四話

 今日は朝から快晴――僕の心を映しているような空だ。よかった。アーシャと会うには最高の天気だ。でも、外でのデートじゃないのが少し残念だけど。


 大学通りには若い学生らしき人々が大勢いた。その中を僕は歩いている。アーシャは通う大学のほど近いところに、学生向けの部屋を借りて暮らしている。越してきた当初、部屋の感想を聞いた時は狭いと不満を言っていたけど、今はさすがに慣れたかな。そんなアーシャを想像して、思わずにやけそうになったのを僕は懸命に抑えた。


 にやけそうになったのは実は他にも理由がある。アーシャの部屋に招かれるのが、今回が初めてなのだ。二年付き合っていて、故郷の実家でも招かれたことはない。ここへきてようやく距離が縮まって、僕は嬉しくてたまらなかった。


 約束を取りに行った三週間前、久々にアーシャを見て、僕は再び惚れてしまった。特別に着飾っていたわけでもなく、普段着のアーシャだったけど、少し照れるような仕草だったり、上目遣いだったり、告白をした当時と変わらないアーシャで、やっぱり僕はアーシャが好きなんだと改めて感じた。その約束をした帰り道、僕は密かに決心した。呪いの件が解決したら、アーシャに結婚を申し込もうと。頭がよくて見栄えもいい。結婚するなら間違いなく彼女しかいないと思う。これはまだ僕だけの気持ちで、アーシャはどう思っているかわからない。でも、いずれはそうなれればと願っている。


 今日の要件はあくまで呪いのことだけど、一緒になる気があるかどうか、ちょっとだけ探りを入れてみたい。アーシャは僕ほどに僕を想ってくれているだろうか。いい反応を返してくれればいいけど……。


 ツタの這う白壁の家の前に来た。アーシャの住む家だ。この周辺は住宅街になっていて、昼間でも比較的静かだ。勉強をするアーシャにはいい環境かもしれない。早速僕は、小窓の付いた木の扉を叩く。


「はあい」


 ほどなくしてアーシャの声が聞こえた。なぜだか少し緊張する……。


「あ、いらっしゃい」


 扉を開けて出てきたアーシャは、いつも通りの笑顔を見せた。すっぴんで普段着の、僕がよく見ているアーシャだ。


「……やあ」


 軽く挨拶してみたけど、自分でもぎこちないのがよくわかった。これにアーシャは小さく笑った。


「ふふ……どうぞ」


 いきなり失敗してしまった。この後はちゃんとしないと……。僕はアーシャに付いて家の中へ入った。


「座ってて。お茶入れるから」


 アーシャは窓際の狭い台所に行き、お茶の用意を始めた。僕は言われた通り、近くにあった椅子に腰をかけた。この部屋は台所兼居間のようだ。中央に机と椅子が並び、その奥に食材や食器の置かれた台所がある。正直言ってアーシャが言っていたように、この部屋はお世辞にも広いとは言えない。僕の座るここから台所に手を伸ばしたら、届いてしまいそうなくらい狭い。でも、アーシャは狭いなりにもかなり整理整頓ができている。決して物が少ないわけじゃないのに、置かれ方、並べ方でどこもすっきりした印象があった。さすがアーシャだ。物の配置も完璧だ。ところで、アーシャはどこで寝ているんだろう。部屋を見回すと、棚の陰に隣の部屋への入り口が見えた。そりゃそうだ。この狭い一部屋だけじゃ生活なんて無理だ。向こうはどんな感じなのかな。体を傾けて見ようとした時、アーシャがお茶を持ってやってきた。


「はい、ハーブティー。これ大好きなの。ウェルスも好きだといいんだけど、ちょっと飲んでみて」


 陶器のコップに入ったお茶は湯気を立たせ、ハーブの爽やかな香りを漂わせている。アーシャに見守られながら、僕はやけどに注意して一口飲んでみた。


「……うん。好きな味だ」


「本当? よかった」


 アーシャは安心の笑顔を見せた――正直に言うと、僕はハーブティーのあの独特な味が、昔から苦手なのだ。でも、アーシャの笑顔のためなら苦手なものだって飲んでみせる。


 僕の反応に安心したアーシャは、隣に座ってハーブティーを飲み始めた。熱がりながらも、ちびちび飲む横顔は、また別の可愛らしさがあって見入ってしまいそうだ。その時、ふとアーシャがこっちを向き、僕と目が合った。お互いが一瞬、戸惑うのがわかった。僕は顔が熱くなるのを感じて慌てて飲む気のないお茶を口に持っていった。こんなに照れててどうするんだ。探りを入れるっていうのに……。


「そ、そう言えば、ウェルスは呪いについて教えてほしいんだったよね」


 どぎまぎする僕を見兼ねたのか、アーシャが先に本題を出してきた。


「うん、そうなんだ。アーシャ、何か知ってる?」


 今探りを入れるのは難しそうだ。まずは本題を解決して、その後にするか……。


「ウェルスに聞かれてから少し資料を探してみたんだけど、たくさんありすぎてまだ見つかってないの。悪いけど、一緒に探してくれる?」


「当たり前だよ。頼んだのは僕なんだ。自分で探してみるよ。だからアーシャは休んでていいよ」


「駄目よ。私も一緒に見なきゃ」


 アーシャは立ち上がって僕を手招きする。向かうのは隣の部屋みたいだ。


「これ、ウェルス一人で探すのは辛いでしょ?」


 そう言って見せてくれた隣の部屋は、まるで本の倉庫だった。四方の壁には天井まで届く本棚が隙間なく置かれ、すべてに本が詰め込まれている。その手前には入りきらなかった本が整然と並べられて、見た感じ二重の本棚のように床に列を作っている。まさに本で埋め尽くされた部屋――僕はこれとよく似た部屋を知っている。でも、絶対に思い出したくない。気を抜くとその部屋が頭に現れそうで、僕は本以外に目を向けた。


