大学に入って良かったと司は思えている。


 単なる交友関係程度にこんな重い感情を向けられても相手は困るだろう。

 だが、心配はいらない。司が求めているのはその日最初に会った時の気楽な「おはよう」や、たいして意味がある訳でもない世間話……そんな平凡だけで十分に満たされていた。


「すぅ……はぁ……――よしッ」


 不安定になりかけた精神の持ち直しを感じ、司は目を開いて再び階段を上がる。

 そして、三階の一番奥……この世で唯一の自分の安息地へ向かおうとしたのだが……。



「なぁ? 本当にここなのか?」


「はい、間違いございません。裏取りも済んでおります」



「……え?」


 慌てて階段の影に隠れる司。

 このアパートで唯一扉の前にゴミが散乱していない自分の部屋の目の前に、奇妙な男女二人組が立っていた。


「な、なんだ? あいつら……」


 自分の家に訪ねて来るような者など一人として心当たりは無く、司は警戒心に脈打つ胸を押さえて恐る恐るもう一度廊下の先を覗く。


 男の方は見るからに遊んでいる雰囲気。

 髪は茶髪でまだ初夏だというのにすでに真っ黒に日焼けした肌、司にはどこに売っているか想像も付かない紫色のカッターシャツに真っ白なジーンズ姿をしており、もはや古典的と言わざるを得ないほど分かりやすいチャラ男。


 それに対して女の方は……一見するとまともだ。

 品のある白いタイトスカートスーツは勝ち気なキャリアウーマンを感じさせ、相当自分のスタイルに自信が無いと着れなさそうな露骨なまでに身体の線が浮き出ていている。

 ただ、下賤な感想と言わざるを得ないものの、豊満な胸元、美しくくびれた腰、張りのある腰元にスラリと長い手足はその自信に十分に見合うプロポーションをしている。


 顔立ちは何となく中華圏の印象を受け、間違いなく全人類の女性の中でも勝ち組側の最上位クラスに入るであろう一つ一つのパーツが整い尽くされた美貌。

 艶やかな腰元まである癖一つ無い黒髪も、シャンプーのCMにでも出ればさぞかし見栄えることだろう。


 だが、そんなアジアンビューティーが軽薄そうなチャラ男に腰を抱き寄せられて過度なスキンシップを取られながら自分の家の前に立っている理由が司には皆目見当が付かない。


 それにこのアパートにはもう何年も住んでいるが、あんな者達を見たことはなく、そもそも普通の人はこんなアパートになど近付くはずもない。

 見た目どうこうではなく、もうその時点で十分警戒に値していた。


「チッ! ったく……暇だな。あいつもうバイト上がってんだろ? 早く帰って来いよ。おい、曉燕シャオイェン……ちょいちょい」


「はい? どうされまし……――あぁん!? い、いけません雅人まさと様♪」


「……は?」


 雅人と呼ばれる男は、まだ日も登り始めたばかりだというのに平然の曉燕という名であるらしい美女をさらに抱き寄せてその身体をまさぐり始め、曉燕も雅人の粗雑な扱いを喜んで受け入れている様に見て取れた。


「え? はぁ? な、なんだあいつら? ひ、人の家の前で……――あッ!?」


 ひょっとして屋外で男女の情事にしけこむ趣味の変態達なのかと動揺してしまった司は、思わず階段の段差を踏み外して背後へ自重が乗ってしまう。


「う、わぁッ!?」


 どうにか身体を反転させるも耐え切れず、側面のコンクリート壁に手を付きながら数段滑り下りてしまい、錆だらけの階段が耳障りな音を響かせる。

 すると次の瞬間、そんな前のめりに倒れかけていた司の視界の側面から白いハイヒールが横切り、顎先を掠めて横にあるコンクリートの壁にその爪先が重く鈍い音を立てて大きなクレーターを穿った。



「何者だ貴様……〝現地協力員チューナー〟か?」



「――ッッ!?」


 階段の中ほどでスベスベとした黒ストッキングに包まれた細い足首に顎を乗せる様な体勢になる司。


「あッ! あ、ぁ……あッ!?」


 背後など怖くて見れない。すぐ横にある壁がボロボロと崩れ落ちている。

 如何に古くなった建物とはいえ、コンクリートの壁に蹴りが突き刺さる?

 そんな馬鹿な話があるか。


 言葉の出し方を忘れた司は意味を成さない引き攣った声を上げながら、もしかするとこの足で自分の首が吹き飛ばされていたかもしれないという恐ろしい想像に至った途端、全身から力が抜けていった。


「ん? ――なッ!? あ、あなたはッ!?」


 目の前が暗くなり始めていた司の耳に届く艶のある流暢な日本語。

 先ほど見た白服の美女だろうか? 背後から感じる圧が静まっていくのを感じながらももう間に合わず、司はその滑らかな足首に顎を掛けたまま、スッと意識を手放してしまった…………。


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