3-3

「……千草はいないのか?」


 リトルキャッスルにセツを残して牧瀬医院に訪れた朔は、牧瀬の顔を見るなり問う。いつもは看護士の千草が出迎えてくれていたのだが、今日は珍しくその役回りが牧瀬だったのだ。


「ああ、そうそう。ちょっと外へ出ていてね」


 牧瀬はそう答えると「千草がいないと色々と困るよ」と情けなく眉尻を下げる。どうやら急ぎの用があるらしい。怪我人や病人に対して人手が足りないと思ってはいたが、実際千草がいないと困る事が多いようだ。いっそ人を雇ってみたらどうかと朔は提案してみる。しかし殆どボランティアと言って良い状況で人が来るとは思えないとの苦笑いが返って来た。言われてみれば確かにそうだが、そんな状況でも文句も言わない千草と牧瀬の関係は良好そうだった。


「君は良いな。素晴らしい友人を持っていて」


 流石は幼馴染みというべきか。同じく幼馴染みだという夢売りの病を治療する為ならば、たとえ茨の道であっても手を取り合う事を厭わないのだろう。何となく不思議な感じがした。


「すばらしい友人、ねえ……」


 けれど牧瀬は煮え切らない言い方をする。何か間違えてしまったのだろうかと朔が見ると、牧瀬は頬を掻きながら答える。


「いやね、友人って言うより腐れ縁に近いんじゃないかなと思って。でも、それにしても彼女は本当に僕の言う事を何でも聞いてくれるよ。本当に助けられている」


 診療室の扉を開けて牧瀬は朔に椅子を勧めると、マグカップにお茶を淹れ始めた。二つ分用意して、先に椅子にかけていた朔へと手渡す。そうして、いつもの定位置である正面のデスクにかけた牧瀬はお茶を一口啜った後に、その、と牧瀬は言い出し難そうに切り出した。


「セツ君と由楽木君の事は聞いたよ。何て言うか……色々と、大変だったね」


 相変わらず耳が早い、と朔は思う。来院者から聞いたのか、それともセツの容態を気に掛けていたナグモが使者でも寄越したのか。可能性としてはおそらく後者だろう。ナグモはセツと衝突する事も多いが、実際は気を赦しているだけで好意も抱いているように思う。


「でも一体サーカスで何があったんだい? 仲違いでもしたのか?」


 仲違いにしては深刻な部類だけど、と牧瀬は付け足す。朔は出された苦みのある茶を啜った後、「色々とな」と苦々しく言い放つ。牧瀬は色々ねえ、と溜め息混じりにこちらを見た。眼鏡の奧にある優しげな目の下には隈ができている。おそらく治療薬をつくるために徹夜続きなのだろう。本当に千草といい牧瀬といい偏愛狂死病研究に関して熱心だ。


「色々ってクビキリ。僕で良かったら抱え込まずに話してごらんよ」


 穏やかな声でそう諭されては、話さない訳にもいかない気がして、朔は逡巡の後口を開いた。


「……《サーカス》のナギに言われたんだ。『裏切り者』が、居ると」


 ナギは高らかに笑いながらそんな呪詛を吐いていった。裏切り者【ユダ】によって朔は命を落とすのだと、はっきりと言っていた。思い出してはそれが由楽木なのか、それとも朔が思いもしない誰かなのかと思うと絶望に沈んだ。もしも裏切り者が本当にいるとして、その者が朔にとって近しい者だった場合――この手で殺さなくてはならないから。


「裏切り者? どういうことだい?」


 牧瀬が眉根を寄せ、下がって来た眼鏡を指先であげる。


「おかしいんだ。絶対にナギの仕業だと思っていたのに……ナギは免疫者狩りの首謀者が自分じゃないと言ったんだ。だが、それなら誰が一体、免疫者狩りを創り、偏愛狂死病ではない人間たちを狩り始めた? そして、その狩られた人間の大部分は一体どこに流れているんだ?」


 朔は俯き、カップの水面へと目を落す。反射した水面には情けない自分の顔が朧げに映り、震えた手によって揺れる。益々気持ちが落ちるような気がして朔はカップに入ったお茶を一期に呷った。不安も一緒に流されれば良いのにと有り得ぬ事を考えながら。

