第8話 道具屋I

 怪人αこと、憂助との別れから数ヶ月後、

 「おい、邪魔するぞ」

 握り飯や安値の総菜と言った簡単な手土産を持った篠村刑事が新田私立探偵事務所へと訪れました。目的は唯一つ、暮島が探偵事務所に引き篭もってしまったと小耳に挟んだ為、暮島の様子を見ようと思い至ったのでございました。鍵の掛かっていなかった玄関をガチャン…と開け、事務所の内へと足を踏み入れますと、事務所の窓に取り付けられたカーテンは全てピシャリと隙間なく閉ざされ、まるで闇夜がぎゅっと閉じ込められているかの様な空間が広がっておりました。そして、眼前に広がる光景を前に篠村刑事は哀しみの宿った何処か空元気な笑みを口元に浮かべながらも軽く吐息を吐き捨てました。

 「探偵の嬢ちゃん、もう夜はとっくに明けているぞ。カーテンは開けないのか?」

 来訪してきた篠村刑事からの問い掛けに、事務所の奥、賢助のデスクの上にて伏せる真似事をしていた暮島は、

 「カーテンを開け、陽光を浴びた所で何一つ変わりはしませんよ。何せ、私の心の中に巣くう闇夜は未だ明けていないのですから…」

 と、心ここに在らずと物語る屍の様な瞳を浮かべながら答えました。しかし、この様な有り様になってしまうのも致し方がないことなのであります。何せ、短い期間の内に三人もの大切な人達を相次いで失ってしまったのでありますから。仮令たとえ、馬鹿の一つ覚えの並外れた前向きな人間であろうとも酷く傷心し、船攫を攫う津波の如き強大な悲しみの余り自分と言う者を見失ってしまはずです。そして、正に今、暮島は津波に攫われ、悲しみの海にたった一人で溺れて居るのであります。

「そうか…いや、そうだよな。忘れちまいそうになるが、嬢ちゃんはまだ大人じゃない…立派な子供だ。それなのにここ最近の体験ときたら、誰がどう見ても余りに残酷なものばっかりだ……だが、絶望するのは早いんじゃないか?」

 「それは一体…どう言う事ですか?篠村刑事」

 伏せていた顔を上げ、眉間にしわを寄せながらも問いかけてくる暮島に、篠村刑事は口元に微笑みを浮かべながらデスクの上に一通の大きな茶色い封筒を静かに置きました。

 「これは一体何なのですか………?」

 「答えは開けてみれば分かるさ」

 篠村刑事からの返答に、暮島は小首を傾げながらも封を切り、中に収められていた幾数枚もの書類を取り出し、渋々と目を通しました。すると、茶色い封筒の中に収められていた資料には怪人αを失ったあの火災の日についての非公開の情報書類でありました。そして、しばらくも経たぬ内に暮島はとあるページで次々と書類をめくる手を止め、其処に書いてあるはずのない、あり得るはずのない一文を何度も々々々、食い入る様に繰り返し、読み直しました。

 読者の皆様は暮島の目を通した書類に一体どの様な内容の一文が書き記されていたと推測されておられるでありましょうか。答えは次に書き記す事と致しましょう。


 ………火災現場における死傷者、確認されず………


「しっ……死傷者…確認されず…?つまりこれは…いっ、一体これはどういう事なのですか?篠村刑事」

 死傷者、確認されず。つまり、業火に呑まれた筈の怪人αこと、憂助の死体が見つかっていないと言う一文に暮島は溢れんばかりの安堵と、疑心の感情に呑み込まれ、酷く動揺しながらも問いかけました。すると、篠村刑事は、

 「どうもこうも、見ての通りの事柄だ。彼の火災現場で怪人αの…いや、憂助の遺体は発見されなかった」

 と、端的に答えました。

 「捜査が誤っていると言う可能性は…」

 暮島は当然篠村刑事の言葉を一言一句聞き逃さず、何から何まで疑いました。しかし、暮島のこの疑いに篠村刑事は答えました。

 「勿論俺も疑ったさ。最初は到底信じられなかった…だから、ここへと来る前、俺自身の目で徹底して調べてきた。そして、確かめてきた」

 「そっ、それじゃあ……」

 「あぁ、彼奴あいつは…憂助はまだ何処かで生きている。死んでなんかいなかったんだよっ!」

 篠村刑事から言われたこの一言を聞いた途端、内に渦巻いていた疑心の感情が一切の欠けらも残さず消え去り、心に残った安堵の感情に身を委ねた暮島はボロボロ…と春日の様に優しき温もりの籠もった涙を瞳から流しました。




