ブルーソーダ・マーメイドサマー
店先に植っている樫の木に、蝉がとまっているらしい。
楽器のように啼く蝉のオーケストラに混ざるように、ぼくはグラスの氷をカラン、と鳴らした。
シロップをミネラルウォーターで割ったミント水は、暑い夏にぴったりの爽快な味わいだ。
今年の夏は、日差しが強い。
麦わら帽子や、うちわでは、こと足りないほどの熱気が、いざよいの森の住人たちを猛暑の季節へといざなう。
気温が例年よりも高い今年は、去年のいざよいの森よりも活気があった。
森のところどころで、かき氷やトルコアイス、ばら盛りアイス、アイスコーヒーに、クリームソーダの屋台たちが森のあちこちで見られた。
いざよい堂の近くでも、いくつかの屋台が出ているのが見えた。
ジェラートの屋台、抹茶専門の和スイーツ屋台、そしてシンプルなアイスクリームの屋台。
屋台の前のベンチで、猫の双子が、銀色のスプーンでバニラアイスをすくっている。
「おいしい~」
「おいしいっ」
双子が、それぞれのリズムで、うれしそうに笑顔を見せた。
ぼくは、涼しげな雰囲気に魅せられて、つい店を出た。
誘われるようにアイスクリームの屋台に近づくと、メニュースタンドをのぞきこむ。
色んな味の、色んな色の、アイスの写真が、きらきらと並んでいる。
『スイカ』、『マスカット』、『パイナップル』、『ソーダ』、『チャイ』。
聞いたことのない名前のアイスもあった。
『入道雲』、『黒南風』、『夏至白夜』、『山清水』、『蓮浮葉』。
どんな味がするんだろう、想像もつかないや。
アイスクリームの屋台の店主は、カイマンワニだった。
屋台の屋号は、『ティンパニーズ アイスクリーム』。
店主は、アイスを買ったウサギの女の子に、気さくな雰囲気で話しかけている。
「はいよ。ストロベリー味」
「わあ! ありがとう、ティンパニさん」
「こちらこそ! また来てくれよな」
ギザギザの歯を見せながら、ティンパニさんが笑う。
ウサギの女の子は、コーンに乗ったストロベリーアイスを持って、ウサギ穴のほうへと、うれしそうに走っていった。
このめずらしい名前のアイスを買っている子は、見かけない。
でも、どんな味がするのか、とても興味があった。
ぼくは、ついに身を乗り出して、ティンパニさんに話しかけた。
「あの……この漢字の名前のアイスって、どんなアイスなんですか?」
「おお、きみは?」
「向かいの……いざよい堂書店の、しいらです」
「いざよい堂の人か! おれは、ティンパニだ。そんでこいつは、ハープ。アイスを作っているのは、ハープだからな。アイスのことは、こいつに聞いてくれ」
すると、屋台の下から、夏の海のようなロングヘアがひょっこりと現れた。
白い砂浜のような肌に、桜貝のような瞳、彫刻のように整った顔立ち。
チェロさんは大きく育った向日葵と同じくらいの身長があるけれど、この人もそれくらい背が高い。
ティンパニさんと同じ、『ティンパニーズ アイスクリーム』とプリントされたマリンブルーのエプロンを着ていた。壁に備えつけられた扇風機の風を受け、エプロンがそよそよとなびいている。
ハープさんは、ぼくを見ると、アイスクリームディッシャーを左右に振って、応えてくれる。
「ハープだよ~。えへへ、ぼくのアイスに興味を持ってくれたんだね」
「あっ。はい……」
そのとき、びちっと、何かが跳ねる音がした。
ぼくは、気づいた。
ハープさんの下半身が、魚の尾にそっくりなことに。いや、むしろ魚そのものだ。
宝石のような美しいウロコが規則正しく並び、きらきらと輝いている。これが人魚の尾なんだ。
驚いているぼくに、ティンパニさんが「ん?」と目を丸くした。
「しいら。人魚を見るのは、はじめてなのか」
「はい、ハープさん。人魚なんですね」
「そうだぜ。おれたち、海で出会ったんだ。そこから、親友になって、こうしていっしょにアイスクリーム屋をやってるってわけだ」
「海で……」
いろんな妖精を見たことはあるけれど、人魚とこうして対面するのは生まれてはじめてだ。
人魚に会った人いるって話を人づてに聞いて、「この世にいるのは、ほんとうなんだなあ」くらいにしか思っていなかったから、こうして会うと、夢みたいで緊張する。