 牧瀬はううんと唸りながら、きい、と椅子を鳴らす。


「誰かが裏で糸を引いているんだろうね。ただ重度の偏愛狂死病患者のあの『ナギ総督』が言う事だ。ただの狂言かもしれないよ」


 牧瀬の指摘通り、嘘である可能性も大いにあり得る。しかし朔にとって、あの時のナギがどうしても嘘を吐いているようには思えなかったのだ。


「いずれにせよ色々あったんだろう? なら、クビキリ。君も少しは休め。他の者達と痛みや疲れの感じ方が違うとはいえ、君が倒れればナグモたちも困るだろう? 何たってあの雨宮咲羅を倒す主力となる存在なのだから」

「それを言うなら牧瀬こそ休んだほうが良いんじゃないか? 研究に没頭して身体を壊しては皆が困るだろう」


 そう朔が言い返せば牧瀬は図星だったのか困ったように笑った。


「はは、そうだね。でもそう悪くはないさ。ああ、カップが空だね。お茶のおかわり、いるかい?」


 朔のカップを見て気付いた牧瀬がそう尋ねる。先程一気に飲み干してしまったのでカップは空になっていたのだが、本当によく人の事を見ているなと感心せざるを得ない。

 好意を無下にするのも気が引けた朔は、折角だからもらおう、と空のカップを差し出す。立ち上がった牧瀬はそれを受け取ると茶葉が入った所まで行くが、


「……んー、茶葉が無いな。違う部屋にあるか見てくるから、ゆっくりくつろいでいてくれ」


 在庫切れだったらしく言うなり部屋から出て行ってしまった。そこまでして貰うつもりは無かったので呼び止めれば良かったと後悔しつつ、朔は思案に耽った。

 ――ナギの言った裏切り者、ユダとは誰か?

 おそらく朔の知る者の中に免疫者狩り部隊を率いる者がいるのだろう。考えたくはなかった。けれどナギが朔達をあの場に来る事を知っていたという事は、明らかに情報が筒抜けになっていたという事だ。だからこそ免疫者狩りの「お手伝い」的な役割を担うナギの所在地さえも、なかなか特定できなかったのだろう。

 試しに朔は今まで出会ってきた人物??特に免疫者狩りを朔達が追ってる事を知っているくらいに近しい者を、脳裏に列挙していってみた。

 例えば情報提供者の夢売り。しかし偏愛狂死病患者で猫を愛する彼に、免疫者といった他のものに興味が沸くとは思えなかった。

 次に由楽木。セツを撃ったという事もあって最初こそ性格的に問題があるし、自称偏愛狂死病患者であるので疑いそうになったが――違うと思った。由楽木は性格こそ捻くれているが、悪人ではない。それに絶対に自分の味方だ。そう朔は信じたかった。

 では、セツはどうだろうか? しかし朔は思い浮かべて即打ち消した。何故なら彼は免疫者狩りの元被害者なのである。免疫者狩りに遭っていたところを偶然朔が助けたのだ。仮にスパイだとしても、それならもっと早く自分を処分しようとした筈だ。

 廃墟の女王でありナギ総督の妹でもあるナグモも有り得ないだろう。雨宮咲羅を倒す為と言って免疫者を保護しているものの、実際ナグモ自身の目的はナギの殺害だ。ナギの悪行を止める為というのもあるが、朝日を殺された仇討ちが大きい。だから対ナギ戦での戦力も兼ねて、病に冒されぬ免疫者たちを集めているのだ。わざわざ狩るとは思えない。

 それでは他に第七地区にいる自分と関わりがある者――例えば保護をしたニイやサン、アイ、シキはどうだろうか。朔は面々を思い出して、そんな場所まで疑わねばならない自分を恥じる。由楽木に刃を向けられ、セツが倒れ、余裕が無いのだろう。しかしこんなふうに疑ったところで名探偵でもあるまいし、今更分かる筈もない。骨折り損の草臥れ儲けに過ぎないのだ。

 俯いていた顔を上げる。考え過ぎた所為か、頭がぼうっとしていた。何となく朔はホワイトボードに書き出されたままになっていた偏愛狂死病患者の特徴を眺めてみた。



 【  ①良心、罪悪感の欠如(反社会的行動)

    ②慢性的に平然と嘘を吐く(虚言癖)

    ③異常なまでの独占欲(支配欲)

    ④破壊的・性的逸脱行動等の快楽活動に熱中する(快楽主義)

    ⑤睡眠欲求の減少、食欲増加又は低下(活発化)

    ⑥被害妄想、誇大妄想、恋愛妄想など(妄想)

