夏 『アンブレラ フォーチュンテリング』

浮かれたアフターヌーンティー

 いざよい堂書店の地下書庫には、チェロさんが昔から集めている古本たちが、ずっしりと保管されている。

 地下書庫といっても、そんなに広いわけではなく、アパートのワンルームほどの大きさだ。

 今日は、書庫の整理をするといって、午後からずっとチェロさんは書庫にこもっている。

 ぼくはひとり、店番をしながら、はたきで本棚のホコリを掃除していた。

 時計の針は、十四時を指している。

 窓の外は、しとしとと雨が降り続いていた。

 いざよいの森に、梅雨がやってきた。

 町のアパートにひとりで住んでいるぼくは、今日も傘を差し、レインブーツを履いて、いざよい堂書店に出勤した。

 そろそろ、新しい雨具がほしいな、とおもいはじめていた。

 むかしは、雨具なんて雨の日しか使わないんだから、それにお金を使うのはもったいないとおもっていた。

 でも最近は、憂鬱な雨の日に、新しい雨具を使うと、わくわくすることに気づいたんだ。

 今年の梅雨は長引きそうだと、チェロさんがいっていた。

 新しくするなら、傘がいいかな。

 店の前の傘立てに立てられた、ぼくの傘を思い出す。

 いま使っているのは、町の雑貨屋で買った地味な黒い傘。

 台風の日に傘が折れてしまって、あわてて買った傘だった。

 愛着がないわけじゃないけれど、このあいだの強風の日に、骨が折れてしまった。

 黒い傘は、そろそろ引退のときかもしれない。

 掃除を続けていると、ふと、雑誌コーナーに『アンティークの傘』という見出しを見つけた。

 アンティークの傘なんてあるんだ、ぼくはその雑誌を手に取った。

 ぱらり、とページをめくると『百年前のアンティーク傘特集! あなたのお気に入りの傘はありますか?』という見出しが、きれいなフォントで書かれている。

 こまやかな刺繍がほどこされたレースの日傘、手元の部分はなめらかな木材を使っていて、差すと丸みをおびたフォルムになるのが、とてもかわいかった。

 紳士用の黒い傘は、生地の部分がコットン素材になっている。経年劣化からなのか、生地を光にかざすと少し透けて見える。でも、なんだかきれいだ。

 となりに掲載されているベージュの傘は、生地部分の切り替えにベロア素材が使われている。デザイン重視のおしゃれな傘だけれど、壊れているので、観賞用でしかもう使えないらしい。手元には、竹が使われていて、先には蓮のつぼみのような装飾がほどこされている。

 どれも、すてきな傘ばかりだ。

 ぼくだったら、どんな傘を持って出かけたいかな。

「しいらくん。なにを読んでいるんですか」

 背後から、ほんのりとアールグレイのかおりがただよう。チェロさんだ。

 まずい。掃除をさぼっているのが、バレてしまった。 

 それに、これは売り物の雑誌。勝手に読んでしまった。

「すみません。えっと……これ、買い取ります」

「どうしてですか?」

「えっと、お客さまの商品なのに、ぼくが読んじゃってたから」

「ふふ。ぼくだって、店の本を立ち読みくらいしますよ。それに、そんなのは、いざよいの森のみんな承知のうえ。ここはのんびりした本屋ですからね。しいらくんは、なにも気にしなくていいんですよ」

 ぼくの頭のうえに手を置こうとしたチェロさんが、ハッとした。

 書庫の整理をしていたからか、チェロさんはハーフグローブをしたままだったみたいだ。

 ゆっくりそれを外すと、やっとだとばかりに、そっと頭に手を乗せ、よしよしとなでてくれる。

 いつもながら、やさしいチェロさん。

 トナカイだからなのか、チェロさんはぼくの二倍はあるんじゃないかとおもうほどに、手が大きい。

 それになでられると、あまりに心地よくて、眠くなってしまいそうだった。

 ぼくは気を取り直し、せめて掃除だけはしっかりやろうと、再びはたきを動かしはじめた。

「そういえば、チェロさんは書庫の整理、おわったんですか?」

「ええ。それでね、いいものを見つけたんで、急いでもどってきたんですよ」

 トナカイの口をにこにことさせるように、チェロさんはいそいそと持っていたものをぼくに見せてくれた。

 それは、一冊の本だった。

 表紙には『アンブレラ フォーチュンテリング』と書かれている。

 装画には、夜の風景に雨が降るさまが描かれている。

「傘……占い、ですか?」

「ええ。おもしろそうだな、と思っていたら、しいらくんが傘特集の雑誌を読んでいたでしょう? ベストタイミングじゃないですか。どうです? いっしょに読んでみませんか」

