姉貴の奴めー
まだ陽も高い昼頃。
もう今日の授業は全て終わった。
体育委員のヤボ用を済ませた頃には五人ばかりが教室にいて、這入るとすぐのとこに居た
「あ、
チューリップとか、ペパーミントとか、多分そんな感じの片仮名の何かを匂わせる三宅。
「ん? あぁ、なんでせっかく早く帰れんのにつまんない用事をつくるんかなあ」
「あは、おつかれー」と三宅とその取り巻きは手を振るので一応こちらも手を振り返えしておいた。
余ったプリントを詰めたいだけ詰めた教卓の先には、台所の奥で糠床をこねる婆さんみたいな目で向かいの特別教室棟を見てる藤垣が居た。机にはノートの一番後の頁と鉛筆が。やはり仕事熱心なご様子で。まあ藤垣はなにもなくてもよく窓の外を眺めたりするけど。
「仕事が早くて宜しいなぁ」
「んー? あぁ、立ち聞きの、趣味の悪いのは直した方がいいよ」
大きなお世話には大きなお世話を。ってか、藤垣さんよ。
「そういや自転車、姉貴さんに貸してんでしょ?」
そういや、我が姉貴はなんかあって職場まで行くのに使ってた原付を壊し、その代わりにオレの自転車を召し上げた。
「じゃ、歩いて帰るの?」
まあ、そりゃそうだな、と返すと一瞬目を細めるてこう続けてきた。
「ちょっと・・・・運んで欲しいものがあるんだけど、暇でしょ?」
そういうわけで美術室にいる。誰も居ない教室の後、端から端まで並ぶ、至る所でペンキの剥がれ落ちた棚を藤垣は漁り始めた。書道を取ってるのでオレは初めて入ったが、美術部の藤垣は当然ながら慣れている。少しすると黒板の横の扉から絵の具まみれのエプロンを着た女が出て来た。
「あ、こんにちは。中島先生」
藤垣が挨拶してから、中島先生とやらと話し込み出したので、オレはそうっと廊下に出た。ぼんやりと、姉貴の奴めーと思っていると、廊下に飾ってある絵が目に入った。美術部員が描いたとおぼしき幾つかの絵の中には、当然、藤垣のもある。
藤垣の絵の特徴として、人が描けない、というのがある。割と藤垣の書いた人の絵というのは見たことがあるが、これはどうも微妙なものである。反面、城だか屋敷だかなんだかの図面を描いたりするのだが、これは恐ろしく緻密だ。そういう訳か、漫研辺りのやつとは対極にいて、あまりクラスメイトに受けるイラストを描いたりはしない。そこに飾ってあったのも、例によって目が痛くなるほど細かくて、その上少なくとも一年生の中では一番大きい絵であるらしい。何を描いたんだろうな・・・・と考えても、うーん、なんだろうね、これ。
しばらくすると、どういう訳か、オレはやつのうちのめちゃくちゃボロい戸棚の木目と、これまたやつのうちの方々の角が擦り切れたボロいソファーの布地を思い出した。
ふと、美術室の扉が少し開いて、藤垣が顔を出した。そして木箱を渡してくる。
持ってみるとそれなりに重みがある。藤垣はまた美術室に入った。アタッシュケース位の大きさの木の箱。外面は絵の具で相当汚れてる。中にはヤバい感じに癖になるシンナーの香りがする油絵の具とそれに類する何かが入っている。中学の頃、藤垣は時々自分の机の脇にこれを置いていた。
持っていてもしょうがないので、丁度廊下の窓のところにあった腰丈の戸棚の上に置いた。それからまた、オレは木目と布地の絵を見ていた。
幾らかして、ようやっと藤垣が出て来た。悪いー思ったより時間掛かったー、なんて言いながら何かに包まれた大きな板を持っていた。
それはもう、畳一枚くらいはある板。
オレがきょとんとしてると、「あぁ、これね、今描いてる絵」と言った。
明らかにさっきの絵より大きい板を持ち、他にも教科書の入った鞄と、更にもう一つ手提げを無理矢理肩に掛けている。それで、どうだ器用だろ! と言わんばかりに胸を反らしてくる。いや、お前が器用なのは至極今更な話だから、オレは一番上に掛けてあった手提げを奪い取って木箱と一緒に持った。藤垣もそれに構わず大きな板かなんかをもって一歩先を行く。
とっくのとうに午後の授業は始まってた。出席番号偶数の人が授業を受けてる中、静かな下駄箱の、昼下がりの陽に出来た我々の影は、月明かりに陰を付ける泥棒二人組みたいな趣があった。
ところで、大方の桃高生は自転車か、学校から二十分弱のところにある桃富駅まで歩き、そこから幟急に乗って家に帰る。オレの家は電車に乗るほど遠くないから自転車で登校していたが、藤垣は桃富のすぐ隣、馬並という駅まで毎日電車に乗って帰る。何度も聞いたことだが、藤垣は自転車に乗れない。なんで乗れないのかも何度も聞いた。
「確かに、こういう場合は家に誰も、自転車に乗れる奴がいないってのもいいかもな」
「はあ?」
「自転車じゃその大きいのは運べないじゃん」
確かに、それもあるか、と藤垣。そこから、今度部活で描く絵、つまりその大きいのの話を聞いた。〆切が十一月の始めで、分散登校中は部活がやってないから家でもやんなきゃ終わんない、だそう。
「相変わらず忙しそうだな」
「そうかなあー、家で絵を描く口述が出来てよかったって感じだけど」
それからまた、オレらは取り留めのない話をして歩いた。暫くして、駅前に繋がる桃富銀座商店街の入口と、駅の向こうへ行く踏切に繋がる国道とが別れる交差点に出た。それぞれの道で駅と踏切とこの交差点を頂点とする三角形を描くようになっている。
「もう、すぐそこ駅だから・・・・」
それからお礼らしいお礼も添えてくるんで、「そ、まあ気をつけろよ」とこちらも返してしまった。
そんな訳でオレは持ってた木箱と手提げを渡した。藤垣は上手いことそれらを抱えて、
「んじゃ、また!」
と、板の横から出した顔をにんまり。
久々に聞いたその台詞に、オレは「おう、また」と返した。
大きな板を持ち、手提げを二つ下げ、木箱を抱える藤垣。そのうしろ姿は、荷物のお陰で実物よりもかなり大きく見えるが、あるいは荷物なんかなくともそうだったかも知れない。最も、見栄を張ったのかも知れないし、負い目があったのかも知れないが、万年体育の成績の振るわない藤垣が下手なのは、何も自転車に乗るとかそういうことではないと思う。
そうして、オレは横断歩道を渡らずに左へ逸れて家へ帰った。
その日の夜、姉貴はコロッケをソースでびちゃびちゃに浸しながら「たまには歩いてくのも、健康にいいでしょー」なんて他人事みたくぬかしやがる。誰のせいだよ、とかありきたりなことを言っても負けた気がするので「お陰で怪我せずに済んだかもな」と返えすと、「そう、そりゃあよかった」と姉貴。
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