其の三.本当にやばいやつ、来た

「いやーおいしかったねえ、ナポリタン」

「あるのか……」 


 財布を取り出しながら、なんていい加減なと伝票の「ナポ ¥1150」の書き殴られた文字を見る。

 どう見ても適当に作った代物だったが、微妙に高い。

 背後でピロリロピロ〜ンと、開閉の度に鳴る自動ドアの電子音が聞こえた。

 ちらりと目だけを向ければ私が会計を済ませるのを待たず、十和が開いた自動ドアから外へ飛び出しているのが見えた。

 いつものことである。

 左右の腕を真横に伸ばし、黒いローファーの両足を揃えて地面に着地し「10点!」と呟いているのに苦笑を漏らし、やる気のないバイト青年からレシートを受け取った。

 足早に十和のところまで進む。

 頭ひとつ分背の低い背後にすぐ追いついた私に気がついて、彼女は振り返った。

 制服の六枚襞のスカートが翻って、華奢な膝の少し上で裾が揺れる。

 

「ごちそうさまですっ」

「どういたしまして」


 こういったところは、普通に可愛らしい。

 私は一人っ子なので、妹がいたらこんなものだろうかと思う。


「まあ、気をつけて無事に暮らしてください」

「うん。もちろん」


 車のキーをリモコンで解錠しながら言えば、私より一足早く私の車に辿り着いてボンネットに頬杖つきにこにこと体を揺らして十和は返事をする。

 まったく能天気というか、いつもこの調子だ。

 人を困惑させる話ばかり聞かせてくる割に、悩みもなさそうでいる。

 高校二年の秋なんて、そろそろ進路なども考える頃だと思うのだが。

 水曜の二十時というのは、彼女が通う進学塾が終わる時間だ。

 進学塾は、このファミレス店に隣接する雑居ビルの中にある。

 おそらくビル、あるいはこのあたりの土地の持ち主はファミレス店主に違いない。

 壁面のレンガが店舗とビルで共通していて、店の広さに対する客の少なさをまったく気にもしていないやる気のない営業姿勢。税金対策か道楽で経営しているとしか思えない。

 

「危ないですよ」


 車のドアを開けて乗り込みながら、まだボンネットに寄りかかっている十和に注意すれば、はあいといって彼女はくるりと白い制服の背を見せて、帰る方向へと跳ねるように歩いていく。

 家は、すぐ近くにある公園の向こう側。

 見通しの良い公園で、街灯もそれなりにあり、本人もいいよというので送ったことはない。

 ほんのしばらく、食後の一服の煙草を吸い終わる間、半ドアでいるだけだ。

 そのうちに帰宅できる、それくらいの距離だが……煙草をややひしゃげた箱から取り出すより先に、彼女の後ろ姿が遠ざかるのがぴたりと止まった。


「あ〜ごめん、小寺さん」


 十和の声は、よく通る。

 まったくごめんとは思っていない調子だ。

 私に聞こえるようにそう言って、ゆっくりと体ごと斜めに振り返った十和に嫌な予感しかなく思わず顰め面なるが、足はもう車の外に出していた。


「本当にやばいやつだ」

「……まったく」


 バン、とやや乱暴に車のドアを閉めて、脇に退いた十和を背の後ろに隠す位置へと回り、彼女が立ち止まった場所、その先の薄暗闇へと目を凝らす。

 ゆらゆらとおぼつかない足取り、肩を落とし、だらりと両腕を下げて、首を突き出した姿勢でゆっくりとこちらに向かってくる十七、八の痩せた少年。

 水色のペンシルチェック柄の薄い灰色のサマーウールのベストとズボンは、彼女の学校の近くの公立高校の制服だ。

 公園へと続く道路の街灯の加減ではなく、尋常じゃなく顔色が悪い。

 紫にちかい浅黒い顔で、虚な目をして向かってくる様子は、さながらホラー映画のゾンビのようだ。

 

