三日月

 桃子の紹介で会った「ゆうくんママ」は桃子とはかなりタイプの違う女性だった。

 まだらに染まった茶色の髪をゆるく巻いていて、服装も大学生のようだ。

 桃子が手を振ると、おざなりに頭を下げて近付いてくる。

「はじめまして、私こういう者です」

 私が名刺を渡すと、彼女はちらりと見た後、私は名刺とかないんですけど、と小さな声で言った。

「ひさしぶりだね!」

 桃子が妙にはしゃいだような、明るい声で言った。

「……一か月半くらいじゃない」

「ゆうくんママ」の様子などお構いなしといった感じで桃子は、

「わあ、そんなに経つっけ。ちょっと待って。いま、ケーキ持ってくるね」

 そう言ってカウンターの中に入っていき、やがてトレーにいくつもケーキを載せて戻ってくる。

「どれでも好きなの取って」

 桃子がそう言っても「ゆうくんママ」は手を伸ばさない。私もどう話を始めたらよいか分からず、美味しそうなケーキにも手を出すことができなかった。

 桃子だけは「ゆうくんママ」と会えたことが嬉しいのか、饒舌だ。

「前お茶したの、いつだっけ。お菓子、お口にあったかな? 旦那さん、あっ、元旦那さんか、その後、大丈夫? また家に来たりしてない? もうバイトは大丈夫? お菓子だけなら作れば沢山あるから、いくらでも持ってっていいよ」

 バン、と音がした。桃子が体をびくりと震わせ、大きな目をおどおどと動かした。天使の羽の模様が付いたティーカップから紅茶が零れ、木製テーブルの上にシミを作る。

「ゆうくんママ」が拳を堅く握りしめていた。

「ゆうくんママ……?」

 桃子は媚びるような──私がそう感じているだけかもしれないが、そんな上目遣いで彼女の顔を覗き込んだ。

「ハッ、マジでいるんだ、れーのーしゃってやつ」

 そう言って彼女は馬鹿にしたように笑った。笑うと顔が横に広がって、ぎょろぎょろとした目も相まってカエルみたいだ。カエルみたい、と口に出しそうになってすんでのところで踏みとどまる。たしか、事務所を開いて二週間くらいしたときに、私は依頼者の女性にサルみたいと言ってしまったことがあるのだ。

『どんな意図であったとしても、例えば好意的な意図だったとしても、人を動物に喩えるのは不快に思う人が多いのでやめておきましょうね』

 そんなふうに青山君に言われた。それ以来、私はなんとかその手のことを本人に直接言うことは我慢できている。

「てか、あんた男? 女?」

 おーい、聞いてる? とか何とか言いながら、「ゆうくんママ」は私の顔の前でぶらぶらと手を振った。

「ゆ、ゆうくんママ……こちら、佐々木さん、女の……」

「ははは。分かってるって。女なんでしょ。名刺に『るみ』って書いてあるもんね。るみちゃんから見てこの人どう? なんかムカつかない?」

 私は「ゆうくんママ」をじっと見つめた。私も失礼なことを言ってしまうタイプではあるが、この女は同類か、もっと悪いかもしれない。悪意の有無で発してしまった暴言が軽くなることはないが──

「ちょっと、ゆうくんママ……失礼だよ。ごめんなさい佐々木さん、いつもはこんなふうじゃ……」

「あんたがやってるのと同じ、普通のコミュニケーションでしょ。てかこんなふうって何? 上から目線やめて」

 弱々しく頭を下げる桃子を睨みつけながら、「ゆうくんママ」は口元だけで笑っている。

「いいのです。『ゆうくんママ』さんは桃子さんと違って、元気に過ごしておられるようですね」

「はあ? 何それイヤミ? てかあんたにそんなふうに呼ばれる筋合いないんだけど。こっちには塩沢里佳子って名前がきちんとあるんだから」

 ゆうくんママ、もとい里佳子は舌打ちをする。それを見て桃子は、前はこんな感じじゃなかったんだけどね、と私にだけ聞こえる声で呟いた。

 彼女も青山君がいればこのような態度を取らなかったかもしれない、と私は思う。

 彼女がこんなふうな態度を取る原因は明らかだ。しかし、こうなってしまった空気を和らげることは不可能だった。

 それに、どんなに失礼な態度を取られても傷付いたりはしない。容姿の悪さゆえか、私は初対面の人間から見下したように接されることがよくある。この程度は慣れっこだ。

「失礼しました、塩沢さん。息子さんの変化についてお聞きしたいだけなのです」

 里佳子はふうん、と言ってから、今度は桃子の方に視線を向けた。

「さすがウチにあれこれ言ってくるだけあって余裕あるね。れーのーしゃだかなんだかに相談できる金あっていいよねえ。やっぱ、儲かってるんだ、お菓子屋さん」

「そんな、そういうわけじゃ……お金だって、佐々木さんは、同級生の泉君の紹介だし」

「泉君ね。いいよね美人は。すぐ男が助けてくれるもんね。お菓子屋さんも男に助けてもらってるの?」

「あの、息子さんの様子は?」

 桃子を庇ったわけではない。里佳子の言いざまが、有り様が、遠い記憶の中の母親に似ていて──もっと言えば、里佳子の気持ちにどこか同調してしまう自分がいて、気分が悪くなったからだ。