「……アーシャはここで寝てるの?」


 部屋の奥、壁の本棚に寄り添うようにベッドが置かれていた。本の壁に囲まれた中で眠るなんて、かなり圧迫感がありそうな気がするけど。


「友達に話すと、皆驚いた顔をするんだけど、ウェルスもそう思う?」


「思う、と言うか、何と言うか……」


「ふふ、それが普通なんでしょうね。でも私は本に囲まれてると心が安心して落ち着けるの。やっぱりおかしいよね」


「おかしいだなんて……」


 この先の言葉が思い付かない。頭のいい人は、皆こんな感じなのだろうか。


「私のことより、さあ、早く探しましょう。この量だから、いつまでも見つからないとあっという間に夜になっちゃうわ」


 その通りだ。探す本の数は膨大だ。これを二人で見ていくわけだから、相当な時間がかかってしまうだろう。それにしても、どこから見ていけばいいのか……。


「アーシャ、どの本なら呪いについて書いてありそうか、見当はつかない?」


「そうね……床の本は最近のものが多いから、内容は大体覚えてるんだけど、棚の本はかなり昔のものも混じってるから、内容はちょっと……」


「じゃあ、本棚を見ていけばいいんだね。よしっ!」


 僕は気合いを入れて、まずは左側の本棚から探していくことにした。確かに、手に取っていく本は表紙が擦り切れていたり、変色していたりして古そうだ。急ぎたいが雑には扱えない。一冊一冊丁寧に見ていくしかない。アーシャは一番奥の本棚から探してくれるようだ。


「神話における世界の信仰……神話と伝説の共通項……」


 どの本もアーシャが勉強している伝説神話についてばかりが書いてある。でも、中を開いて目次を見ても、呪いの文字は一向に出てこない。目次には書いてなくても、文章に書かれている可能性はあったが、そんなのいちいち探してたら、何日も経つどころか、僕はその前に呪い殺されてしまう。だから目次を見て、書いてありそうかどうか瞬時に判断していくしかない。


 探し始めて一時間は経っただろうか。僕もアーシャも黙々と手を動かしていた。でも呪いについての本は一冊も見つからない。本棚の下段を探し終わり、僕は立ち上がる途中でアーシャに声をかけてみた。


「なかなかないね。そっちは――」


 アーシャに振り向くと、アーシャも身をよじりこっちを見ていた。ぴったり視線が合い、僕は固まった。


「あっ……」


 アーシャは小さな声を漏らし、目を泳がせる。


「こ、こっちもまだ、ないわ……」


 それだけ言ってまた本棚と向き合ってしまった。……何だこれは? もしかしてこれが、アーシャから僕に対しての愛、というものなのか? 急に胸がどきどきと鳴り始めた。かがんで探しものをするアーシャの後ろ姿が何とも愛おしく――いや、今は本を探さなければ。ああしてアーシャも協力してくれているんだ。見つけた後で確かめればいい。問題解決に集中だ……。


 アーシャの気配を感じながら探すこと、さらに一時間が経った。僕は本棚の中段も探し終わり、次は頭より高い上段の本を取ろうと手を伸ばした。でも指先が触れるだけで取ることができない。何か踏み台が必要だ。そう思って僕は居間に行き、椅子を持ってきて本棚の前に置いた。これならちょうどいい。


「ウェルス!」


 突然後ろから呼ばれて、僕はびくっとして振り返った。


「ど、どうしたの?」


 アーシャは持っていた本を置くと、つかつかとこっちへ向かってきた。その顔は困ったような表情に見えた。


「踏み台なら、椅子じゃなくてこれを使って」


 指差したところには、小さな木箱の踏み台があった。


「そ、そう、わかったよ」


 床の本に混じってて気付かなかったけど、これは踏み台だったのか。僕は椅子を居間に戻して、木箱の踏み台を改めて置いた。椅子よりは低いけど、本には十分手が届く。一冊目を取ろうとして、ふと横を見ると、アーシャがそそくさと居間に消えていった。何だろうと見ていると、すぐにアーシャは戻ってきて、また本探しの続きを始めた。何しに向こうへ行ったんだ? まさか体調でも悪くしたんじゃ――そう思うと聞かずにはいられなかった。


