六月の章

着付け -1-

 朝、軽快なノックの音で目が醒める。

 宗一郎はベッドの上でゆっくりと上体を起こすと、扉を叩いた者に対し「入れ」と入室の許可を出しながらあくびを漏らした。

 「失礼いたします!」とやたらと元気な声を出し、扉を開けて入ってきたのは小柄なバトラーだった。もちろん、バトラーが入室してくるのは宗一郎も理解していたことだ。三年になってからというもの、担当は変わるが、毎日バトラーに起こされるということ自体に変化はない。

 そのバトラーの髪型はショートカットなのだがどこか野暮ったい黒髪に、大きな瞳を隠すような分厚い眼鏡をしている。童顔寄りで可愛らしいが、凡庸な印象の顔立ちだ。

 宗一郎は微塵も憶えていないが、彼は先日の生徒総会で舞台上に立って挨拶していた生徒会執行部の一人である。

「おはようございます。本日宗一郎様の担当をさせていただきます、山下早苗です。どうぞよろしくお願いいたします!」

 気合十分といった様子の山下の声量に、宗一郎は軽く笑う。

「おはよう、よろしくな。俺はそんなに朝得意じゃないから、もう少しローテンションで頼む」

「し、失礼いたしました! あ……」

 更なる声量で謝罪の言葉を口にして、山下はハッとする。宗一郎は続けて笑うと、構わないからと示すように山下を手招いた。

 山下はあたふたしながら、手にしていたトレーをベッドサイドに置き、ティーポットから紅茶を注いで、カップを差し出してくる。

「ありがとう」

 宗一郎はカップを受け取り、口をつけながら、山下の様子を観察し始めた。

 バトラーは皆、基本的には個性を殺すように振る舞う。さらに同じ教育を叩き込まれているがゆえに、基本的にさまざまなことを行う手順も皆同じだ。しかしこうして日替わりで別の者に同じサービスを受けていると、同じだからこそ差異が見えてくる。宗一郎は、そこに面白さを感じていた。

 今までのところ、山下は今まで宗一郎が見てきた中でも、かなり要領が悪い部類のバトラーだった。だが山下の淹れてくれた紅茶はまろやかで美味しい。

「本日は終日紫陽花祭ですので、この後お着物の着付けをさせていただきます。えっと……宗一郎様は、明彦様とお祭りに参加される、とのことで認識違いはありませんか?」

 山下が手帳を見ながら確認してくる言葉に、宗一郎は頷く。

 紫陽花祭というのは読んで字の如く、校内に咲く紫陽花を愛でる祭りだ。男子寮の裏手には薔薇の迷宮が広がっているが、女子寮の裏手には日本庭園が広がっている。

 竹林に加え、池や太鼓橋などを有する本格的な庭園だが、そこで見頃を迎える紫陽花を愛で、俳句を詠み、お茶や雅楽に加え、一般的な屋台を楽しむ和風な祭りを行うのだ。女子部の紫陽花祭はすでに昨日行われたので、今日は男子部だけの祭りになる。

 必ず俳句を一句は詠んで掲示しなければならない以外は純粋に楽しむためのもので、マスターはほとんどが楽しみにしているイベントである。一、二年のバトラーは参加を許されていないため、バトラーにとってはマスターに同行する三年が初参加になる。

 宗一郎は紅茶を飲み干すとベッドから起き上がり、バスルームへと向かった。用を済ませると髭を剃って顔を洗い、渋い金の縁に囲まれた鏡を見ながら、軽く髪をセットする。

 そうして身支度を進めながら、いつものように部屋の方へと声をかけた。

「皆の様子を見ていれば分かると思うが、山下も俺には敬語を使わなくていいからな。堅苦しいの嫌いなんだ」

「あ、はい。宗一郎様のお噂はかねがね伺っております」

 扉越しに、山下の少々弱々しい声が聞こえてくる。

「しかし……その実は、ぼくはマスターの方々だけでなく、誰に対してもいつでもこの話し方なので。ぼくの癖のようなものだと思っていただくことは、できませんでしょうか」

 続けられたその返事に、宗一郎は初めて山下に興味を惹かれた。大理石の洗面台に乗せられていたタオルで軽く手を拭うと、バスルームから出ていく。

「へぇ。誰に対しても? 家でもそうなのか」

「はい、ぼくの父は三上家の執事を務めております。生まれた時から貴族の方にお仕えできる環境でして、物心ついたころから親に対してもずっとこの喋り方……です、ね」

 本日宗一郎が着ていく濃紺の着物を手に持ち、山下は間を埋めるようにハハ、と笑った。

「三上ってなんか聞き覚えあるな」

 宗一郎は呟きながら、自然と山下の前に立った。もちろん、着物を着せてもらうためだ。宗一郎は人に傅かれることに慣れている。そこには何の気負いもない。

「失礼します」

 一方、山下の方はやや緊張した面持ちで、総一郎のパジャマに手をかけた。粗相がないようにと細心の注意を払いながら、服を脱がせていく。

「修斗様が同学年におられますから、それで、でしょうか」

 山下の問いかけに、宗一郎は「あー」とひどく曖昧な声を漏らした。

 三上修斗。たしかにそれで宗一郎の印象に残った貴族の家だ。四月に行われた春のお茶会で、女子部のバトラーに手を出していた、という最悪の印象だが。

 宗一郎は山下に服を脱がされるままに任せ、足袋を履き、長襦袢を羽織る。

「親が執事なら、そのまま山下も三上家の執事になる予定なのか? この学校に来るってことは、執事になるのは嫌じゃないんだろう。修斗が同学年にいるなら話も早い」

 その宗一郎からの問いかけに、山下の手が一瞬止まった。

「いえ、その……父はまだまだ健在ですし」

「って言ったって、お前の父は修斗の父の執事だろう。修斗にも執事は必要だ」

 この現代日本に復活した貴族制度における執事は、イギリスなどに古くから存在する伝統的な執事とは感覚が違う。もちろん必要に応じて家や家族のこともまとめて面倒見るのだが、執事は家に仕えるのではなく、主人一人だけに仕えるものなのだ。

 ある程度の格を持った貴族の場合、夫婦がそれぞれ仕事を持っているなら、夫婦それぞれに執事がついているのが一般的である。

「執事としてぼくを選ぶかどうかは、修斗様のご判断による所ですから、ぼくからは何とも」

 山下の物言いは歯切れが悪い。その様子を目にして、宗一郎は何となく事情を察した。極力表に出さないようにはしているが、山下は修斗のことを嫌っているのだ、と。

 鷹鷲高校の制度上、執事として誰を選ぶかはもちろんマスターに一任される。だが山下自身、修斗に選んで欲しいと思っている気配がなかった。

 宗一郎は話題を変えることにした。

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