第4話 怪人α(上)

 月曜日の早朝、C街の一角にあるオペラ館、俗称O館の正面入り口にて、幾数人もの新聞記者達が写真機、手帳、筆を手に「何卒我から…!」「我こそはっ!」「我こそ先に…っ!」とまるで餓鬼の様に他者を力の限り押し除け、睨み合い、今にも切った張ったの争いが起こってしまいそうなまでに激しく群がっておりました。そして、そんな新聞記者の彼ら彼女らをなだめるかの様に、数人の警官達が剣幕な様子で制しておりました。一体何時、何処から、どうやって聞きつけてきたのか警官の者達には皆目見当もつきませんでしたが…彼ら、新聞記者達がここまでして群がる目的に関しては容易に見当がつくのでありました。それは、O館の館内にて、普段なら大勢の観客達の歓声が飛び交う舞台の上で起きた、一幕の悲劇…いえ、新聞記者達の目線から申しましたら、一件の特種のためでありました。

 群がる新聞記者の者達をかき分け、やっとの思いでO館の中へと這入はいった篠村刑事とその部下の男、山代 准作刑事は一人の仏の前にて歩みを止め、唯々ただただ呆然ぼうぜんと立ち尽くすのでありました。

 仏は生前、売れない役者をしており性は男、名を黎元 隆人と言いました。死因は胸部を細身の鋭利な刃物によって貫かれた事による出血多量でありました。死因だけをかんがみたらそれほど珍しい仏ではありませんでした。しかし、その仏の死に様は幾度も様々な仏を見てきた篠村刑事から見ても実に不気味であり、何とも言葉にし難い異質な雰囲気を纏ったものでありました。

 仏は劇に使っていたのであろう西洋の王族を模した衣装を身に纏わされており、何本もの赤黒い仏の血液が染み込んだ麻縄で四肢や胴体を固定され、まるで神を拝むかの様な姿を広大な舞台の上で取らされているのでありました。

 人形の様に仏をもてあそび、異質に整えられた殺人現場の光景はまるで、愉快ゆかい遊戯ゆうぎでもしていたかの様でありました。そして、仏の足下には一枚のカードが…まるで、他の誰でもない私の仕業だと知らしめているかの様に残されているのでありました。そのカードは闇夜の様な漆黒色しっこくいろに染まり上がっており、そこに真っ白なインクでただ一つ、αと言う文字が大きく書かれてあったのです。

 読者の皆様にはもう、このあわれな仏を生み出した…人間離れした犯人の正体をお察し頂けたことでしょう。

 「先輩、この仏もしかして」

 「あぁ、この残虐で、悦楽とした芸当…間違えるはずもない…」

 遺体へ向かって両手を合わせ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えた篠村刑事は仏の足下に残されたαと書かれた漆黒色しっこくいろのカードを拾い上げるのでありました。

 今までに一体、何枚このカードを発見し、今の様に拾い上げてきたことでしょう。篠村刑事は手に取ったカードへと、まるで獲物を狩る蛇のように鋭く、険しい視線を向け、犯人の俗称を迷い無く告げるのでありました。

 「この仏は、怪人αの仕業だ」

 怪人αと言う名を聞いた途端、山代刑事は一気に表情を曇らせました。ですが、山代刑事が表情を曇らせるのも無理もない事なのでありました。何故かと申しますと、数多あまたの刑事達が血眼になって追えども追えども決して辿り着くことのできない…怪人αは実体を持たない暗闇そのものの様な存在なのですから。しかし、そのことを篠村刑事が知らないはずもなく、険しい表情を浮かべた篠村刑事は手に持った、怪人αの残したカードを山代刑事へと手渡しますと、懐中から一枚の名刺を取り出し、O館に備え付けられてある黒電話へと手を掛けるのでありました。

 「どちらへ電話を掛けるのですか、先輩」

 「ん?あぁ、そう言えば、お前はまだ彼奴あいつらと顔を合わせたことなかったな」

 「彼奴あいつら…ですか?」

 「まぁ、俺のだちみたいな奴らだよ」

 そう申しますと、篠村刑事は手に持った名刺の表面に刻まれた電話番号を尻目に黒電話のダイヤルを時計回りにカラララ、カラララ…と手慣れた手つきで回し、番号を入れ、とある人物へと電話を掛けるのでありました。