***




 死んでしまったと思っていた憂助がこの現し世の何処かで生きていると知った暮島は内に閉じ込めていた鬱屈な夜の帳を開け、事務所の中に満ち溢れた闇を祓う様にカーテンを開けました。

 外界からは暮島が前を向き、立ち上がった事を祝福するかの様な眩しき日の光が差し込み、事務所内に巣くっていた闇を祓い去りました。

 待ちに待ち侘びた、探偵の帰還であります。

 行方を暗ませている憂助の手がかりを探る為、暮島は篠村刑事の持ち込んだ、世間に未公開の資料をデスク上に広げ、その一連の資料へと食い入る様に目を通しました。そして、その最中、暮島は一つの疑問を抱きました。

 「そう言えば。篠村刑事、この資料の数々はどうして世間に公開されていないのですか?」

 暮島のもっともな質問に、篠村刑事は「ぬぅ…」と小さなうなり声を閉口した口の中に響かせました。眉間を狭め、目を鋭く細めて何かに渋りながらも篠村刑事は頭をワシャワシャ…とき回し、暮島へと答えました。

 「信憑性は他所へ置いておくとして。一件の興味深い垂れ込みがあってなぁ…」

 「垂れ込み、ですか…?」

 「あぁ、どうやらこの事件には『セイヴィア』が関わっているようなんだ」

 「セイヴィア…」

 篠村刑事の告げた『セイヴィア』と言う外国より渡ってきた様な聞きなれない言葉に覚えのなかった暮島は、

 「それは一体、何の名なのですか?」

 と、問いかけました。すると、篠村刑事は懐中から愛用している一冊の手帳を取り出しました。この手帳には無数もの犯罪組織、指名手配者、凶悪事件等々に関する情報が一切の余白を許す事なく詰まっておりまして、勿論、『セイヴィア』もその例外ではありませんでした。

 「『セイヴィア』と言うのは、亜米利加アメリカ和蘭オランダ英吉利イギリス印度インド仏蘭西フランス等々、世界各国に根を張る凶悪犯罪組織の名だ」

 「そのような組織があるのですか?」

 「あぁ、探偵の嬢ちゃんが知らないのも無理ないさ。何せ、この犯罪組織の事は俺ら警察でも、殆どと言っても過言では無い程に詳細が何も分かっていないんだからな。全く、怨霊の様で気味の悪い奴等だよ。だがな、たった一つだけ分かっている事があるんだ…」

 「それは一体、何ですか?」

 暮島からの問いかけに、篠村刑事は答えました。

 「奴等は…セイヴィアは俺達警察やそれに与する犯罪者をまるで霞を払う様に平気で殺す。そして、その為ならば如何なる手段をいとわない」

 「それじゃあ、憂助さんはセイヴィアに」

 「あぁ、目を付けられたんだろう。怪人αの内に眠る人格の一人、名探偵Aに…名探偵Aは、賢助は誰もが知っている英雄だ。故に、セイヴィアの奴等に狙われても何ら不思議は無い」

 篠村刑事の見解を聞き受けた暮島はデスク上に広げた資料を纏め上げ、手帳や万年筆等の様々な道具と共に鞄へとしまい込ました。

 「嬢ちゃん…真逆、今回の事件を調べるつもりか?」

 「はい、その真逆です。憂助さんがセイヴィアに狙われているのなら助けにいかなくちゃ」

 賢助から貰い受けた赤茶色の二重廻しを身に纏い、同じく赤茶色のハンチング帽を頭に被った暮島は急いで靴を履き、ドアノブへと手を掛けました。すると、自ら危険へと飛び込んで行こうとする暮島を、篠村刑事は大きな声を上げて呼び止めました。