 里佳子は舌打ちをして、

「そんなに気になるなら見に来る?」

 そう言って片手でティーカップを摑んでごくごくと飲み干し、椅子から立ち上がった。

「ま、待って、ゆうくん、具合は大丈夫なの?」

 桃子も慌てて立ち上がり、声をかける。

 桃子から聞いたところによると、「ゆうくん」は先天的な問題で体がうまく動かせず、車椅子に乗って過ごしていたらしい。激しい運動はできないが、絵が上手で、よく唯香と一緒に絵を描いて過ごしていたそうだ。里佳子は口は悪いものの愛情深い母親で、桃子と同じようにシングルマザーであることから意気投合し、お互いに励ましあい、働きながら病気の子供の面倒を見る苦労を分かち合っていた、というのだが、こうして話してみると、とてもそんな関係性には見えない。

「あんたのとこと同じだよ。具合、良くなって、今は一人で家にいる」

「えっ、一人? 一人って……だって、どうするの、旦那……元旦那さんが」

 里佳子は桃子の方を振り返りもせず、ずんずんと進んでいく。〈アントルメ世田谷〉から五分ほど歩き、駅に着いたところで、

「こっちは話を聞かせてやってる立場なの。普通、タクシー呼ぶとかあるでしょ」

「気が利きませんもので、すみません」

 私は口だけで謝って、タクシー乗り場まで走って行き、二人に後部座席を勧めた。

 タクシーに乗っている間は意図的に意識を窓の外の景色に向けて、二人の会話は聞かないようにした。桃子は無神経なのだ。無神経な人間とはそういうものかもしれないが、人が言われたくないだろうことを無意識に言っている。そして、里佳子は、それに対抗するために、言うつもりもなかったであろう、醜い僻みのようなことを言い返してしまう。きちんと聞かなくても、無意味で聞き苦しいやり取りが続いていることは分かり切っている。青山君がいない今、私は自分が何を言ってしまうか分からず、恐ろしかったのだ。

 そのような苦痛の時間は一時間ほど続いたように思えたが、時計を見ると十分ほどしか経っていない。タクシーが止まったのは、市営住宅の前だった。

「とうちゃーく。ウチ、こんなとこ住んでんだよ。あんたみたいに、助けてくれる男なんていないから」

 桃子は落ち着かない様子で目を左右に動かしている。私には分かる。里佳子にとっては、このような様子さえ腹立たしいに違いない。

 階段を上がってすぐのところに里佳子の部屋はあった。

 わざとらしく大きな音を立てて鍵を開け、里佳子はただいまも言わず部屋に入った。私と桃子も後に続くが、玄関にも色々なものが散らばっていて、どこを歩いたらいいか分からない。ところどころに置かれているチューハイの空き缶が、彼女が日常的に相当な量の飲酒をしていることを示している。しかし不思議なのは、このように散らかった部屋にも拘らず、花のような良い匂いで満たされていることだ。しかも、芳香剤のような人工的な香りでもない。

