第四節 アガナの神様
第四節 アガナの神様
族長の洞窟でガルムマツと別れ、北台東に連れられて彼の自室へと戻る道中で……ぴたりとロリが歩みを止めた。
彼女は居住区が見下ろせる山肌の通路で、ジッと立ち止まったのだ。
「どうしたの、ロリ?」
ラジオス・サロマとの会談が後ろ向きな空気で終わったせいか、エレオノールの気持ちも沈みがちだった。
「綺麗だよね、雪の集落って」
ぽつりと述べたロリに、エレオノールは「えっ?」と眉を寄せる。
彼女に倣って視線を居住区に落とす。
雪をかぶった伝統的なミルタースクル族の街並みである。木造の住宅も点在しているのだが、多くが山の傾斜を利用した山岳住宅である。
「ここに、神様がいるのかなって思うの。すっごく綺麗で、雪がなにもかもを吸い込んで、悪いものを浄化してくれる。教科書に書いてあった美しい神様の国って、いまわたしが見ている景色なんじゃないかって思ったの」
ロリの感想にエレオノールは反論しようとしたが……しなかった。
彼女の指摘通り、ミルタースクル族とアガナの雪が織り成す景色は『美しかった』からだ。
沈黙するエレオノールに「怒った?」とロリがいたずらっぽく聞いた。
「怒ってない。ロリの言う通りだと思ったから」
「ふふふっ……。エレオノール、ちょっと変わったね」
「聖バルトを否定されても怒らなかったから?」
「優しい、お姉さんの顔になってくれたから」
なによ、それ。
エレオノールはちょっとロリを小突いてから、こちらを見守っていた北台東に向き直る。
「アガナの土着神ってどういうものなの? 聖バルトのように唯一神ではないと聞いたけど……?」
北台東は「そうなんだ」と頷いてから「聖バルト系の修道騎士様が理解できるかな」と懸念を含んで。
「八百万の神という考え方なんだ。神様というよりは、精霊さまだ」
「やお……なんですって?」
「八百万さ。すべてのものに精霊や神様が宿っているという考え方さ」
ひょいと北台東は足元に転がっていた石を拾い上げて。
「この石にも、キミが着ている服にも、靴にも、あの空にも、舞ってくる雪にも、すべてに神様や精霊様が宿っているという考え方さ。もちろん、僕らにも守護神のような神様が宿っている。だから、いろいろなものを大切にしようという考え方になるんだ」
「これにも、こっちのこれにも、あれにも神様が……? 神様だらけね」
「もともとアガナ人の祖先は山岳信仰の宗教観だったと言われている。山に神様が宿るという考え方だ」
うむぅーとエレオノールは頭を抱えたくなった。
なんとも難しい。そんな神様に対する考え方があるのか……と。
けれども、エレオノールはナスマ族の街『ナスマルクハーゲン』で見た光景よりは、まったくマシだと思った。あの街では、聖バルトを認めよ、という神父たちが夜な夜な練り歩いていた。
木札を割り、箱型の祭壇を蹴り壊し、聖バルトが唯一無二の正しいものだと教えて周っていた。それをナスマの人々は受け入れざるを得ない空気だった。
「すっごくいいじゃん。なにもかもに神様がいるって!」
ロリがそう言ったとき、雲の合間から朱色の夕暮れの日差しが差し込んできた。
思わず北台東が「おおっ! 珍しい」と目を瞠った。
ミルタースクル族の居住地を照らしたわずかな夕日は、雪をかぶった家々の白さを信じがたいほどの穏やかさで朱に染めた。それはアーニスホルムでも見たことが無い――これまでのエレオノールの人生のなかで見たことが無いような、輝きと色彩と温かさを持った日差しと雪の調和だった。そこに身分をわきまえた人間の生活が、ちょこんと神の赦しを得て共存しているような世界だった。
風は穏やかで雪は輝きを持って舞っていた。
細氷は人々の生活の間を駆け抜け、煮炊きする煙のなかへと溶けていく。凍りかかった河は清流の潔白さを空に主張しながら、赦しを神々に求めていた。
「うわあっ……」
その景色はロリの感嘆を誘い、エレオノールの頬に一筋の涙が流れた。
教科書で教えられた聖バルトが統治する神々の国は……たしかに存在したのかもしれない。それは空の上ではなく、この大地のうえにあった。また、そこに聖バルトは存在しなかった。聖バルトという名の神は、きっといないのだろうとエレオノールは思った。
なぜなら、神が創りたもうたこの美しい地上の景色に『聖バルト』という存在はあまりに不似合いだと思われたからだ。
「神様の気配を感じる」
ロリはそう言って「ねえ、感じない?」と聞いてきた。
エレオノールは「わからない」と答えるのが精いっぱいで、うまく胸の内を言葉にまとめることが出来なかった。
北台東も夕暮れを眺めながら、言った。
「もともとアガナは緑豊かな大地だったんだ。花も動物も、いまよりももっと多くて、温かい土地だった。裸で歩いていても汗をかく季節があったっていうんだから、信じられないよ」
「どうして雪の世界なったの?」
ロリの質問に台東は小さく頷いてから。
「伝説によれば、アガナの神様が変えてしまったんだ。オムニサイドランスの伝説に出てくる神様だ。それが本当かどうかを僕は知りたい」
北台東の決意にエレオノールもロリも反対する理由がなかった。
わたしも知りたい。
ふたりはそう言った。
言いながら、ウルリーカが率いるナスマ族がここへやってきたら、この美しい景色も失われてしまうのだろうと思った。
彼らは山を切り崩し、アスコット様式の住宅を建て、宗教を強制する。
分厚い雲が夕日を遮り、世界は再び雪の暗雲に包まれる。
「ウルリーカの侵略を阻止しないと」
また、悲劇は繰り返されてしまう。
この神様の匂いを感じられる美しい世界が、失われてしまう。
エレオノールは強く、そう感じた。
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