「しいらっていうんだ。シーラカンスみたいで、おもしろーい」
「あ、あはは……」
ぼくが戸惑っていると、ティンパニさんが助け舟を出してくれた。
「ハープ。しいらのやつが、おまえの作ったアイスクリームのことを聞きたいんだとさ」
「そうなんだ。すてきな好奇心だね。それじゃあ、いまから新しい味を作りに行くから、ついてくる~?」
「いいんですか?」
「もちろんだよお。だって、どうせひとりじゃ行けないしね~。ティンパニに店番を任せて、ふたりで海へと逃避行をしようよ。しいらちゃん」
ぼくのほっぺたを、キュっとつまんでくる、ハープさん。なんだか、ふしぎな空気感のある人だな……。
ティンパニさんが、どこからか木製の乳母車を引いてきた。
じゃばらの天幕がついていて、鉄製の大きな車輪が回るたびに、きゅるきゅると鳴った。
なかには、たっぷりの水が入っている。
「これに、ハープを乗せていくんだ。ハープ、道案内してやんな」
「は~い。それじゃあ、しいらちゃん。行こう」
「えっと。店のほうに許可をもらってくるので、待っていてください」
「わかったよ~」
ティンパニさんがワニのちからで、シーラカンスぐらい大きなハープさんを抱きあげている。
乳母車のなかに、ゆっくりとハープさんが入り、ばしゃんと音を立てた。
乳母車のなかで、人魚がぱしゃぱしゃと泳ぐ音を聞きながら、ぼくはいざよい堂にもどった。
チェロさんから外出の許可をもらい、ぼくはハープさんのもとに戻ると、乳母車のハンドルを握った。
でも、いざよいの森に海なんてあったっけ。
すると、ハープさんが乳母車の水面から、顔を出した。
「まずは、海に行こう。ここから南だよ」
「わ、わかりました」
とりあえず、ぼくは南のほうへと乳母車を押していった。
しばらくすると、オルガンさんの傘屋さんが見えた。
傘屋を通りすぎ、また歩く。
「いざよいの森の奥には『おしゃべり湖』、そしてそのさらに奥、さいはてには『妖精の里』があるんだよ」
ハープさんが、からからと鳴る車輪のリズムにあわせるように、いった。
「知ってます。でも、海なんてあったかな」
ぼくが記憶を巡らせていると、ハープさんがからからと笑った。
「なんでも知ってるベルリラちゃんに会えば、わかるよ。南のほうにいるって話だからね。会いに行こうー」
ベルリラ。
それは、ぼくが『おしゃべり湖』につけてあげた名前だ。
あれ以来、ベルリラのことを見かけないとおもっていたけど、元気にやっているのかな。
「ベルリラのこと、知ってるんですか?」
「自分の名前をいたるところで披露してるよ。『わたしはベルリラ!』っていいながらね」
そんなことになっているとは知らなかった。
春に出会ってから、ちっともいざよい堂に来てくれないんだから。
「いざよいの森の湖に行くのは、はじめてなんです」
「初体験かあ。すてきな響きだなあ」
ぴちゃぴちゃという水音は、長い長い散歩の熱を涼し気に彩ってくれる。
あとどれくらいで湖なのかわからないけれど、ハープさんとのおしゃべりはとても楽しかった。
「おしゃべり湖はね、ベルリラのいるところにあるんだ。だから、ほんとうは奥じゃないんだよね。奥にあったんだよ」
「――え? どういうことですか……?」
「ベルリラが生まれたから、もう奥じゃなくなった。そういうことー」
ハープさんは、よくわからないことをいう。
そういえば、ベルリラもむずかしそうなことをいっていた。
風が吹くと、乳母車の水面に波が立った。
ハープさんが、気持ちよさそうに風を感じている。
夏の海みたいなハープさんの髪が、さらさらと揺れた。
そのとき、誰かに後ろから、ぎゅっと抱き着かれた。
「しいら! しいらだ!」
聞き覚えのある声だった。
するとハープさんは、ひまわりが咲くときみたいな笑顔を浮かべ、目を輝かせた。
「湖が出た! あははははっ」
人魚の尾をくねくね揺らし、乳母車から身を乗り出すハープさん。
声の主がいまいましげに、ぼくの背後から、ハープさんを指差した。
「うるさい! わたしは、きみなどに用はない。それと、ぴちゃぴちゃと泳ぐ音が、雨音のようで不快であるから、ミュートすべきだ」