「ちょっと、じろじろ見んなよ。別に、服とかは踏んでもいいから」

 里佳子に声をかけられて、遠慮なく衣類を踏みながら家に上がった。桃子も申し訳なさそうにしながら付いてくる。

「なんか……音」

 桃子がそう呟く。確かに、何か聞こえる。子供の声。歌っているのかもしれないが、妙に抑揚がない。

「裕」

 里佳子が呼ぶと、プラスチックの容器が散乱しているちゃぶ台の端がわずかに動いたように見えた。

「裕」

 もう一度里佳子が言って、ちゃぶ台を蹴倒し、大きなサイズのタオルをめくった。

 背後から息を吞む音がした。私も桃子がいなかったら悲鳴を上げていたかもしれない。

 目のぎょろぎょろした坊主頭の子供が、瞬きもせずこちらを見ている。

「邪魔をしないでください」

 子供は淀みなく言って、タオルを被る。

「邪魔じゃないだろ。ったく」

 里佳子は悪態を吐きながらももう一度タオルをめくることはしなかった。衣類の山にどっかと腰を掛けて、

「まあ、こういう感じなんだよね」

 なぜか得意げにそう言う。

「ゆうくん……元気って、言ってたのに」

「はあ?」

 絞り出すような声で言う桃子に里佳子が凄む。

「元気だろうが」

「元気じゃないよ……あんなに、痩せて」

 瞬間、固いものが飛んでくる。腕に掠ってじわじわと痛んだ。視線を下に向けると、空調のリモコンが落ちている。

「あのさあ、どこまで馬鹿にするわけ」

 里佳子がぎらぎらとした目でこちらを見据えていた。

「動いて、喋って、歌ってる。自分で。たまにだけど、食事だって一人でするんだよ。元気なんだよ」

「そんな、それだけで……」

 里佳子は口を開いたが、思い直したようにまた閉じて、舌打ちをした。

「とにかく、元気なんだよ。確かにぶつぶつなんか言ってるけど。もう車椅子いらないんだから」

「うん……それは、私も良かったって思うんだけど……唯香も、運動できるようになったし」

「あの、ちょっとよろしいでしょうか」

 私は二人の会話を遮って、

「息子さんは、車椅子ということですが」

「そうだよ。脳性麻痺。右手だけは使えるけど、他はうまくいかない。喋り方も、普通とは違うかもね。ま、今はなんもないけど」

「そうですか。それがすっかり、治ったと」

 里佳子はぶっきらぼうに「だからそうだって言ってんじゃん」と言う。

 唯香が運動ができるようになったのよりも、あり得ない話だ。脳性麻痺は出生前、分娩中、あるいは出生直後に起きた脳への損傷か、もしくは元からの脳の異常が原因で起こるもので、症状に差はあるが、運動困難を来す。理学療法や作業療法で生活しやすくなることはあれど、完治ということは現代の医学では不可能だ。

「ありがたや、ありがたや」

 甲高い、それでいて抑揚のない声が聞こえる。

「あわれみたまえ、だいじだいひのかぎのちかい」

 タオルがもぞもぞと動く。

「かよいくるくるつきのひかりの、みはあきらかになるぞうれしき」

 私は慌ててボイスレコーダーを起動した。桃子と里佳子の不毛なやり取りを録音したくなくて一時的に切っていたのが悔やまれる。

 裕が歌っている。そして、おそらく唯香も同じ歌を歌うのだ。桃子は唇を震わせて、縋るように壁にもたれかかっている。視線はタオルに向けられたままだ。

「おさらさま、いまはいずこにおらりょうか」

 歌が終わった。タオルは動きを止め、ただそこに在った。

 桃子も、里佳子でさえも、一言も発さない。

 私は近寄って行って、タオルをめくった。

 そこには、ぎょろりとした目の、小さな男の子がいるはずだった。

 何もない。

 タオルがばさっと音を立てて床に落ちた時、絹を裂くような悲鳴が聞こえ、足音と共に外に走り去っていく。桃子さん、と振り返って言おうとして、

「邪魔をしないで下さいね」

 背中に、ぎょろりとした目の子供が張り付いている。私は咄嗟に目を瞑り、子供を振り払った。体は離れているが、見られているのだけは分かる。背中が燃えるように痛む。一瞬、目を見ただけで猛烈な悪寒が止まらない。心臓が口からこぼれてしまいそうな不快感がある。何故か分からない。出所の分からない恐怖感で、邪魔なんてしません、と言ってしまいそうだった。目を瞑ったまま、手探りで外に出る。散乱したものに足を取られて、二回ほど転んだかもしれない。すぐに立ち上がる。膝の痛みなどどうでもよかった。後ろでずっと聞こえる歌声から逃げられれば、それだけで。

「てるつきのねがいはひとつひたすらにおさらかんのんあらわれたまえ」


 なんとか玄関から出ると、それまで感じていた背中の痛みが噓のようになくなる。同時に、人の気配を感じたので恐る恐る目を開けた。桃子と里佳子が身を寄せ合うようにしてしゃがみ込んでいる。

「だ、大丈夫……ですか」

 桃子が震える声で言った。

「そちらこそ……」

 そう返すと、桃子は首を弱々しく縦に振った。

 里佳子は相変わらず一言も発さない。ただ、桃子と私を交互に見ている。

 しばらく三人で黙って立っていると、里佳子がようやっと口を開いた。

「もう、帰って」

「えっでも」

「帰って」

 里佳子はのろのろとドアに近付き、入ろうとする。

「待ってください」

 私が軽く腕を摑むと、里佳子は振り払うことなく、心底面倒そうに「なに」と言った。

「息子さんが参加されたイベントは、どなたが何をしていたのか教えていただいてもよろしいでしょうか」

 里佳子はぼうっとした顔で、

「なんか、黒い服の人? 話してたって。待ってて」

 里佳子は部屋に入り、またすぐに出てくる。右手に一枚の紙を持っていて、私に押し付けるように渡してきた。

「裕が描いたから。それ持って、とっとと帰って」

 突き飛ばされ、よろけている間に、里佳子は大きな音を立ててドアを閉めてしまった。

「佐々木さん……」

 そう声をかけたまま、桃子も黙り込んでしまう。

「……仕方ないですね。帰りましょう」

「はい……」

 桃子は階段を下りるときも、建物から出るときも、何度も振り返っていた。

 バスに乗り、〈アントルメ世田谷〉に帰るまで、桃子は強張った顔で一言も話さなかった。私もとても声をかける気にならなかった。私たちは里佳子の家で、紛れもない怪奇現象に遭遇したのだ。