「知り合いですか?」

「塾が一緒。模試がいまひとつで勉強に疲れてた感じだった」

かれていたの間違いでしょう」


 魔性の美少女ではないのだが、ごく一部のよろしくないのをどうにも引きつけやすい。

 かけていた眼鏡を取って、背後の十和に投げ渡す。


「預ける」

「小寺さんって、ハンドル握ったら性格変わるタイプだよね」

「変わりませんよ、壊れたら困るんです」

「小寺さんの“本体”だもんね」

「なんの本体だっ」


 本体ではないが、眼鏡は大事だ。

 私が日常生活を支障なく送るにあたって。

 見えないものが視える。

 声や音、匂い、肌に触れるその感触、モノによっては吸った空気のその味。

 感じられないものが感じられる。

 一番感度の強い目に、硝子という透明な隔てを一つおくだけ。

 気休め程度のまじないとはいえ、それなりに効果はある。

 嫌な匂いは腐臭ではない、獣の匂い。

 俗にいう狐付き、だが狐とは限らない。

 なににしてもたちの悪い動物霊の類だ。

 眼鏡を外したいま見て感じる、こんな奴ら――人の全身に纏わりついて気分が悪くなる嫌な匂いを発している、禍々しい赤黒いもやのようなもの――を、日常のありふれた風景とする生活など、私はご免である。


『ハア……ハッ……ハア、ハア……』


 近づくにつれ、少年の荒い息遣いと生温く澱んだ空気が漂ってくるのがわかる。

 ぶつぶつと、喉の奥からなにか言葉を吐き出している。


『はぁは……っ、ぐふっ、ぐぐぐぁぁ……ぃああああはぁ……』


 もはや、人語じゃない。

 荒い息を吐く、開いた口元からたらたらと涎が顎を伝って、ぽたりと落ちて青黒いアスファルトにしみを作っている。


『ぐぅぅゔぉぉぃぃ……ぃぃぎ……』


 十和の前に立った私に警戒してか、あと数歩のところで足を止めて揺ら揺ら揺れている。

 痩せているのは、生気を喰われているからだろう。

 単に付け入る隙につけ込まれただけではここまではいかない。 

 この少年、かれた前後でなにか奴らを刺激するか増長させることをやったな。


「うぁあ、きもっ」

「同じ塾に通う男子でしょう」

「そう言われても……」


 そういえば、下の階の環境センターの掲示で、最近野良猫なにがどうのみたいなのを見かけたような。

 いやいや、証拠もなしに決めつけはよくないか……。


「――小寺さんっ!」

「っ……!」


 ア゛ァァァァァッ!

 威嚇しながら両手の爪を立てるよう飛びかかってきた様は、まさに四つ足。

 襲いかかってきた少年は、瞳孔を細めたほとんど白目の異形の顔つきだが狙いはわかる。

 ぎょろぎょろ左右別々に動き、小刻みに振動する目の視線は定かでなくても十和に向かっているのは明らかだ。

 後ずさった彼女に掴み掛かろうとした奴の手首を左手の甲で払い、弾いた腕と交差で攻撃してきた腕を身を屈めて避けると地面についた手を軸に半回転し、奴の足元を払う。


『がっ……』


 己の勢いの反動もあって数メート斜め後方へ吹っ飛んだ奴を追って跳躍し、後頭部から地面に着地して跳ねた奴の顔の真上から私は立てた肘を打ち下した。大人しくなった奴の襟首を掴もうと立ち上がる。


「うっわー、小寺さん……容赦ないわぁ」

「馬鹿っ、来るな」

 

 こちらに近寄りかけた十和に声を荒げれば、彼女はすぐさま反応して元いた位置より下がったが、ぐぐぐぐと呻く声を発しながらバネのように上半身を起こした少年の体に目をやって、追撃し遅れたことに小さく舌打ちする。

 獣憑き相手に手加減など命取りだ。

 憑かれてなければ即死するような攻撃を受けても、脅威的な強靭さと人外の怪力と関節もなにもない動きで暴れかかってくる。

 奴の立ち上がりかけた胴体へ、重心を落として飛びかかった勢いで腹に拳を打ち込み、奴が崩れるより早くその胸ぐらを掴み速度を減じることなく固い地面に投げ捨て、顔面から叩き付ける。

