第28話「特訓」

 ナルカミマギシングジムのトレーニングルームに、窓ガラスから爽やかな朝の光が差し込んでいる。

 早朝の瑞々しい空気は実に美味しい。胸いっぱいに吸い込むと一日の活力が湧いてくる、はずなのだが最近のナルカミ・イズナにとっては、憂鬱な一日の始まりを告げる合図だ。

 シンドウとマリアとの試合が決まってから一週間が経過した。

 イズナがユーリ戦で負ったダメージは、最新医療と治癒魔術の併用ですっかり完治し、ギプスも外れている。

 イズナは、手にストップウォッチを持っていた。ここ一週間ですっかり習慣と化したモーニングルーティンをこなすためである。目が獲れて一週間経過した魚よりも死んでいる自覚があるが、あいにくと直すつもりは毛頭ない。

 一方覇気に満ちたシンドウの前にあるのは木の樽と、そこに並々と注がれた水道水。樽を抱えるようにがっしりと掴むと、ひょいと持ち上げて中の水を一気に飲み干していく。


「ううっふぅー! ぷっはあ! イズナ! 何秒だ!?」

「十二秒……記録更新」

「よっしゃあ! 目標タイムクリアだあ!」


 一体なにをやっているんだろう?

 一体なにを見せられているんだろう?


「さて、出すか……」


 シンドウが人差し指を指揮棒のように振るうと、突如シンドウの腹がごろごろと鳴り出し、大量の水が口から飛び出した。


「ごぼぼぼぼぼぼぼぼぼっ!」


 口から出た水は、海ヘビのように空中をうねりながら進み、樽に注がれていく。

 最後の一滴を出し終わったシンドウは、えづきながら破顔した。


「おえっ! おえっ! はぁ……はぁ……はぁ……よーし。イズナもう一回測ってくれぇ!」


 もう駄目だ。突っ込みたい気持ちを我慢できない!


「ちょっとぉ!? なんで同じ水を何度も飲まないといけないのさ!?」

「お前が暴走して賭けしてくれたおかげでこんなことになったんだろうが!」

「見てるこっちが気持ち悪くなっちゃうよぉ!」

「いいか? 俺とマリアの力の差は六対四だ。十回戦ったら俺は四回勝てるかどうかってとこなんだよ。負け越してんだよ! 俺がマリアに勝つためには徴収魔術を使うしかねぇんだ!」


 空間中に放出された魔力を己が物として利用する魔術。シンドウがもっとも得意とする魔術であり、もっとも重要な切り札でもあるという。


「この魔術は、魔族には使えない。もちろんマリアも例外じゃない。取得方法もこの時代じゃ失われてる。使えるのは、俺と師匠だけのとっておきだ。最後に使ったのは、俺ごとマリアを封印した時でちょいと鈍ってる。勘を取り戻さないとなんだよ」


 この一週間シンドウは、朝から晩まで樽いっぱいの水を飲み、飲んだ水を魔術で操作して樽に戻すという作業を繰り返している。

 たしかに徴収魔術は、魔王マリア・マクスウェルとの試合の切り札になるのだろう。

 でも、ただ水を大量に飲んでいるだけで強くなれる気がしない。日に数百回繰り返す嘔吐以上の苦しみを乗り越えた先にあるものが、イズナにはまるで見えてこなかった。


「だからってこの修行方法で強くなれる気がしないよー! 次の試合には、私の人生もかかってるんだからね!?」

「それはお前が勝手に賭けをしたせいだろ! 俺は断ろうとしたんだからな!」

「でも修行の見場が悪いよー! かっこよくないじゃん!」

「水にも致死量があるんだ。飲み過ぎたら中毒になるから水は、こうして排出しないと身体を壊す。それに俺の緻密な操作で水しか出てきていない。体内の雑菌や胃液は出てきていない。汚いものはなに一つ中から出てきていない」

「そんなのどうでもいいよ! これで本当に徴収魔術の精度なんて上がるの!?」

「これが一番基本的な修行なんだよ。俺も師匠とよくやったもんさ。体内に水を取り込み、循環させる感覚を身に着けるんだ」


 思えばシンドウと出会ってから水球に閉じ込められたり、大量に飲んで嘔吐する現場を目撃させられたり、これでもかと水が嫌いになる経験ばかりさせられている気がする。


「見てるほうとしては心配しかないんだけど……」

「だから誰のせいでこんなに追い詰められたと……って、まぁいい。とりあえず午前の練習は終わりにするか。飯にしよう。俺特製のランチをご馳走してやる」


 特製ランチ。その単語もここ一週間で恐怖の対象に変化した。


「どうせ液体なんでしょ!」


 シンドウは、トレーニングルームとイズナの自宅を繋ぐ扉を開けて自宅へ行った。しばらくして大振りな寸胴鍋一つ、スープ皿とスプーンを二つずつ持って帰ってくる。

 鍋の蓋を開けると、中には透き通った琥珀色の液体が鍋の七割ほどまで入っていた。


「特製コンソメスープだ。肉と野菜のエキスがたっぷりだから栄養満点」

「……具材は?」

「もったいないから全部冷凍した。魔術なしでも冷凍可能とか本当に便利な時代で助かるよ」

「冷凍庫いっぱいなんだけど! おかげでアイスも買ってこられないよ!」

「まぁ試合が終わるまでの辛抱だな。スープ、イズナも飲む?」

「スープもういやだあああああああああ! 飽きたよおおおおおおおお! シンドウさんに付き合ってずっと液体オンリーなんだよ!? お米かパン食べたい! せめてパスタうどん蕎麦ぁ! ねぇ外で一緒に食べようよー!」

「しばらく我慢だな」

「うへええええ!」


 ごくごく、さらさら、とろとろ、ちゅるちゅる。液体もゲルももうたくさんだ。気が狂いそうになる。もちもちとかぱりぱりとかさくさくとかそういう食感のものが食べたい。

 だけどいくら訴えてもシンドウは、メニューを変更してくれなかった。しかもスープの仕込みに三口のIHを朝食用・昼食用・夕食用でフル動員かつ長時間煮込むため常に塞がっている。おまけに電子レンジ用の冷凍食品もスープの具材で支配された冷凍庫には入らなかった。

 あと一週間こんな修業が続く。見ているだけの立場だけど耐えられないかもしれない。


「まぁイズナは、無理に付き合わなくていいぞ。外でなにか食べてきなさい」

「うぅ……いい。私もスープ食べる。シンドウさんと一緒のご飯じゃなきゃつまんないし……」


 修行を手伝い、セコンドにつくと約束した以上、一人で外に食べに行くのは義理に反する気がした。

 イズナはスープを一匙飲む。味は、とっても美味しいのがやけにむかついた。

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