クリスマス -2-
壁面に鏡が貼られた室内には、『My Favorite Things』の軽快なメロディが流れている。ここは校舎内にあるダンスホールだ。東條と明彦の他にも四組ほどが自己練習に励んでいた。
東條と明彦はお互いの手を握り、腰と肩に残りの手を回して、曲に合わせてステップを踏む。朝から練習を始め、途中でランチと休憩を入れながら、午後まで踊り通しだった。
明彦がリーダーを、東條が雅の代役としてフォロワーを務めての練習だ。
「足元は見ず、視線は前へ。胸を張りましょう」
ステップを踏みながら、小声で東條がアドバイスをする。その声に反応して、明彦は素直に体を動かす。
バトラーは二年の間に授業で社交ダンスを習う。リーダー、フォロワーの両ポジションが踊れるようにならねば三年に進級することができないため、現三年のバトラーは漏れなく全員、型通りの社交ダンスはできるのだ。
もちろんマスターにも体育の授業で社交ダンスは教えられるのだが、個別練習が足りないので、もっぱら自由時間にマスターのダンス指導をしているのはバトラーたちだ。
「明彦様、自信です、自信を持ってくださ……下を向かない」
ピシャリと強めの口調で言われ、何度注意されても足元を見てしまう明彦はハッとして顔を上げる。
そうしてしばらく踊り続け、曲が終わると、最後にくるりと東條がターンをして、同時に通しでの練習も終わる。
「お疲れ様でした、今日のステップは完璧でございました。たびたび申し上げておりますが、あとは自信をお持ちになるだけです。多少間違えたって自信を持って踊り続けていれば、誰にも気づかれませんから」
東條はそう声をかけながら、水分補給用のボトルを明彦に渡し、その首筋に流れる汗をそっとタオルで拭う。ダンスが終わってからの一連の流れはごく自然なもので、明彦は違和感を感じる間も無く、されるままに任せてスポーツドリンクを飲んでいた。
「ありがとう、東條。これだけ練習すれば、なんとなくできるような気がしてきた」
「はい、もちろんでございます。美しいクリスマスパーティの会場で、明彦様のダンス姿を拝見するのを楽しみにしておりますね」
目を細め、朗らかに東條が返事をする様子を見て、明彦はわずかに眉を寄せる。
「こんなにダンスが上手いのに、どうしてバトラーが踊る時間は作らないんだろう。東條も、発表する場があった方がうれしいよね?」
予想外の言葉に、東條は目を瞬いた。クリスマスパーティで社交ダンスをするのはマスターのみだ。東條はそこに疑問を抱いたことすらなかった。
クリスマスパーティとは、学校主催のお楽しみのイベントであると同時に、今後マスターが貴族として実際に出席する数々のイベントの予行演習である。バトラーもまた貴族に随行する執事として、そういった場で主人のフォローをしたり、挨拶に来た人々の名を囁いたりと、貴族の社交界におけるサポートをする術を学ぶ必要がある。
「どうかそのようなことをお気になさらないでください。わたくしたちにとっては、マスターの皆様が輝いていらっしゃる姿を拝見することが。そして、皆様が楽しんでくださることが、何よりの喜びなのですから」
東條はその一言一言を本心から言っているが、明彦の顔には納得できない気持ちが表れている。東條はそんな明彦の顔を見てくすりと笑った。
「さて、そろそろお時間ですので、支度に戻りましょう」
それから東條は、明彦が自室のバスルームに入っている間に自分もバトラー用のシャワールームで汗を流した。明彦が風呂から上がる前に大慌てで、そのままクリスマスパーティに出られるよう身支度を済ませる。
普段から執事科が着ている制服は、モーニングコートをベースにデザインされ直した大変シックなものだ。だが今日袖を通すのは制服ではなく、正真正銘、ブラスボタンの燕尾服だ。本来燕尾服には白のウェストコートを合わせるべきところだが、グレーのウェストコートを着用する。
今日はマスターも同じく燕尾服を着るので、あくまで彼らを引き立てるため、そして身分を示すための気遣いである。
