② 塚元寛太
「気持ち悪いから、これ以上私につきまとわないで」
静かな声の奥には確かな怒気が含まれているように思えた。
どうやらボクは人を怒らせる才能があるらしい。
三時限目の休み時間、ボクはずっと好きだった人から拒絶された。
どうして彼女が怒っていたのかはわからない。
元々、彼女が根っからの男嫌いだということは有名な話だった。校内でも群を抜く端麗な容姿を持ってしても彼女に恋人がいないのは、誰一人として男を寄せ付けまいとする威圧感が、全身から滲み出ていたことが原因だった。過去に何があったのまでは知らないが、きっと男関連で酷い目に遭ったことがあるのだろうと、同級生たちの間では噂されていた。
それまでほとんど接点のなかったボクがいきなり拒絶された原因は、きっと彼女にあのことを気付かれたのだろうと薄々察していた。自分ではバレないように上手くやっているつもりだったが、もしかするとどこかで詰めが甘かったのかもしれない。
ボクはずっと彼女を見ていた。彼女の好きなものを好きになろうとした。そして、愛用していたものを実際に使ってみたりもしていた。
それをきっかけに彼女と近付きたいなんていう下心は、微塵も抱いていなかった。これでも身の程はわきまえているつもりだ。デブでブスのボクなんかが、まともに相手してもらえるような女子でないことはよく理解していた。だから、ボクは遠くからバレないように彼女との繋がりを感じることで、人知れず幸福感を味わっていた。
以前、そんなボクをたもっちゃんは叱ったことがある。みっともない、当たって砕けろ、と。おそらく、彼の目には恋に奥手なボクの姿がもどかしく映っていたのだろう。
でも結局、ボクはそれまで通り、何も変わろうとしなかった。
たもっちゃんはもう、そんなボクを叱ってもくれない──
思い返してみれば、生身の人の感情を上手く理解できないという自覚は昔からあった。
たもっちゃんはボクにとって初めての三次元の友達で、彼がいなければ、きっとボクはまた二次元の世界の中で引きこもっていたに違いない。
実際、小・中学生の時がそうだった。
どうやら目つきが怖かったらしい。上瞼と下瞼に潰されたような細い目のことを、ある時期はピスタチオみたいだとみんなに馬鹿にされたことがあった。
結局、ボクは周りで軽々しく「友達100人できるかな」と口ずさんでいた同級生たちを尻目に、最後までたったの一人も友達が作れなかった。経験することのなかった友情や恋愛、青春をアニメの中に求めるようになったのは、必然だったのかもしれない。誰かの手によって描かれた喜怒哀楽はどれも辻褄があり、友達のいないボクでも画面上の誰かに感情移入することはそれほど難しくはなかった。
だからきっと、いつの間にかわかった気になっていたのだろう。
中学の卒業式の日。クラスで唯一泣けなかったボクは、生まれて初めて自分自身に失望した。考えてみれば、涼しい部屋の中で贅肉とフィギュアばかり溜め込んでいたボクに、炎天下で滴る汗や涙の味が理解できるはずもなかった。
この学校に入学した当初も、ボクはそれまでの学生生活を引き継いだように誰とも会話しない日々が数日間続いていた。授業中や委員会で事務的なやり取りをすることはあったものの、それ以外でボクのところへ近づこうとする生徒はいなかった。そして、気付いた時には、いつものように教室内である程度固定されたグループがすでに出来上がっていた。
ボクは新学期早々に独りぼっちの高校三年間を悟った。
ただ、そんなある日、たもっちゃんはボクに声をかけてくれた。
彼は入学当初から積極的にクラスメイトに話しかけにいく社交的な人だった。元々、喋ることが好きだったのか、休み時間になると手当たり次第に声をかけ、楽しそうに喋っている光景を教室の中でもよく見かけていた。
一つの居場所にはとどまらずに様々なグループを転々としていた彼は、きっとみんなから好かれていたのかもしれない。ボクは傍目に見ながら、彼のことをそんな風に羨んでいた。
たもっちゃんは独りぼっちのボクに対しても、他のクラスメイト達と同じように色々な話を聞かせてくれた。その時、ボクが笑うと途端に嬉しそうに破顔する彼の表情に、嘘っぽさはなかったように思えた。
──俺の面白さをわかる奴がこのクラスには少ないんだよなあ。
愚痴っぽい口調で漏らしたその言葉に、ボクは自分が彼の面白さを理解できる稀有な存在だと認められたような気がして、感じたことのない喜びが全身を浸した。
その日を機に、ボクは彼と一緒にいることが多くなった。
これまでに、ボクは知らなかったたもっちゃんの新しい一面をたくさん目の当たりにしてきた。お笑い番組が大好きなことや中学時代には恋人がいたこと、さらに、チヤホヤされているクラスメイトに対して不満を抱いていることまで、彼は全てをあけすけに話してくれた。
特にクラスメイトの笑いに関しては厳しかった。
