第14話

■砂の一粒を手にして。

 

四年という時間が、人間にとってどれほど長いのか、また短いのかは分からないが、二十年そこそこしか生きていない僕にとってのそれは、比重から考えて決して短くはないと思う。

 何しろ約五分の一を費やしているのだから、それなりに重いに決まっている。

 いや、精密に言えば、僕が空っぽになって生きてきたのは、璃子から離れた二年半だろうか。

 僕はその間、随分と多くのものを見失って、あるいは無視してきた。

 自分が何をなくしていたのか、それにさえ気づかないほど、僕は僕を見失っていて、自分の為の人生を生きた心地がしなかった。

 ちゃんと見渡せば、心配してくれる人や助けてくれる人、そういう人は少なからずいたはずなのに。

 隆一だってそうだし、多分両親だってそうだ。

 もしかすると、もっとなんてことはない、高校の旧友とか、大学のクラスメイトだって、僕が縋れば、助けてくれたのかもしれない。

 ただ、僕自身がそうではいけないと、突っぱねてきただけなのだ。

 二年半で何も変わらなかったことが、ここ半年ほどで変化した原因は、間違いなく穂積一砂という少女であったことは言うまでもない。

 彼女の好奇心が、あるいはある種の図々しさともいえる干渉が、僕を動かしたのだ。

 それでも、あと少しの踏ん切りがつかない僕に、止めのようなものを刺したのは高野さんだ。

 グジグジと言い訳をしては留まろうとしていた僕に、自分の気持ちと向き合うことを教えてくれたのは、彼女だ。

 助けたかったとか、守りたかったとか、そういう、どち

らかと言えば『上から』のことを常に考え、生きていたはずなのに、僕は結局誰を守る訳でも助ける訳でもなく、ただ周りから救われてばかりで、情けない。

 決断は、案外早かった。

 高野さんと遊びに行ってから、五日後のことだ。

 僕は一砂と、いつものように昼食を済ませて、中庭で次の講義までの時間を潰していた。

 週に一、二回、月曜、火曜は隆一と、木曜か金曜は、一砂と過ごすことが多かった。というのも、履修している講義の関係で、どうしても同じタイミングになってしまうのだ。

 今日は金曜なのでこの時間は、隆一は別の講義をとっている。一方僕と一砂は次までが丁度一コマ分空いているので、こうして二人でいる訳だが、僕は実に個人的な理由で、どうにも落ち着かなかった。

「デート、どうだった?」

「え? あ、ああ、うん。楽しめたけど、それ以上に、色々思い知らされることがあってね」

「どんな? って聞かない方がいいのかな」

「もう聞いているじゃないか」

 僕はそう言って、彼女を見つめた。

 相も変わらず、一砂は綺麗だった。僕は常に、彼女を女性として見ないように努めていたから、彼女の服装やメイクや髪型や、そういった、彼女と会えば嫌でも入ってくる視覚情報をできるだけスルーしていたが、こうしてよくよく見てみると、やはりというか当然というか、穂積一砂は疑いようもなくとびぬけた容姿を持っている。

「千夜君、なんか今日、変ね」

 突然、一砂が首を傾げて眉を顰めながら、聞いてきた。

「そう、かな?」

「うん、なんか緊張してる、みたいな感じ」

「緊張か」

 本当に、彼女は怖いくらいに鋭い。

 確かに今日の僕は、これまでとは明らかに、気持の面で違っている。

 これまでどうしても認めようとはしなかったことを、見て見ぬふりしていた自分の中の想いに焦点を当てたのだ。

 それはつまり、穂積一砂を異性としてしっかりと意識するということ。

 今まで僕は、璃子のことで捻くれて鬱になっていたせいもあって、世の中全部を斜に構えてみていた。おそらく勘単に言ってしまうと、ネガティブで否定的なフィルターを噛ませて人生を生きていたようなものであり、そのフィルターの効果は、感情はもちろん、価値観にも影響して、挙句には視覚や聴覚、嗅覚に至るまでに及んでいたのだと思う。

 何が言いたいかというと、例えば好物や、それまで『美味しい』と感じたものを食べても、美味いと感じないとか、楽しいと思えたことも詰まらなかったり、綺麗なものを綺麗と喜べなかったり、そういうことがすべてにおいて起こっていた状態だったのだ。

