第6話 美波、海に行く。
「もう終わっちゃった、宿題」
ラジオ体操の帰り道に見つけた、朝から営業している立ち食い蕎麦屋で朝食を摂っていると、揚げたてのかき揚げを齧りながら美波が呟いた。
「ああ、そりゃそうだよな」
夏休みに入ってすでに二十日、毎日宿題をしていれば終わるのは自明の理だ、むしろ遅いかもしれない。かくゆう自分も真面目に仕事をしすぎて最近はたいしてやる事もなかった。
「――み、行きたい」
「え?」
食べながら喋るんじゃない、はしたないぞ、と思っただけで口には出さない。
「海に行きたい、いまから行こうよ」
そう言うと蕎麦のつゆまで全て飲み干して丼をカウンターの上に置いた。
「おじさん、ご馳走様、美味しかったよ」
やたらと食べるのがはやい子だ、僕は残りの蕎麦をかき込むと同じように丼をカウンターの上に置いて美波の後を追った。
「海斗くんは免許持ってる?」
蕎麦屋を出るとすぐに問いかけてきた、どうやら車で海に行こうと目論んでいるようだ、しかし車か――。二人きりで真面目な話が出来る空間として悪くないように思えた、まあ単純に美波と海に行きたい感は否めないが。
「普通免許ならあるけど」
人形町のレンタカーでSUVを借りるとカーナビに湘南江ノ島までの道のりを表示させた、久しぶりの運転なのでステアリングを握る手に緊張が走るが、三十分もしないで昔の感覚を取り戻していた。
スマートフォンと車内スピーカーをブルートゥースで接続する、Amazon musicでサザンオールスターズを流すと一気に夏のテンションになる、友達も恋人もいないが海に行くならサザンを聞きながらと、昔から考えていた。
「あ、サザンだ、良いねえ」
「へー、その年でサザン知ってるんだね」
「ママが大好きなの、車で良く聞いてたよ」
母親と同世代、いや流石に少し上だろうが、例えば二十歳で美波を産んでいたとしたら現在三十七歳、二十八歳の自分と付き合うならばよっぽど現実的かもしれない、今更ながら彼女との年齢差を痛感すると上がりかけたテンションは急激に萎んでいった。
カーナビを見ると到着まで残り五十分となっている、運転に夢中で肝心の任務を忘れていた、しかし、これから海に行くと言うのにわざわざテンションが下がるような話題を出すのもどうなのだろうか、さして熟考する事もなく帰り道にしようと決断した。
そんな事を考えていると目の前を走る車の挙動がおかしい事に気が付いた、三車線ある道路を右に左に蛇行運転をしている、何もない所で急にブレーキランプが付く、しかし十分に車間距離を開けているので事なきを得ていた。
「前の車なんかおかしいな」
呟いた後に近年問題になっている煽り運転のニュースを思い出してため息をついた、今までは車に乗ることがまったくと言って良い程なかったので、話題に取り上げられても何も感じなかった、いつもの様に馬鹿がおかしな事をしているな、と心のなかで嘲笑していただけだ。しかし自分が巻き込まれるとなると話は別だ。
例えば車を止めて、人が降りてきたらどうしたら良いだろうか、もし自分一人ならばそいつごと構わず轢いてしまうだろう、完全に向こうに過失があるのだから例え死んでも大した罪には問われないだろう。「避けきれませんでした」とでも言っておけば平気だ。
実際に高速道路なんかで一緒になって止まってしまったら、それこそ自分の命が危ない。後ろから追突される危険を考えたら、降りてきた人間を轢き殺してでも直進したほうが安全だろう。
しかし、今は隣に美波がいる、彼女に人を轢き殺す瞬間を見せるなんて絶対にあってはならない。いや、あまりの恐ろしさに自殺を躊躇する事にならないだろうか――。
「どうしたのかな、具合悪いのかな」
なるほど、美波の頭には馬鹿が運転している可能性は頭にないようだ、若さゆえに悪い人間はこの世にいないと考えているのかもしれない、そうでなければ自分にも話しかけてはこなかっただろうが。
黄色ナンバーの軽自動車、あの車であれば道を塞がれてもこのSUVで吹き飛ばすことができるだろう、ちらっと横を見て美波がしっかりとシートベルトをしているかを確認した。
さあ、いつでも来い。心のなかで準備をしていたが軽自動車は何事もなかったかのように次のインターで降りていった、美波は相変わらずスマートフォンで高校野球を真剣にみているが、良く見ると随分昔の型だった、女子高生と言えば最新機種を持ち歩いているイメージだったが、既にこの頃は美波を普通の女子高生と認識する事を放棄していた。
音楽をかける前に車内のテレビを付けようとしたが運転に危険が生ずるので自重しておいた。美波同様、プロ野球、メジャーリーグだけでなく高校野球も好きなのでこの時期は忙しい。
