第12話 恋中さんと倍返し

 一人暮らしで毎日お風呂に湯を張る人の割合は、どれくらいなのだろう。

 俺は浴槽を洗うのが面倒だったり、水道代が気になったりして、シャワーだけで済ませることにしている。だけど今日は湯を張ることにした。


 理由は、なんとなく。

 なんか今日は普通に風呂入りたいなと、そういう気分だった。


 べつに、直前のラインで恋中さんに「ごめん、風呂入る」と連絡して、向こうから「じゃあ私も入ります」と返事があったことが理由ではない。本当だ。


 謎の言い訳をしながら浴槽を洗おうとして、スポンジすら買っていないことに気が付いた。俺は溜息を吐いて、近所のドラッグストアへ向かうため部屋を出る。


 そこで、恋中さんに出会った。


「わっ、えっと、こんばんは?」


「……こんばんは」


 しばらく無言で互いを見ていた。

 数秒後、俺の方から喋ることにした。


「風呂を洗いたくて、ドラッグストアに行こうかなって」


「すごい偶然ですね。私もです」


「……そっか」


「……はい、そうです」


 また数秒の間が空いて、


「せっかくだから、一緒に行こうか」


「はい、ご一緒させて頂きます」


 こうして二人で買い物へ行くことになった。

 昼間、別れ際には少し機嫌の悪かった恋中さんだが、今は落ち着いているようだ。どこまで信頼できるのか微妙だけど、口調で直ぐに分かるのはありがたい。


 服装について。

 俺はブレザーを脱いだ程度で、カッターシャツとズボンを着たままだ。しかし彼女はラフな格好に着替えていた。薄い部屋着というか、恐らく店で見ればただの地味な服なのだが、彼女が着ると、その、すごい。


「本当にお好きなんですね」


「違う。見てない」


「なんで分かったんですか?」


「……からかわないでくれ」


 俺が拗ねた口調で言うと、彼女はクスクスと笑った。

 

「恋中さんも、俺の指、良く見てるよね」


 俺は仕返しできるかなと思って噓を吐いた。

 べつに見られていると思ったことは一度も無い。

 ただ、昼間の反応からして、これが一番効くかなと思った。


「……」


 恋中さんは無言だった。

 この反応は……どっちだ?


「手でも繋ごうか?」


「っ!?」


 今度は分かりやすく反応した。


「そそそ、そういうことは恋人同士でやるものです!」


 恋中さんは必死な様子で言った。

 

 ……恋中さんも、そういうこと意識するんだ。


 こういう反応は新鮮で面白い。

 だから俺は、少しだけ調子に乗った。


「そうか? 友達同士でも普通に繋いだりすると思うけど」


「そんなことないですっ。男女が手を繋いで歩いてたら、へへ、あいつら付き合ってんだな、って99%の人が思うはずです!」


 うん、俺もそう思う。


「それに私、いつもタイピングしていて指先が硬いので、恥ずかしいです」


 彼女は顔の前まで手を持ち上げて、指先の感触を確かめながら言った。

 こういう時、俺が変に意識していなければ、彼女の手を握って「なんだ、全然柔らかいじゃん」とか言えるのだと思う。だけど、それは難しい話だ。

 

 見るだけならオッケー。触るのは絶対にダメ。

 それが彼女のスタンスなのだから、裏切ることはできない。


「……触ってみますか?」


 トン、トン、と音がした。

 それが自分の足音だと気が付いたのは、振り返った後だった。


 恋中さんは強張った表情をしていた。

 その頬がピクピクと震え、やがて笑みに変わる。


「君は、むっつりだね」


 やられたと思った。

 彼女をからかったつもりが、逆にからかわれてしまった。


「……うっせ」


 俺は子供みたいなことを言って、片手で顔を隠した。


 少し間が空いて、笑い声と、前に進む足音が聞こえた。


 軽く息を整えてから追いかける。

 彼女の隣に並び、目を合わせないようにして口を開く。


「恋中さん、いたずらとか好きなタイプ?」


「そうかもしれないです」


「そっか。意外だね」


「逆に君は分かりやすいですね」


「そうでもない」


「分かりやすいですよ。全部表情に出ますから」


 横目で見る。

 恋中さんは得意気な様子で、前を見て歩いていた。


 少し視線を下げる。

 俺はタイミングを見計らって、左手で彼女の手首を摑んだ。


「えっ」


 恋中さんが驚いた様子で足を止め、手を引こうとする。

 少し握力を込めると、ちょうど彼女の胸の前あたりにまで引っ張られた。


「俺、やられたら倍にして返すタイプだから」


 それから右手を伸ばして、彼女の人差し指をそっと摑んだ。


「やわらかいじゃん」


 その一言を告げた後、俺は手を離した。

 彼女は手首を摑まれたままの姿勢で、顔を真っ赤にして俺を見ている。


 ……ビンタくらいなら受け入れよう。


 直前に「裏切れない」とか考えといて、軽くからかわれた程度で動いてしまった。

 だから俺は殴られる覚悟で反応を待っていた。やがて彼女は胸の前でギュッと手を握り締めて、微かに声を震わせながら言った。


「仕返しの割には、随分と恥ずかしそうですね」


「なっ」


 俺は唇を噛み、


「俺には、恋中さんの方が恥ずかしそうに見える」


「全然平気です」


「噓だ。写真撮ってやろうか」


「平気です。ほら、もう一回触りますか?」


 彼女は挑発するかのように手を差し出す。

 俺は反射的に身を引いた。


 しまったと思った時にはもう遅い。

 彼女は私の勝ちとでも言わんばかりのドヤ顔をしていた。


「……そろそろ行こう。店が閉まるかも」


「ふーん、まあ、良いですけど」


 それからは無言で移動を続けた。


 季節は春。四月中旬。

 今夜の風は少し冷たいのに、身体はずっと、汗をかきそうなくらいに熱かった。

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