    ⑦一部記憶の忘失、時間感覚の失調(記憶や感覚障害)     】



 ――「何か」が朔の中で引っかかっていた。


 その正体が一向に掴めずに居たが、ホワイトボードを見てからその違和感のような疑念は更に深まって行くような気がした。

 試しに朔は以前牧瀬が説明してくれていたクラスターについて思い返す。

 クラスターA《妄想型》、クラスターB《非行型》、クラスターC《緩解型》の三つがあったが、例えばシキを恋人だと思い込み、奪われると思って殺人に走ったカナエはクラスターAなのだろう。そしてその残虐性が増した形がサーカスのナギ総督で、彼女は間違い無くクラスターBだ。夢売りは思考内容に関する精神障害からいってクラスターAに分類されるのかもしれない。

 では――クラスターC《緩解型》に当て嵌まる者は誰だろう。朔は考えてみる。


『これは重度患者しか当て嵌まらないんだけど、健常者と見分けるのがとても難しい。異常思想や行動を巧妙に隠し、他人に気付かれないよう自らの欲求なり目的なりを遂行させようとする――実に知的なタイプだ』


 牧瀬の言葉を思い返すも、病であることを巧妙に隠す偏愛狂死病患者など、最早誰を疑って良いのか誰を信じて良いのか分かったものじゃないと朔は思う。牧瀬のように多くの症例を見て来たり、千草のように人の機微を細やかに感じ取れる者ならば話は別かもしれない。

 ――いや。それでも見分ける方法はあるじゃないか。

 朔は記憶を掘り返し、思考する。偏愛狂死病患者とそうでない者を見分ける方法。朔は思い返す。今まで出会ってきた偏愛狂死病患者らの姿を、漏らす所無く明瞭に脳裏に浮かべようとする。そして、気付いた。

 ――そう、そうだ。

 脳裏に鮮明に残っているのはあの笑顔だ。

 自分にはできぬあの笑顔。

 彼等は皆一様に、『幸せそうに笑いながら』偏愛狂死対象への愛を語るのだ。

 そして皆、過剰なまでに対象物に夢中になる。朔の周囲でそれに当て嵌まる人物はいないか。今一度探してみる。その思考の末に、


「――そんな」


 思わず朔の口からそんな声が漏れた。

 まさか、そんな。

 朔はホワイトボードを凝視しながら、己の頭に浮上した人物に震駭した。ふらふらと立ち上がると、動揺からか座っていた椅子が倒れ、派手な音を立てる。その音さえ朔の耳には何処か遠くのもののように聞こえていた。

 夢売りという《前例》がいるのに完全に盲点だった。

 いや、敢えて《対象》についての研究成果を口にしていないのだとしたら? 

 全身を冷水が駆け巡ったように強張り、自分でも大げさと思えるほどに震え出す。何故か呼吸も苦しい。しかし朔は思考を続けなければならない。

 そう――偏愛狂死病の愛の対象は人間だけとは限らない。夢売りのように猫を偏愛狂死対象とする可能性だってある。




 ならば――『偏愛狂死病』というものを、盲目的に愛する事もあり得る。




「クビキリ」


 呼びかけられ、朔は弾かれたように振り返り咄嗟に間合いを取るが――ぐらり、と視界が歪んだ。朔は背後にあった本棚に凭れ、頭を片手で抑える。意識が散漫になり、立っていられないほどの強い目眩に朔はずるずると脱力するように棚に凭れかけたまま座り込んでしまった。立ち上がろうとしても足に力が全く入らない。気付けば指先までの感覚も失われていた。

 ぐらぐらと揺れる視界と意識の中で、耳障りな程に頭に響く靴音に、朔は顔を上げる。

 視線の先には柔和な微笑を浮かべる牧瀬医院の院長、牧瀬唯爾の姿があった。いつものように少しくたびれた白衣を纏い、眼鏡の奧で理知的な瞳は優しく細められている。

 それなのに、今はその医者の手には似合わない拳銃を手にしていた。


「牧、瀬。まさか、おまえ……が、」


 荒い息と共に途切れ途切れの言葉が出る。朔はきつく目の前にいる男を睨みつけた。唇を嚼み意識を手放すまいと耐えようとしながら。

 ゆっくりと拍手をしながら牧瀬は朔の傍らへとしゃがみこむ。


「そうだよ、クビキリ。大正解だ。とは言っても、僕自信も自分が偏愛狂死病患者だと気付いたのはここ最近の事だから気に病む必要は無いよ」


 幸せそうに牧瀬は笑っている。そう、幸せそうに。

 もっと早く気付くべきだった。思えばこの男が病気の話をする時はこの上なく幸せそうに微笑んでいたし、あまりにも活動的で、熱心過ぎるのだ。ただ牧瀬の院長らしい温和な人柄で狂気を覆い隠していただけだった。