 篠村刑事が掛けた電話が一体誰へと繋がるのか…それは読者の皆様が物語を読み進めることによって、自然とお分かり頂けることでしょう。




***




 少々時をさかのぼりまして。

 「拝啓。父さん母さん、お元気でしょうか………」

 A私立探偵事務所にて、何処からか、いつの間にかふらりと帰って来ていた賢助が椅子に腰掛け、ぼそぼそと一人で呟き、頭を悩ませながらも文を書き上げておりました。どうやら、木曜から後は考助、月曜から後は賢助の人格が現世へと現れ、通常の者達と比べてとても短い己が人生を生きている様です。

 話を戻しまして、何故賢助は椅子へと座り、デスクへと向き合い、右手に万年筆を握り、一通の手紙を書いているのかと申しますと、賢助は毎月に一度、実家に自らの近況や生活の様子を知らせる手紙を欠かさず送っているのです。

 「賢助さんのお父様とお母様はどのようなお人なのですか…?」

 手紙を書いていた賢助の代わりに朝食を作り、食卓の上へと皿を並べていた暮島からの何気ない問い掛けに、賢助はまるで自慢話をするかのように、鼻高々と答えました。

 「俺の両親か?そうだなぁ〜、父さんはとっても賢い人で、何でも聞いたら教えてくれるんだ。母さんはとっても優しい人で、俺が失敗しても決して怒らず、励ましてくれるんだ」

 「そう…でしたか、とても良くできた方々なのですね」

 賢助の言葉を聞いた、その刹那の間に疑問や違和感の様な…そんな得体の知れない感情が暮島の脳裏をよぎりました。しかし、それが何に所以ゆえんするものなのか、一体何を意味し訴えようとしているものなのか、その時の暮島には理解することができませんでした。

 数十分程時が経ちまして、特段用事もなく暇を持て余しておりました暮島は小説を隅から隅までじっくりと読み進め、手紙をポストへと出し終えて来た賢助は新聞の記事を読みながら時間を潰しておりました。しかし、次の瞬間、時間を持て余していた二人の過ごす事務所内へ突如、ジリリリ、ジリリリ…と黒電話の呼び鈴が鳴り響きました。「一体何事だ」と想像を巡らせながらも賢助が黒電話の送話器を取りますと、送話器の向こう側から聞こえて来ました声は、篠村刑事のものでありました。篠村刑事の話しを聞きますと、どうやら、彼は探偵事務所から少し離れた場所に位置するO館で起きた殺人事件の犯人、怪人αの逮捕に名探偵Aの助力を貰いたいとのことでありました。個人的に怪人αの殺人事件について調査をしていた賢助は、こころよく了承の返答を告げると送話器を黒電話へと戻しました。

 「仕事だ。暮島君、行くぞ。篠村刑事からお呼びがかかった…」

 そう言いますと、賢助は腰の革ベルトに十手を携え、机の上に置いていた沢山の透明で綺麗なビー玉の入った蝦蟇口財布がまぐちざいふ程の小さな麻の巾着袋を懐中にしまい込み、ハンガーに掛けていた茶色の二重廻しとハンチングハットを身に纏いました。一方、篠村刑事の名が上がった暮島はもしやとは思いながらも賢助へと尋ねました。

 「篠村刑事ってことはもしかして…」

 暮島からの問い掛けに、賢助は全くもって先の読めぬ面白い推理小説と出会った童の様にニタニタと微笑みを浮かべながら応えるのでありました。

 「あぁ、怪人αが動いた。俺達探偵の出番だ…っ!」




***




 篠村刑事からの依頼を引き受けた後、性や人相と言ったあらゆる情報が謎と言う名の暗闇に包まれていた世間を震撼させている快楽殺人鬼、怪人αの正体を探る為、賢助と暮島はC街の一角にあるオペラ館、俗称O館の付近へとやって参っておりました。そして、見知らぬ地右往左往しながらも、二人で手分けをし、C街の道を行き交う様々な者達に怪人αについての聞き込みを行いました…が、しかし、案の定と言った所でしょうか、怪人αについてのめぼしい情報を得られることはできませんでした。ですが、裏を返せば、めぼしくない情報は得ることができたのです。それが一体どう言った内容のものなのか…それはまたの機会に話すと致しましょう。

