第4話

六月も後半になると、キャンパス内は微妙に忙しく、よく分からない緊張が漂うようになる。ある者は足りないノートを捜し求め、ある者は教授の機嫌をとり、ある者は今までろくに出なかった講義に顔を出す。小難しい分野やコツがいる分野が得意なやつは期間限定で持て囃され、レポート内容の代筆等という特異な商売さえ始まることもある。

 全員に言えることは、皆何とか楽して、根こそぎ単位を頂きたいということだ。

 追試や再追試まではまだ七月の頭あたりで終わるから良いが、再々追試とまでいくと、夏休みに食い込むばかりか、受かったとしても追加の仮題を出される可能性が大となる。それだけは避けたい、と皆願っているはずだ。

 僕も決して例外ではないのだが、意外にも真面目に授業には出ているし、要領の良い隆一がいるので、特殊なコネが必要な課題や資料には不自由しない。トップには程遠いが、落とさない程度には出来るだろう。

 試験が終われば、夏休みだ。

 こんな僕でも、夏休みは嬉しいものだ。

 いつもより多くアンバードロップで働けるし、集団の中で一円の得にもならない人間関係を保つ必要もない。

 僕は僕なりの理由と楽しみ方で充実した夏休みを過ごすのだ。

 試験の最終日に、学部での大きな飲み会が催されることになった。毎年、春に一回、夏に二回、冬に二回の五回開催されるこの飲み会だが、一年生だった去年と、今年の春の計六回のうち、僕は一度も出席していない。理由はまあ、人付き合いが好きじゃないのと、人ごみ嫌いなのと、バカ騒ぎが目障りなのと、その他色々だ。

 それなのに、この夏の親睦会には、なぜか出る羽目になっていた。

 当然、僕は断ったのだが、隆一がどうしても、と言って、勝手に出席で提出したのだ。

 一人の増減なんてどうにでもなるし、バックレてしまおうかとも思ったが、隆一が妙に嬉しそうにしていたのが気になって、僕はそれをしなかった。

 僕を誘って、それで隆一が何らかの安心感や達成感を得るならば、たまにはそれも悪くない。美味い酒も料理も当てには出来ないが、いいだろう。こういうリハビリも僕には必要なのかも知れない。

 しかし、始まってみると、当然というか僕は心底後悔した。

 テストから開放されたばかりの大学生が、夏と自由に浮かれて飲むのだ。最初からひどい騒ぎだった。

 中心になるのは、三年と二年で、特に二年は就活も単位の心配も程遠いので、一番元気に暴れるのだ。

 隆一もはじめは僕と静かに飲んでいたが、酒が入ると宴の真ん中で騒ぎ始めた。

 皆、大分出来上がってきて、席もガヤついてきたあたりで、僕は抜け出して先に帰ろうと決めていたが、結果的にそれをしなかった。

 その理由は、きっと僕のはす向かいに穂積一砂が座っていたからだろう。

 テーブル自体が違っていたので、ただ顔を確認することしか出来なかったが、それだけで、僕はその場を立ち去ろうと言う気にはならなくなったのだ。

「園城先輩は、隆一さんと長い付き合いなんですか?」

 そんな風に聞いたのは、一年生の高野麻美だった。彼女は同じ心理学科で、専攻も僕と同じ犯罪心理なのだそうだ。

「いや、大学は入ってからだから、一年とちょっとだよ。隆一と知り合いなんだ?」

 そう答えると、彼女は目をくりくりとさせながら、

「ええ。春の親睦会で知り合って、サークルも一緒なんです。で、合コンとかもセッティングしてもらったりして、お世話になってるんです」

 と言った。

「そ、そうなんだ」

 僕はきっと、苦笑いをしてしまっただろうと思う。サークルに合コン、普通に授業にも出て、バイトもして、僕ともつるんでいたりすることも多い訳で、ホント、良くそう要領よく出来るものだと感心する。