「あははっ。まるで、風が強い日の風鈴みたーい。チリンチリーン、ベルリラベルリラ、おしゃべり湖だー」
「なんて、意味不明な人魚だ。塩水のように塩っ辛いやつだ。乳母車に乗って、贅沢な貴族きどり。規則的なウロコのならびに、けたたましい音色がこびりついている。だが、わたしの名前のきらびやかさは、滑らかな夏の日差しのように永遠だ」
久しぶりのベルリラの声は、いつにも増して早口だ。
なんだか、ハープさんと仲がわるそうに見えるけれど、気のせいかな……。
ベルリラに後ろから、ぎゅうぎゅうと抱きしめられていて、少し苦しい。
後ろを振り返ると、ぼくの腰あたりしかない小さな身長のベルリラが、ぶらーんとぼくの首に抱きついていた。
ぬけるような白髪、幼い顔立ちなのに、しっかりとした口調にはいつもながら、ギャップがあった。
子どもにしては、あまりにもおとなびている言葉づかいなのに、ぼくに抱きついているようすは、やっぱり子どもっぽかった。
ベルリラを見て、ハープさんがケタケタと笑う。
「ベルリラちゃん。ねえ、海をちょうだい。アイスクリームを作るんだよ」
「湖は、塩っ辛くない」
「違うよ。いじわるはやめてよー」
「ふん。まったく忙しない」
いらだたし気に、ベルリラがぼくの肩から飛び降りた。
すると、ベルリラが立った地面が、一気に湿り気を帯びはじめる。
じわじわと、地面から水が染みてくる。
しだいに、じゃぶじゃぶと音を立てて、噴水のように水が湧き出した。
「しいらちゃん。おろして、おろして」
「えっ」
「乳母車から、ぼくを出してー」
「あっ。わかりました」
あわてて、ハープさんを乳母車から抱きあげようとする。
しかし、水に濡れてずっしりと重い。
それに、シーラカンスぐらい大きなハープさんを十四歳のぼくが持ちあげるなんて、できるんだろうか。
おもいっきり力を出して、がんばってみるけれど、ちっとも持ちあがらない。
「……っく、くう」
だんだん、顔が真っ赤になってきて、息もあがってくる。
ハープさんが面白がるように、ぼくに抱きついてきた。
「がんばってえ。海が出来あがっちゃうよ~」
「う、海が……? はあ……はあ……」
ハープさんが、こっくりとうなずく。
そういえば、風に乗って潮のかおりがする。
こんなところに、海なんてあるわけがないのに。
「ぬる魚! しいらを捕まえることは、昼を無視することに等しい」
「え~? なんでそんなこというの~?」
すると、ぼくの腕にかかっていた人魚の重さが、一気に軽くなる。
というか、ハープさんが浮いているんだ。
風船みたいに、ふわふわと空中に人魚が浮いている。
ベルリラが目をすがめ、ハープさんを見あげていた。
「わたしの名づけ親を労働で使うことは、この湖が許さない」
「しいらちゃんって、ベルリラちゃんのママ? それとも、パパ?」
宙をふわふわ浮きながら、宝石のようなウロコの尾っぽをパタパタと揺らすハープさんが興味津々でたずねてきた。
パパなのかママなのかは知らないけれど、ベルリラが名前をそんなに気に入ってくれているなんて、想像もしていなかった。
「ベルリラ。ハープさんが浮いてるのって、ベルリラが何かしているからなの?」
「湖が万能なのは、何でも知っているからである」
「えっと、ぼくの代わりに、ハープさんを持ちあげてくれたんだよね? ありがとう」
「……しいらは、わたしにすべてをくれたのだから、当然だ」
「す、すべて……?」
足元が、ぱしゃりと音を立てる。
さっきまで地面だったはずのところは、いまやすっかり、ちょっとしたプールくらいになっていた。
ハープさんは、ベルリラのふしぎなちからによって、そこにおろされた。
じゃばん、っと大きな水しぶきがあがる。
ふわりと潮のかおりがした――ここ、海のにおいがする。
ハープさんが、うれしそうに思いっきり泳ぎ出した。
人魚が、あんなにゆうゆうと泳げるほどに水が溜まっているなんて――いつのまに。
「ねえ、ベルリラ。ここって、ふつうの地面だったよね? なんだか、海のようなにおいがするんだけど」
「湖にかかれば、地中の海水をここにいっしゅんで溜めることも可能であるからして、いざよいの森のおしゃべりなベルリラは、きみにぞんぶんに褒められたいとおもっているようだ」