 「行っては駄目だ!この事件にこれ以上関われば…セイヴィについて調べたら、嬢ちゃんの命まで危険に晒される事になるんだぞっ!」

 「心配してくれて、ありがとうございます。篠村刑事。でも、ここで私が動かない訳には行かないのです」

 「どうしてだ?どうして、探偵の嬢ちゃんはそこまでして…」

 不思議そうに問いかけてくる篠村刑事に、暮島は口元に笑みを浮かべながら答えました。

 「どうしてって、理由なら刑事さんが言っているではありませんか」

 「俺が…理由を……?」

 「私は探偵です。そして、憂助さんは私の大切な依頼人なのです。「依頼人が今、何処かで危険に晒されているかもしれない」これ以上に動かない理由がありますか?それに、私は賢助さんの…名探偵Aの相棒ですから。相棒の窮地へと駆けつけるのは当然の事ですよ!」

 そう、篠村刑事へと告げますと、暮島は探偵道具をしまい込んだ鞄を肩に掛け、一切恐れる事なく、真っすぐに生き々々と輝いた瞳で前を向き、外界へと飛び出して行きました。

 探偵事務所の中に一人きりとなってしまった篠村刑事は「はぁ~…」と呆れながらも溜め息を吐き捨てました。しかし、一方で、何処か心底嬉しい感情を抱きながらも髪をワシャワシャトと掻き、微笑みながら呟きました。

 「全く、似た者同士って訳だ。賢助と…俺は」



***




 S街にて、

 「御協力、ありがとうございました」

 街行く人々へ憂助とセイヴィアに関する聞き込みを続けておりました。しかし、今の所思い通りに結果は得られておらず、捜査の進捗は停滞しておりました。

 「矢張り、手がかりはこれだけですか…」

 失意を横目に、暮島は手帳のとあるページへと視線を向けました。そのページには篠村刑事から借り受けた資料より描き写した一つの印の様な絵の様なものがあるのですが、これが何ともおかしなものでありまして。何かの枝?の様な物が小瓶に閉じ込められている様な…そう言う感じの絵なのです。この絵が一体何の絵なのか、取るに足らぬ些細な情報なのか、それすら未だに暗中、闇の中であります。

 「一体どうすれば……」

 四方八方を塞がれていた暮島はぬぅ~…と、唸り声を上げ、参ってしまい、悩み込みました。読者の皆様はきっと、「悩んでいる暇があれば脚を動かすべきだ」そう仰ることでしょう。ですが、暮島には最早悩む他、抗う術が見当たらなかったのです。

暮島が立ち往生していた、その時、

 「姉ちゃん、退いてくれぇ!」

 何処かから声が掛けられたかと思った矢先、相当に急いでいたのでしょう。一人の未だ幼い少年が暮島にバンッ…とぶつかってきたかと思うと、何処かへと走り去って行ってしまいました。

 「御免よ、姉ちゃんっ!」

 「何だったのでしょうか…今の子は……」

 暮島は元気一杯に走り去り行く少年の後ろ姿を眺めながら、ぶつかった左腰辺りに手を当てました。すると、一体どうしたと言うのでしょう。暮島は顔を真っ青に染め上げ、酷く慌てた様子でズボンのポケットの中身を確かめました。すると、どうでしょう、其処にある筈の物がないのです。

 「な…ない……お金が、ない………っ!?」

 そう、暮島は先程、ぶつかった際、少年に財布を見事くすね盗られてしまったのです。そして、その財布の中には帰りの列車に乗るために必要な、大切なお金も一緒に這入はいっておりました。