「でも、隆一さん、いつも園城先輩のこと話すんですよ」

「僕のこと?」

「そうです。『俺の友達で、ちょっと暗いけど、頭良くて面白くていい奴がいるんだよ』って」

「ははっ」

 僕は思わず、笑ってしまった。

 彼女の言い方が隆一に似ていたのと、いかにも隆一が言いそうな言葉だったからだ。

 ただ、少し解せないのは、『いい奴』と言うところだ。僕は決していい奴ではない。そもそも、頭もよくないし、面白くもない。

「けど、ホント、隆一さんの言う通りな感じがします。園城先輩って、落ち着いていて、いいですよね。大人っていうか、頼れそうっていうか」

「きっとみんなより一つ年上だからだろう。僕は一年遅れているから」

「そうなんですか。浪人ですか?」

「いや、高校ん時にちょっとね」

「ご病気とかですか? それとも、まさかの不良少年だったとか?」

 ぐいぐいと聞いてくる星野麻美。二歳しか違わないのに、若さってすごいと思う。

「どっちも違うけど、どちらかと言うと後者かな。実際停学食らってたしね」

「え~不良だったんですか」

「だから、違うって」

 そんなやり取りをしていると、向日から、彼女を呼ぶ声が上がった。

「麻美ぃ、ショットガンやろうぜ」

 声の主は、隆一たちと盛り上がっていたメンバーの男子だった。彼女は、「うん、ちょっと待って」と言うと、スマホを取り出した。

「SNSのID、交換してもらえますか?」

「いいけど、僕、メール不精だよ?」

「大丈夫ですよ。あたしもそんなにマメな方じゃないですから」

 交換が終わると、彼女は「じゃあ、また。ちょっと、行ってきますね」と言って、先ほど呼ばれたテーブルへと向かって行った。

 僕は小さく開放のため息を吐いた。呑みかけのジントニックが入ったグラスを持って、会場の隅の席に移動する。そろそろ一休みしないことには、僕の対人能力のキャパを越えてしまう。

 グラスの中身を飲み干して、ただぼうっと、会場を見回す。

「なかなか素敵な目の細め方をするわね」

 声がしたかと思うと、その人物は目の前の席に座った。

大きな目と整った鼻筋と、なんとも言えない小悪魔的な雰囲気。そう、穂積一砂だ。珍しく髪をアップにしている。

「ここ、いい?」

 僕は頷いた。

「久しぶりね」

 そう言って、君はロングタイプのシャンパングラスの中身を飲み干す。

 確かに、テスト期間中、一砂はバイト先には現われなかったし、学校でも殆ど会わなかったから、一ヶ月弱はまともに話さなかった計算になる。

「そうだね」

「それだけ?」

「ほかに何が?」

 僕が言うと、「もうっ」と言いながら、頬を膨らませた。

「女の子と普通にお話もするのね」

「え?」

「ほら、さっきまであの子と話していたから」

 向こうの集団の中を指して君は言う。

「ああ、まあ、世間話くらいはね」

「彼女、ずいぶん乗り出して話していたけど、世間話程度のことだったの?」

「うん……多分」

 僕が真面目に答えると、一砂は注文の呼び出しボタンを押したあとで、

「千夜君ってさ。なんか、渋いよね。寡黙っていうか、いい意味で静かだし」

 と言った。

「丁度似たような話をされていたよ。それに、世間ではそれを暗いとも言うらしいがな」

 彼女はそれに楽しそうな笑いで返した。

「ねえ、千夜君、お酒は強い?」

「まあまあ」

「どれくらい?」

「そうだな……」

 僕は考えた。強いか弱いかといわれれば、きっと強いだろう。特に気を張っている外では、吐いたりしたことはおろか、あまりベロベロに酔ったことがない。

「人前で意識や記憶を無くしたことはないよ」

「そう。じゃあ、」

 丁度その時先ほど呼んだ店員が来た。

「あ、追加注文お願いします。千夜君、ジンとウォッカとテキーラだったら、どれが好き?」

「ジンかテキーラかな」

 ウォッカとウイスキーは、なんというか燃料臭くて好みじゃない。

「じゃあ、テキーラのサウザシルバーをボトルで下さい。あと、ショットグラスも二つ」

 そんな注文をした。

「ストレートでいけるよね?」

 僕は頷く。

「やっぱり。強めのスピリットをそのままとか、ブランデーをロックとか、あと日本酒とか、カクテルじゃないお酒を平気な顔して飲むイメージあったのよね、千夜君て」

 彼女はなんだか嬉しそうに言った。

「君は……きっと強いんだね」

 ショットグラスを二つ頼んだところや、注文の仕方に慣れを感じて、僕はそう言った。

 一砂は「ふふんっ」と、妙に艶っぽく目を細めた。やはりこの娘は、美人で奇麗で、またその容姿を自分でよく理解していて、魅せ方を知っているのだと思う。吸い込まれそうな色香に、僕は内心、首を振った。