 そんな悲劇のヒロインフィルターみたいなものが、多分無意識のうちにここ数カ月で剥がれつつあったところに、先日高野さんに言われたことで自ら取り払う覚悟を決めた。

 別にそうなろうと思ってなった訳ではないから、覚悟を決めたくらいで直せるかどうか不安ではあったが、この感覚を味わってみたところ、思いのほか、僕は簡単に元の自分

というものを取り戻せたのかもしれない。

 なぜなら、一週間ほど前にもこうして同じような距離で会っていた一砂を、今日はどうにも直視しにくい。

 僕は、こんな子と頻繁に会って、ランチをしたりカフェで話したり、キスまでしたのかと思うと、頭を抱えて髪を掻きむしりたいほどに恥ずかしくなる。

 きっと僕は本当にどうかしていたのかもしれない。それとも、今の僕の方がどうかしているのか。

「確かに、緊張してる。やっとさ、ちゃんと現実が見えたんだ。今、ここに生きている自分と、無理をしない自分が本来見るべきだった世界が見えた。いや、多分、少しずつ見えてきていたんだ。だけど、僕はそれをどこかで拒絶していた。前に君が言ったみたいに、悲劇のヒロインじゃなくなるのが怖かったんだ。だけど、この前高野さんとのデートで僕は思い知った。僕がしていることは、僕が必死になって取り繕っているものは、誰の為にもなっていないんだって」

 僕は言った。

 気持ちは、恐ろしいくらいに晴れ渡っていて、奇妙に清々しい。

「あ、それも、本当は違うのかも。隆一が心配してくれたり、君と知り合って色々話したり、篠森さんとか、高野さんとか、この前の御守君とか、みんながそれぞれの立場で、僕と向き合って、話してくれたことが全部繋がって、僕の愚かさを思い知らせてくれたんだね、きっと」

「ふふふっ……なんか、すんごい支離滅裂」

「だよな」

「支離滅裂で意味不明で、変に哲学こじらせてて痛い感じがするけど、だけど……あなたが何か、本当の意味で一歩踏み出そうとしているのはわかるわ。決めたのね、前に進むって」

「ああ、ようやく、やっとね」

「そっか。でも、それと今緊張していることと、関係があるの?」

「あるよ、大ありだ。今更ながら、気づいたんだよ。君は大学でも噂になるほどの美人な訳だろ? そんな君とこうしてちょくちょく二人きりで話すって、これ自体がかなりレアで貴重で、君のファンとまではいかなくても、普通に憧れている人からしてみれば、もう奇跡的なシチュエーションなんじゃないかってね」

 僕が言うと、一砂はまた首を傾げて、今度は目を丸く見開いた。

 それから間もなく、おかしそうに笑い始めた。

「あはははっ、それ、なに? 突然わたしをおだてたりして」

 そんな彼女に、微笑みさえしてたが、僕はそれを冗談や軽口などにはするつもりはなかった。

「一砂」

 僕は、彼女の名前を呼んだ。

「今、君は恋をしてるかい?」

「え?」

 笑っていた彼女が、僕を見つめなおして、ふいに聞き返す。

「あれから、恋はしている? 誰か、好きな人はできた?」

 続けて尋ねると、一砂は『う~ん』と考え込む。『あれから』とは、もちろん篠森さんへの想いを止めにしたあの時から、という意味だ。

「どうかな? あなたはどう思う? いると思う?」

 聞き返されて、また僕は少し落ち込んだ。自分の想いにすら向き合えなかった僕は、その好意の先であるはずの彼女のことも、そこまで深く観察できていなかったのだ。それでなくとも、一砂はなんともつかみどころがなくて、本心が分かりにくい子なのに。

「わからない。君の心は、本当に読みにくいから。でも、いない方がいいって思ってる」

「どういうこと?」

「一砂、僕は、君に惚れているんだ」

 一砂の目が、僕を見て、その微笑みが、すうっと、真面目な表情に変わっていく。

 そのまま、彼女は黙っていた。

 驚いているようにも見えたが、逆に驚いていないようにも見えた。

「……ええと、うん。そうなのね。そうか……今、なんだ……」

 うんうんと頷きながら、一砂は自らの足元を見ていた。

 そして、突如顔を上げる。

「ありがとう。千夜君の気持ちは、素直に嬉しい。こういう言い方すると、また敵を作りそうだけど……わたしね? 他の男の人に好意を持たれても、さほど嬉しいとは思えないことが多いけど、でもね、あなたの気持ちは、すごく嬉しい。千夜君がわたしを好きだと思ってくれることは、誇らしく思うわ」