 「えっ!ちょっと君、待ってぇぇ!!!」

 大切な財布、強いてはお金を取り戻す為、暮島はあっという間に姿をくらませてしまった少年の後を急いで追いかけて行くのでありました。




***




 「何だよ、たったのこれだけか…」

 人気の少ない薄暗き路地へと逃げ込んだ少年は、暮島より掏摸すりとった財布の中身を失望と哀れむ目で確認しました。

 「計2054円か…これじゃあ全然目標に届かないじゃねぇか……」

 酷く落胆した様に溜め息を吐いた少年は盗った財布をズボンのポケットへとしまおうとしました。しかし、それを狙っていた一人の男が堂々と背後から横取りしました。

 「何だ掏摸すりか、一丁前な悪餓鬼になったもんだなぁ~岩井」

 聞き覚えのある男の声に少年元い、岩井は背後へと振り返りました。すると、そこにはとある一件により岩井が知り合った破落戸ごろつきの織田の姿がありました。

 「織田っ!お前、どうして今まで姿を暗ませていたんだっ!早く約束の金を払ってくれよ!!!」

 面を合わせるや否や必死になって怒鳴る岩井に、織田は心底面倒くさそうな表情を浮かべて見せました。

 「全く、うるせぇなぁ〜お前に渡す金はねぇよ」

 「何でだよ!それじゃあ夜雲の言っていた話と、約束が違…」

 岩井の問いただしを、織田は遮る様にして答えました。

 「お前の作った起爆装置、確かに動きはした。だが、標的だった名探偵、名探偵Aの…新田 賢助の死体が未だ確認されていない。だから、ボスは計画失敗と判断した。計画が失敗した時は金を払わない。契約する時に確認しただろ?」

 一枚の薄っぺらい契約書を片手に、得意げに振る舞う織田に岩井は必死に縋りました。

 「そんな…計画を失敗させたのはお前達セイヴィアのせいじゃないか!俺は今すぐ金を集めないといけないんだよ!妹の…鈴華の病気を治す金を…っ!」

必死になって縋り付いてくる岩井に織田は一切取り合おうとしませんでした。それどころか、織田はしつこく溝鼠の様に付き纏ってくる岩井の胸ぐらを掴み上げ、手直な壁へと力強く投げつけるのでました。

 「煩いんだよ、餓鬼!何ならお前からボスに話をつけてくれたって良いんだぜ。まぁ、問答無用で殺されるのが落ちだがなぁ~」

 「……っ!」

 織田の威圧に絶え切れなくなった岩井はギリギリと悔しさを噛み締め、必死に織田を睨みつけながらも涙をボロボロと溢れ落としてしまいました。すると、そこへ、

 「なるほど、そう言うことでしたか…」

 一人の少女より発せられたたったの一声が、風向きを変えた。

 「あぁ?何だ、お前…」

 織田からの問いかけに、少女は口元に笑みを浮かべながら答えるのでありました。

 「私ですか?私は新田私立探偵事務所の探偵、暮島 清子です」



***




 新田 憂助の関係者である暮島と邂逅した織田は驚いた様子でその場を立ち上がりました。

 「おっ、お前が暮島か。話には聞いていたが、真逆こんな場所で会うことになるとはなぁ」

 織田からの問いかけに、暮島は腰に携えていた十手を手に取り、答えました。

 「えぇ、盗まれた財布を返してもらいに来たのですが。どうやら、鴨がねぎをしょってやって来た様ですね…セイヴィアの手下さん」

 暮島は確と己が眼で目撃致しました。何かの枝が小瓶に閉じ込められている様な絵。この絵が織田の図太い腕に刻まれていたのです。

 「姉ちゃんは…さっきの……!?」

 妹の病を治す為、人込みに紛れて財布を掏摸盗ったばかりの暮島の姿に岩井は顔を強張らせ、気まずそうに振る舞いました。一方で、このような反応を見せる岩井に暮島は視線を向けました。併し、それは盗っ人へと向ける冷たく冷えきった視線ではありませんでした。暖かく、温もりを孕んだ守るべき者へと向ける視線でありました。

 「私の財布を盗んだ少年、少しの間そこで壁にもたれ掛かっていて下さい」

 十手を構えながらそう告げる暮島に織田は躊躇無く、力任せに剛腕を振るい、擲りかかりました。単純極まりない攻撃ではございますが、これにあたってしまっては華奢な体つきである暮島にとって一溜まりもありません。岩井がもう駄目だと勝手に諦めかけていた、正にその時、織田の拳を暮島は難なく交わしてしまうのでありました。最初は偶然だと思い、織田は何度も何度も擲り続けました。併し、何とも不思議なことに暮島は織田の攻撃を何度も何度も、難なく交わし続けるのです。偶然では無く、最早奇跡を目撃しているかの様でありました。

 「何だ!?何で当たらないっ!?!?」

 今までに無かったこと故、酷く困惑し、動揺していた織田に暮島は再び口元に笑みを浮かべ、握り締めた十手を用いて男の顎を打ちました。すると、暮島の読み通り脳が揺れ、意識が朦朧とし、織田はそのまま意識を失って地べたへと倒れ込んでしまいました。