 しばらくの間だ、根気強く聞き込み調査を試みて見たものの、これと言った成果は得られず「このままでは駄目だ」と早期の内に悟った賢助はC街の一角にある、少々…いえ、相当と言っても良い程に治安の悪い闇の区域、C区域へとおもむくのでありました。

 「ここから先はあのC区域…ならず者達の住処だ、財布をくすね取られないよう気をつけるんだぞ暮島君」

 「はっ、はい…でも、いざという時は助けて下さいね?」

 「さぁ、そいつはどうかなぁ〜」

 暮島を揶揄からかう様にそう言いながらも、賢助は注意深く辺りを見渡し、警戒しながらも、まるで冒険に旅立つ探険家のような微笑みを浮かべるのでありました。

 日が暮れ、次第に街中が薄暗くなり始めて来た頃でしょうか。捜査を切り上げ、事務所へと帰るため、歩みを進めていた賢助と暮島は後もう少しでC区域から出る所まで来ておりました。しかし、その時でありました、二人の正面から複数人、見るからに柄の悪い男からボロボロな服を纏った貧困層の男と言った様々な者達が賢助と暮島の元へと向かって歩いて来るのでありました。そして、後方からも同じく様々な柄をした者達が複数人、迫って来るのでありました。そして、あっという間に四方を囲まれてしまい、退路を完全に断たれてしまった賢助は焦りを隠すため、口元に苦笑いを浮かべるのでありました。そして、懐中から右手で何かを取り出しますと、そのぎゅっと何かを握った右手で暮島をかばう様に腕を伸ばし、すかさず左手は腰に携えてある十手の柄へと回すのでありました。

 「どうやら此奴こいつら…俺達の客みたいだな」

 「そっ、そう…みたいですね。賢助さんこの人達全員その十手で倒せそうですか?」

 「いや、流石にそれは無理があるだろう。この数…ざっと数えただけでも十人以上は居るぞ」

 「そっ、そんなぁ……」

 己はこれからこの恐ろしい者達に暴力や拷問ごうもんを受ける事になるのかと想像しただけで、暮島の身体からだは恐怖のあまり、小刻みに震え始めてしまいました。しかし、一方で、賢助は苦笑いを浮かべているだけで身震いもせず、瞳からは未だ希望を見失っていない様に感じ取れました。

 「お前達か、先生の事を嗅ぎ回っている二人組は…」

 賢助へと最初に話しかけたのは柄の悪い男でありました。その男は、手に真鍮製のパイプを持っており、その他の者達も皆、血痕のようなものが染みついた木刀やギラギラと輝くメリケンサック、鋭利に割れた茶碗と言った何かしらの凶器となり得る物を持ち合わせておりました。

 ここで一つ、読者の皆様にはお伝えしておかなければならない事があります。そうです…それは、賢助と暮島が少し前にC街のO館付近にて手に入れた、めぼしくない情報についてであります。

 めぼしくない噂…それは、「怪人αには手下の者達が居て、その者達が怪人αの犯行や逃走を手助けをしている」と言った内容のものでありました。これは直接的には怪人αに関係はなく、眉唾程度の信憑性でありましたが、賢助がC区域へと足を踏み入れようと考えたのはそれが所以であり、始まりでありました。

 「先生…それは、もしやあの快楽殺人鬼、怪人αの事かな?」

 賢助からの問い掛けに柄の悪い男は表情をしかめ、発言の一部を強く否定するのでありました。

 「違う、あの人は単なる快楽殺人鬼などではない!我々迷い人をこの地獄の様な現し世から解き放って下さる、解放者なのだ…っ!」

 「ほう、解放者か…だが疑問だな。それと、快楽殺人鬼の何が違うと言うのだい?」

 「そうか、分からないか。それなら、嫌でも分からせてやる…!」

 柄の悪い男はみるみるうちにしかめていた形相を、まるで鬼の様な形相へと変化させ、手に持っていた真鍮製のパイプを賢助へと目がけて躊躇ちゅうちょ無く振りかざしました。すると、賢助は「待ってました」と言わんばかりに十手でそのパイプを受け止め、右手で柄の悪い男の顔を力一杯に殴りつけるのでありました。そして、殴りつけたその右手をすかさず開きますと、てのひらの中からは沢山の透明なビー玉が姿を現し、カラカラカラ…と地面に散らばって行くのでありました。