 嘘ではない。それはきっと、彼女の本心に近い言葉だと思う。

 だけど、この言い方をするということは、多分、そういうことだろう。

「ありていだけど、聞いてもいいかな? 理由とか、どうしてこのタイミングなのか、とか」

「君は、そういうの、知りたがるし、聞くタイプだよね」

 僕は苦笑いをした。

「そうだな。理由は……」

 順を追って、説明しようと思った。

 校舎の二階から飛び降りてきた時から、多分なんとなく気になっていたことや、食堂で再開した時に、本当に綺麗な子なんだと思ったこと。それから、重ねていた時間の一つ一つが、全部意味を持っていたこと。

 そして僕は、とっくにその気持ちに気付きながら、気づかないふりをして、見過ごしていたこと。

 誤魔化し続けてたことで、いつの間にかそれを信じこんでしまって、もう本当の気持ちさえ、分からなくなってしまっていたこと。

 全部話してしまうことはできたし、これほど明快な説明もないだろう。

 だけど、僕はそれをしなかった。

「……僕が、僕の気持ちを見つめなおしたから。ずっと、無視していたこと、そうじゃいけないと……そんなこと、あってはならないと、認めなかった想いに焦点を合わせたから」

 代わりに、僕はそう、口にした。

「僕は現実を生きていなかった。特に恋愛に関しては、最初から舞台にすら上がろうとしてなかった。全部僕には関係のない話だって、言い聞かせて、まるで誰かの人生を後ろから観察してるように、決して当事者にならないように、生きていた。ところどころ、矛盾や綻びはあったけど、それでも僕は、ギリギリ出演者にはならずにいた。璃子を理由に、逃げて逃げて、逃げ続けた」

 溢れ出たのは、懺悔のような言葉だった。

「自覚はあった。限りなく確証に近い疑惑だって、沢山あった。だけど、僕はどれも、確認しようとは思わなかった。認めてしまえば、全部終わるってわかっていたから」

 僕の話を、一砂は黙って聞いていた。いつかのような、慈愛に満ちた目で彼女は僕を見つめている。その表情で気づいて、僕は改めて確認をとることにした。これから僕が話すことは、もう彼女への告白の理由など範疇を簡単に超えてしまうものだと、確信があったからだ。

「……一砂、聞いてくれるか? 僕の、どうしようもない話を。懺悔にすらならない、ただの惨めな言い訳を」

「ええ、聞かせて。聞きたいの。あなたが、前に進んだ理由。きっとね、話すことでもっと進める。そして、多分それを聞くことが出来るのは……聞いてあげられるのは、私だけだと思うから」

 ああ、なんて……

 なんてことだ。

 穂積一砂に対して、この感情を抱くのは何回目だろうか。

 おそらくそれは、究極的には『母性』なのだと思う。子供が母に抱くような、安心と気恥ずかしさと、重くて痛く、どこか柔らかい何か。

 僕はもう随分と、この手の感情を実の両親にすら、抱いたことがなかった。多分、記憶にはないが、あったとすれば、小学校に入る前か、もっともっと前の話だろう。

 許しを請えば、許してもらえる。叱り、宥め、許される。そうして貰えるという安堵が、彼女にはあるのだ。

 僕は、息を吸った。

「全部、偽りのようなものだったんだ。今だからわかるけど、僕はずっと、ただの世間体と使命感だけで、悲劇のヒロインを演じていた。考えると、もういつ頃まで、璃子をちゃんと好きだったのかさえ、分からないんだ。璃子が飛び降りてからは、僕は彼女への好意を、後悔に変えた。彼女が好きかどうかなんてどうでも良くて、救えなかった自分と力になれなかった自分が嫌で、そこの責任を問われることが怖くて、被害者面で彼女に寄り添うふりをした。だから僕は、僕の人生を手放して、当事者でなくなって、どこまでも客観的に世界を見て、生きることにしたんだ。あらゆる責任を、取りたくないから。悲劇のヒロインでいた方が、心も痛まないことを知っていたから」