 「真逆、死んだの…?」

 壁へと凭れ掛かっていた岩井の問いかけに暮島は手を差し伸べながら答えました。

 「いいえ、死んではいません。むしろ、そう簡単には死なせません。ようやく探し出した手がかりなのですから。彼は唯脳震盪を起こしているだけです。これで暫くは動けないでしょう」

 暮島が一つ答えますと、岩井は山彦の様にまた一つ問いかけ返しました。

 「姉ちゃん、さっきは一体どうやって織田の攻撃を全て避けられたの…?」

 岩井からの問いかけに、暮島はニヤニヤと口元に笑みを浮かべ、立てた右の人差し指で己の頭を指しながら次の様に答えました。

 「答えは簡単、推理を使ったのですよ」




***




 「相手に攻撃をする際、貴方はどうしますか?」

 織田の手足をロープで拘束し、警察へと引き渡した後、場所を移す最中、件の質問に答える為、暮島は前を歩く岩井に問いかけました。すると、岩井は少々頭を悩ませながらも答えました。

 「其れは勿論、攻撃する相手を見て…」

 岩井が答える最中、暮島は「待っていました!」と言わんばかりの大きな声量で発しました。

 「そう、眼です!剣豪の斬撃や銃の名手の射撃…まぁ、要するに如何なる攻撃であろうと、人が攻撃をする際、何よりも先に必ず目が動く。狙いを定め、其処に攻撃を放つ。私は其れを見ていたのです」

 「視線を呼んで攻撃を躱す…そんな芸当聞いたことがないよ」

 「意外と知られていないことなのですよ。正に灯台下暗しと言った所でしょうか…これ色々なことに応用できるのですよ。仮令たとえば、喧嘩や武術、それに先程私にやって見せた掏摸にも」

 返してもらった財布をちらつかせながら告げる暮島に岩井は足下の地面へと視線を向け、俯きながら答えました。

 「あれは掏摸じゃない。ちょっと借りただけだ」

 「借りたって、一体何の為に?」

 暮島の問いかけに岩井は足を止めました。俯いていた視線を上げ、向けた先には一件の小さなおんぼろ小屋がありました。

 「何の為にって決まってんだろ。俺の妹を治すためだ…」

 そう言いながらも岩井はその小屋の扉の鍵を開け、家内へと足を踏み入れました。その小屋の家内は隧道の中の様に薄暗く、暮島は居るだけで気持ちが沈んでしまいそうでありました。

 「この子は…」

 暮島は岩井に連れられ家内の奥、丁度正面に見える襖を開けた先にある小部屋にて、驚きの念を隠せずにおりました。そこには蒲団の上で横になり、苦しそうに息をし、もがく一人の少女の姿があったのです。

 



***




 「この子は…」

 「妹の鈴だ。生まれ付き身体が弱くて、今でも病に苦しんでいる。でも…」

 「お医者様に診てもらうお金が無い…と……」

 事情を全て把握した暮島は肩にかけていた鞄を下ろし、鈴の元へと静かに歩み寄りました。すると、

 「少し見せてもらいますよ」

  そう告げますと、医学の心得を持ち合わせていた暮島は鈴の額へと手を当て、体温を確かめました。

 「体温は約…39℃弱……と言った所でしょうか…」

 「姉ちゃん、医者だったのかい?」

 「いえ、私は唯の探偵ですよ。お父さんが医者で、よく医学の知識を教えてくれたのです」

 鈴に熱があることを知った暮島は下ろした鞄の中から迷わず聴診器をとり出しました。心音を聞くイヤーチップを耳に当て、岩井に協力してもらい鈴の纏っていた衣服を脱がせると鈴は手慣れた手つきで聴診器のチェストピースを鈴の腹部に当てました。すると、丁度肺の辺りから、案の定、ゴロゴロゴロ…と水泡音が聴こえてきたのです。