東條は超特急で自身の支度を済ませると、明彦の部屋へと戻って、風呂上がりの明彦を涼しい顔をして迎えた。
明彦の髪に櫛を入れながら乾かし、オールバックにする。ウィングカラーのシャツを着せ、シルクの黒の靴下にスラックスを履かせる。カラーステイをいれ、白のウェストコート、ミッドナイトブルーの燕尾服のジャケットを着せる。白の蝶ネクタイを締め、最後に胸にさすのは、明彦の好きな若草色のポケットチーフだ。燕尾服の様式は全員ほとんど差異がないが、このポケットチーフの色で個性を出していくのである。
そうして明彦をどこに出しても恥ずかしくない紳士に仕上げると、東條の口からは自然と感嘆の息が漏れた。
「実にご立派です、明彦様」
「ただ東條に用意してもらった服を、着せてもらっただけなんだけど」
東條から褒められると、明彦は照れるように笑って応える。
明彦は一際背が高いのだが、普段から偉ぶったところがなく、常に腰が低いので威圧感がない。しかしかっちりとした礼服は、堂々とした体軀を引き立てる。
今日の彼には、普段のアルバートのような、ただ立っているだけでも目を引く存在感が生まれていた。
東條に促されて姿見を見せられ、明彦は自身でも己の姿を確認する。そして、身にまとった燕尾服のジャケットを軽く撫でた。
「俺がこんな立派な服を着るのは、これが最後になるかもしれないな」
「いったい、どうしてですか?」
不意に漏れたような明彦の言葉に、東條は首を傾げる。
「鷹鷲高校に入るまでの俺の人生には無縁なものだったからさ。きっと、卒業したらもう着ることもないよ。俺の両親だって、貴族のパーティに呼ばれてる様子もないし」
「宗一郎様と明彦様のご交友は、卒業なさっても続くのではありませんか?」
宗一郎は貴族の中の貴族だ。彼は常日頃から数多くのパーティや式典に出席する。さらに、宗一郎や常陸院家が主催するイベントも数多い。宗一郎との関係が続けば、明彦の家柄に関わらず、そこに貴族的な関わり方は発生してくる。
明彦は一瞬息を詰め「うん」と頷きながら言葉を濁した。
「宗一郎のことはもちろん好きだし、大切な友達だとは思ってるけど。正直、宗一郎に俺が不釣り合いなこともわかってるよ。今はこの学校の中にいるから、なんの垣根もなく友達でいられているけど、卒業したらどうなるかはわからない。普通の交友関係だって、環境が変われば変わっていくものだしね」
明彦の言葉に東條は思うところはあれども、口を出すのをやめた。そこは、執事の立ち入るべきところではないと判断したのだ。
だが、明彦は東條からの言葉を欲した。
「ねえ、東條はさ、貴族ってなんだと思う?」
「それは難しい質問ですね。どうしてそのようなことを?」
「昔から自分が貴族なんて実感なかったけど、鷹鷲祭であんなことがあってから、いっそう思うんだ。貴族ってなんなんだろうって」
続けられた問いかけに、東條は少しだけ返答に迷った。
しばし考えた後、再度口を開く。
「形式的なものでしたら、政府によって貴族と認定され、称号を受けた家とそこから始まる血統が貴族ということになります。その認定理由は、家が持つ資産か歴史です。しかし……もしわたくしの私見を述べることをお許しいただけるのでしたら。貴族とは、平民を守り、お導きくださる方々のことをお呼びするものだと思っています」
鏡の方を向いている明彦の両肩に、東條は後ろから手を添える。
「明彦様はいつもわたくしたちのことを己がことのように慮ってくださいます。そして、明彦様はお家の事業のことも真摯に考えていらっしゃる。事業が安定していれば、そこで働く、平民である従業員は守られ、迷いなく日々を過ごすことができます。明彦様は間違いなく、ご立派な貴族でございましょう」
明彦は目を見開き、そして微笑む。そっと、肩に乗る東條の手袋に包まれた手に、手を重ね返した。
「ありがとう、東條」
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