ロマネスク
太宰治/カクヨム近代文学館
仙術太郎
むかし津軽の国、
春のはじめのことであった。夜、太郎は母者人のふところから音もたてずにころがり出た。ころころと土間へころげ落ち、それから戸外へまろび出た。戸外へ出てから、しゃんと立ちあがったのである。惣助も、また母者人も、それを知らずに眠っていた。
満月が太郎のすぐ額のうえに浮かんでいた。満月の輪郭はにじんでいた。めだかの模様の襦袢に
翌る朝、村は騒動であった。三歳の太郎が村からたっぷり一里もはなれている
発見者である
惣助は夜、寝てからやっとこのかたことの意味をさとった。たみのかまどはにぎわいにけり。発見! 惣助は寝たままぴしゃっと膝頭を打とうとしたが、重い掛蒲団に邪魔され、臍のあたりを打って痛い思いをした。惣助は考える。庄屋のせがれは庄屋の親だわ。三歳にしてもうはや民のかまどに心をつかう。あら
太郎の予言は当った。そのとしの春には村のことごとくの林檎畑にすばらしく大きい薄紅の花が咲きそろい、十里はなれた御城下町まで匂いを送った。秋にはもっとよいことが起った。林檎の果実が手毬くらいに大きく
幼いころの神童は、二、三年してようやく邪道におちた。いつしか太郎は、村のひとたちからなまけものという名前をつけられていた。惣助もそう言われるのを仕方がないと思いはじめたのである。太郎は六歳になっても七歳になってもほかの子供たちのように野原や田圃や河原へ出て遊ぼうとはしなかった。夏ならば、部屋の窓べりに頰杖ついて外の景色を眺めていた。冬ならば、炉辺に坐って燃えあがる焚火の焰を眺めていた。なぞなぞが好きであった。ある冬の夜、太郎は炉辺に行儀わるく寝そべりながら、かたわらの惣助の顔を薄目つかって見あげ、ゆっくりした口調でなぞなぞを掛けた。水のなかにはいっても濡れないものはなんじゃろ。惣助は首を三度ほど振って考えて、判らぬの、と答えた。太郎はものうそうに眼をかるくとじてから教えた。影じゃがのう。惣助はいよいよ太郎をいまいましく思いはじめた。これは馬鹿ではないか。阿呆なのにちがいない。村のひとたちの言うように、やっぱしただのなまけものじゃったわ。
太郎が十歳になったとしの秋、村は大洪水に襲われた。村の北端をゆるゆると流れていた三間ほどの幅の神梛木川が、ひとつき続いた雨のために怒りだしたのである。水源の濁り水は大渦小渦を巻きながらそろそろふくれあがって六本の支流を合せてたちまち太り、身を躍らせて山を
村のひとたちは毎夜毎夜あちこちの家にひとかたまりずつになって相談し合った。相談の結論はいつも同じであった。おらは餓え死したくねえじゃ。その結論はいつも相談の出発点になった。村のひとたちは翌る夜また同じ相談をはじめなければいけなかった。そうしてまたまた餓え死したくねえという結論を得て散会した。翌る夜はさらに相談をし合った。そうして結論は同じであった。相談は果つるところがなかったのである。村が乱れて義民があらわれた。十歳の太郎がある日、両腕で頭をかかえこみ溜息をついている父親の惣助にむかって、意見を述べた。これは簡単に解決がつくと思う。お城へ行ってじきじき殿様へ救済をお願いすればいいのじゃ。おれが行く。惣助は、やあ、と突拍子もない歓声をあげた。それからすぐ、これはかるはずみなことをしたと気づいたらしくいったんほどきかけた両手をまた頭のうしろに組み合せてしかめつらをして見せた。お前は、子供だからそう簡単に考えるけれども、大人はそうは考えない。
直訴は成功した。太郎の運がよかったからである。命をとられなかったばかりかごほうびをさえ貰った。ときの殿様が法律をきれいに忘れていたからでもあろう。村はおかげで全滅をのがれ、あくる年からまたうるおいはじめたのである。
村のひとたちは、それでも二、三年のあいだは太郎をほめていた。二、三年がすぎると忘れてしまった。庄屋の阿呆様とは太郎の名前であった。太郎は毎日のように蔵の中にはいって惣助の蔵書を手当りしだいに読んでいた。ときどき怪しからぬ絵本を見つけた。それでも平気な顔して読んでいった。
そのうちに仙術の本を見つけたのである。これを最も熱心に読みふけった。縦横十文字に読みふけった。蔵の中で一年ほども修業して、ようやく鼠と鷲と蛇になる法を覚えこんだ。鼠になって蔵の中をかけめぐり、ときどき立ちどまってちゅうちゅうと鳴いてみた。鷲になって、蔵の窓から翼をひろげて飛びあがり、心ゆくまで大空を逍遙した。蛇になって、蔵の床下にしのびいり蜘蛛の巣をさけながら、ひやひやした日蔭の草を腹のうろこで踏みわけ踏みわけして歩いてみた。ほどなく、かまきりになる法をも体得したけれど、これはただその姿になるだけのことであって、べつだん面白くもなんともなかった。
惣助はもはやわが子に絶望していた。それでも負け惜しみしてこう母者人に告げたのである。な、あまりできすぎたのじゃよ。太郎は十六歳で恋をした。相手は隣の油屋の娘で、笛を吹くのが上手であった。太郎は蔵の中で鼠や蛇のすがたをしたままその笛の音を聞くことを好んだ。あわれ、あの娘に
太郎は鏡の中をおそるおそる覗いてみて、おどろいた。色が抜けるように白く、頰はしもぶくれでもち肌であった。眼はあくまでも細く、口髭がたらりと生えていた。天平時代の仏像の顔であって、しかも股間の逸物まで古風にだらりとふやけていたのである。太郎は落胆した。仙術の本が古すぎたのであった。天平のころの本であったのである。このようなありさまでは詮ないことじゃ。やり直そう。ふたたび法のよりをもどそうとしたのだが駄目であった。おのれひとりの慾望から好き勝手な法を行った場合には、よかれあしかれ身体にくっついてしまって、どうしようもなくなるものだ。太郎は三日も四日も空しい努力をして五日目にあきらめた。このような古風な顔では、どうせ女には好かれまいが、けれども世の中には物好きが居らぬものでもあるまい。仙術の法力をうしなった太郎は、しもぶくれの顔に口髭をたらりと生やしたままで蔵から出て来た。
あいた口のふさがらずにいる両親へ一ぶしじゅうの訳をあかし、ようやく納得させてその口を閉じさせた。このようなあさましい姿では所詮、村にも居られませぬ。旅に出ます。そう書置きをしたためて、その夜、
ちなみに太郎の仙術の奥義は、懐手して柱か塀によりかかってぼんやり立ったままで、面白くない、面白くない、面白くない、面白くない、面白くないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむことにあったという。
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