「アーシャ、どうかしたの?」


 これにアーシャはちらっとこっちを見ただけで、顔は向けずに答えた。


「え? 何でもないけど……どうして?」


「部屋を出ていったから、気分でも悪いのかと思って」


「私は元気よ。大丈夫だから」


「それならいいんだけどさ……」


 僕の思い過ごしか。気になる気持ちが過剰になりすぎてたのかな……。意識を切り替えて、僕はまた本を探し始めた。


 それにしても呪いについての文章がまったく見当たらない。もうすぐこの本棚全部の本を調べ終わるっていうのに、たったの一冊も見つからないなんてあるのか? 呪いは伝説神話に出てくるってオグバーンが言ったから、こうして探してみてるけど、そもそもその出だしが間違っていたんじゃ……いや、でも確かに呪いは昔話なんかによく出てくるものだ。僕は詳しくないけど、伝説神話にもきっと同じように出てくるんだろう。それだと決して間違っていることもない。じゃあ何で見つからないんだ? 僕は改めて部屋の中を見渡してみた。どこを見ても本、本、本――見つからない理由は、この本の多さか? 僕が思うに、呪いはさほど重要な研究対象じゃないんだろう。アーシャの本は大体が伝説神話の研究本で、各話の時系列や、登場人物、構成、時代背景に世界観など、全体的な解説が多い。誰かがかけた呪いなんて、そういう研究にはあんまり関係ないのかもしれない。それでも、どこかの本棚には呪いについての記述が書かれたものがあるんだ。必ずどこかに……そう思ってないと、心がくじけそうで怖い。


「疲れたでしょ? 昼食食べる?」


 アーシャが後ろから言った。探し始めて三時間は経っている。ちょうど昼時だ。


「何か作ってくれたの?」


 振り向くと、微笑んで僕を見上げるアーシャがいた。


「昨日出来上がって……大したものじゃないんだけど」


「え、何?」


 アーシャが僕のために……一体何だろう。わくわくする……。


「初めて、きゅうりのピクルスを作ってみたの」


「ピ……」


 なぜ、どうして、よりによってピクルス……。


「パンにハムと一緒に挟んで食べてみて。自信あるんだ」


「あ、ああ、うん。い、いただこうかな」


 アーシャは僕の様子に気付かずに、台所へ行ってしまった。僕はしばらく本棚の前で呆然と突っ立っていた。恋人の家に来ているというのに、なぜこうも試練ばかり起こるんだ。苦手なハーブティーを飲まされ、目的の本は一向に見つからず、そして今度は僕の大嫌いなピクルスを昼食に出される。これはハーブティーの比ではない。お茶はアーシャのためなら何口でも飲めた。でも、ピクルスはアーシャのためと思おうが何と思おうが、絶対に食べられない。それだけは自信がある。嫌いになった理由はごく単純だ。小さい頃、祖母が山ほどピクルスを作った。それがあまりにおいしくて、僕は両親に隠れて一人で食べ続けた。その夜、それを一気に戻してしまった。両親に怒られるし、気持ち悪くて辛いしで、僕はその経験がトラウマになって、今もピクルスを見るだけで胸の辺りがむかむかしてしまう。体はもう微塵も受け付けないのだ。そんなものをアーシャは僕に食べさせようとしているわけだ。どうすればいい? 正直に言うべきか? でもアーシャをがっかりさせたくない。でもピクルスも食べたくない。僕はどうすればいいんだ?


「ウェルス? どうしたの? 早くこっちに来て座って」


 台所から顔をのぞかせたアーシャは、にこにこと期待を持った目で僕を呼ぶ。


「うん……今行くよ……」


 まずい。やばい。ピクルスなんて絶対に食べられない。ああ、見る前からもう胸が気持ち悪くなってきた……。拒否する足を無理矢理動かして、僕は居間の椅子に静かに腰掛けた。


「探し続けて相当疲れたみたいね。これ食べてまた頑張りましょう」


 アーシャが皿に載せたパンを目の前に置く。僕は疲れているんじゃない。この食事を怖がっているのだ。でもその気持ちをアーシャに悟られてはいけない。どうにかしてこの場を切り抜けなければ。


「……ウェルス、食べないの?」


 向かいに座るアーシャが不思議そうに僕を見る。


「た、食べるよ。いただきます……」


 恐る恐るパンに手を伸ばしてみた。丸く白いパンの間から、ピンク色のハムがはみ出ている。さらにこの奥には――嫌だ。想像もしたくない。見えないことが余計に恐ろしい。


「悪くない味ね。ウェルスはどう?」


 すでに食べ始めているアーシャが感想を求めてきた。僕は慌ててパンを口元に持っていき、食べたふりをした。


「そう、だね……僕は中身より、このパンが気に入った、かな」


 思わず本音に近い感想を言ってしまった。ここはピクルスを褒めてあげるべきなのはわかっているんだけど……。


「このパン、安売りのものなんだけど……そっか。ウェルスにはいまいちか。このピクルス……」


 アーシャは明らかにがっかりしている。しまった。安売りだと知っていれば、褒めたりなんかしなかったのに。何か元気になる言葉を言ってあげなきゃ……。


「じ、実はさ、僕って味音痴なんだよ。皆がおいしいって言うものを食べても、そんなにおいしいって感じないところがあって。だから逆に言えば、僕がまずいって言うものは、皆からするとおいしいものってことになるわけだから、アーシャ、そんなに気落ちすることないよ」


 咄嗟にしては、なかなかいい言葉が言えたんじゃないか?


「……優しい嘘をありがとう」


 アーシャは笑顔を見せた。が、やっぱり嘘だとわかっていた。……いけない。彼女を悲しませちゃ駄目だ。言ってしまった嘘はどうしようもないけど、行動でなら嘘は塗り替えられるはずだ……!