「海斗くんは高校球児だったんでしょ」
「そうだよ、美波はソフトボールだろ」
「うん、全国大会ベスト四」
大したものだ、三回戦負けの自分が恥ずかしい。
「やっぱ最後の試合は泣いた?」
思考を十一年前まで巻き戻す必要もなく、答えが導き出されたが美波に正直に告白するかどうか迷っていた。
「海斗くんは、大泣きしたとみた」
「え、どうして」
「負けず嫌いっぽいから」
なるほど、美波も多分に漏れず高校球児が負けた後に涙を流している理由が悔しいからだと思っているようだ。もちろん、そういった人間もいるだろうが多数派でない事は間違いない。悔しいから泣くんじゃない、もう負けて悔しがる事もできない、二度と野球が出来ないから涙が出るのだ。野球をやっている人間、特に甲子園まで出てくるような人達の殆どは小学生の頃から野球をやっている、普通の小学生が土日に遊園地で遊んだり、友達とテレビゲームをしている時に、朝から晩まで野球をやっていたのだ。もっともそれが苦痛だと思わない人間が最後まで野球を続けているのだが、自分もその中の一人だ。例えば七歳で野球を始めたとしたら高校野球を卒業する十七歳まで十年、人生の半分以上を野球がある生活をしてきた事になる、それが夏の大会を最後に殆どの人間が野球を辞める、プロ野球や大学まで野球を続けることが出来る人間はほんの一握りだからだ。九十九%の人間が高校で野球人生を卒業する。
もう休みの日に早起きして、とんでもない距離を走らされる事も、手を血だらけにしてバットを振ることも、泥まみれになってノックを受ける事も、この仲間と白球を追いかける事もないのだ、本当なら夢のような未来なのにも関わらず、どうしてだろうか、次々に溢れてくる涙を誰も止めることはできなかった。
「泣いたよ、もう最後だと思うと寂しかったから」
「へー、今の海斗くんからは想像できないね」
確かにあれ以来、涙を流した事はないかも知れない、しかし普通に生きていて涙を流すような場面に遭遇する人間のほうが珍しいのではないか、もちろん映画やドラマは抜きとする。
カーナビの案内が残り十分をきった辺りで海が見えてくる、今日は天気も良くて暑そうだ、しかしここに来て大変なことに気が付いた。
「水着持ってないよね?」
海に来たいと言うのであれば、当然海に入るという事だと思っていたが、見た感じ美波も水着が入っているようなカバンは持っていない。
「いいの、海が見たかっただけだから、あっ、もしかして」
助手席の美波がコチラを睨みながら腕をクロスして胸を隠す仕草をした、その可愛らしい仕草に思わずニヤけた。
「やっぱりそうなんだー、クールなフリして美波の体を狙っていたのね、スケベー」
今度は声に出して笑った、確かに彼女に対して好意を抱き始めている事は認めよう、しかし――。信号待ちになったので助手席の方に目をやる。まったく色気のない体は性の対象としては見たことはない、やはり十一歳も年下では、いや、このくらいの年齢でも色気がある女の子はいるものだ、単純に美波にはないだけだ、色気も胸も。
「ほら、胸見てるじゃーん」
「見るほどないだろう」
前に向き直ってから発言すると、美波が大騒ぎして体を揺すってくる、危ないから止めてくれと、楽しそうにはしゃいでいるとまるで高校時代に戻ったような気がした、もっとも高校時代に女の子とはしゃいだ記憶などないのだが。
目的地には二時間もかからないで到着した、車を駐めて江ノ島に歩いて向う途中、弁天橋の下を見て驚愕した、信じられない量のゴミの山、主にペットボトルや空き缶、なにか食べ物が入っていたであろうプラスチック容器だが、橋の上からゴミを放り投げて捨てる人間がいることに虫唾が走った。
「ひどいね……」
悲しげに呟いた彼女の横顔をみて少なくとも自分と同じ感想を抱いたことに安堵した、もとより彼女がここからゴミを投げ捨てる姿は想像できないが。すると目の前を歩いている男女二組のタンクトップを着た男が、食べていたホットドックの食べかけを橋から放り投げた。
「まじーよ、これ」
「おい、モラルねえなお前ー」
「え、ここゴミ箱じゃねえの」
何がおかしいのか声を出して笑っている、恐ろしいのは一緒にいる女達も同様に笑っている事だった、コイツラは一体何を考えているのか、後ろ姿で偏差値が低そうな事は分かるが、いくら馬鹿でもゴミをゴミ箱に捨てる事くらいできないのだろうか。ここまで来ると怒りを通り越して唖然とした。
「ちょっとあなた、拾ってきなさいよ」
美波がタンクトップ男に後ろから声を荒らげた、思いがけない行動に戸惑い、時間が止まったようにその光景を眺めていた
「ああ、なんだお嬢ちゃん」