 それに私は何も見えなかった。何も見ることができなかったというのが正しい。

 人ならざるものを見るのは私にとってはごく自然なことだ。例えば直接的な幽霊だの妖怪だのというものでないときでも、その影響下にある人間には何かを感じたりもする。しかし、今回は、そのようなことを考える前に、頭を殴られたような、全身が何か鋭い刃物で貫かれたような──死が目前に迫るような危機感があって、私は何もできなかった。

 私より優れた同業者(物部はまさにそうだ)や、手に負えない怪異と遭遇したことなど何度もある。もしかして今日が命日かも、と思ったことも。しかしうまく考えがまとまらないが、今回はそれとは違うものを感じる。相手に敵わないことから生まれた恐怖感ではなく、突然発生した危機感なのだ。トリガーはあの子供だと思う。振り返って裕の目を見た瞬間、体の奥底から湧き上がってきたものに勝てず、こうやってすごすごと退散する羽目になった。

「ごめんなさい」

 店の席に座ってしばらくしてから、桃子がぽつりと言った。ごめんなさい、とは、里佳子の態度が悪かったことについてだろうか。それとも、先に里佳子の部屋を飛び出してしまったことだろうか。前者は謝られても仕方ないし、後者は桃子のせいではない。桃子のような、全く心霊案件に触れてこなかった人間にとって、『もぞもぞと動いていたタオルをめくってみても中に何もなかった』などというのは十分に怖いことだろう。逃げ出すのも無理はない。

「いえいえ……仕方のないことです。誰だって、あんな目に遭えば」

「違うんです」

 桃子は私の言葉を途中で遮った。

「私、どうしてこんなに大事なことを忘れてしまうのかなって……本当に……でも、もしかして、無理やり忘れようと……」

 桃子ははっきりしない口調で言い訳のような、自責のような言葉を連ねる。正直、また少し苛ついてしまった。彼女は人に話を聞いてもらうことに慣れすぎている。きっと、「要点だけ話して」などと言われたことはないのだろう。私はなんとか苛立ちを隠して、

「桃子さん、落ち着いてください。どういうことですか」

「私、あの歌聞いて……唯香が、同じこと言ってたって思い出して……」

 もしかして、『唯香も同じ歌を歌っていたのに思い出せなくてごめんなさい』という意味か。

「いえいえ、急に思い出すことはありますよ。今回の場合、裕さんと唯香さんが同じ歌を歌っていたというのは想定できることですし、そもそも、複数の人間が」

「違うの」

 桃子は涙を零しながら、

「歌じゃないの。言ってたの。誰にも信じてもらえないと思ってたから、それに怖すぎたから……無理に、忘れた。忙しかったのもあるけど、そんなの言い訳にならないよね。目を逸らしていれば、いつか元通りになるって思ったの」

「言ってた、とは?」

「おさらさま」

 おさらさま、いまはいずこにおらりょうか。

 裕の抑揚のない声と、単調な音階。

「病院から帰ってきたとき、唯香、楽しそうにしてたの。裕君と会えたから、それでかなって。でも違った。『明日、おさらさまが来るからね』って言ってた。『おさらさまって?』って聞いたら、唯香は急に照れたみたいにもじもじしながら、『やっぱりなんでもない』って。なんていうんだっけ……イマジナリーフレンド?ってやつかなって思ってスルーしちゃったの。でも……」

 桃子はつっかえつっかえ、何か言っているようだった。私はレコーダーを起動させ、録音を開始し聞き流す。おさらさま、という言葉について考える必要があるからだ。

 おさらさま、おさらかんのん。かんのんは「観音」だろうか。

 ふと手元に握っていた絵のことを思い出す。そういえば、謎の緊張感がずっと続いていて、渡されたのに見てすらいなかった。握りしめてよれてしまった紙を伸ばしつつ、開いていく。

 開いた瞬間、喉から声が漏れた。

 子供の絵にしては上手い。何が描かれているか分かる。子供たちが円になって座って、話を聞いている絵。そんなものはどうでもいい。これはなんだ。円の中央に位置する黒いものだ。

 真っ黒に塗りつぶされた人間の、目だけぐりぐりと大きい。

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