 こみあげる感情を、なんとか押さえつけて僕は続ける。

「なにもかも、全部を目覚めない璃子のせいにして、逃げ続けた。恐ろしいほど狡猾で、幼稚で、度し難い、愚かな人間だ」

 唇を噛み締め、荒くなりつつある呼吸を整える。

 この告白は想像以上に恐ろしいものだった。自らの愚行が、ここまで怖いものだとは思わなかった。

「本当は、君を抱き留め損ねた最初の日、僕は君に恋をしてた。綺麗だって思って、魅力的だって思ったんだ。会うたびに、話すたびに、君を好きになっていった。君が篠森さんを好きなんだってわかった時は、きっと落ち込んだと思うし、彼にフラれる君を見て、『もうやめればいいのに』って思った。君と友人として一緒に過ごした時間は幸せだったし、楽しかった。君の香りや、君の仕草や、声や、言葉、全部……愛しかった」

 一砂は、ほんの少しだけ、視線を落として悲しそうな顔をした。

「きっと、普通に恋をしていたら、その一瞬一瞬を、一喜一憂して身悶えていただろうと思う。それくらいに、大切な時間と気持ちを、僕は全部、無視してきた。なかったことにしてきたんだ。なにもかも……。それに気づいて、それはいけないと思って、僕は前を向いた。目を逸らさないことにした。そうしたら……」

 向き合って、理解していたはずの自分の心、感情なのに、それを口にしようとしたら、言葉に詰まりそうになった。思いが溢れるとは、こういうことを言うのかもしれない。

 僕はなんとか、甘い痛みで滞っている思いを無理やり押し出すようにする。

「そうしたら、君がこんなにも好きだった。ものすごい量の情報と感情が一気に襲い掛かってきて、心をボコボコにされた感じがした」

 僕は、大きく息を吸った。

 息を吸うと、自分が泣きそうになっていたことに気付く。

「僕は、本当に愚かな人間だった。稚拙でバカで、何もかもを間違っていた。だけど……だけどね、一砂……君がいたから、僕は向き合えた。時間はかかったけど、君に璃子のことを話して、一砂の事故や記憶の話を聞いて、君が一緒にいたことで、僕は何年もしていた勘違いに気付いたんだ。だから、君は恩人でもあるんだよ」

 そこまで言うと、一砂は顔を上げた。

 彼女もまた、泣きそうな顔をしていた。その憂いを帯びた表情が、こんなにも綺麗だと思ってしまうあたり、僕は随分と、一砂に参ってしまっているようだ。

「窓から飛んで、あなたを下敷きにした日……初めて千夜君を見たの。多分、キャンパス内では、擦れ違ったことくらいはあったと思うけど、しっかりと見たのは、その時が初めて。あなたは、とても寂しい目をしていたわ。その目がね、すごく素敵だった。冷酷とはまた違う冷たい目で……ああいう目をする人、私、知らなかったから。だから、興味が湧いたの。それでね、話しているうちに、ふと、あなたの心のガードが下がる瞬間があることに気付いたの」

 一砂は語り始めた。

 はにかむような表情が、僕の心をそわそわとさせる。

「その瞬間だけね、千夜君、すごく純粋な、無垢な子供のような顔をするのよ。それがね、もう……いつもの冷たい目以上に、素敵なの。可愛く見えてね。わたしが知ってる限り、他の人には見せない表情なんだろうなって思ったら、なんか嬉しくなっちゃったの。だから、わたしは、もっとあなたに近づこうって思った。もっと、他の人には見せないあなたが、見たくなったのよ」

 一砂はそこまで言うと、少しだけ周りを見渡した。

 さっきよりも、中庭にいる人の数はめっきり減っていた。

 丁度、見渡した際に、中庭の端にある時計が目に入り、次の講義が数分後に迫っていることに気付く。

「わたしの話も、聞いてくれる? もう少しだけ、長くなるんだ」

「もちろん。講義は、そうだな……サボればいい」

 僕は当然のようにそう答えた。彼女はきっと、授業一コマには代えられない話をしようとしてるに違いないのだ。

「場所を移そうか?」

「いいえ、もう人もほとんどいないし、ここでいいわ」

 僕たちは改めてベンチに座りなおす。

「あなたに出会った頃は、確かにまだわたしは冬馬さんが好きだったんだと思う。でもね、途中からは冬馬さんを理由にして、あなたと一緒にいることも多かった。それに気づいたのは、あのキスをした日あたり……なんだけどね。あの日、冬馬さんにフラれてショックだったのは確かなんだけど、それ以上に彼への気持ちをいつの間にか失くしていることにも気づいて、すごく怖くて寂しかった。気づいたら、千夜君に電話してたの。フラれたことより、すぐにあなたが来てくれたことに、わたしは泣いたんだと思う」