 「お前ら、一斉いっせいに掛かれっ!!!」

 柄の悪い男が気を失い、地面へと吸い込まれるように倒れるのを見て、仲間の者達は皆一斉になって前へと足を踏み出し、賢助と暮島へと向けて凶器を振るい、襲い掛かるのでありました。すると、次の瞬間、前へと足を踏み出した者達は皆、賢助のばら撒いたビー玉を踏みつけ、体勢を崩し、一斉に地面へと倒れ込んでしまいました。そうです、こうなることも全て賢助の思惑通だったのです。何分、その時は夕暮れ時であり、周囲はカーテンを閉め切った部屋の中に居るかの様に薄暗く、足下にばらかれた幾つもの透明なビー玉共に気がつくことが難しかったのです。

 「今だ、一旦引くぞ、暮島君!」

 「はっ、はい…分かりました!?」

 あまりにも一瞬の出来事であったため、何が起こっているのか分からぬまま困惑しながらも、暮島は賢助の後を必死になって追いかけて行きました。くして、見事賢助と暮島の二人は怪人αの手下達の包囲から上手く抜け出し、立ち去ることに成功したのでありました。




***




 次の日の朝、T警察署へと足を運んでいた賢助と暮島は篠村刑事と面会し、昨日に起きた経緯を余すことなく話しました。そして、二人の話を聞いた篠村刑事は山代刑事と他の大勢の警官達を引き連れ、C区域へと向かって行って行くのでありました。

 流石さすがは熟練の刑事の意地と言った所でありましょうか。日が暮れる少し前の頃、A私立探偵事務所にて情報を整理していた二人の元へとジリリ、ジリリ…と黒電話が呼び鈴を鳴り響かせました。今度は暮島が送話器を取りました。すると、送話器の向こう側からは篠村刑事の得意げそうな声が聞こえて来たのです。それもそのはず、何と篠村刑事は賢助と暮島の証言のみを頼りに、昨日二人を襲った怪人αの手下の者共を全員、余すことなく捕まえ上げてしまったのです。

 篠村刑事からの連絡を受け、事務所を飛び出した賢助と暮島は再びT警察署へと足を運びました。すると、そこでは一つ、大きな問題が二人を待ち構えておりました。その問題と言うのは一体どの様なものかと申しますと…数分程度前、篠村刑事が怪人αの手下の者達に取り調べを行いましたところ、手下の者達は皆、一様に口を揃えて「先生の素顔を拝んだ事などない」と供述していたそうなのです。

 最初は皆、先生元い怪人αをかばうべく、適当な虚言を述べているのではないかと賢助は眉間にしわを寄せ、疑うのでありました。当然のことです、通常ならば人相も分からない様な者を好き好んで庇う様な者など居るはずがないのですから。しかし、篠村刑事曰く、誰一人として嘘をついている様子はなかったとのことでありました。どうやら怪人αは、一種の宗教における神、もしくは仏のようにかすみの様な曖昧さを持ち合わせながらも絶対的意思を示す、そんな存在の様でありました。そして、後に取り調べの資料へと目を通し、分かったのですが、怪人αは手下が皆いつかは警察に捕まることを事前に予期していたのでしょう…手下には手紙や仮面等を用いて接触することによって素顔を見られぬよう徹底的に正体を隠蔽していていた様なのです。

 「まさか、手下の者達でさえ、怪人αの正体を誰も知らないだなんて…」

 「どうやら、怪人αは病的と言っても過言ではない程に用心深い様だな」

 「探偵屋、怪人αの正体には辿り着けそうか?」

 「そう急かすな篠村刑事、今の段階では未だ分からないことばかりさ。だが、唯一分かったことと言ったら…怪人αは俺の、名探偵Aの相手にとって不足がないと言うことだ…!」

 まるで実体のない影の様に…存在の全てが謎に包まれた怪人αとの対峙に、賢助は表情を僅かにしかめながらも、口元に不敵な笑みを浮かべるのでありました。




***




 T警察署を後にした賢助と暮島は気がおもむくままに、行きつけのF喫茶へと訪れました。入り口の扉を手前に引いて開けますとドアベルがカラン、カラン…と軽快な鐘の音を響かせて暮島の来訪を歓迎しました。

 「暮島さん、考助さん、いらっしゃいませ…っ!」

活気に満ち、とても明るい声で元気よく暮島と賢助の来訪を出迎えたのは先日の案件以降、F喫茶にて働くこととなった佐々木でありました。どうやら、佐々木は考助から二人の人格のことについて明かされていなかったらしく、賢助のことを考助と呼び掛けるのでありました。

