わたしの神様

安芸ひさ乃

前編

 ネビルの神様は幼い頃から彼の眼前に燦然と輝いている。

 美しいわたしの神様、尊いわたしの姉上。




 ネビルの日課は朝の挨拶から始まる。

「おはようございます、ネビルです」

「どうぞ」

 声高に許可を得て、ネビルは姉の部屋へと足を踏み入れる。姉は異性であるし、己もいい歳であるからこの様な手順を踏まねばならない。幼児期はこんな別などなかった事を思えば面倒で仕様もないが、手間を踏む事により悦びが増すと思えばそう悪いものでもない。ネビルは疾うに躾けられ切っている。

「おはようございます姉上。今日日きょうびもよい天気ですね」

「おはようネビル。よい天気で結構ですが、少しばかり朝から眩し過ぎる様ですね」

 にこやかな姉の言葉にネビルはつかつかと窓際に向かうと、即座レースのカーテンを引いた。

「あらネビル」

「御目に悪うございます」

「未だ未だ平気でしたのに」

 目を伏せる姉は美しい。さらさらの髪は小さな音を立てて頬を滑る。この罪人の様に短い髪が長かった時の事を、ネビルはつい先程の事の様に覚えている。

「姉上、本日は領内を回って参ります。何か御入用の品はございますか?」

「いいえいいえ、わたくしは充分満ちております」

「畏まりました。では、いつもの様に、十二分に御留意の上お過ごし下さい」

「有難うネビル。貴方もどうか無事で」

 緩やかに笑む姉の許可を得、ネビルは彼女の手の甲に口付けた。ネビルはこうして毎度、己の神の加護を得ている。

 美しいネビルの神様。尊い、まごう方なき己の姉。

 笑みを浮かべて部屋を辞し、石畳の階段をゆっくりと下りて扉の南京錠をしっかりと掛けた後、ネビルは両隣に立つ護衛に低い声で命じた。

「いつもの様に。何人たりとも寄らせるな。寄る者は誰であろうと殺せ」

 護衛は声もなく顎を引く。ネビルは余計な音を好まないから、それでいい。

 見上げた先、塔の小さな窓から微かに揺れる姉の手を見つけた。ネビルはうっすらと笑みを浮かべて手を振り返す。それを見る者は居ない。護衛は『塔の周囲を見守り、余人の接近を武力で以て阻む事』しか許されてはいないからだ。

 ネビルの姉は、此の世で最も侵さざるべき、清き神様である。神様はネビルの住まいの中庭の、ぽつりと立てられた石の塔の中で、現世に関わる事なく暮らしている。

 その神様を崇め、今日もネビルは、多分人を殺しに行く。




***




 ネビルと姉は一回りは歳が違った。ヤシュレという名の姉は、所謂異母姉であった。

 ネビルの家は好色の領主という父を得て当然の様に妾が多く、異母兄弟に溢れていた。父は女にしか興味がなく、子供はそのままに放置されていた。幸いというのであれば其処が領主の館であった、という一点に尽きるかも知れない。子供達は『領主の子供』として世話だけはされた。その中から次代の領主が出るかも知れないという理由で、生かされていた。

 ネビルの母が何番目の妾であったのか、ネビルは知らない。ヤシュレの母に関しても同様だ。ネビルが唯一知るのは、己が当時最下層に生きていたという事実だけである。

 領主の館の別館は、ある種の閉鎖空間と言えた。子供達は只生かされているだけだし、新たな兄弟は歓迎されない。ある程度まで育つと上の子供達の暴力を一身に浴びるだけの玩具になる。つまり、その当時のネビルは一番下の子供であった。

 その日もネビルは泣いていた。母は助けてなどくれない。母の関心は父の関心を失わないという事のみだ。それが己の立場にも繋がるから。そんな事は知っていたが、それでもネビルは泣いていた。諦念の面持ちで泣く事すら忘れる程の年齢には、未だ至っていなかったのである。

 わんわんと泣く子供を誰も構わない。そんな時、奥からそろそろと人がやって来てネビルを手招いた。

「おいで」

 付いて行けば殴られて蹴られるのかも知れない。しかし、その頃のネビルは前述の通り地位が一番低い子供であったので、言われた通りにせねばならぬという事だけは叩き込まれていた。泣きながらのろのろと近付くと、その人は手を振り上げる代わりにコップを寄越して来た。

「お飲みなさい。ずっと泣いて、喉が渇いたでしょう」

 その通りだった。両手に抱えたコップから、ネビルは無心で水を飲む。いっぱいに注がれていた甘い水はその人の勧めでゆっくりゆっくり嵩を減らし、飲み切る頃にはネビルはすっかり泣き止んでいた。