「ちょっと待って、それじゃあ……」

「そう。わたしも、千夜君のこと、好きよ」

「でも、さっきの言い方だと、その、断る時のやつだろう?」

「うん。断る訳じゃないけど、付き合うかどうかは、別だと思うの」

「どういうこと?」

「わたしはあなたに惹かれて、あなたのこと、友達以上だって思っている。だけどね、わたしの好きは、どの好きなんだろうって思うと、その自信や確信がまだ持てないの。わたしはあなたに事故の事も、記憶のことも、冬馬さんのことも全部打ち明けた。情けない姿も、弱い部分も、ちゃんと見せた……それは千夜君が特別で、大切な人だから、わたしを知ってもらいたいと思ったからなんだけど。でも、恋をしているから見せたかどうか、わからないのよ」

 不安で儚げで、透き通った眼差し。

 いつものような朗らかな笑顔は魅力的だけど、こういう浮かない表情にも、なにか僕の中の、男としての部分を刺激するような妙な引力がある。

「だってわたしがそれに気が付いたのは、二週間前くらいだから。今は絶賛、考えている途中なの」

 彼女の言いたいことは、よくわかる。

 僕だって、気持ちを誤魔化す言い訳の一つではあったけど、一砂に対する感情について同じように考えたことがあった。

 大抵の人には言えないこと――過去の事件と璃子の一件、つまりは秘密を共有することで生まれた、歪んだ執着なのではないか。

 時間と情報を共有したことで生まれた慣れ合いのようなものではないか。

 純粋に誰かを好きになって、恋焦がれる気持ちと同じものなのか。

 そこを判断しかねているのだろう。

 そして、そこをしっかりとさせないことには、交際などできないというある種の潔癖を彼女は持ち合わせている。

「僕たちは、やっぱり似ているのかもしれない。僕も同じことを考えたよ。僕は確かに、君に惹かれているけど、それはただの慣れ合いなんじゃないかって。恋のように見える、別の何かなんじゃないかって。そう考え始めると、本当によくわからなくなってしまって、悩んだ」

「うん。そうなのよ。難しくて……難しすぎて、分からない。それを判断するだけの情報や根拠や、価値観がないから」

 一砂から歯がゆい思いがこぼれ出る。

 これはかつて、彼女が言っていたことだ。

 これまでの記憶がない。

 それはその十数年で培ってきたり、手探りでなんとか集めてきたりした判断基準がないのと同じだと。

 二十年分の記憶と体験がしっかりとある僕だって、判断できかねているのに、十数年分のそれを丸々失くしている彼女には、さらに高難度の問題だろう。

「ねぇ、一砂。君は、それを本当に知りたいの?」

 僕は尋ねた。

「えっ……?」

「君は、その気持ちの正体を、本当に求めているの? 僕を好きだって思ってくれる気持ちの、根底にあるもの。それが、知りたくて知りたくて仕方がないのかい?」

 数秒だけ一砂は固まっていたが、すぐに僕の言葉の意味と意図を理解して、また眉を顰めた。

「知るべきだ、と心のどこかで使命感のように思っているから、知りたい。そういう、建前のような、誰かにする言い訳のようなものの為に、それを知りたいと思っているのなら、それはきっと、どうでもいいことかもしれないよ」

「それって……」

「僕も同じように考えて、悩んで……だけどね、悩んでいる途中で、気が付いた。僕はまた、言い訳を探しているだけだって。もしかすると、悩むふりをして、自分をまた誤魔化そうとしていたのかもしれない。保留を長引かせて、時間稼ぎをするみたいにね」

 彼女は少しだけ、追い詰められるような顔をしていた。でもそれは、多分僕も同じだと思う。僕が一砂にかけている言葉は、そのまま僕自身を追い詰めてもいる。逃げ場をなくしているのだ。もう、逃げたり隠れたりしないように。僕も、彼女も。

