第11話

基本的に、自炊することが多い僕は、何もない日は大学が終わると夕飯の食材を近くのスーパーで買って、そのまま自分の部屋へと帰宅する。

なんでもない日常だ。ただ少し違っていたのは、珍しい人が僕を待ち伏せていたことだ。

 部屋の前の人影に気づいたのは、外階段を上がってからだった。

「張り込みですか? 僕の部屋の前で。不審者で通報されますよ?」

 僕は冗談半分にそう言った。

「通報されて、やってくるのは、俺ってことになるがな」

 つぶやきながら数歩ほど僕に近づいてきたのは、ダークグレーのスーツを着た中年の男性だった。

 白髪交じりの短髪に、温厚そうな顔。しかし、目だけは、何かを射抜くように鋭い。本物の刑事の目というものは、それ単体で威圧感があるものだと、数年ぶりに思い知った。

「お久しぶりです。沖沼さん」

 僕が軽くお辞儀をすると、彼は小さく手をあげて、頷いた。

 沖沼誠治。僕と僕が起こした事件を担当してくれた刑事だ。

 彼がしっかりと事情を聴き、公平な判断を下してくれたことで、璃子を襲った奴らを少年院に送ることができた。

「どうぞ、中へ。コーヒーでも入れますよ」

 僕は沖沼さんを部屋に招き入れた。

 ローテーブルまで促して、僕はキッチンで買ってきた食材を手早く冷蔵庫に入れる。そのままケトルで湯を沸かしながら、コーヒー豆を用意する。豆は、昨日二日分を粉にしておいたタンザニア産のコーヒーだ。

「それで、何がご用ですか?」

 豆をドリッパ―にセットしながら、僕は尋ねた。

「ああ……」

 沖沼さんの生返事に、僕はキッチンから彼を覗き見た。

「どうしたんです?」

「璃子ちゃんは、どうだ?」

「璃子は……まだ目覚めません。それに彼女の母親から、僕にも、もう来ないで欲しいと言われました。もう目覚めないだろうから、気にしなくていいと」

 僕はキッチンに戻り、コーヒーを淹れ始めながら言った。

「そうか。やっぱり、見込みは薄いか」

 沖沼さんの言葉を耳に、ゆっくりと、コーヒーをドリップする。

 二人分のコーヒーを抽出し終えると、それをカップに注ぎ、ローテーブルまで持っていく。

「どうぞ」

「悪いな。いい香りだ。流石コーヒー屋」

 沖沼さんは、コーヒーをすすり、深く頷いて「美味い」と言った。

「あいつらの出院が決まった。一週間後だ」

 僕は固まってしまった。

 あいつらとは、あいつらだ。あの日璃子を襲った同級生、皆川栄太と貝塚圭介、鈴本大樹の三人だ。

少年院に入っていたのが、ついに出てくるという話だ。

「かなり長めにぶち込んだが……未成年ってこともあり強姦じゃ、このあたりが限界だ。悔い改めたふりをしてれば、期間が短くなることもある」

 沖沼さんは、淡々と語った。

 僕は彼の顔を見つめた。沖沼さんは、とても不服そうに、眉を潜めていた。

「復讐などするなよ」

「しませんよ。関わりたくないです」

「……そうだよな。君がそんなことをするとは思えないが、一応と思ってな」

 僕は、色々な感情がこみあげてくるのを、ゆっくりと耐えるように飲み下した。それは溶岩のように熱く喉から胸に絡みつき、焼けただれるような苦しみがあった。

「ただ……ただ、無念ではあります。彼らは、何事もなく日常に戻るんでしょうね」

 沖沼さんは黙っていた。

「璃子はもう、目を覚まさないのに。もう……日常には戻れないのに。人一人、殺しているようなものなのに。ただ、それだけが、やり切れない思いです」

 僕は爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめていた。

「……昔な……俺が刑事になって、五、六年目の時だ……」 

 僕の言葉に答える代わりのように、沖沼さんは、話し始めた。

「俺の友達が、自殺したんだ。突然な。そいつとは、高校の頃から仲良かったんだが、仕事を始めてからは、お互いに忙しくて、ほとんど会えてなかった。ただ、自殺する少し前に、偶然会ってな、せっかくだからって、少しだけ飲んだんだ。そいつは、ソーシャルゲームを開発、運営する小さな会社に勤めていた。別にゲームが好きなやつじゃなかったけど、昔から文章がかけてな。だから、シナリオライターをやっていたんだが……その職場がかなりブラックだったようでな。安月給で朝から晩まで働いて……それでも、週一は休みを確保できていたし、賞与だって出る会社だからって、まだマシだと言って働いていたよ。でも……、ただ一つ深刻に語っていたのは、上司との関係だった……」

「パワハラとか、ですか……?」

 僕が言うと、沖沼さんは、「ううん」と唸って、首をかしげる。

「そうとも言えるし、そうではないかもしれない。ただな……後になって、家族に聞いたんだ。嫁さんがいてな……結婚したばかりだった。だからこそ、頑張り過ぎたのかもしれない。事業部のチーフのことを、毎日のように愚痴っていたそうだ。毎朝作業の報告を義務付けるのに、その時間に、ものすごい不機嫌な態度を取るらしくてな……逐一報告をさせるのは仕方ないとしても、その度にそれはそれは、胃が痛くなるような態度で対応されていたらしい」