 僕は手の中のパンをしばらく睨み付けて、気持ちを整えた。胸のむかむかが一時収まるのを待って、その瞬間にパンにかじり付いた。ハムの食感と共に、それより少し硬い食感が伝わる。今、口の中にやつがいる……。


「ウェルス、何か無理してない? 全部食べなくても――」


「でも、味わって食べると、意外においしいかも。このピ、ピクルス」


「本当? それならよかった」


 アーシャは安心の笑みを見せた。よかった。がっかりさせずに済んだ。食べた甲斐があったってもんだ。すでにパンの半分を食べて、僕の体内では入ってきたものを押し返そうとする動きが始まっていたが、喜ぶアーシャを目の前にして食事を残すわけにはいかず、反発する体内をなだめながらどうにか全部を食べ終えた。


「ウェルス、すごい汗だけど、この部屋暑い? 窓開ける?」


「……平気。食べてちょっと暑くなっただけ」


「そう。じゃあ、探し物の続きをしましょうか」


 アーシャは皿を片付けると、隣の部屋へ移動していった。それを確認してから、僕は椅子に踏ん反り返るように天井を仰いだ。気持ち悪い。気を抜いたら一気に出てきそうだ。胸をさすってないとむかむかが強くなるばかりで、どうにもこうにも動けない。アーシャを悲しませないことだけに集中しすぎて、その後のことをまったく考えていなかった。これじゃ本を探したくても集中できそうにない。とりあえず、隣の部屋には行かないといけない……。


「ウェルス?」


 隣からアーシャが呼んだ。僕は胸をさすりながら椅子から立ち上がる。


「い、今行くよ」


 どうにかこらえてくれ、僕の体――胸から手を下ろして、平然を装いながら隣の部屋へ入った。アーシャはこっちに背を向けながら、次々に本を手に取って探している。それを確認して、僕は踏み台に乗って本を見るふりをしながら、すかさず胸をさすった。こうしていないと本どころじゃない。すぐにでも横になって休みたいけど、アーシャはあんなに熱心に探してくれているんだ。僕も早く探さないと……。


 本棚上段の本に手を伸ばす。掴んで引き出そうとした時、上手く手に力が入らず、本は床に音を立てて落ちた。体に力さえ入らなくなってきている。僕は胸をさすりながらその本をかがんで取ろうとした。ふと横を見ると、背を向けていたアーシャがこっちを見ていた。その顔は心配そうなものだった――まずい。胸をさすっているのを見られたか。僕はその手をゆっくり下ろした。


「……何?」


 僕はぎりぎりの笑顔を浮かべて聞いた。


「本、落としたの?」


「うん。ごめん。手が滑ってさ」


「……大丈夫?」


「だ、大丈夫だよ。心配ないって」


 アーシャは少し疑うような目になったが、すぐに本探しに戻ってくれた。僕の体調に気付いたんだろうか。昼食が原因で吐きそうだなんて、絶対に知られちゃいけない。平静を心掛けろ。平静を維持するんだ。


 そう言い聞かせたものの、それはかなり難しいことだった。この不調は人を平静にはいさせてくれない。本を読んでも、文章の内容が頭に入ってこないのだ。呪いを解く方法を探しているのに、今はそれより、この気持ち悪さをどうにかする方法を一番知りたいと思っている。あまりに辛くて、僕はもう本を探す意味を見失っていた。適当に本を開き、適当に本棚に戻す。苦しさを紛らわすために、その二つの動作を繰り返し続けた。結果はこの際いい。とにかく時間さえ過ぎてくれ。それだけを思って手を動かしていた。


「ウェルス、あった!」


 突然後ろから大声が上がって、僕はびくっと驚いた。


「……本当?」


 もうろうとした意識で僕はアーシャに近付く。


「ほら、ここ。呪いの考察って書いてあるでしょ」


 アーシャが指差すところには、確かにそう書いてあった。やっと見つけた――本来ならそんなふうに喜ぶんだろうけど、今の僕には喜べるほどの余裕はない。さっさと読んで、さっさと帰らせてほしい。


「まだこの辺に同じような本があるかもしれない。もう少し探してみるね」


 まだ、探す? 待ってくれ。一冊見つかったんならもう十分だ!


「ウェルスもこっちの本棚、探してみて」


 アーシャの隣で? それはまずい。万が一のことがあったら、僕にはどうにもできない。


「……じゃあ、僕はこっちのを見てみるよ」


 アーシャが探す隣の隣の本棚に僕は移った。真横にいたら、さすがに体調の悪さに気付かれるだろう。とにかく平静だ。静かに、ただ手を動かしていれば平気だ……。


 相変わらず胸のむかむかは収まらない。さっきより強くなってないか? そんな独り言を頭で呟きながら、僕は黙々と本を見ていく。まだ気付かれてないだろうか。それが気になって、僕はアーシャを横目で見てみる。アーシャはずっと本棚と向き合っていた。てきぱきと手を動かし、本を探している。でもある時、ちらと背後のほうを見た。そしてすぐに本に目を通す。しばらくするとまた背後に振り向き、また向き直る。どうも気になる動きだった。自分の背中に違和感があるわけじゃないらしい。背後の何かに気を取られている感じだ。アーシャの背後にあるものと言ったら、床に並べられた無数の本と、僕がさっきまで担当していた本棚と踏み台くらいだ。それらの何が気になっているんだ?