「高野さんとのデートの終わりに、聞かれたんだ。『今日、何回穂積先輩のことを思い浮かべましたか』って。そこで、僕はハッとなった」

「ふふっ……女の子とのデート中に、違う女の子のこと考えるなんて、最低ね」

 冗談のつもりだろうけど、いつものような軽口にはなりきっていなかった。

「ホント、それに関しては返す言葉もないよ。でも、彼女のその言葉で僕は目が覚めたんだ。理由がどうとか、理屈がどうとか、良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、どうあるべきとか、そんなことは、本当はどうでもいいことだって」

「そんな……そんなことを言ったら、元も子もないじゃない? わたしは、それが分からなくて、それを知りたくて、ずっと悩んで迷って、少しずつ答えを探してきた。環境や意味は違っても、千夜君だって、同じでしょう? それなのに、それを否定してしまったら……」

「否定じゃないよ。ただ、優先するものを変えるだけだ」

 そう、これは否定とかじゃない。

 理屈や理由とは、別のものと向き合うということ。

「自分の感覚や、気持ちをね。そうしたから、僕は君への告白を決めた。前に進むことを、決断できたんだ」

 僕は一砂をまっすぐに見つめて言った。

 恥ずかしさはあったけど、それよりももっと大事なものがあった。

 その大事なものの一つは、一砂をしっかりと見つめることだ。

 一砂の瞳も、僕を見ていた。

 やはり驚きと、何かにすがるような切なさが混ざり合った目だった。

「僕は前に、アンバードロップのマスターに言われたことがあった。潔癖すぎるとね。その時はイマイチ分からなかったし、自覚もなかったけど、今ならわかる。自分で決めたルールや約束事に囚われ過ぎて、大切なものを見失うところだった。僕が大事にするべきことは、今一番優先することは、璃子への懺悔でも、過去への後悔でも、自己嫌悪でもない。君に出会えたこと、君と仲よくなれたこと、君を好きになったこと。その気持ちを、無視しないことなんだって」

 一砂の視線が、ゆっくりと下がる。彼女は胸の前で小さく右手をギュッと握りしめた。

 肩ごと大きく息を吸って、静かに吐く。

「……好きなのよ、あなたのことが。多分、最初から。大抵の人にはね、興味が持てなかったのよ。どんなに格好いいとされる男の人でも、お金持ちでも、頭がいい人でも。興味も好意も持てないから、どんなに言い寄られても、そっけなく返していた。でも、あなたは違った。すごく引き付けられて、なんとなく、ワクワクした。そのワクワクは、話す度に大きくなっていって……きっと、わたしも、見えないふりをしていた。だって、わたしは冬馬さんが好きなんだって、決めつけていたから。あなたへの興味が、恋だなんて思わなかった。だけど……そうだよね。今考えれば、もうとっくに始まっていたの。だって……わたし、こんなに頻繁にずっと一緒にいる異性なんて、千夜君だけだもの」

 ふわりと、彼女の頬が桜色に染まる。

 それは初めて篠森さんの店に行ったときに見せた、『恋をしている表情』よりも、もっと優しくて恥ずかしそうな顔だった。

「……ははっ、本当に、僕は何もわかってなかったんだな」

 思わず、そう漏らしていた。

 あの時の彼女の表情を、『恋する乙女のモノだ』なんて、わかったように思っていた自分が恥ずかしてバカだと思う。あれは恋に恋する、仮初のものだったのに、そんなことにも気づけない、不完全過ぎる洞察力で悦に浸っていたとは、情けない。

「え?」

「いや、ごめん、今のは、こっちの話。僕のしょうもない反省の一つだよ」

「なに、それ」

 そう聞き返す一砂には答えず、僕はベンチから立ち上がった。

 座っている彼女の前に立ち直す。

「一砂……僕と付き合ってくれませんか?」

 そう言って、僕は手を差し出した。

 彼女は、僕を見上げて、小さく笑う。

 おずおずと手を伸ばし、僕のそれを優しく取って、握り返す。

 手を取ったのとは別の、左の手を軽く胸にあてると、一砂は一瞬だけ目を伏せてから僕を見た。

「不束者ですが、わたしでよければ」

 僕がその手を引き寄せると、呼応するように彼女も席を立った。

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