タンクトップ男が振り向いた、想像よりもはるかに不細工だった。
「信じられない、こんな所からゴミを捨てるなんて、馬鹿なの」
うんうん、気持ちは分かるが、彼らは自分が馬鹿だと言う事も分からない位に馬鹿なのだよ。話しかけると馬鹿が感染るよ。
「おいおい、何だコイツ、江ノ島清掃委員会の会長さんか?」
面白くないが四人は大爆笑している、美波はマスクを外すと更に続けた。
「さっさと拾ってきなさいよ、チャッキーみたいな顔して」
ぷっ、チャイルドプレイに登場する人形の化物に確かにタンクトップ男は似ていた、中々悪口のセンスがあるようだ。
「おいおい、駄目だよ、年上のお兄さんにそんな口の聞き方をしたら、彼氏みたいに大人しくしてないと悪戯されちゃうよ」
タンクトップ男が美波に手を伸ばしたところで前に出た、顔面を無造作に掴むとギリギリと力を込める、男は両手を使って外そうとするが構わずに力を込める。
「テメエ、何してんだ」
もう一人のモヤシのように細い男が騒いでいるので、空いている手で腕を掴んで力を入れた、女の様な叫び声を上げているが通り過ぎる人達はチラッとこちらを伺うだけで、我関せすと過ぎ去っていく。体格差がなければ二人までなら負ける気がしない、掴んでしまえば終わりだ。取り巻きの女は不安そうに様子を伺っている。
「このお嬢様が誰だか分かってるのか」
小声でタンクトップに囁いた、外そうとして頑張っていた両手は力を失いつつあるようだ、少しだけ緩めた。
「五代目浜口組、浜口崇高会長のお孫さんだ、お前ら大変な事をしてくれたな」
掴んでいた顔面から手を離してやると、こめかみにくっきりと痣が出来ている、モヤシの腕にも同様に指の跡があった。
「お前らどうけじめ付ける、一緒に事務所にくるか、この業界も人手不足で若くて元気がある人間は大歓迎だ」
二人に小声で話しかけると、みるみる顔が青ざめていった。
「勘弁してください」
こめかみが痛いのだろうか、左手でしきりに擦りながら蚊の鳴くような声を出した。
「じゃあ掃除してこい、隅から隅まで」
「へ?」
「今からお前ら四人で綺麗にしてこい、お嬢が嘆いておられる」
「なんで僕らが……」
「てめーが汚したんだろうが!」
怒りの形相で怒鳴りつけると、アッという間に散っていった、後ろを振り返ると美波は唖然とした表情で立ち尽くしていた。
「海斗くんて、ヒーローみたいだね」
今の一連のやり取りを見てヒーローを想像するとは、一体幼少期にどんなアニメを見てきたのだろうか。
その後は、しらす丼を食べた後に汚い海に足だけ浸かり、心太を食べてから、律儀に言いつけを守っていたタンクトップ達を手伝って橋の下を綺麗に掃除した。頼んだわけでもないのに手伝ってくれる若者が続々と増えていった事には驚いた、そんな事でコイツラを見直してやるほど単純でもなかったが、少しだけ感心したのは確かだろう。
「綺麗になると気持ちいいっすね」
汗を拭きながら話しかけてくるタンクトップがなぜか爽やかに見えた。
「チャッキー、もうポイ捨てしたら駄目だからね」
いつの間にか美波とも仲が良くなっている。
「お嬢、チャッキーは勘弁してくださいよ」
モヤシ達が笑っている、話してみれば割といい奴らなのかもしれないが結局紙一重なのだろう。例えば自分に腕力、いや握力がなければ彼らは素直にゴミ拾いに興じる事はなかっただろう。逆に美波が危険な目に遭っていた可能性だってありえる。結局は力に屈しただけだ。人は自分よりも強大な力に直面した時には受け入れるか、最後まで抵抗するかしかない。受け入れることで自分は負けたわけじゃない、コチラ側の人間だったのだと自分を納得させる事で心の平穏を保っているのだ。誰だって負けを認めるのは勇気がいる。冷静に考えると急激に冷めた。
「美波、行こうか」
タンクトップ達と記念写真を撮っている美波の手を引いて歩き出した、名残惜しそうに手を振っている彼女の純粋さが少し羨ましかった。
「いい人達だったね」
助手席から満足そうに笑顔を向けた、すっかり最初に絡まれた事は忘れてしまったらしい。
「いい人は橋桁からゴミを捨てたりしないだろう」
「そうだけどさ、もうチャッキーはやらないと思うよ」
「だといいけどな」
信じる心が大切だよ、と続けたが自分には無理だなと心のなかで呟いた。自分が信用出来るのは美波だけだから。
帰りの車内では、美波の友人の話や部活動の話など、今まではあまり聞き出せない情報を手に入れる事ができた、自殺の理由まで聞くことが叶わなかったが彼女が自殺をする原因を突き止める為に必要な情報を聞けた事に満足した。
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