 よくない。

 こんな娘と、おそらくこれから強い酒の飲みあいを二人でしたら、予想外の何かが起こりそうで恐ろしい。

「あ、来た来た」

 店員がボトルとグラスを運んでくると、一砂は嬉しそうにそれを受け取った。慣れた手つきでショットグラスにテキーラを注ぐ。

「それじゃあ……そうね、プロゥスト」

 チンッと小さくグラスを当てて乾杯。君は一気に飲み干した。

 僕も多分同時くらいに飲み干す。フワッときついアルコールの匂いがしたあとで、テキーラの独特の風味が残る。喉がチリチリと焼ける感じがした。

「いい飲みっぷりね」

 君はニコニコしながら言った。

「君こそ。でも、どうしてドイツ語?」

「ホントはメキシコの言葉でって思ったのだけど、それはちょっと、ね」

 僕はふと考えて、なるほどと思った。確かに、スペイン語圏でもないのに女性の口から「チンチン」は言い難いし聞き難い。

「サルゥッでよかったんじゃない?」

 僕が言うと、君は何か思い出したように目を丸くした。

「それもあったわね。得意じゃないから思いつかなかったわ」

 小さく首をかしげてみせて、その後ボトルに手を伸ばす。また二人分テキーラを注ぐと、もう一度乾杯した。

「ふぅ、さすがに効くわね。こう、一瞬で回る感じ」

 そんなことを言って、三杯目を注ぐ。

「うふふっ、なんか楽しい」

 一砂はいつの間にか頬を紅く上気させ、酔っ払いの顔色になっていた。それでなくても潤んだような目が一層トロンとしていて、色っぽく見える。

「あはは、千夜君ホント強いのね。顔はちょっと赤くなったけど、表情も全然変わらないし、あんまし酔ってないでしょう?」

「酔ってなくはないよ。でも、外で飲むと、それほど酔わないのも確かかも。君は、大丈夫かい?」

「平気、平気」

 六杯目を飲み干したあたりで、君はトイレに立った。

 僕は水を一杯飲んで、大きく息をした。

 さすがに、アルコールを摂取した感はある。これまで、一時間ほどでジントニックを二杯とビールを一杯、割とゆっくりなペースで飲んでいたのが、急にこの二十分弱で40度のスピリッツを二百CC以上も飲んだのだ。回らないはずがない。

 周囲のテーブルがまだまだ盛り上がっている中、一人残された僕は、自分の体が酔っ払っていくのをゆっくりと感じていた。

 五分と少しが経ったあたりで、ふいにスマホが鳴った。

 表示は一砂だった。

「どうした?」

『ごめん、ちょっと、具合悪くなっちゃって。今、外の風吸ってるんだ』

「大丈夫か? 具合悪いなら、吐いた方がいいよ」

『ありがと。多分、そこまでじゃないと思うけど、あ、ちょっと店の前にいるから来てくれない?』

 僕は「分かった」と答えて、すぐさま出口に向かった。電話ではあんな感じだったが、実はもっと深刻に具合が悪いのかもしれない。それか、腰が抜けてしまったか。

 急ぎ足でドアを開けると、歩道の柵に腰掛けて、こちらに向かって手を振っている一砂がいた。九時前だというのに、夜はずいぶんと深まっており、ぬるい風が、緩やかに僕を撫でた。