 僕には正社員としての就業経験も、ゲーム業界のことも、シナリオライターのこともわからない。だけど、聞くところによると、パワハラとまではいかないような細かな嫌がらせや圧力は多いと聞く。正直、今聞いた話だけでは、特別いじめのようなことが行われていたわけでもなさそうだとは思う。

「もちろん、それは日常的なものだったらしくてな。そういうのは毎日毎日、少しずつ、相手の精神を削るものだ。それでな……毎日終電か、終電を過ぎるまで働かされて、それによってまずは嫁さんの方が先に精神が不安定になっちまったらしい。毎日夕飯作っても、帰ってくるのは深夜。そのまま眠って、朝早く出勤。休みも少なく、休暇は疲労し過ぎで何かをする気になんてならない。夫婦生活に影響が出ても不思議じゃないさ」

「そう……ですね」

「それで、奥さんがノイローゼになって入院したんだ。それで、仕方なくそいつは、二日会社を休んだ。そして、その詳細をそのチーフ……上司に隠さす報告したんだ。別に同情してもらおうとか、そういう訳じゃない。ただ、ありのままの現状を知って欲しくて、報告したんだと思う。そうしたら、どうなったと思う? その翌日、その上司はそいつに、更なるタスクを課したんだ。もっと作業時間が増え、心理的にも負担が増える作業を、無情にも命じた。そこで……逃げれば良かったんだがな……」

 寂しそうに、悲しそうに、沖沼さんは言った。

「でもな……追い込まれちまうと……その狭い世界の中にいると、見えなくなっちまうんだ。会社を辞める、仕事を辞める、逃げる……『命を守る』という選択肢を、見失っちまうんだ。そのまま、あいつは無理を重ねていって、嫁さんも参っていって……あいつは死んだ」

 僕は沖沼さんの口から語られるその話を、噛みしめる様に聞いていた。

「俺は……刑事だからよ。どうしても、調べちまうんだ。あいつが、実際にどんな目に遭っていたのか……同僚はみんな、その上司に参っていてな……確かに、その上司に悪意があったわけじゃない。ただ、そういう性格なんだろうな。毎日不機嫌なのも、心無い決断を平気でしてしまうのも……でも、それによってゲーム事業部にいた七人は全員、酷いストレスを感じていた。追い詰められていた。実際に、上司からの理不尽な態度を理由に、四人が辞めている。在籍していた七人中六人が、誰かしらに辞めたい旨を話し、そのタイミングを見計らっていたらしい」

 そこまで聞いて、僕には沖沼さんが、何を言いたのか、理解していた。

「刑事の俺が、これを言っちゃいけないのは分かっているが……その時、俺が感じたことは、その上司は犯罪者ってことだ。もちろん、罪には問われない。法を犯している訳でもない。本人に悪意さえないのなら、なおさらどうしようもない。だがな!! その上司の精神は、極悪な犯罪者のものと変わらないと俺は思う。そいつは、人の苦しみや、痛みが、わからない人間だ。他人の痛みが分からない人間は、容易く人を傷つける行動を……犯罪を犯す。その上司がやってきたこと、与えた苦痛、全部裏が取れているのに、どうすることもできない」

 沖沼さんは、大きな拳を強く握りしめていた。その光景に、僕はかつての、璃子がレイプされた時の自分が重ねて見えた。

「……その男は、今でも好き勝手な態度を取って生きてるだろう。何人もの精神を削り、一人を死に追いやって、その嫁さんをも、ノイローゼにした直接的原因だっていうのに」

 心の底から、沖沼さんは苦悶の表情をしていた。悔しさと憎しみが入り混じった表情。大人の男性が、ここまで感情を露わにするのを、僕は初めて見たかもしれない。

 彼は、自分が刑事であるという立場を顧みることなく、それ以前の一人の人間として、その想いをわざわざ僕に語ってくれているのだ。

「……痛いですね。苦しくて、痛くて……でも、それに報復する訳もいかず……ただ、諦めるしかない。沖沼さんの痛みも、僕の痛みも、ただ抱えて、受け止めて……少しずつ

痛みに慣れてくるのを待つしかない」

「……千夜君。君は、あの事件とそれにまつわる全てのことと、真摯に向き合ってきたんだな。今の言葉で、それがよくわかる。すまないな。俺には、下手な昔話を長々とするくらいしか出来なくて……」

「いいえ、不器用ですけど、沖沼さんが何を言いたくて、何を伝えないのかは、よく分かったつもりです」

「嫌な言い方だが、『忘れる』しかないんだ……記憶が薄れ、痛みが分からなくなっていくのを……」

「分かっています。そうなんですよね……僕たちは、人を裁ける立場にいない……」

 それは、わかりきっている結論を噛みしめなおす作業のようだった。

 その後僕たちは、あまり多くを語ることはなかった。

 沖沼さんは最後に、『あいつらが逆恨みをしてるかもしれなから気を付けろ』とだけ忠告して、帰っていった。

 璃子の母にも、沖沼さんにも、もう忘れるべきだと言われた。そして、それは、僕自身もわかっている。

だけど、なにをしても、何を決断しても、酷く情けない気がして、進むことも戻ることもできずにいるのだ。

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