 「…考助……それって、俺の………」

 「あっ、ああーーーあああーー!?!?!」

 暮島は佐々木の呼び掛けを誤魔化すため、慌てて大きな声を上げました。しかし、その様な小細工では賢助を誤魔化すことは到底敵いませんでした。

 「暮島君、こちら女性は一体誰なんだ?この店には店員がいなかったはず…それに、彼女は俺のことを考助と……」

 賢助からの問い掛けに、暮島は何処から説明すれば良いものか分からなくなってしまい、それ故に困惑してしまい、思わず言葉を詰まらせてしまいました。すると、それを見かねたF喫茶の店主、芝浜が暮島に解離性同一性障害(DID)について話したこと…そして、もう一人の人格、考助と既に暮島が接触していることを明かしました。

 「……そうか…と言うことは、暮島は全部知っていたのか…俺の人格について……」

 とても驚いた様子で芝浜から話しを聞いていた賢助へ、居ても経っても居られなくなってしまった暮島は慌てて頭を下げ、謝罪しました。当然のことです、暮島は賢助からの言いつけを破り、約束を結んだ翌日に…その約束を破ってしまったのですから。

 「本当にすみませんでした。私、賢助さんが何を隠しているのか知りたくて、それで…それで……」

 約束を破ってしまい、賢助にしかられてしまうと考えた暮島は必死に頭を下げ、只管ひたすらに謝罪し続けました。すると、下げていた暮島の頭にそっと誰かの手が置かれました。そして、その手は優しく、なぐさめるかの様に暮島の頭を撫でるのでありました。

 「頭を上げてくれ、暮島君」

 賢助の指示に従い、暮島は恐る恐る下げていた頭を上げ、賢助の顔へと下からのぞき込むように視線を向けました。すると、目に飛び込んできた光景に暮島は思わず口を開けたまま、呆然ぼうぜんとしてしまいました。

 暮島の頭を優しく撫でていたのは他の誰でもない、賢助だったのです。そして、約束を破られたにもかかわらず、賢助は少しも怒りの感情を抱いてなどいなかったのです。それどころか、賢助の表情には何故か、温かく、喜びに満ちている様にさえ暮島には見えてしまうのでありました。

 「私を…叱らないのですか……?」

 暮島からの問い掛けに、賢助は表情を崩すこと無く、穏やかな声色で答えました。

 「何を言う、俺決して君のことを叱ったリなどしないさ。遅かれ速かれ、何時かはバレていた事だ。それに、隠し事は良くなかったな、俺の方こそ悪かった、暮島君」

 暮島へと謝罪した賢助は、表情を一変させ…哀しげな表情で一言、小さな声で呟きました。

 「…怖かったんだ……」

 「それは一体、どういうことですか…?」

 暮島からの問い掛けに、賢助は過去の記憶を幾つか呼び起こしました。しかし、それらはどれも、良い記憶と呼べる代物ではなく…全てが鬱陶しい程に忌々しいく苦悩に苛まれる代物ばかりでありました。

 「俺と暮島君と出会う前…幾人にも渡って俺の元で働きたい、弟子になりたいと申し出る奴らがいたんだが…例外なく皆、俺の人格のことを知った途端…まるで人ならざる者を見るかのような目で俺を見て、てのひらを返すかの様に俺の元を去って行ったんだ……」

 「だから、賢助さんは私にDIDのことを…考助さんの存在を隠していたのですか?」

 「あぁ、また知られたら君を失ってしまうのではないか。また一人、相棒を失ってしまうのではないか…そう起きてもいない、膨らませたくもない想像を無意識の内にしてしまってね」

 賢助から告白された哀しい過去を聞いていた最中で、暮島は直感で「賢助この人は自分と同じだ」そう感じました。怪人αによって家族を失い、居場所を失い、誰にも助けて貰えず、たった一人…孤独のみが見放すことなく、まるで呪いの様に追いかけ回して来るつい先日の私の様に…そう感じた途端、暮島は自然と「孤独ではない、自分は一人ではない」そう感じることができました。