「あ、またあったわ」


 アーシャが僕に振り向いた。目が合いそうになったのを上手くごまかして、僕は改めてアーシャを見る。


「すごいな。よく見つけるね」


「やっぱり、呪いについての本はここに集められてるみたい。私はもっと探すから、ウェルスは見つけた本、先にあっちで読んでて」


 見つかった本二冊を手渡された僕は、足早に居間へ移動した。すぐに椅子に座ると、本を開くよりもまずは、天井を仰ぎながら胸をさすった。ほんの少しだけ楽になる……。一体いつまでこのむかむかは続くんだ。いい加減収まってくれ。でも、何とか本は見つかった。一歩前進したと思おう。


 机に置いた本に目を移す。「神話の事象」と「術師の世界」という題名が見える。休んでいても状況は進まない。僕は上半身を起こして、手前にあった「術師の世界」をつかんだ。目次を開いてみる。悪の術、呪いとは――二百四十九ページ、と書かれている。ぺらぺらとめくり、僕はそこを読んでみた。


「………」


 まったくわからなかった。わかる範囲で言うと、どうやら呪いを科学的に説明しているらしいのだが、専門用語だらけで僕には意味が理解できなかった。僕がもっとも知りたいことが書かれているのかさえわからない。この本は高度な知識がないと読めそうにない。


 こっちは諦めて、僕はもう一冊の本を開いた。目次をたどり、三百七十八ページを開く。


「………」


 僕は本を静かに閉じた。やっぱり意味がわからなかった。こんな難しい言葉じゃ、アーシャに説明してもらわないと理解できそうにない。仕方ない。アーシャが来るまで休んでいよう。僕は椅子を壁際まで動かして、その壁にもたれながら胸をさすった。


 その時、隣から物音が聞こえた。ガタゴトと何かを動かしているような音だ。アーシャが何かやっているんだなと、特に気にかけようとは思わなかったが、それが五分ほど続いて、やっぱり何か気になった。むかむかが弱くなったところで、僕は重い体を動かして、隣の部屋へ行ってみた。


「……アーシャ?」


 見ると、アーシャは目の前の本棚の本を全部取り出して、下段から順番に入れ直していた。


「あっ……ウェルス……」


 僕に気付いたアーシャは、気まずそうな笑みを見せた。その本棚は最初に僕が調べた本棚だからだ。


「あの、これはね、もともと私が見やすい順番に並べてあって、だから、元通りにしようかなって……ウェルスが悪いっていうんじゃないのよ」


 そうか。さっき背後を気にしてたのは、この本棚の本の並びだったのか。でも、そんなに順番をめちゃくちゃにしたつもりはないけど……。


「そうだ、これ、さらに見つけた本。先に読んでて」


 アーシャはまた二冊の本を僕に手渡す。


「それなんだけど、内容が僕には難しすぎて、アーシャに解説してもらわないとわからないんだよ。一緒に見てくれるかな」


「え、そうなの? うーん……確かに専門的なことが多いから、わかりづらいかもしれないわね……じゃあ行きましょう」


 アーシャは整理していた本を床に置いて居間へ向かう。その目が一瞬、本棚を名残惜しそうに見たのを僕は見逃さなかった。アーシャは整理整頓好きなのか?


 居間に来ると、途端にアーシャが小走りに机のほうへ向かった。何だろうと見ていると、アーシャはさっき僕が壁際に寄せた椅子をつかみ、元の位置に素早く動かした。


「どうぞ、座って」


 笑顔で促すアーシャだけど、その声は冷めたように聞こえた。


「あ、ありがとう」


 一応お礼を言ってから座る。ここは謝ったほうがよかったのか? よくわからない。アーシャの醸し出すこの空気は初めて体験する。


「さてと、じゃあまずはこれから読んでみましょう」


 手に取ったのは「神話の事象」だ。


「これは確か三百七十――」


 僕は覚えていたページをぺらぺらとめくった。


「ウェルス!」


 急に大声で呼ばれて、僕は手を止めた。


「……何?」


「ページは……私が開くわ。何ページ?」


「三百七十八……」


 アーシャは丁寧にページを開く。気のせいか、アーシャがピリピリしているような……。


「ここね。……これは素人には難しい内容かも。わからないのも仕方ないわね」


「僕にもわかるように教えてくれる?」


「つまり、大雑把に言うとだけど、呪いは悪が生み出したもので、それらは全部架空のものと考えていいってことかな」


 架空とかそんなことは聞いてない。知りたいのは呪いを解く方法だ。


「次の本、頼むよ」


 僕は二冊目の本をアーシャに手渡す。


「これは……」


「何て書いてあるの?」


「要約すると、呪いのおよその起源と、それに使う道具についての話ね。詳しく説明する?」


「いや、いい。次を頼む」


 僕は三冊目を手渡した。


「えっと、ここね。……ああ、これには呪いを使った神話の登場人物について書いてあるわ。マリキ、ジェホ、ドゥーゴア――」


「それだけ? 呪いについて他には?」


「……ないわ。人物についてだけみたい」


 解く方法はどこにも書いてない。残るはこの一冊……。


「もう呪いについて書いてあるのは、これだけなの?」


「うん。見つけたのはこの四冊だけだから」


 これでなければ、僕の人生は呪いに支配され続けることに――期待を込めて、最後の一冊をアーシャに手渡す。静かにページをめくり、そして指が止まる。沈黙の中、目だけが文章を追っていく。


「……内容は?」


 最後の希望は……?