誰々の話にはオチがない。いちいち話に割り込んでくる誰々みたいな奴がいると笑いが半減する。たとえ面白い話を披露しても聞き手の理解力が伴ってないと面白さは伝わらない──など、アニメ以外のテレビ番組を全く観ないボクでは到底わからないことを毎回教えてくれる彼は、なんだかいつもよりも聡明で格好良く見えた。
事実、たもっちゃんが時々披露してくれるエピソードトークや一発ギャグはどれも間違いなく面白かったのだから、彼の言葉にはより一層の説得力が増した。中でもボクは、銭湯で変なおじさんに遭遇した時の話が特に好きだった。
要所に散りばめられた耳に残る単語からは、彼の言葉選びのセンスの良さが垣間見え、無駄なく流れるようにオチまで進んでいく話の構成力はまさに圧巻だった。初めてそれを聞いた時は、腹が千切れるほど大笑いしてしまった。
他にも、奇怪な動きをしながら「チョコチョコうんぴっぴ!」と叫ぶ、彼が考案したという一発ギャグでも、ボクは呼吸困難に陥るほど腹を抱えながら笑った。「ギャグは瞬発力と思い切りだ。そこに意味なんて求めちゃ駄目なんだ」と教えてくれた彼の言葉を一言一句違わずに思い出せるということは、きっとその時に味わった衝撃が今でも忘れられないのだろう。
この人の天職はお笑い芸人だと、ボクは信じて疑わなかった。彼にはもっと普段からスポットライトが当たるべきだと思っていた。
だが彼は、自分はあえてクラスメイトの引き立て役に回っているんだ、と言った。
──まあでも、俺が前に出た方が絶対に面白くはなるんだけどな。
たもっちゃんはその言葉を毎回最後に添えていた。
だからボクは、いつも我慢していて報われない彼が、ずっと可哀想だと思っていた。そんな時に偶然、満太郎とかいう、よく知らないテレビタレントにマイクを向けられた。抽選箱から『一番面白い人』という札を引いた時は、不意に運命を感じた。
良かれと思って、ボクはカメラの前で、たもっちゃんの名前を挙げた。
これでようやく、たもっちゃんにスポットライトを浴びせられる。カメラの向こう側にいる人たちにも、彼の面白さを知ってもらえる。もしかするとこのまま人気が出て、芸能人にでもなっちゃうかもしれない。そんな妄想を膨らませながら、ボクは職員室から戻ってくるたもっちゃんのことを、今か今かと待ちわびていた。
だが、やがてカメラの前に姿を現したたもっちゃんは、珍しく顔を強張らせていた。ボクは彼に銭湯の話をするようにパスを送る。周りを囲んでいた生徒たちもその話を望んでいたのか、ちらほらと盛り上がりを見せていた。
それから十秒ほどの沈黙が流れただろうか。何故か、たもっちゃんは銭湯の話を披露することを躊躇っているように、じっと口を噤んでいた。もしかすると、緊張して上手く喋れないと思ったのかもしれない。
見切りをつけるように、満太郎がそれとなく話題を変えようとする。
ボクは咄嗟に声を出していた。
このままでは、せっかくの晴れ舞台が大人に潰されてしまう。そう思った。
「満太郎さんっ。たもっちゃんの一発ギャグだけでも見ていってくださいよ!」
次の瞬間、たもっちゃんに殺気じみた目を向けられた。
ボクは、それがどうしてなのかわからなかった。ふと、その日が今年初めて氷点下を記録した寒い一日だったことを思い出したように、腕に鳥肌が立つ。
「タコ踊り〜。タコ踊り〜。タコが踊るよ、タコ踊り〜」
それは初めて見るギャグだった。
カメラの前で恥じらいながらも口を窄め、タコの足を表現するようにそれっぽく手足をクネクネと動かしているたもっちゃんの姿は、正直見ていられなかった。
誰の反応もない。
あれほどざわついていた教室内が、一瞬にしてしんと静まりかえっていた。満太郎とかいうタレントでさえ、見るからにその沈黙をどうやって処理するべきなのかと困惑していた。
踊り終えたたもっちゃんもその不穏な空気を察したのか、すぐさま口を閉ざして下を向いた。みるみるうちにその顔が真っ赤に染まっていく。その様子はまるで、彼が本物のタコに擬態しているようにも見えた。
ギャグは瞬発力と思い切りだ、と教えてくれた彼のタコ踊りからは、微塵もそれらを感じ取ることができなかった。
──どうしていつもの一発ギャグをしてくれなかったの?
気付けば、ボクは何かに押し潰されているように項垂れていたたもっちゃんに向かって、とはいえ誰にも聞こえないくらいの小声で、そう呟いていた。
後日、たもっちゃんには余計なお世話だと怒鳴られた。あんなに怒っていた彼の姿は、未だかつて見たことがなかった。
また、ボクは独りぼっちに逆戻りしてしまった。
しかし、以前までとは明らかに違い、あの日以降、ボクは時々クラスメイトたちから絡まれるようになった。「あれは面白かったよ」といきなり褒めてくる者もいれば、「案外、塚元って悪い奴だな」と肩を組まれて笑われたり、「わざと振ったんだろ?」とニタニタしながら聞いてくる者もいた。それらはどれも、ボクにとっては理解し難いものばかりだった。
そして彼らは何故か皆、口を揃えてたもっちゃんのことを「パクリ魔」と呼んでいた。
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