「ええ?」
「あの、不遜でわがままな人魚に、いざよいの森にりっぱな海を作り、提供したのだからたいへんな作業だったとおもわないか」
「んん……まあ」
「じゃあ、褒めるといい。わたしを」
「えっと……すごいね、ベルリラ」
ぽつりというと、ベルリラはなぜか不服そうに、顔をしかめた。
「本気でいえ」
「いってるよ」
「しいらの気持ちをもっと感じたい」
ベルリラが、かなしそうに眉をさげた。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに、ぼくはベルリラに何をしてあげたらいいのかわからない。
「どうすればいいのかな」
ばしゃんと、水しぶきがあがる。
ハープさんが、小さな海底からあがってきた。
すいすい泳いで、ぼくたちがいるほうへと近づいてくる。
「しいらちゃん、ベルリラちゃん。けんかしてるのー」
「うるさい、ぬる魚。あっちへ行け」
「海に浸かって、元気が出たよ! ようやく、アイスクリームが作れそうだ———そうそう、しいらちゃんに、新しいアイスクリームを作るところを見せてあげるっていったんだよ」
「しいらに……?」
不満そうにいうベルリラに、ハープさんがうなずいた。
「そうだ。ベルリラちゃんの大好物のあれは、まだ店のメニューにはなかったよね。いまから、あれを作ろうか」
ハープさんの言葉に、ベルリラの肩がぴくりと反応した。
「……ぬる魚。きみのアイスクリームは、たしかに素晴らしい。きみのアイスクリームだけは」
神妙な面持ちで、ベルリラがいう。
ベルリラもハープさんのアイスクリームには、一目置いているんだな。
ハープさんが作るアイスクリームには『入道雲』、『黒南風』、『夏至白夜』、『山清水』、『蓮浮葉』という名前のものがあったよね。
ベルリラの大好物って、なんだろう?
すると、ハープさんはヒレの裏側からアイスクリームディッシャーを取り出した。
銀色のアイスクリームディッシャーでそっと、海水を掬う。
丸いヘッドに掬われた海水が、くるりと周り、冷たいアイスクリームが現れた。空を映した海色に、白い波がなみなみとした模様を描いたアイスクリーム。
ハープさんが海水を掬うたびに、ヘッドでくるりと周り、アイスクリームとなって現れる。
ヒレから取り出されたガラスの器に、ぽんぽんぽんと、盛りつけられたハープさんのアイスクリーム。
「ベルリラちゃんの大すきなフレーバー『
ぼくは、靴とソックスを脱いで海に入ると、ハープさんからアイスクリームを受け取った。
銀色のスプーンで掬って、どきどきしながら味わう。
舌に広がる、甘じょっぱい味。とてもおいしいけれど、どんな味といわれたら、ぼくの持つ言葉では説明できない。
いままで、食べたことのない味だからだ。
「これって、いったいどんな味なんですか? スイカ味でも、ソーダ味でもないし……」
すると、ハープさんは困ったように答えた。
「お客さんにいつも同じことを聞かれる。でも、ぼくが食べたい味を掬っているだけなんだ。だから、言葉では教えてあげられないんだよー」
言葉では、表現できない味。
冷たくて、甘くて、しょっぱくて、何度も何度も食べたくなる。
ハープさんに掬ってもらった『夏濤味』のアイスクリームをベルリラも、おいしそうに食べていた。
「ベルリラは、これがすきなんだ」
「この人魚の作るアイスクリームは、どれもうまい。そこだけは、評価してやらなくもない」
さっきまで、ハープさんに対して毛を逆立てていたのに、いまではすっかり、アイスクリームに夢中だ。
やっぱり、ハープさんのアイスクリームはすごい。
アイスクリームを食べているぼくとベルリラから、とっくに離れて、ハープさんは海の向こうへと泳いで行ってしまった。
蝉のオーケストラのなか、小さな海で人魚は自由気ままに泳いでいる。
人魚の尾が水面を蹴って、水しぶきがあがる。水の玉に夏の太陽が反射して、きらきらと光った。
アイスクリームが溶けはじめている。
まだまだ、夏は終わりそうにない。
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