「呪いをかけられた者の結末について、まとめて書かれてるわ」


 結末……結末? いや、呪いが解かれていれば、それも結末の一つになるはずだ。僕は身を乗り出して聞いた。


「アーシャ、全部の結末を簡単に教えてくれ」


「うん。いいけど」


 最初のページに戻り、アーシャは要約して読み上げる。


「一人目は、増水した川で溺れ死んでる。二人目は、家畜の牛の角に刺されて死んでる。三人目は、パンを喉に詰まらせて死んでる。四人目は、原因不明の病にかかって死んでる。五人目は――」


「ちょっと待って」


「どうしたの?」


「何か長そうだから最初に聞いとくけど、呪いをかけられた人物達は、全員死んでるのか?」


「ええと……」


 アーシャは素早く文章に目を通す。


「……そうみたい」


 真っ暗だ。目の前が真っ暗になった。


「続き、読む?」


「いいです……」


 死に様のレパートリーを知ったところで、僕が選べるわけでもなく、意味も皆無だ。ただ、一つだけ収穫はあった。それは呪いを解くことは不可能ということだ。呪いを受けたが最後、その人は呪いを受け入れるしかない。いつ来るかわからない死に怯えながら。


「これで知りたいことは、わかったの?」


「ありがとう。もう、わかったよ……」


 探してくれたアーシャに暗い顔は見せられない。僕は、多分引きつっているだろう笑顔を懸命に浮かべた。向かいのアーシャは不思議そうな顔で僕を見ている。そりゃそうだ。目的を達して、こんな顔しかできない理由なんて本人にしかわからないことだ。アーシャは想像もしていないだろう。僕が呪いにかかっているなんてこと……。


「ウェルス、どうかしたの?」


 アーシャは優しい。心配そうに僕を見てくれる。


「どうって? 何もないよ」


「そう……それならいいんだけど。じゃあ本、片付けてくるから」


 探した四冊の本を抱えて、アーシャはまた隣の部屋へ行こうとする。長時間探させて、その片付けまでさせるのは気が引ける。僕はすかさず呼び止めた。


「ねえアーシャ、片付けは僕がするよ」


「え……?」


 振り向いたアーシャと目が合った。その目は何だか嫌そうに僕を見る。何で? 喜んでもらえるものと思ったのに……。


「すぐ済むから、大丈夫よ」


「結局今日は僕、何にもしてないようなものだったから、片付けくらいはさせてよ」


 僕は立ち上がった。


「いいってば。ここは私の家なんだから、全部私が――」


 止めようとするアーシャから強引に本を奪って、僕は隣の部屋へ向かった。


「ウェルス……」


 困った声で、アーシャは渋々僕の後を付いてくる。


「遠慮なんかいらないよ。アーシャは休んでて」


「遠慮じゃなくて――」


「この本は、ここだよね」


 僕は四冊の本を大体の場所に収めた。


「あっ、それはこっち……」


 後ろからアーシャが指をさして言った。


「これ? が、こっち――」


「違う。その、二冊目の……」


「二冊目……これか。で、こっちに――」


「違うってば。だから、二冊目の右に……」


「え、右? ああ、そういうことか。右のこっち――」


「今度はこっちの本が――ああもう、どいて」


 アーシャが僕の肩を押しのけた。簡単に横に飛ばされた僕は、手早く本を入れ替えるアーシャをただ見つめ続けるしかなかった。


「……ここは終わりっと。これで元通りね」


 綺麗に揃った本棚を眺めて、アーシャは満足の笑みを浮かべた。――駄目だ。これじゃ僕はまだ何の役にも立っていない。何とかいいところも見せたいぞ! 振り返ると、さっきアーシャが整理途中だった本棚が目に入った。これはもともと僕が担当していた本棚だ。自分が汚したんなら、自分で整理するのが筋だろう。


「あの本棚は僕が一人でやるよ。アーシャはもういいよ」


 自信満々に言った。量は多いけど、一人でできないことはない。見るとアーシャは僕をじっと見ていた。疑いの目だ。できるのかと疑っている目だ。


「ま、任せてよ。このくらい……」


 突き刺さる視線をかわして、僕は本棚の前に立つ。すると、すぐ横にアーシャが並んだ。何だか監視されてるみたいで居心地が悪い。


「アーシャ、休んでても――」


「見てる」


 無表情なのがまた圧迫感がある。よし、ここで恋人として信頼を得るんだ。僕は踏み台に乗って、上段から手を付けることにした。


「………」


 黙々と整理をしているが、どうしてもアーシャの様子が気になってしまう。ちらちらと見ながら、できるだけ早く手を動かす。でも、本を並べ替えているだけなのに、何でこんなに緊張してるんだ? 僕は。


「あっ!」


「えっ、何?」


 アーシャが急に声を出して、僕は慌てた。何だ? 何かしたのか?


