第2話 これってやっぱり……

 ――これってやっぱり、ネズミよね?


 手でペタペタと触ってみるが、伝わる感触は小動物を撫でているかのようなものだ。

 アリスはため息をつくと、あらためて回りを見る。ブラウス、ベスト、スカート――アリス自身が身につけていた服が辺りに散らばっていて、さながら海のようだ。


 ――と、とにかく、いつまでもおろおろしている場合じゃないわ。


 そう自分を励ますも、不安で仕方がない。アリスは自力で呪いを解く方法を知らなかったのだ。自分の不勉強を呪ってやりたい心持ちである。


 ――まずは、この状況を誰かに知らせよう。あたし一人ではどうにもならないもの。


 アリス自身を知らせるものは辺りに散乱している。ならばあまりここから離れない方が得策――そう判断したところで、アリスは辺りが暗くなったことに気づいた。視線をゆっくり上げていく。


「うっ!?」


 そこにいたのは巨大な――と言っても、今のアリスから見た時の印象だが――野良犬が彼女をじっと見下ろしていた。

 恐怖でアリスの身体が震える。


「お……美味しくないよ?」


 獲物を狙う目であることは直感的にわかった。出していた舌を引っ込めると、野良犬は鼻先をアリスに向けてくんくんさせる。

 がたがた震えながらも、アリスは短い前足で自分の頭を守る。野良犬はパクリとはせずに、離れていった。

 ほっとして、アリスはそむけていた顔を上げて野良犬を見る。野良犬が次に向かって行ったのは彼女の荷物だった。


「そこに食べ物はありませんよー?」


 犬が興味を示しそうな持ち物はなかったはずだと思い出しながら、アリスは恐々と話しかける。いろいろ荒らされたくはない。すぐにでも止めさせたかった。


「あの――」


 何度も呼びかけたからだろう。野良犬は邪魔するなと言いたげに鋭い目つきでアリスをにらむと、彼女の荷物が入った鞄の取っ手をくわえ――そのまま走り出した。


「ちょっ……待って! 待ちなさいってば! それはあたしのっ!」


 荷物にはほとんど金目のものはない。魔法に必要な道具も、勉強に必要な書物も彼女は持っていないからだ。だが、アリスが魔法知識をこつこつとまとめてきた雑記帳を失うのは手痛い。

 小さい身体でアリスは懸命に追いかけた。しかし、何倍も違う体格の差もあってすぐに離されてしまう。


「うそ……最悪……」


 ぜいぜいと息を切らし、アリスは野良犬を見失ったところで立ち止まった。夢中で駆けたために、先ほどの場所が遠くなっている。人間の大きさならたいした距離ではないのだろうが、今のアリスからすればかなりのものだった。


「も……戻ろう」


 このままでは人間に戻る機会を失ってしまう。アリスは危険を感じ、来た道を遡ることにしたのだった。

 周囲に注意を払いながら、アリスは自分の荷物が転がっている場所を目指す。しかしその道は一筋縄とはいかなかった。

 ネズミはたいていの人間から害獣扱いを受けている。病を運ぶ悪しき動物と思われているのだ。なので、市街地で見かけたとなれば駆除の対象になる。大人に見つかれば箒で叩き潰されそうになり、幼児に見つかれば面白い玩具を得たとばかりに追いかけ回された。その都度アリスは物陰に隠れたり、人が入れそうにない細い隙間に逃げた。彼らはアリスの都合など知らないのだから仕方がない。

 障害になるのは人間だけではなかった。通りを走る馬車が水を跳ねてはそれを浴び、苦手な虫に遭遇したなら回避を忘れない。こんなに厄介だとは思いもしなかった。


「なんなのよ、もう……」


 景色が赤く染まりだす。陽が暮れはじめている証拠だ。かん高く鳥が鳴き、人々がざわざわと動き出す。夜を迎える準備がはじまったようだ。

 アリスは立ち止まると、塀や壁に囲まれて小さく区切られた空を見上げた。夕陽に照らされて、真っ白なはずの雲も暖かな色に染まっている。


 ――遅刻どころの騒ぎじゃなくなってるし……。


 あちこち走り回ったために、ただでさえ遠くなった道程が倍以上になっている。ネズミの視界というのは、まるで異世界に迷い込んだような感覚だ。そんな場所を一日中動き回ったせいでヘトヘトである。


 ――疲れた……。


 体力を消耗し疲弊しているそんなアリスに、一つの影が静かに忍び寄る。気配を察すると、残る体力を振り絞ってアリスは機敏に前方へと駆けた。


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