第2話
運河で切り取られた街並みを乗合馬車で抜け、目的地の手前で馬車から飛び降りたルイスは、緑あふれる公園をつっきり、勢いのまま、湖に面する屋敷に続く石畳を急いだ。
並木の緑陰がつくる光と影が刺激となって襲いかかる。絶え間なく繰り返す眩暈に足をもつらせながら、ルイスは悪態をついた。
やっとの思いで辿り着いた湖畔で、件の少女は人の気も知らず木陰でのんきに本を読んでいた。
「来たか。詐欺師」
少女の口から放たれた呼称にルイスは絶句する。
いっそう強く目の奥で響いた痛みに、ルイスは堪らず膝をついた。
「……詐欺ってわかっていて、呪いをかけるなんて、非情じゃないですか?」
「呪いとは、また心外な。人が言葉に弱い性質なだけだろう。そも、いたいけな少女をカモに選ぶ青年よりはマシじゃないかな?」
「は? どこがっ、いたいけ——」
「しっ」
目の奥に痛みが鋭く走った瞬間、ルイスの額にひんやりとした手が触れた。
ぎょっとしたルイスが抵抗する間もなく、先日と同様に両目の視界を閉ざされる。
「よく私の翅が鍵だと気づいたね。じゃなかったら、とても起き上がれやしなかったろう。言葉通りに持ってきた人は君がはじめてだ」
少女はルイスの手の内から、握りつぶされた安物の翅をするりと引き抜いた。
同時に眩暈と鈍痛から解放され、ルイスは冷や汗と共に息を吐き出す。
「……ふむ。とてもオーロラから切り出した紗布には思えないけど」
少女は蝶の翅を模した布張りの翅を指先で広げ、表裏を検分した後、ひょこひょこと両翅を揺らした。
「ちゃちなおもちゃじゃないか。注文と違う」
つい今の今まで苦しんでいたルイスをまるで意に介さぬ物言いに、ルイスはいっそう顔を引き攣らせた。
「——あんな状況の中、まともに考えられるはずないでしょう!?」
「まともに考える気もなかったくせに、口だけはよく回るものだな?」
「てか、あんた、ほんと、何者なんですか!?」
「何って。口にしていたじゃないか」
ひやりと少女は愉快そうに菫色の目をすがめた。
ルイスはびくりと肩を揺らす。
ルイスの目の前にしゃがみ込んだまま、少女は優雅な所作で抱え込んだ膝に頬杖をついた。
「人間の王子と妖精の女王の娘ユーウェル」
「まさか」
冗談を一笑したルイスは、少女の腕にひっかかっている毛織りの肩掛けの隙間から覗いた翅に目をとめて、いっそう頬をこわばらせた。
「いや。いやいやいや……」
よく見えはしないが、
光の加減で淡い水色にも、薄紅や菫色にも見えるそれは、夜明けを迎える空の色に似ていた。
見たものが信じられず、ルイスは両手で目を覆う。
「まさか……消えた王子と、妖精の子なんて。あれは作り話のはず」
「それは私がこの敷地を買うために売った
「いやだからって」
この国の三代前の王の息子の一人が、幼くして行方不明となったのは今でも有名な話だ。
数多の憶測が飛んだ中、好まれて語られたのは、冒険の末、妖精の国の女王の夫になったという逸話で、二人の間に生まれた娘の名前がユーウェルということまで、この国では真実のように知られている。
子どもの頃、誰もが祭で見たことがある人形劇の演目の一つだ。
そもそもルイスがここに来たのは、自分がその妖精姫だと信じ込んでいる裕福な家の少女が、口のきけない幼い侍女と二人きりで湖畔の古い屋敷に住んでいると聞いたからだ。
酔い潰れ運河に落ちかけていた男を助け、小船に泊めてやったら、宿代の代わりだとそいつが耳打ちしてきた。
少女の言動が真実思い込みによるものであっても、金持ちの道楽であっても大した違いはない。
大事なのは妖精の翅を欲しがっている少女にうまく話を持ちかけ気にいられれば、少なくない宝石が手に入るという情報だった。
だというのに、まさか本物の妖精姫だなど寝耳に水である。
「大体、消えた王子と妖精の女王の話って結構昔の話のはずじゃないですか。二人の子ってのが本当なら、あんた、そんななりして大概の婆……っつ!」
ぴしりと目の奥で疼いた痛みにルイスは悲鳴をあげた。
「何すんですかっ!」
「うら若き乙女に対して失礼だと思わない? 君らの物差しではかられるのは不愉快」
「非難なら、口だけで充分でしょうに!」