「それはそこじゃない。一つ隣よ。それと、すぐ左の本も違う。それは――」


 アーシャはまるで堰を切ったように間違いを指摘してきた。こんなに間違っていたのか? それならもっと早く言ってくれてもいいのに……。僕は言われるがままに本を並べ直す。


「ねえウェルス、元の順番覚えててやってる?」


 アーシャが睨むような目で聞いてきた。


「な、何となくは……」


 いちいち覚えているわけがない。


「何となくじゃ困るのよ。私は私の順番で並べてるんだから。……あ、ここも違う」


 アーシャは僕を踏み台から下ろすと、自分で整理し始めてしまった。これじゃさっきとまた同じことだ。今度はただ眺めているわけにはいかない。上段に集中しているアーシャの下で、僕は下段の本の整理をしようと手を伸ばした。


「ウェルスは何もしないで!」


 初めて見る顔だった。目を吊り上げ、苛立ち怒る形相――あまりに驚きすぎて、アーシャってこんな顔もするんだ、などとのんきに頭で呟いていた。……そんなことより、今の僕は邪魔者扱いされている。役立たずのいらないやつになってしまっている。どうすればいい? これじゃ信頼どころか、優しさすら見せられない。そもそも、アーシャは何でここまで本の並びにこだわるんだろうか。大体の場所がわかっていれば細かい並びはどうでもいいように思うが……。ここまで怒るアーシャの理由が気になった。僕は緊張しながら、手を動かし続けるアーシャに控え目に聞いた。


「あの、さ、ちょっといい?」


「………」


 聞いているのか聞いていないのか、アーシャは何も答えない。くじけそうな心を励ましながら僕は続けた。


「順番をめちゃくちゃにしちゃったことは、謝るよ。でも、そこまでかりかりする必要はないんじゃないかな。たかが本の――」


「今、たかがって言ったの?」


 アーシャがじろりとこっちを見た。嫌な雰囲気を感じる……。


「な、何かおかしかった?」


「ウェルスって、雑な性格だったの?」


「へ?」


「本棚には本を詰め込んでおけば、それでいいって感覚なの?」


「だって、本棚ってそういうものじゃ……」


 これにアーシャは落胆の表情を見せた。何で? 間違ったことを言ったか?


「やっぱり、そういう人だったんだ」


「やっぱりって、一体何が……?」


 アーシャは踏み台から下りると、僕と向き合った。


「私、ウェルスとは合わないと思う」


 何だこれは? 急展開すぎてよくわからないけど、僕は今、振られているのか?


「今日のことでよくわかったの」


「待って。僕と何が合わないっていうの?」


「……これまで何度かデートをしたけど、その時は許せる範囲だった。でも、今日のことは我慢できない。本の順番を考えないなんて、私にはあり得ないわ」


 アーシャは至って真剣な口調だ。


「……それ、本気、なんだよね?」


 ナイフのような視線が僕を刺した。


「その言葉が証拠よ。私が冗談を言ってると思った時点で、もう合わないのよ」


「冗談だなんて思ってないよ! でも、本のことだけで合わないなんて判断するのは早すぎると――」


「じゃあウェルスは、自分が落とした本の表紙に、小さなへこみができたのに気付いた? ページをめくっている時にしわを付けたことに気付いた?」


「え……」


 僕の脳裏にその二つの場面が思い浮かぶ。本を落としたのは昼食の後。アーシャは「大丈夫?」と僕を心配してくれて言ったものと思ってたけど、あれは落とした本が「大丈夫?」と聞いていたのだ。そして、探し出した本を開いていた時、急に止められて自らページを開き始めた。その時は深く考えなかったけど、今思えばあれは、僕のページのめくり方が気に入らなかったのだ。僕は気にもせずしわを付けていたに違いない。アーシャはそれを見ていられず、僕を止めたんだ。これが理由……これが理由?


「ごめん。まったく気付かなかった。でも、こんな小さなことで――」


「小さなこと?」


 アーシャが鋭く僕を見る。しまった。言葉を間違えた……。


「何と言われようと、私には大きなことなの。合わないと知った以上、理解してもらわなくても結構よ」


 ふん、と顔をそむけると、アーシャはまた本の整理を始めようとする。すべてが終わりそうな空気……こんな終わり方なんて、僕は認めたくない!


「アーシャ! まだ続けられるよ。僕が気を付けるから、こんな些細な理由で――」


「また言ったわね……!」


 ん? 僕は何て言ったんだ……? アーシャの表情が見る見る恐ろしくなっていく。


「正直に言うけど、本当はウェルスを家に入れたくなかったの。でも、付き合ってる以上はいつか家に呼びたいとは思ってたから、こうして招いてみた。そうしたら案の定、触るもの全部ぐちゃぐちゃよ。本も椅子も――」