 たしかにおもしろそうだけれど、傘占いなんて、聞いたことがない。 

 いったい、どんなふうにして占うんだろう。

 疑問におもっているとチェロさんが、ジッとぼくを見つめているのに気づいた。

「しいらくんは、占いを信じたりとかします?」

「あんまりやったことがないので……わからないです」

「一回や二階くらいは、やったことが? どんな占いですか?」

「えっと……タロット占いです。町のお祭りに、数人の友達といっしょに行ったときに、屋台があるのを見つけて……友達といっしょに入ったんです」

 そのときは、友達が占いたいんだとばかり思っていた。

 でも、じっさいは面白いもの見たさで入っただけだったみたいで、友達も特になにを占いたいとかはなかったみたいだった。

 なので、あれよあれよというまに、ぼくが占ってもらうことになってしまったんだ。

「なにを占ってもらったんですか?」

「たしか……まったく思いつかなくって、しかたなく『明日のごはんはなんですか?』って聞いたような。占い師の人に怒られちゃいました。ばかにしてるのかって」

「ははは。やっぱりしいらくんは、面白いですね」

 チェロさんはふだん、声をあげて笑うことは、めったにない。

 でもたまに、こうしてぼくの話で笑ってくれることがある。

 チェロさんが笑ってくれると、なんだか、少しうれしくなるんだ。

「傘占い、さっそくやってみましょうか」

 いつものソファに腰かけたチェロさんは、隣をポンポンと叩いて、ぼくをまねいた。

 うながされるままに隣におさまると、ぼくはチェロさんが開いている本をのぞきこむ。

『傘占いのやり方』と書かれたページだった。

 注意事項が書かれている。

『この占いは、かならずふたりでやってください』

 チェロさんがいるから、この注意事項は守られている。

 はたきをレジの下に置きに行くと、チェロさんがいった。

「えっと、まず……『① あなたがいま、使っている傘を開いてください』って書いてありますね」

 ぼくはそのまま、店の扉を開けた。

 来客ベルの音を聞きながら、傘立てに差した、黒い傘をバサッと開く。

 すると、チェロさんが続きを読んでくれる。

「次は……『② 心のなかで歌を歌いながら、傘をくるくると回してください。もうひとりが、ストップというまで、回し続けてください』だそうです」

「はい。じゃあ、回します」

 歌は、どうしよう。

 ぼくは、あまり歌を知らない。

 歌が下手だから、鼻歌すら歌ったことがないのに。

 でも、心のなかで歌うんだし、なにを歌ったって、チェロさんには聞かれないんだから、いいよね。

 そうだ。今日は、雨が降っているから雨の歌にしよう。

 今朝、ごはんを食べながらラジオを流していたときに、聞いた曲。

 子どものころに聞いた、懐かしい曲だ。


『魚は なに色の海で 泳ぐでしょう

 魚は むらさきの海で 泳ぎます

 あじさいの花が 降ってきた


 魚は なに色の海で 泳ぐでしょう

 魚は だいだいの海で 泳ぎます

 にんじんジュースが 降ってきた

 

 魚は なに色の海で 泳ぐでしょう

 魚は 黒色の海で 泳ぎます

 よぞらの星が 降ってきた』

 