「やっぱり、急いで来てくれた」

 君はまた、なんだか幸せそうに微笑んだ。

「具合、大丈夫なのか?」

「うん、平気。言ったでしょ? でも、ちょっと酔っ払っちゃったかしら」

 空を見上げなら、君は足をぷらぷらとさせた。

「外に来ても、全然涼しくないね」

「もう夏だからね」

「夏か。そうだよね。夏休みだもんね」

 少し湿った空気は、もう十分に夏の匂いがする。

「ねぇ、荷物って持ってきている?」

「いや、このまま手ぶらだけど」

「じゃあさ、このまま抜け出さない?」

「抜け出すって、どこに?」

 僕が言うと、君は再び頬を膨らませて、

「どこでもよ。こういう誘いに、野暮なこと聞かないの!」

 君は反動をつけてポンッと立つと、髪を纏め上げていた銀色の細い髪留めをするりと抜いた。

 流れるように長い髪が解け、しなやかに広がった。それを君は、左右に首を少し振って、右手で静かに均す。

 先ほどのぬるい風に乗って、一砂の香りが鼻を擽った。いつかのフローラル系の匂いだ。

「行こ」

 そう言って、手を差し出す。

 いつもの僕なら、さっきみたいに「どこに?」と聞いていただろう。

 でも、このときの僕は違った。

 その絵に描いたような細い手を掴んで、一緒に歩き出したのだ。

 一砂の手は少しだけ冷たくて、でも握ると、じんわりと暖かかった。

「なんか、心地いい」

 嬉しそうに笑って、君は言った。

「こんなに生暖かいのに?」

「気温じゃなくて、これ」

 そう言って、繋いだ手を上げて見せた。

「わたしね、触れると分かるんだよね」

 何が、と言う問いを、僕はあえて返さない。

「その人の奥の部分が。それはきっとほんの一部に過ぎないんだろうけど、でも、とても本質的な、一番重要な一部が分かるんだ。流れ込んでくるって言うのかな」

 少し空を見上げるようにして呟く。一砂には、本当に不思議で神秘的な空気がある。人間ではないような、そんな崇高とも言えるそれを纏っているのだ。

「わたしとあなたは似ているわ。すごく似ているのに、すごく違う」

「どっちなんだ?」

「どっちもよ」

 わずかに半歩前を行く君に連れられるようにして、僕は歩いた。彼女の先導は確かに心地よくて、僕はただ母親に手を引かれる子供みたいに、何も考えずに付いていった。

 十分ほどいくと、小さな黒いドアの店が見えた。いかにも重厚そうなそのドアには、小さなプレートに『ルーチェ』と書かれていた。ドアの縁には厳ついビスのような装飾がされていて、知らない者には入り難い空気をかもし出している。

「ここ?」

「そう、ここ」

 一砂はニッと笑った。

「平気よ。ぼったくりバーとかじゃないから」

 そんなことを言いながら、重たいドアを押す。

 入ってみて、僕は驚いた。

 そこは、街中の雑踏を一切断絶する、静かな空間だった。てっきり、ガヤつきの五月蝿いショット・バーのような場所を想像していたが、黒と赤で整えられたシックな内装に、十にも満たない半円のカウンター席と、四人がけのテーブルが二つ。なんともこじんまりしたクラシックな店内だ。

「素敵でしょ?」

「ああ、こんな大人っぽい場所知っているんだね」

「とっておきのところなのよ。友達にも、殆ど教えないの」

 慣れた様子で、カウンター席に座る一砂。スッと左手で促されるように、僕も隣に座った。

「いらっしゃい」

 一人のバーテンダーが、穏やかな笑みを浮かべて言った。

 僕はその人を見て、多分、固まった。

 別に知り合いだったわけはない。

 単純な言葉で言うと、純粋に格好よかったのだ。

 背は百七十五を越えたくらいで、細身なのに重厚感があり、シックな服装が良く似合っている。歳は僕たちより確実に上ではあると思うが、では何歳かと聞かれれば予測のつかない年齢不詳さがある。