「椅子? 何のこと?」


 アーシャは呆れた表情をした。


「やっぱり気付いてなかったのね……踏み台代わりに持ってきた椅子のことよ」


「ああ、それが何だって言うんだ?」


「勝手に動かさないでよ」


「だってそれは、踏み台があるって知らなかったから――」


「そういうことじゃない!」


「……?」


 僕は首をかしげた。アーシャがなぜ怒っているのか、理解できない。こんな僕の気持ちが見えたのか、アーシャは苛立ちを隠さずに言った。


「動かしたんなら、ちゃんと元の位置に戻して」


「僕は戻したじゃないか。居間に持っていって――」


「ウェルスは戻してないの! 私が言ってるのは、正確な定位置に戻してってこと!」


 アーシャの語気がだんだん荒くなっていく。


「定位置は、つまり元の位置ってことだろ? 僕はきちんと――」


「わからない人ねっ……」


 アーシャは僕の腕を強く引っ張ると、居間に連れていった。そして、僕が座っていた椅子を指差す。


「これ!」


 言われてじっと見つめるが、特に変わったところはない。


「この椅子は、初めからこの位置にあったと思うけど」


「私から見ると、これは定位置じゃないから」


 僕を睨みながらアーシャは言った。これが定位置じゃなきゃ、正解は何だって言うんだ? すると、アーシャは椅子の背もたれを掴むと、わずかに向きを変えるように動かした。


「これが正しい位置よ」


 そう言われても、さっきと何が変わったのか僕にはよくわからない。同じ光景にしか見えないけど……。黙る僕に、アーシャは怒鳴るように言った。


「椅子は、机に対して正面を向いてなきゃいけないの。わかる?」


 この椅子はずっと正面を向いていたはずだ。アーシャは何を言っているんだ? 何も反応しない僕に、アーシャは続けた。


「だから、角度が一度でも違ったり、左右どちらかに寄ってたりしても、それは定位置じゃないの!」


 ……角度? 椅子の角度まで決まっているっていうのか? 僕は思わずアーシャの顔を凝視していた。


「ウェルスは机の横に置いたり、壁際に置いたりで、まったく気にしてなかったけど、私はそれが気持ち悪くてしょうがないのよ!」


 言葉通りの表情をアーシャは浮かべていた。思い返すと、アーシャが一人で居間に戻った時があった。僕が椅子を戻した直後だ。そう言えばあの時、僕は椅子を定位置には置かず、机の横に置いてしまった。アーシャはすぐそれに気付いたんだ。それと、二人で居間に戻った時も、壁際に寄せていた椅子をアーシャはすかさず定位置に戻していた……。


「一度決めた位置を、私は勝手に変えてもらいたくないの。それが家族でも恋人でも関係ない。だから……雑な人とは付き合えないわ」


 雑な人――初めて言われた言葉だ。自分では雑な性格とは思っていなかったけど、アーシャから見ると、僕は我慢できないくらい雑なんだろう。でも、僕から言わせれば、アーシャはかなりの几帳面で神経質だ。人並みを超えている。椅子の角度まで気にするなんて、僕には考えられない細かさだ。それを日常だと言う女性と、そんなこと気にしたことのない男性が、この先も上手く付き合っていけるか――答えは考えるまでもなさそうだ。


「もっと早く、知っておけばよかったわね」


 溜息混じりにアーシャが言った。それはこっちだって同じだ。


「今日は、お役に立てなくてごめんなさい。それじゃ……さよなら」


 何の躊躇もなく、アーシャはあっさりと別れの言葉を告げた。無表情で僕の顔を見ている。何だ? 僕にも何か言えというのか? 振られた男が何を言えばいいのか。未練丸出しですがりつくわけにもいかない……。正直に言うと、僕はまだアーシャとは別れたくない。僕にしてみると几帳面さは確かに度が過ぎているとは思うけど、別れる理由になるとは思わない。でも、アーシャにはこれで十分らしい。受け入れられないのなら別れるのみという意思が固い。今も、僕のことを冷めた目で見ている。このアーシャに言う言葉なんて、何も思い浮かばない。


「……どうしたの? 本の整理は私がやるから、ウェルスは帰って」


 そう言うと、アーシャは踵を返して隣の部屋へさっさと行ってしまった――まったくの勘違いだった。アーシャが僕を見ていたのは、何か言葉を待っていたんじゃなく、早く帰るのを待っていたのだ。そうわかって、僕は恐ろしくなった。つい数時間前までは和やかに会話をしていたのに、別れを告げるとこれほどまで冷たく変われるのか。会う時間は短くても、僕達は恋人だったのだ。それがここまで……。


 抜け殻のような体を引きずり、僕はアーシャの家を出た。外はまだ昼下がりで明るい。でも、この明るさも僕の心には届かない。すべてが真っ暗闇だった。


「アーシャ……」


 涙がにじむのをこらえながら歩いていた。一緒になりたいと思っていたのに、気持ちを確かめようと考えていたのに、まさかその前に振られるなんて! アーシャの冷めた目ばかりが脳裏によみがえって、あの可愛い笑顔がなぜか思い出せない。記憶からもアーシャは離れていくのか……。


 つま先が足元の段差に引っ掛かって、僕は転びそうになった。ふと周りを見渡すと、そこは見知らぬ場所だった。ふらふらしながら歩いていたら、いつの間にか来たことのない場所まで歩いて来ていたらしい。でもどうでもいい。僕にはもう生きていく気力がない。彼女に振られ、呪いを解く方法もわからず仕舞い。結局僕は今日、何をしに出かけたんだ? アーシャの本をぐちゃぐちゃに並べるため? 呆気なく振られるため? それとも、苦手なハーブティーとピクルスを克服する機会を得るためか? アーシャがいないなら、克服する意味もないけど。……そう言えば胸のむかむか、いつの間に消えたんだろう。あんなに気持ちが悪かったのに。これは克服したと言えるのか? いやでも、食べた時の味と食感を思い出すと、やっぱり――


「うぅ……!」


 急な吐き気に、僕は道端の草むらに頭を突っ込んだ。我慢していたものが一気に出てきた。思い出した途端、これだ……。


「あの、大丈夫ですか?」


 通りすがりのおばさんが、心配そうに声をかけてくれた。僕は顔を上げず、片手を振って答える。その様子に大丈夫そうだと判断したのか、おばさんは静かに通り過ぎていった。


「……はあ、今日は散々だ」


 胸だけがすっきりした僕は、とぼとぼと見知らぬ道を歩いていった。

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