 つまり――この男がクラスターC《緩解型》だったのだ。病を愛し、よく知っていたが為に、彼は自らを偽装し続けた。素顔は友の為に研究に勤しむ善良な医師ではなく、病に恋をした医師であり、また同時に自身も病の深みへと落ちた患者だったのである。

 そうだ。朔は思い返す。おかしな点は他にもあった。この男は夢売りの幼馴染みと言うのに、一度も彼の本名を呼ばず、何故か夢売りなどと呼んでいる。本当に大事な友人ならば、狂気の中で夢売りが自称したという呼び名ではなく、本当の名前で呼ぶべきなのだ。

 おそらく彼は幼馴染みの本当の名を忘れる程に、この偏愛狂死病というものを愛したのだ。

 朔の導いた結論を裏付けるように牧瀬は滔々と語り始める。


「僕はね、クビキリ。この病の虜なんだ。偏愛狂死病に罹らぬ者と罹らない者。遺伝子が原因なのか、それとも魔術の耐性というものがあるのか。この病は未知で溢れているのだよ。最初は偏愛狂死病患者を片っ端から調べてみたけれど、やっぱり免疫者も調べないとと思ってね」


 大変だったんだよ、と牧瀬は己の苦労話を続ける。


「ナグモの動向を伺いながら、表面上は善き医師として職務に務め、裏では免疫者狩りの首謀者として指示していかなきゃならなかったからね。ナギ総督と手を組み、更にクビキリ、君という情報を漏洩してくれる存在がいたからこそできた事だと思う。本当にありがとう。そして僕はもう一つ、君に礼を言わねばならない」


 見に覚えの無い感謝の言葉に朔は反吐が出たが、脱力して弛緩しきった身体では手も足もでなかった。せめて視線だけでもと睨むが牧瀬はそんな朔を聞き分けが無い子供を相手にするように、優しい手つきで頭を撫で、髪を梳く。


「君は以前言っていたよね? 再生能力や優れた身体能力は魔術に依拠したものだ、と。それはつまり魔術師の血脈である雨宮家に関係する事で、かつそのような超高位魔術を扱えるのはかの雨宮朔しかいない。そしてやたら君は雨宮咲羅に固執していたからね。僕はこう考えている。君の中に雨宮朔が造り出し雨宮咲羅が持つ《命樹の種子》と同じようなものがあるんじゃないか、と。何故かは分からない。けれど本当にあるとしたら、嗚呼ッもう――最ッ高だ!」


 牧瀬は歓喜の声を上げ、更にまくしたてる。


「君が僕を信用してつい魔術に関連するものだと言ってくれたお陰で、僕はあの愛しい病の根源へと触れられるかもしれないんだ! その麗しき身体の中にあの偏愛狂死病の原因である《種子》と似たものがあるかもしれない! それだけで興奮のあまり絶頂に達してしまいそうだよ!」


 そのおぞましさとは裏腹に優しい顔つきや手つきに朔は怖気が立つ。そしてふと気付く。


「千、草は? どう……した」


 出かけたと牧瀬は言っていた。もしかしてと千草の身を案じる朔に、クビキリは馬鹿だねえ、と牧瀬はひどくおかしそうに笑い声を上げた。


「僕に殺されたと思ったかい? でもさっき言ったよね? 彼女は『本当に僕の言う事を何でも聞いてくれる』って」


 まさか彼女も、そう声を上げようとするも口から漏れるのは息だけで、口だけを動かす形で朔は目の前の男を見る。すると予想通り、牧瀬は笑みを濃くして頷いた。


「そうだよクビキリ。彼女も偏愛狂死病患者だ。僕を唯一愛し、絶対服従する優秀な助手だ。ただクラスターBだから《服従》のシステムを使っても調教には少々手こずったよ。でも彼女は率先して免疫者狩り部隊の実行役として、生き生きと働いてくれていた」


 僕の為なら何でもするんだ、と牧瀬は自慢げに言う。子供がよくできた玩具を自慢するような口ぶりで。

 ――巫山戯るな。

 朔は声を上げたかった。しかし怒声は最早朔の喉から出る事は無かった。

 遠のく意識。視界に映る牧瀬はおやすみなさいと朔の頬を撫でる。そのあまりに嬉しそうな声にも、幸せそうな顔にも、温かい手も――全てがいつもと同じ牧瀬の姿であるのに、その狂気があまりにも残酷で、憎くて悲しくて、朔は意識が無くなるまで彼を睨み続けた。



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