 イケメンとか、ハンサムとか、そんな軽い言葉では到底表現できない、深い魅力と格好の良さが滲み出ているのだ。

「おや、珍しい。お友達かい?」

「こんばんは、冬真さん。ええ、同じ大学の園城君」

「はじめまして、園城千夜です」

 突然紹介されて、僕は少し緊張しながら挨拶する。

「こんばんは。篠森冬真です」

「このお店の店長さんよ」

 一砂はそう言った。

「そうなんですか。若いのに、すごいですね」

 僕が言うと、

「見た目ほど若くないんだよ」

 と篠森さんは笑った。

「まだ三十一じゃないですか」

「もう、三十一だよ」

 僕は少し驚いていた。予想としては、いっていても二十代後半。まさか、三十の大台に乗っているとは思わなかった。

「なににする?」

「わたしはキス・ミー・クイックを」

 言って、君は僕を見た。

「僕はマティーニをボンベイサファイアで」

 篠森さんは「かしこまりました」と軽く頭を下げると、後ろの棚から材料のリキュールやスピリッツを取り出す。

「カクテル、詳しいんだね」

 僕は一砂に話しかけた。

「冬馬さんのおかげでね。色々飲んでいるうちに、詳しくなっちゃった」

 君はそんな風に言って、作業をしている篠森さんを見詰めた。

 しっとりとして、どこか後ろめたいような、迷いがあるような、でも、熱っぽい目。

 ああ、と僕は気づいた。

 穂積一砂は、この男性のことが好きなのだと。

「千夜君」

「なに?」

「こういうの、苦手?」

 どうだろう、と僕は思った。大勢でわいわいやるのは、あまり好きじゃない。では、仲の良い友達と、食事や、飲みに行くのは?

 答えはきっと、嫌いじゃない、である。

 ならば、女性と二人きりで食事や飲みに行くのは?

 ましてやその女性が、かなりの美人だったとしたら?

 きっと、喜ぶべきことなのだろう。何らかの期待を持って、もしくは今後の何かを願って、何とか話を盛り上げたり、彼女に好印象を持たれようと、思考の一つや二つを巡らせても良いくらいである。

 でも、今の僕は、そんなこと全然考えていない。

 嫌ではないが、期待もしていない。

 そういうことに関して大事な何かを、僕はどこかに無くしてきてしまったかもしれない。

「相手にはよっては苦手だったかもね。でも、君とは嫌じゃない」

 僕が答えると、君はちょっと目を丸くした。

「あら」

 すぐにまた、人を弄ぶような小悪魔的な顔になって、

「それは、まんざらでもないって受け取っていいのかしら?」

「君と一緒に呑みに誘われて、嫌な男は居ないだろ?」

 そう言ってみると、ちょっとだけ嫌そうに笑った。そして、僕の肩を人差し指で小突いた。

「千夜君」

「なにが?」

「だから、千夜君よ。わたしに誘われて、嫌がった人」

 不満そうな、でもどこか微笑んでいるような表情で、一砂は言った。

「そんなこと、ないよ」

「ううん、そんなことあった」

 つんっと怒ったフリをする。

「実は美人恐怖症なんだ」

「うそ」

「人間そのものが苦手なんだ」

「それは、きっと本当ね。でも、苦手なわけじゃないと思うけど」

 僕は、うん、と頷いた。

 一拍置いて、視線を逸らす。

「君は、勘が鋭そうだから」

 一砂の顔が小さく傾く。

「君はきっと僕の本性を見抜くし、入ってきて欲しくないところに入ってくる。そして、君にはその不可侵の領域に入っても、入って来て欲しくないと思わせない自信がある(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」

 僕はすっと真っ直ぐに一砂を見詰めた。

 慈愛にも、或いは諦めにも似た目で君は僕を見詰め返していた。

「ヤダ、わたし、そんなに図々しくないわよ」

「もちろん。実際には図々しくなんてないし、誰もそう思わない。君のそれは、きっと無意識だろうからさ。君は、他人の心に触れやすい何かを持っているんだよ」

「だから、邪険にしたの?」

「だから、そんな風にした覚えはないって」

「したわよ。最初なんてそっけなかったし、無視するし、迷惑そうなオーラ出すし」

 また彼女は、不満そうに言い放つ。

 僕は次の言い訳を考えていたが、一砂の目を見て、それを口にするのを止めた。

「ごめん、本当は、君の言うとおりだ。僕は、君に嫌われたかったんだ」

「どうして? 特殊な趣味の持ち主なの?」

「いや、そうじゃなくて。言い方が悪かったな。関わって欲しくなかった。僕に何の興味も持って欲しくなかったんだ。いい意味でも、悪い意味でも。ああいう風な態度をすると、普通の女の子は去っていくものだからね」

 なぜだか、語尾は少し笑ってしまった。

「普通じゃなくて悪かったわね。でも、なんで、そんなこと?」

 嫌な予感がしたのだ、と、僕は素直に言えなかった。これを言えば、彼女はどんどん掘り下げていって、僕の本当に入ってきて欲しくない所にまで、入ってくるはずだ。

 僕は悩むフリをして、少し黙って考えた。

 一砂はまた、興味津々な猫のような瞳で僕を覗き込んでくる。

「ほら、こういう感じで。君は自然にどんどん掘り下げていく」

 僕が言うと、彼女はハッと気付いた顔をして、その後とても申し訳なさそうな表情になった。

「ごめんなさい」

「いや、別に謝らなくていいよ。悪い事しているわけじゃないんだから」

 小さく手を振りながら、僕は言った。

「そう、悪いことじゃあ、全然ないんだ。きっと、相談しやすいし何かを話しやすいんだろうね。カウンセラーとかに向いていると思う。自然と心を開かせて、話を聞いてあげて。そこからは、わかんないけど」