 「安心して下さい、賢助さん。仮令たとえ貴方あなたがどの様なお人であろうと、私は賢助さんの相棒です…っ!」

 暮島から告げられた、たったこれだけの言葉に、賢助の心は一気に救われたのでありました…それを証明することは難しいですが、確かにこの時の賢助には強い確証と共に、その様に感じたのでありました。




***




 次の日、賢助はデスクの引き出しへと手を伸ばし、掛けていた錠前を外し、中から一冊のノートを取り出しました。このノートは一体何なのかと申しますと、無差別に犯行を犯す快楽殺人鬼、怪人αの起こした事件を取り上げた帝都新聞の記事を切り取り、貼り付け、分かりやすくまとめた物で、これを見直すことによって賢助は見逃している何か…米粒ほどの些細な情報に気がつくことができるのではないか、そう考えたのであります。

 開かれたノートに書き込まれていた記載内容を一言一句、正確に模写しますと再現がありませんので、本作では一部要約し、読者の皆様にお伝えすることと致します。

 あの快楽殺人鬼、怪人αは次に示した計六つの家々に侵入し、殺人という名の残酷極まりない遊戯を行ってきたのでありました。



古物商の滝沢家、宿屋の杉山家、駄菓子屋の桂野家、町工場の手島家、名医の暮島家、役者の黎元家



 どれもこれも貧困層から富裕層を問わず、無差別に殺人を行っており、その犯行は毎度、必ず決まって日曜に、細身の鋭利な剣を用いて行われておりました。また、怪人αの犯行に持ち込む美学とでも言うべきなのでしょうか…全ての犯行における共通点は先に挙げたその二つのみであり、犯行現場や時刻、殺害する相手の性別は一切問いておりませんでした。

 「一体怪人αは何を思い、何を考えて犯行を行っているのでしょうか…?」

 暮島からの問い掛けに、賢助は眉間にしわを寄せ胸元で腕を組み、鼻から軽く息を漏らしながら答えました。

 「ふむぅ…残念ながら探偵の俺には怪人の考えは皆目見当もつかないな。だが、奴は殺人という禁じられた遊戯、快楽を知ってしまった…それを知ってしまった以上、彼は野放しにはしておけない。一刻も早く俺達の手で捕まえなくては…しかし、俺には時間がない、俺の人生は月曜から水曜までの三日間。この戒めさえなければもっと余裕を持って調べられるのだが……もし、怪人αの考えが分かれば…」 

 「…怪人αの考えが、分かる……」

 思考を巡らせながらも、賢助は不意に弱音を漏らしてしまいました。しかし、この賢助の一言が暮島に妙案を与えるのでありました。

 「もしかしたら一人だけ…居るかも知れません。怪人αの考えを理解する事ができる人物が……」

 「ほう、それは一体誰だい?」

 賢助からの問い掛けに、暮島は真っ直ぐと賢助の目を見て答えるのでありました。

 「その人は、推理作家a と呼ばれる…新田 考助さんです」

 「そうか…確かに、数多くの犯罪を考察し、推理小説を書く考助なら何か怪人αの思惑に気がつくことができるかも知れないな」

 己が内に居るもう一人の人格、考助に知恵を借りようだなんて誰が思いつきましょうか。知る限り、前代未聞であったその奇想天外な妙案に、賢助は「でかしたぞ」と褒めたたえるかの様に、微笑みを浮かべながら暮島の頭を撫でるのでありました。そして、賢助に撫でられている暮島は、まるで今は亡き父親に撫でられているかの様な…そんな懐かしくも、不思議と温かい気持ちに抱擁ほうようされるのでありました。




***




 日が沈み、空が真っ暗に染まり上がった頃、各々石鹸と手拭が這入はいった風呂桶を小脇に抱えた賢助と暮島はB街の一角にあるB銭湯へと訪れておりました。何故二人がこのような場所に来ているのかと申しますと、新田私立探偵事務所の湯沸かし器が壊れてしまったようで、いくら蛇口を回しても熱を帯びた湯が出ず、常温の、変哲もないただの水しか出なくなっており、風呂が沸かせなくなってしまっていたのです。

 苔がせており、和の雰囲気を目一杯にかもし出している年季の入った銭湯の門を潜り、履物を空いた下駄箱の中へとしまい、番台に湯銭を渡した賢助は時を刻む振り子時計の指針へと視線を向けました。