 ここまで生気を喰われて一体化していると、憑き物を引き剥がすにも弱らせないとどうにもならない。

 とはいえ憑かれてダメージは軽減されようと、元は人間の肉体で怪我は怪我だ。これ以上痛めつけるのはこの貧弱そうな体の少年が危険になる。


『ぐぶっ……』


 額から鼻から口の中から。

 血をだらだらと垂れ流し、それでも軋んだ動きで首を逸らして奴が頭を跳ね上げたのにしぶといと思いながら、私はスーツの胸元へ右手を差し入れた。

 内ポケットから星月菩提樹を連ねた数珠を引き出し、反り返った奴の喉に素早く引っ掛け、這いつくばった姿勢から立ち上がりかけた背を片足で踏みつける。奴の首に掛けた数珠の房を掴んで引っ張った。

 首を絞められた奴の青黒い顔色に赤みが差して腫れ上がる。

 このまま落ちてくれたら、幾分手間が省けるのだが……。


『がふっ、ぃぎ、ぎぎぎっ……』


 がりがりと数珠を外そうとする奴の指先が、ばちっばちんっと青白い火花のような光に弾かれる。

 菩提樹は数珠の素材の中でも別格だ。仏教における三大聖樹のひとつ。 

 効いているなら、いけそうだ。真言を唱えながら手の中で連なった菩提樹の珠をたぐる。

 七つたぐったところで、ぎろぎょろ動いていた奴の目の震えが止まった。


『ぉき、わ……ぃご……き、ぉき』

「ん?」


 なにを言ってる?


『ぎっ……ぃご、悪……ぃき』

「……」

『ぐぶ……ぃぃき、い仕……置き……』

 

 首というより空を引っ掻く手つきに、いまだ白目が勝ったままだが少年の目が見ている方向、その先一直線に十和の姿があるのを目にした私の脳裏に、彼女の言葉が唐突に再生される。


 ――ここからが、めくるめくレッツお仕置きプレイな世界なのに。


「18禁怪文書は、お前かっ!」


 思わず一喝するが如く、声を張り上げてしまった。

 私の声に刺激され、体を後ろに二つ折りにする勢いで海老反りになろうとする少年の首から数珠が外れかけそうになるのを絞り込む。まるで釣り上げられようとする魚が抵抗する動きでびちびちと痙攣して暴れるのを、背に置いていた足でもう一度踏みつけるようにして押さえ、その喉を締め上げていた数珠を夜空へ向けて真上に引き上げた。

 ほとんど首吊り状態になった少年が、赤黒い霧のような生臭い息を吐き出す。


『が、はっ――ッ』

「剥がれろっ」


 持ち上がった少年の首の後ろを平手で払うように当身入れると同時に数珠を引き抜き、伸び上がった背中を突くように足で蹴れば面白いように吹っ飛んだ。顎から落ちて地面をずずずっと擦って、十和の足元で止まる。


「ひぃっ!」


 小さな悲鳴をあげて、後ずさるように尻餅をついて十和は地面にぺたんと座り込んだ。

 両膝をつけたすぐそこに倒れている少年の頭を見下ろし、恐る恐るその頭を十和はちょんちょんと指先で突く。

 起き上がる気配はない。完全に伸びている。


「おー。流石業界大手、名門真龍寺。よくあんなの剥がせるねぇ」


 冗談じゃない。

 家業の依頼でもなんでもなく、こんな骨の折れることを成行でやらされてはたまったものではない。

 私は自分の首元に指を差し入れ、ネクタイの結び目を軽く緩めて息を吐くと彼女の側に戻る。

 倒れている少年の体越しに彼女に手を差し出し、非難を込めて見下ろせば、はあーっと十和はわざとらしいため息を吐いて肩を落とした。


「え〜、ここまでしたら、最後までやってくれたっていいのにぃ〜」

「どうして、私が」

「名前通りに、強強つよつよの掃除屋なお寺の跡取りのくせにー! 小寺さんのケチっ!」

「ケチで結構。継ぐ気もありません。なんのために公務員になったと」 

「別にいいけどー。小寺さんの好きにすればだしー」


 私の手を借りて立ち上がり、十和は預けた眼鏡を私に放り投げると、スカートをぱたぱたと払って駐車場の上空を見上げた。

 まだ終わっていない。

 禍々しい臭気を振り撒く赤黒い霧が、とぐろを巻いた尾のような影を描きながら澱んでいる。

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