 すると一砂は、少しだけ笑って、

「ありがと。でも、わたし日本文学科よ?」

「心理学科に編入したら?」

「あ、それもいいかも」

 そんな風に言った一砂は、強ち冗談のようにも見えなかった。

「わたしね。別にやりたいことがあるわけじゃないから、どこの学科でもいいの。興味を持てて、四年間飽きずに出来そうな学科なら、なんでも」

 数メートル先の虚空を見詰めながら、一砂は呟いた。

「今の学科はそうなんだ?」

「うん。古文、好きなのよ。活字も好きだし。文章依存症なの」

 『読書好き』ではなく、依存症という表現が何となく彼女らしくて面白かった。

「素敵な文章は沢山あるじゃない? 言い回し、表現……。それらは、とても素晴らしくて、とても思いが籠もっていて。でもね、きっと、どんな素敵な言葉でも、どんなに真摯な表現でも、人の『想い』そのものには、追いつけないのよね。それでも、その想いをなんとか誰かに伝えたい。その人に伝えたい。そう思って、言葉を紡ぐの。その姿が、不可能性に立ち向かっていく挑戦者のようで、素敵じゃない? それは奇跡を起こすような挑戦だというのに」

 語る一砂の瞳は、慈愛にも似た輝きがあって、とても奇麗だった。

「それに、思いを書き記すことって、とても大事なことなのよ。いつかは薄れていく気持ちを、その時の熱さを忘れないように記すの。例え全てを忘れて、何もなくなってしまっても、その思いだけは、記録して残る」

 最後は少し、物憂げに溢した。

「不可能と知っても、なお諦めない志、か。それは、もしかすると、恋愛そのものかもしれないな」

 なんとなくそう言うと、彼女は突然僕のほうを向き、人差し指で指し示した。

「そう! そうなのよ。愛とか、恋とかの理想って、多分、実現するものじゃないわ。でも、それを諦めることなく、理想に向かって歩んでいく。付き合う前は各々で、付き合ってからは二人揃って。両思いだって、片思いだって、理想のあり方やゴールが変わるだけで、やることは一緒なのよね。みんな、不可能かもしれない理想を諦めずに、追い求める」

 激しく賛同した一砂は、なんだか嬉しそうで、見ているこっちまで幸せにするような、華やかな微笑みを振り撒いていた。

 この娘にはおそらくカリスマ性のようなものがある。人を惹きつける何かと、人を巻き込む何か。目立って、光り輝いて、多くの人に好かれて、人気者で。そんな風に思って、僕はぐらりと、めまいがした。酔った所為ではない。心の奥の方で、嫌な影が動いたのだ。

 僕はそれを必死で押さえ込んだ。

 その発作のようなものは、僕の存在のあり方を危うくする。そんな姿を、穂積一砂に見られるわけにはいかない。見られれば、彼女に気付かれる。勘付かれる。そうすると、きっと面倒なことになる。

「はい、それじゃあ、次は千夜君の話」

「僕の?」

「そう」

「僕の何が聞きたいの?」

 尋ねると、一砂は『そうね』と言って、

「千夜君は、彼女はいるの?」

「いや、いないよ」

 現在進行形では、『いない』と言える。

「じゃあ、好きな人は?」

「残念ながら、今はいないかな」

「寂しいわね」

「放っておいてくれ」

「冗談よ」

 一砂は言って、少し笑った。

「じゃあ、いつ頃からコーヒーが好きになったの?」

「え?」

 僕は、はっと我に返ったように目を逸らす。

「コーヒー好きだから、アンバードロップで働いているのよね?」

「それは、うん。そうだね、その通りだ」

「それで、いつ頃から?」

 それはきっと、簡単な質問だ。もともとコーヒーが好きだったから。何事もとことんやりたい凝り性な性格だから。喫茶店が好きだから。

 色々あるけど、多分一番は――。

「高校に入った頃かな。前に付き合っていた子が、コーヒーが好きだったんだ。それで、色々聞かされているうちに、今度は僕のほうがはまってしまって。結局その子よりも遥かに詳しくなったってわけ」