呻きながらルイスは訴える。
右手で目を抑えたまま少女を睨みあげ、ルイスは「それで?」と自称ユーウェルに聞いた。
「どうして翅がほしいんです? 見たところあなたには、ちゃんとした翅がついているじゃないですか、“ユーウェル様”」
あぐらをかき居直ったルイスを前にして、ユーウェルは菫色の目を意外そうに瞬かせた。
「信じることにしたの?」
「妖精なんてそんな絵空事、この歳になって信じたくはなかったですけど、信じざるを得ないじゃないですか。あんたがつけてるそれ、とても作り物には見えませんし……」
そんな大きさの翅を持つ羽虫がいたらバケモンだろ、と不用意に言いかけ、ルイスは言葉を飲み込んだ。
これ以上、目が痛むのも眩むのもごめん被りたい。
「正直このまま解放してくれるんなら、願ってもないことですけどね」
「そうしたら君も、他の者と同様、生まれてからこちらの記憶が飛ぶだろうねぇ」
「それ用意しろって命令と同義じゃないですか!?」
「持ちかけてきたのは君たちだろう?」
おっとりとした口調に対し、告げられた罪の対価がえげつない。
ルイスは改めて覚悟を決めた。
苦い顔のルイスを前に、ユーウェルは種明かしをするように肩掛けを腕から引き抜く。
現れた翅に、ルイスは息を飲んだ。
肩甲骨の下辺りから伸びるのは、向こうの景色が見通せる薄い翅だ。
湖の水面の輝きが、筋となって気品ある翅脈を浮かび上がらせる。
加減で変化する繊細な色合いは、見る者に瞬きを許さない。
夜明けの淡色を纏う翅の奥に、青空落ちる湖面が広がる光景は、いっそ不思議だった。
「美しかろ?」
「…………自意識過剰じゃありません?」
苦し紛れに言ったルイスに、ユーウェルがはじめて声を立てて笑った。
「妖精なんてそういうものだ。相手の翅を褒めながら、その実、自分の翅がいっとう美しいと思っている。だから私も、私の翅が気に入っている。だが、一般的には、私の翅は欠陥品でね」
「欠陥品、ですか?」
「そう。欠陥品」
ユーウェルはなんて事のないように繰り返した。
「妖精の血が半分足りていないせいか、あるのは前翅二枚だけで、後翅が足りない。それに長さも随分短い。飛ぶことはできない」
そう打ち明けたユーウェルの翅は、確かに二枚きりで、彼女の上半身ほどしかなかった。
他の妖精の翅の大きさなど知らないが、ルイスの目から見ても彼女の身を支えて飛ぶにはあまりに頼りなく思える。
「まぁ、ここで暮らす分には何の不都合もないんだけど。今度、王位を継ぐ兄とその妻が昔から私のことをひどく心配していてね」
「兄って、唯一の子じゃないんですか?」
「作り話と思っていたくせに、そういうところは信じているの?」
「違うんですか」
「いいや、違わない。単に父親が違うんだ」
あっさり返ってきた答えに、ルイスは納得した。
「なら、そのお兄さんに会うのが、二月後の新月の日近くなんですね?」
「そう。まさにその翌日だよ。よくわかったね」
「わかるも何も、そこだけきっちり指定していたじゃないですか」
ルイスが言うと、ユーウェルは満足そうに菫色の目を眇めた。
「君たちがあんまり私用の翅をあつらえたがるから、兄の戴冠式の日までにあの人を納得させるだけの翅を用意させるのも一興かと思ったんだ」
心配性の兄とその家族を毎度宥めすかすのも面倒でね、とユーウェルはそっけない口調の割に、愛おしそうに言った。
「だから、期待しているよ。私に似合いの特別な翅を。でないと次は知らないよ」
続いた注文と忠告に、ルイスは閉口した。
つまり、逃げ出せば、またひどい目に遭うと言われたようなものだ。
鈍痛から解放された今、あわよくばと思っていたが、呪いは完全に解けたわけではないらしい。
「探すにしたって、もう少し具体的な希望はないんですか」
「綿雲の糸の刺繍と彗星のビーズで飾られた翅?」
「そんなものないって、わかってて言ってますよね?」
さりげない皮肉にルイスが顔を引き攣らせると、ユーウェルは、ふふと笑った。
「考えるのも君の仕事としよう。次は手土産のお菓子の一つも忘れずにね」
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