 「やっぱり肺から水泡音が聴こえる。この症状をかんがみるに…」

 「何だ?何か分かったのか!?分かったなら教えてくれよ!」

 岩井からの懇願に暮島は聴診器を外し、一つたりとも隠さず答えました。

 「鈴さんを苦しめているこの病気…それは、肺炎です」




***




 「…肺炎……それって直る病気なのか?」

 岩井の問いかけに、暮島は鈴の容体を一つも見落とさぬようジックリと観察しながら答えました。

 「断定は出来ませんが…まだ、可能性はあります。肺の音を聴いた限りまだ初期段階のようですし、ペニシリンを投与すれば恐らく…」

 鈴を診断し、妹の病を割り出して見せた暮島に岩井は涙を浮かべ、必死になって懇願しました。

 「お金は…金は何とかする!約束するよっ!だから、妹を…鈴を助けてくれっ!」

 岩井の願いに暮島はどうにか出来ぬものかと考えました。そして、考えに考えた末、暮島はとある決断を下しました。

 「貴方の名前を聞いても良いですか?」

 「…岩井 修……」

 「どうでしょう修君、私の元で働いてみる気はありませんか?」

 暮島からの提案に岩井改め、修は困惑致しました。

 「どうして、俺を…?」

 岩井からの問いかけに、暮島は微笑みながら答えました。

 「丁度探していたのですよ、君の様な爆弾を作ってしまえる程の腕の立つ道具屋を…」

 「道具屋を探していた?でも…一体、どうして……?」

 「君に探偵道具を作って欲しいのです」

 



***




 一方その頃、織田を乗せた警邏車けいらしゃはとある街の街道を走っておりました。

 「くっそ…何で俺がこんなめに。くそ、くそ くそぉ……」

 華奢な体つきをした少女に、本来負ける筈のない喧嘩に負けた織田は途方もない程の悔しさや羞恥心を力いっぱいに噛み締め、ギリギリと歯音をたてておりました。すると、その時です。

 「なっ…危ない!!!」

 警邏車けいらしゃを運転していた警官の男が慌ててブレーキを踏み、ハンドルを切りました。進行先の路上に一人の漆黒色のハットを被った男が僅かにも動かず、正に不動でたたずんでいたのです。

 「ちょっと、そこの君。危ないじゃないか!こんな路上の真っ只中に立ってちゃ!」

 「車が見えんのか車が…っ!」

 運転席と助手席から降りた二人の警官の男は、一つ説教をしてやろうと漆黒色のハットを被った男の元へと歩み寄りました。すると、それまで不動であった漆黒色のハットを被っていた男が顔を僅かに上げ、背後に隠していた両手を出しながら答えました。

 「いやはや、すみません。とある男を待っていたもので」

 「誰なんだ、一体そいつは…?」

 「おや、ご興味がおありですか?」

 警察官からの問いかけに漆黒色のハットを被った男は不気味な笑みを浮かべながら、両手を警察官の面の前に出し、伸ばしていた人差し指を引きました。すると次の瞬間、二発の銃声が轟きました。

 「貴方方が運んで来て下さった、織田と言う興味を抱く価値も無い無能な男ですよ」

 漆黒色のハットを被った男の放った二発の弾丸は二人の警察官の頭部を貫き、例外なく二人の警官は即死した。そんな最中、警邏車けいらしゃの車内に取り残された織田は先程とは打って変わり、まるで豪雨に打たれる泥だらけの子犬の様にぶるぶると恐怖で震え上がっておりました。

 「まっ、まずい…まずい。まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい」

 「何がまずいんだ?」

 漆黒色のハットを被った男の声掛けに、織田はビタッと身体を岩の様に硬直させました。

 「ボ…ボス……すみませんすみませんすみません…!」

 「幾ら必死になって謝罪しようが無駄だ。お前は失敗した。失敗をする無能な者は私の組織に…セイヴィアに無用だ」

 そう紙屑を屑箱へと投げ捨てる様に軽く告げますと、漆黒色のハットを被った男は織田の額へと銃口を当て、引き金を引きました。その直後、街道には一発の心臓をえぐる様な鋭い銃声が鳴り響いた。




***




 「織田が、殺された…」

 この報を電話の受話器越しに篠村刑事より聴いた時、暮島は呆然としてしまいました。警邏車けいらしゃに居合わせていた警官ごと殺されてしまうだなんて、正に考えの外でございました。