「あんなに泣いてはいけないわ。もしお父様に見つかったら、もっと酷い目に遭ってしまうでしょう」

「だあれ?」

「わたくしの事?」

「はい」

 拙く問うと、その人はにっこりと笑って答えてくれた。

「わたくしはヤシュレ。多分、貴方のずっと上の姉でありましょう」

「あね……」

「ええ。貴方はこちらのお館の子供ではないの?」

「ネ、ネビル、です」

「そう、一番下の弟だったわね。初めましてネビル。わたくしは上から三番目の、貴方の姉です」

 ヤシュレはそう言い、ネビルを己の部屋に招いた。

 館には領主の胤が男女それぞれ五人以上居て、賢い者は部屋を根城に出て来る事もそうそうない。ヤシュレもそうした賢い子供の一人だった様で、故にその時までネビルと出会う事はなかった。その偶然は、ネビルが大泣きしながら別館の奥の奥、忘れられた様な辺りまで入り込んだからこそ起きた出来事であったのだ。

 ヤシュレはいつでも外に出て来る事はなかった。いつでも蜘蛛の巣の張った、別館の奥の部屋で静かに暮らしていた。領主の実子であれば構われずとも問答無用で食わせてはもらえるから、彼女は既に母の亡い身であっても飢え死にする事はなかったのだ。

「いいこと、こちらに来ている事は秘密ですよ?」

 ヤシュレは殆ど忘れられた子供だった。本人もきっとひっそりと忘れられて生きていたかったのだろう。とはいえ、非道の領主の子供がその父の庇護もなく館の外で生きて行ける筈もない。関わりなしと放逐されたが最後、ヤシュレは間違いなく殺されるだろう。だからヤシュレはひっそりと息を潜めて生きていた。彼女の住まう部屋の中はいつでも小綺麗で、ネビルには部屋を一歩出た所の蜘蛛の糸がまるで世界との隔たりの様にも見えた。

 その小さな世界では、確かにネビルとヤシュレは幸せだった。ヤシュレはいつでもひっそりとやって来るネビルを喜んで迎えてくれた。

「ネビル、これもお食べなさい」

 ヤシュレはいつでも成長期に掛かるネビルを思って食事を分けてくれた。ヤシュレは細い。ヤシュレこそ栄養が必要だろうと思うのだが、彼女は固辞してネビルに食べさせる。まるで獣の親が仔に尽くす様に。

 いつの日か、ネビルの世界の中心はすっかりヤシュレになっていた。彼女が居なければ夜も明けぬ程に傾倒し、ネビルはそうして育ちつつあった。

 そんな最中である。ヤシュレが館からその身を追われたのは。




 唐突に、ヤシュレは館の衛兵に押さえ付けられ領主の眼前に引っ立てられた。青い顔をしたヤシュレが庭を抜け本館へと引きずられて行く様を、ネビルは偶然にも廊下で目にした。ヤシュレにと手にしていた野花がその掌を滑り落ち、風に吹かれて溝に落ちたのも気付く事なく、その様をまるで質の悪い戯曲の様に見た。

「ヤシュレ、この恥知らず、泥棒猫め!」

 恥知らずであろう領主がそう言い、ヤシュレの長い髪を刀で削ぐ。ネビルは口を挟む事も出来ず、その恐ろしい光景を唯凝視した。

 曰く、ヤシュレは領主の胤ではなかったらしい。ヤシュレの母は名のある貴族の隠し子で、俗世から隔離されて生きていた。それに目を付けて、その地位で以て強引に召したのが領主だ。当初は反抗した修道院も、院を半壊されたところで泣く泣く女を差し出した。ところが今にもなってその修道院の本山が「娘の生まれ月の計算が合わぬのではないか」と物申して来たのである。

 領主は常ならば構わぬそうした知らせをほんの気紛れで紐解き、それが真実だと知った。ヤシュレは領主の子供としては早産であったし、よくよく見ずとも領主に似たところが一片もなかったのである。

 これは偏に関心のなさという名の怠慢であったが、領主は短気で愚かであった。奪った女が己の子でない者を生んでいた事、そんな者を延々食わして育てていた無駄。そうした事に怒り、事実関係を洗う事なくヤシュレを呼び出すと髪を削いで殴打した。そのまま修道院から内々に渡された金をもぎ取って、彼女を古びた荷馬車に押し込んだのだ。

 ネビルは急いで館の中を走り抜け、一番高い窓から外を見つめた。荷馬車はゆっくりとずっと遠くへ向かって去って行く。次いでネビルは本館に忍び込み、散らばったままだったヤシュレの髪の毛を、残る限り丁寧に集めた。

 たったの数時間だ。そのたったのそれだけで、ネビルのヤシュレは奪われた。

「……」

 ネビルはその日から泣く事を止めた。泣いても宥めてくれる温かな手はもうない。修道院は俗世とは隔絶している為、手紙を送る事も出来なかった。ヤシュレと交わる事は、毛一筋程もないのだ。

 幼いネビルはその日から人が変わった。明らかに毛色の変わった子供は群れの中で敬遠される。ネビルは館の中でいつでも傷だらけで過ごしていたが、その目はいつでも据わっていた。その目は益々嫌がられ、殴打された。まるで腐った水の様な瞳は、館内の全ての人間に忌避されるに充分であったろう。

 そうして十の歳の闇夜、ネビルは館から姿を消した。まるで闇に溶ける様に、音もなく。誰もその行方を構わなかった、寧ろあの瞳を見ずに済む様になって清々としていたのかも知れない。

 しかしネビルは死んだのでも何でもなく、生き抜いていたのである。

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