 「今から大体…30分後くらいに銭湯の表で待ち合わせるとしようか」

 「はい、承知しました…っ!」

 とても高貴な家柄であったためか、人生で銭湯と言う場所に訪れたことのなかった暮島は、初めての銭湯にまるで幼い童の様に心躍らせ、目を輝かせながらも紅色に染められた女湯の暖簾のれんをくぐって行きました。そして、賢助も同様に、正面に駆けられた、蒼色に染められた男湯の暖簾のれんをくぐって行きました。脱衣所にて服を脱ぎ、空のかごへと抜け殻となった服を放り込んだ賢助は一枚の手拭いを肩に掛け、風呂桶を手に浴場へと這入はいって行きました。

 ピチャ、ピチャ…と河から陸に上がってきた河童かっぱの様な足音を立てながらも、賢助は洗い場の小さな木製の風呂椅子へと座り、石鹸と手拭いを使って身体を徹底的に洗い上げました。そして、心身共に万全の状態となった賢助は愈々いよいよ、広大な湯船へと肩までゆったりと浸かりました。また、湯船へと浸かった際、四方から次々と聞こえてくる、ザバアァ…と言う湯船から湯が溢れ出る音…溢れた湯が排水口へとザアァ…と流れて行く音が賢助の疲弊ひへいした身体からだになんとも言えない心地良さを与えるのでありました。

 「くあぁ、この湯に浸かるのも数ヶ月ぶりだろうかぁ…ここはいつ這入はいってもいい湯だなぁ〜……」

 足をグッ…と遠慮することなく正面へと伸ばし、広い湯船を思う存分ゆったりと満喫していた賢助へ、一人の男が声を掛けました。

 「…考助さん、考助さんではありませんか?」

 掛けられた声の出所へと賢助は視線を向けますと、そこにたたずんでおりましたのは一人の見知らぬ男でありました。しかし、読者の皆様ならばこの男、既にご存じでしょう…この男は現在も尚、B文庫出版社で働く元佐々木の同僚、州崎でありました。

 「やっぱり、考助さんだ。お久しぶりですね…!」

 正面から賢助の顔を見て、州崎は話しかけている相手が考助であることを確認しました。しかし、今日は水曜、外見が考助その者であったとしても人格が考助ではなく賢助であったため、話しかけられている当の本人は当然困惑致しました。

 「貴方あなたは、一体…」

 「いやだなぁ、自分です、州崎ですよ〜本当は覚えているのでしょう、考助さん?」

 「すまないが、州崎さん。人違いだよ、俺は君の知る考助と言う者ではない」

 「そう…でしたか……それはすみません、あまりにも外見や声がそっくりだったものでつい…」

 最初は何の冗談かと疑いましたが、賢助の表情を冷静に見て、州崎は賢助が嘘をついていないとしばらくも経たない内に悟るのでありました。そして、悟った途端に州崎は未だ湯船に入ったばかりだというのにまるで熱湯に長時間浸かり続け、逆上のぼせてしまったかの様に頬を赤く染め上げるのでありました。

 数分ほど経った頃でしょうか、同じ湯船へと浸かった賢助と州崎は自然と会話を交わすに連れて、まるで他者から見たら腐れ縁と見間違う程に仲が深まって行きました。と言いますのも、州崎は大のミステリー愛好家であり、趣味思考の合う州崎と賢助の二人の間では「どれほど面白い、ミステリーや推理小説を知っているか」と言う話しに花が咲くありました。そして、その話しは次第に些細なことから脱線して行しまい…果てには、つい先日、暮島の解決した不可思議な現象「静寂の呪い」の話しへと発展して行くのでありました。

 「静寂の呪い…その話し、詳しく聞かせて貰えませんか?」

 「えぇ、良いですとも。きっとこの話を聞いたら貴方あなたも驚くことでしょう…っ!」

 そう言いますと、州崎はまるで己が武勇伝を語るかの様な調子で賢助の知らない静寂の呪いの引き起こす不可思議な現象とその正体。そして、それを見事解き明かした名探偵、暮島の活躍や熱心な仕事ぶりについて長々と語るのでありました。

 「…そうかぁ、暮島君が…いや、暮島探偵がそんなことを……」

 州崎の話を聞いている最中、賢助はまるで暮島の父親にでもなったかの様に誇らしい気持ちで一杯になってしまうのでありました。そして、表情からは隠しきれない笑みが溢れ出してしまうのでありました。




〔補、1〕湯沸かし器とは、給湯器の別称である。

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