虚無のフォーミュラ
静沢清司
第一章
虚無のフォーミュラ
第一章
「なあ、そろそろ起きないか。ひとり殺りにいくんだろ?」
おれがそう言うと、革製のソファベッドで寝転がっていた女が声のような吐息のようなものを洩らした。
深夜。どこぞのぼろ屋敷の、一階の客室におれたちはいた。床は一歩踏みこむたびに抜けそうで、照明はろうそくしかなく、周りの家具は埃を被っているか破れているかのどちらかだった。
「……いま、何時」
女がそう尋ねたので、おれは袖をまくって手首を見た。「夜の零時」
もうそんな時間、と女が気だるげにつぶやいた。上体を起こすと、張りのいい両胸がシャツの中で弾ける。こいつ寝るときブラつけねえタイプかとおれがうなずいていると、女はそのシャツを取っ払って、ズボンも脱ぎ捨てる。おれはもちろんじっと見させていただく。よい肌だ。
傍らに置いていたボストンバッグから下着とスーツを取り出すと、一分もかからずにそれをすべて身に着けた。
「で、ほんとは何時?」
「わからねえよ。だって、おれ時計持ってねーもん」
「時計ぐらい持ってきなさいよ……もう」
乱暴に寝ぐせだらけの頭髪を掻いて、女はソファに座った。
「わたし、何するんだっけ」
女は言った。
「そもそも、あんた誰?」
あらま、ひょっとしてこれ記憶喪失っていうやつ?
「なんだ、憶えてないのアンタ。おれの名前も?」
「一切わからないわね」
「嘘でしょ」おれは嘆くふりをした。「じつはおれたち……結婚を前提に付き合っていた恋人だったとか言っても信じないですよねだからナイフ向けないでお願い」
女がどこから出したのか知れないナイフを下げると、ため息をついた。
「拉致されている雰囲気ってわけでもなさそうね」
「そりゃあそうですよ」
おれは笑った。
「おれとあんたはパートナー。ビジネスライクなやつね」
女が眉をひそめる。あ、これ信じてねえな。
「同じ業界の?」
「そうですとも!」うんうんとうなずく。「あんた、狩人殺しでしょ。おれは今回の仕事であてがわれた助手さんってとこ」
「仕事……?」
忘れっぽいねえ。
「あんたにとっての仕事といったら、殺し以外にないでしょうに」
「……ああ」
しばしの思案顔から照明が点ったみたいに目を見開いた。
「そういえば、そうね」
「というわけで、もう夜半も過ぎるころだしー?
そろそろ殺りに行きましょうや」
「まだプランも立てていないのに」
「必要ないよ」おれは立ち上がって、言った。「なんせあんた、ライブ感で楽しむタイプのサイコパスだし」
「…………」
機嫌を損ねてしまっちまったらしい。女がおれを睨んだ。その視線の力で心臓を貫こうしてきていた。
ただ、女はすぐに表情を無に切り替えた。
「準備させて」
一言、それだけ告げた。
♰♰♰
わたしは準備を進めた。
ボストンバッグから三十二口径の拳銃やアタッチメントの整備、そしてライフルの銃身をガンオイルを沁みこませたタオルで拭く。拳銃はホルスターから抜いて構える──野球でいう素振りのようなことを繰り返して、サプレッサーやサイトのアタッチメントを取り付けて違和感がないかを確認していた。準備と称しているが、これをすることで心が落ち着くのだ。その証拠に、徐々にここまでに至る状況を思い出していた。
わたしは殺し屋。
やくざやマフィアお抱えのではなく、フリーランスの。もちろん、そういった連中とお付き合いすることは多いんだけれど、依頼内容と報酬が見合っていれば誰の依頼でも引き受ける。
依頼を請け負うときは世話になった依頼人を通じて、紹介してもらうことが多い。たとえば一度依頼をこなしたやくざ屋さんが、わたしの評判を同じ筋の人間に流して、その中からわたしを信じてやってくる者だとか。
けっこう行き当たりばったりだ。
今回の依頼人は、やくざでもマフィアでも何でもなく、風の噂とやらで聞いてわたしへ飛んできた。
場所はホテルのラウンジで、だった。小肥りで口髭を生やした男で、傍らには例の少年が座っていた。煙草を咥えているかと思えばココアシガレットで、ビールを飲んでいるかと思えばビール風の子供向けジュースで、背伸びをしたがっているのか弁えているのかわからないやつだった。
何より。
わたしが気になったのは、少年の風貌だった。ブーツにカーゴパンツに、白いTシャツの上に濃緑色のモッズコート──それは特別でも何でもない。問題はその髪色だった。中性的な童顔の上に乗った、真っ白な髪だった。
「依頼というのは……」
「狩人、というものはご存じでしたよね」小肥りは言った。
そのとき、後ろから心臓を掴まれたような心地になった。
「あなたには、その狩人を殺していただきたいんです」
「なるほど」
「こちら、標的をまとめたリストでございます」
受け取って、わたしは絶句した。
「退魔十二貴……ですか」
「あなたは、〈魔女〉と呼ばれる狩人殺しとしてよく知られています。無能力で、現代兵器のみで彼らと対等に──いえ、それどころかその上を悠に行く、と。わたしは、あなたのその評判を信じてこうしてお訪ねしたんです」
魔女、か。
その名で呼ばれたのは、久方ぶりだった。
狩人とは、裏の世界の奥に潜む怪物のようなやつらだ。いつから生きていたのか、ひっそりとこの地球に棲んでいる魔族という生物を狩ることを目的とした、〝地球浄化係〟のような連中である。
しかし、そういった組織にまともな人間はほとんど存在しない。全員、いかれてると言ってもいい。わたしは、とある事情からそいつらを殺す仕事も請け負うことにしていたが……今となっては、そんな気はなかった。
彼はわたしを過信している。そう思った。
「お受けできません」
ど、どうして、と小肥りの男は身を乗り出した。
「少し、こちらも仕事が立て込んでおりまして。今はお受けすることが……」
「おいおい、そりゃあないんじゃねーですか」
ローテーブルに足を乗せて、少年が言った。
「ここ三か月、何も仕事ないでしょ、あんた」
「……仮にそうだとして、なぜあなたにそれがわかるんです」
にしし、と少年は笑った。
「おれはさ、人を信じるための条件ってのがあると思ってんだよ。これはいくつかある中のひとつなんだけどさ、」
人差し指を立てて、彼は言った。
「そいつの背負っているものを知ること」
背負っているもの……。
「ビジネスパートナーなら、正面から知ろうしちゃだめなんだ。だからおれは、事前にあんたの背中を調べさせていただいたのさ」
わたしは、この少年のただならない雰囲気をはっきり感じた。
「なあ、あんたさ──魔女って名前、嫌いだろ?」
「…………」
「大丈夫。別にあんた一人でやるわけじゃねえ」
少年は椅子から立ち上がり、ローテーブルを片足で踏みつけ、顔をわたしに近づけた。彼はわたしの顎を握って、余裕を含んだ笑みをたたえて言った。
「おれが、ついてる」
わたしは、少年の眼窩に埋めこまれた灰色の石を見据えた。
「あなた、名前は?」
「名前、ねえ」少年は苦笑した。「大した名前はねえんだけどさ、まあ、強いて言うなら──」
間。
「
わたしの中の、瞑れる記憶が何かの呼び声に応えた。
これまでずっと、この機会を待ち侘びていたみたいに──わたしはどきどきしていた。
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