 誤魔化そうと思えば、いくらでも誤魔化せた。

 それなのに、僕は本当のことを話していた。そうすることで、その先何を聞かれ、どのように踏み込まれるのか容易に想像できたのに、あえて僕は、それを口にしたのだ。

「へぇ、意外ね」

「なにが?」

「コーヒー好きの理由も、理由がその手のことなのに、それをあっけなく素直に話してくれたこともね」

そうだ。

璃子は、コーヒーが好きだった。それもミルクも砂糖も入れないブラック派で、豆の種類も味も飲み方も、なかなかに詳しかったのだ。

 そんな彼女の気を惹きたくて自分も勉強しているうちに、本当にコーヒーや喫茶店が好きになってしまった。凝り性な性質を持っていたとはいえ、きっかけは彼女なのだ。

「ふ~ん。前ってことは、その子とは、終わっちゃったの?」

 一砂は何気なく質問してくる。

「どうかな。終わったのかもしれないし、終わっていないのかもしれない。別れの言葉は、言えなかったから」

 ここでもやめればいいのに、殆ど無意識にそんなことを口走っていた。酒のせいか、どうにも今の僕は、いつもより饒舌らしい。

彼女の表情が少し変わる。何か悪いことを聞いたような、申し訳なさそうな顔だ。

「何があったの?」

 僕はそれに僅かにだけ視線を反らした。

「もしかして、亡くなられた、とか」

「いや、死んではいない。でも、もう目覚めないだろうって。植物状態っていうのかな。昏睡が続いていて、脳死ではないものの、意識は戻らない可能性が高いってさ」

 答えながら、僕の心は必死にブレーキを踏んでいた。もうこれ以上、話すべきじゃない。話してしまえば、僕は穂積一砂と、もっと深く関わる羽目になる。酔いで口が緩んだ、で済まされるのは、ここまでだ。

「事故に遭われたの?」

 真剣な表情で、一砂は聞く。それは、先ほどまでの好奇心というよりは、もっと違うもののようだった。

「いいや。色々あってね。自殺未遂、だったんだ。飛び降りだよ」

 そう呟いて、時間を置く。その次の言葉をどう言ったらよいかと考えていたのだ。

「ごめんなさい。聞かない方が、いいかな」

 一砂は言った。

 僕は少し考えて、ゆっくり頷いた。

「謝ることはないよ。でも、そうだね。決して、面白い話ではないから」

 そう言うと、一砂は「そう。わかった」とだけ言って、薄く微笑んだ。

「ただ、それ以来なんか、僕は道を踏み外してしまってね。彼女のせいじゃない。僕自身が、踏み外したんだ。それでさ、一歩踏み外すと、これが中々、どんどん踏み外していくんだよ。崩れ落ちるように。で、結果僕は普通からはちょっと外れて、本筋からも外れてしまった。戻りたくても、方法がわからない」

 なるべくコミカルに、僕は話した。せっかく一砂が、気を遣ってくれたのだ。重い話にはしたくなかった。

 一砂は、獲物を観察する猫のような眼で僕を見ると、視線を外して小さく首をかしげた。

 数回、何かを話そうするような仕草を見せたが、彼女は何度も自らを押し留めるように口を噤んだ。

「あなたは、その責任を感じているのね?」

 スッと、心を突き刺すような言葉だった。

 酷く切れ味の良い刀で、音速で心臓を貫かれたような、己が刺されたことにさえ気付かないほど素早く、穏やかな一閃のようだった。

 事件の詳細は話さない。でも、それによって、僕が何を感じ、どうしたのか、そして今どうしているのか、は話しても良いかもしれないと思った。

「きっとね。自殺の兆候はあったんだ。少なくとも、僕には分かるように、サインを出していたはずなんだ。僕は……それに気付けなかった」

 愚痴のような呟きに、彼女は小さく頷いただけで、沈黙していた。

「後悔ね」

「悔やんでも意味がないのはわかってる。過去は変えられないし、戻ってこない。でも、だからこそ、後悔し続けることくらいしか、できない気がして」

 僕の言葉に、一砂は視線を落とす。手元のカクテルグラスを見つめて、短い息をつく。

「後悔し続けること、ね……。ねぇ、千夜君。わたしはね、千夜君のこと、まだそこまでよく知らないし、今の話も、詳細とか事情とか聞いてないから、殆ど、思い込みというか、勝手な言い分だから、怒らないで聞き流してね」