 「姉ちゃん、織田が殺されたって…どういうことなんだ?」

 事務所内に新たに設けられた岩井専用の作業机にて、探偵道具を作っていた岩井が暮島に訪ねかけました。すると、暮島は電話越しに聴いたことを全て伝えました。

 「修君。どうやら、織田が誰かに殺されてしまったらしいのです。唯一のセイヴィアへ辿り着く手がかりだったのですが…」

 「彼奴が…そうか、死んだのか…所で、織田を殺したのは一体どんな奴なんだい?」

 「漆黒色のハットを被った男…としか未だ分かっていないらしくて……」

 「漆黒色のハットを被った…男……」

 暮島から聴いた男の特徴に、岩井は顔の色を真っ青に染め上げました。それもその筈。岩井には一つ、心の当たりがあったのです。

 「どうしたのですか?修君…どうやら顔色が悪い様ですけど」

 「姉ちゃん、そいつ…俺、知ってるよ……」

 「知っているって…一体何を?」

 「姉ちゃんの知りたいこと…その全てをだよ。そいつの名は夜雲、俺に爆弾を作るように依頼してきた奴…そして、セイヴィアって言う犯罪組織を作り出した張本人だよ」




***




 「セイヴィアの創設者…夜雲……」

 喫茶芝浜へと訪れた暮島と岩井は待ち合わせしていた篠村刑事と合流し、セイヴィアの組織に関する情報を共有した。

 「確かに、岩井少年の情報通り、セイヴィアの闇の内には一人、漆黒色のハットを被った正体不明の男が前々から確認されていた。こいつがセイヴィアのボスだったのか…」

 篠村刑事は茶色い封筒から一枚の極秘扱いとされていた写真を撮り出し、暮島と岩井へと見せた。すると、その写真には顔こそは見えなかったが、確かに漆黒色のハットを被った男、夜雲の姿が写っておりました。その写真は何処か物陰に隠れ、息を殺しながら撮ったのであろう…夜雲の姿は遠くに写っており、何処か朧げな後ろ姿のみを捉えておりました。

 「あぁ、間違いない。此奴だ…」

 「夜雲は何の為にセイヴィアを創ったのでしょうか…?」

 「彼奴は…夜雲は言ってた。俺は、犯罪の界の救世主セイヴィアになる…って」

 「……犯罪の界の救世主セイヴィアか…大層な浪漫派と言うか無頼派と言うか…まぁ、確かに其れが所以と考えれば、今までの犯行全てに合点が行く…」

 「其れは、一体どういうことですか?篠村刑事」

 暮島の問いかけに、篠村刑事は剣幕な表情を浮かべながらも答えた。

 「セイヴィアの連中は警察を狙った犯行が特に残虐極まりなくてな。時には原形が分からなくなってしまう程無残に惨殺し、時には身内を誘拐して拷問にかけ、時には同胞の精神を弄んだ末に病ませ、時には………」

 同胞の警官達が受けた仕打ちを思い出し、口にするたびに外道のセイヴィアに対する、夜雲に対する非常な恨み辛みが強く込み上がってきておりました。そして、それを物語る様に篠村刑事は拳を静かにグッ…と小刻みに振るわせながらも握り締めるのでありました。その様子を見て、暮島は悪を憎む正義の心に薪をくべ、夕暮れの日の様に熱く勇ましい闘志の焔を燃やしました。

 「捕まえましょう、私達の手で、夜雲も…セイヴィアの傘下の者も一人残さず全てっ!」

 暮島の言葉に岩井と篠村刑事は息をするのも忘れてしまう程、強く心を打たれるのでありました。しかし、岩井は少々弱気になりながらも訊ねました。

 「本当に俺達だけで彼奴等を…セイヴィアを倒せると思うのか?」

岩井の問いかけに暮島は微笑み、前を見ながら答えました。

「それは私にも分かりません…いえ、分からなくてもいいのです。だって、賢助さんならきっと迷わずにそう言う筈ですから!」

「「賢助なら」か…確かに彼奴ならそう言うかも知れないな」

「でっ、でも……」

「それに、安心して下さい修君。何も無策でこの様なことを言っている訳ではないのですから…」

「えっ!それって…!?」

「えぇ、私に一つ…良い考えがあるのです……」

 そう告げますと、暮島はニヤリと口元に笑みを浮かべて見せるのでありました。

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