 前置きというより、宣言のようだった。

「千夜君。本当に、あなたに罪はあるのかしら?」

 綺麗な瞳が、流し見るようにこちらを見つめる。

 その言葉は、僕にとって恐ろしいもののように思えた。心の奥底にある何もかもを見透かす様な、そんな可能性を秘めた言葉だった。

 もちろん、彼女がそんな意味で言ったとは思えないが、少なくとも僕は十分に動揺していた。

「僕の罪……か」

「人は誰しもが、無意識に自分を特別だと思いたい生き物だから。その為に、自発的に勘違いをすることも多いのよね」

 言葉が刺さるとは、まさにこのことだろう。

 彼女の言葉は心の中の嫌な部分に刺さって、なんとも心地が悪かった。

「……なんてね。聞き流してって言ったでしょ? わたし自身が、前にちょっとあって、散々沈んだ結果得た、唯一の教訓よ」

 血の気が引いていく感覚が、ゆっくりと滲んで、体の芯まで染みていくのが分かった。

 焦燥にめまいがして、僕は思わず額に手を当てた。

「どうしたの? 千夜君」

僕の異変に気付いたのか、一砂が言う。

「あ、ああ、ちょっとさすがに酔いが回ってきたみたい。でも、大丈夫だ」

「そう。じゃあ、今日はそろそろお開きにしましょうか」

 言って、一砂は篠崎さんに合図する。

「今日はわたしが誘ったから、わたしが払うね」

「いや、いいよ。割りにしとこう」

 そう言ったところで、

「園城君の分は、今日は初対面ということで、無料サービスにしておくよ。仕方ないから、一砂ちゃんの分も」

 篠森さんが笑いながら言った。

「やったぁ、ラッキー」

 にっこりと極上のスマイルの一砂。遠慮するところと、ちゃっかり乗っかるところのバランスがよい。

「すみません。いいんですか?」

「ああ、もちろん。そのかわり、常連さんになってくれると嬉しいね。あと、ついでにこの子とも仲良くしてあげてくれ。実は深く知り合ってくれる友達は案外少ないからさ」

 ポンッと一砂の頭に手を置きながら言う篠森さんは、彼女の兄のようで、優しい顔をしていた。

「まぁた子ども扱いして。わたしはもう二十歳ですよ」

「二十歳は、まだまだ子供だよ。特に君はね、一砂ちゃん」

 ははは、とこれ以上ないくらいに爽やかに笑って、篠森さんは僕らを見送ってくれた。

 分厚いドアが、自身の重みでゆっくりと閉まる。

 とたんに、一砂が大きくため息を吐いた。

「大変だな、一砂も」

「え?」

「いや、なんでもない」

「そう。じゃあさ、どうする?」

「どうするって、帰るんだろ? さっきお開きって」

「冬真さんは、うちの親ともそれなりに面識があるから、ああ言っておいただけよ。まだ十時半だし、開いてるお店も多いわ。まあ、ホントに帰ってもいいけれど」

 一砂はまったく悪びれない様子で言ってのける。これだけ飲んでいるのに、頬が少し赤い以外、変化はない。直立の仕方や仕草、どれも素面のときと変わらないのは大したものだ。

「いや、今日は帰ろう。きっと、その方がいい」

 僕は言った。

 これ以上彼女と一緒に酒でも飲んだ日には、きっと僕は要らないことまで口走ってしまて、きっと後々面倒臭いことになるに違いないのだ。

「あなたって、本当、変わってるわね。ここですんなり『帰る』っていうなんて、中々できるものじゃないわ。少なくとも、わたしはそんな人、知らないもの」

 一砂は心底嬉しそうに、言葉を弾ませてそう言った。

「千夜君に免じて、今夜は言うことを聞くわ。それじゃあ、またね?」

 送ろうか、と言いかけて、それを止める。

 そんなことを言えば、またややこしい事態に発展するに決まっている。

「ああ、気を付けて帰って」

 僕はなんとか、それだけを口にした――。 

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