「――ストップ」

 チェロさんが、たのしそうにいった。

 ぼくはあわてて、歌を止める。 

 いつのまにか夢中になっていて、傘を回すいきおいが早くなっていることに気づいた。

 傘を回すたびに雨粒が、ぴょんぴょんと飛んでいく。

 まるで生きているみたいに。

「では、続けますよ。『③ 傘を閉じ、しっかりとネームバンドを巻いて、もとに戻してください。占いをはじめる前にいた場所に、もどってください』だそうですよ」

 ぼくは、チェロさんの指示通りにした。

 ネームバンドをしっかり巻き終わると、もといた場所……チェロさんの隣に座り直した。

「これで、占いは終わりです」

「じゃあ、これでなにかがわかるってことですね?」

「ええ。結果のページを開いてみましょうか」

 チェロさんが、ぱらぱらとページをめくっていく。

 そのあいだに、ぼくは他のページものぞきこんでみる。

 この本には、傘を使ったいくつもの占いが載っていた。

 いま、ぼくがやった占いでは、どんなことがわかるんだろう。

 チェロさんは、さっそく結果のページを見つけ、書かれていることを読みあげてくれる。

「この占いでは、『あなたの精神年齢がわかる』そうですよ」

「せ、精神年齢?」

「ええ。『あなたが思い浮かべた歌は、何歳ごろに覚えた歌ですか? その年齢が、あなたの精神年齢です』……と、書いてありますね」

 ぼくは、一気に恥ずかしくなった。

 じわじわと顔が熱くなっていくのを感じる。

 あの歌は、ぼくが五歳のころに幼稚園で覚えた歌だ。

 となると、ぼくの精神年齢は、五歳ということになってしまう。

 でもそれは、今朝ラジオから流れてきたから、たまたま歌っただけ。

 もしラジオから流れてきたのが、違う歌だったら、占い結果である精神年齢は違うものになっていたかもしれないのに。

 ぼくはムッとして、うつむいてしまう。

 真っ赤な顔を、チェロさんに見られたくなかったのもある。

「やっぱり、占いは信用できないかもしれません」

「……なぜですか?」

「外れています。ぼくの精神年齢」

「そうですか。いったい、どんな歌を歌ったんですか? ぼくに、教えてくれませんか」

 チェロさんは、困ったようにいった。

 あの占いは外れたけれど、チェロさんを困らせたいわけじゃない。

 ぼくは、しぶしぶ答えた。

「曲名は思い出せないんですけど……『魚は なに色の海で 泳ぐでしょう』って歌詞ではじまる歌です」

「へえ。とてもかわいらしい歌詞なんですね。しいらくんは、そういう曲がすきなんですか?」

「いえ、そういうわけじゃなくて。今朝、ラジオから流れてきたので、たまたま……。五歳のころ、幼稚園で覚えたのを思い出しただけです」

 いいわけするように話すと、チェロさんは黒真珠ような大きな目を輝かせた。

「しいらくんは、記憶力がいいんですね。しっかりと、そのころのことも覚えているじゃないですか」

「そ、そうなんですかね」

「聞きたいです。しいらくんの、歌」

「えっ」

 チェロさんは、さっさと『アンブレラ フォーチュンテリング』を閉じ、ローテーブルの上に乗せた。

 そして、ぼくの顔を間近で見つめてくる。

 チェロさんが、頼みごとをするときの癖だ。

 しかも、ぜったいに、相手にノーとはいわせないときの。

「なんでそんなに、ぼくの歌が聞きたいんですか」

「だって、聞いたことがないから」

「チェロさんが自分で歌えばいいでしょう。いつも、ふんふん鼻歌うたってるじゃないですか」

「ぼくは、歌が大すきですから。しいらくんの歌も、聞いてみたいんです」

 もしかしてこれって、はめられた?

 チェロさんが、ぼくの歌を聞くための口実として、こんな本を地下書庫から引っ張り出してきたんじゃ。

 ありえるなあ。

 このままじゃ、チェロさんを納得させるまで、この状態が続いてしまう。

 なんとか、別の話題にしなくちゃ。

 時計の針は、すでに十四時半を指している。

「チェロさん。ぼく、お腹が空きました」

「お腹が空いていたほうが、声がよく通るんですよ! 歌い終わったあとに、アフタヌーンティーの時間にしましょう。お茶の用意もしてありますから」

 チェロさんのトナカイの毛並みから、アールグレイのかおりがする。

 長い鼻先が、すっとぼくの鼻先をかすめた。

 くすぐったくて、ぼくは目をきゅっと閉じてしまう。

「歌うの、へたなんです。だから……むりです」

「ぼくは、うまいとか、へたとか、関係なんですよ。しいらくんの歌をちゃんと聞きたいんです」

「なんで、そんなに聞きたいんですか」

「だって、たまに鼻歌を歌ってるじゃないですか。店の掃除をしているとき」

「……えっ?」

「ごく、たまーにですけど」

 そんなばかな。

 ぼくは、自分が歌うことが苦手なのをわかっているから、鼻歌ですら歌ったことがなかったはずなのに。

 だから、チェロさんもぼくの鼻歌を聞いたことがないはず――じゃないの?

「まさか……無自覚だったんですか? とても、楽しそうに歌うので、ぼくはきみの鼻歌が大すきなんです。だから、ちゃんと歌っているところも見てみたいと、ずっと思っていたんですよ」

「そ、そうだったんですね……」

 よくよく自分の行動を思い返してみようと思ったけれど、恥ずかしくてたまらなくなりそうだったので、止めた。

 ただでさえ、顔が熱をもってしまっているのに。

 ぼくは、必死に手の平で顔を隠した。

 すると、チェロさんが「くふ」と笑った。

「じゃあ、歌わなくていいので、しいらくんのすきな歌を教えてください」

「すきな歌とか、考えたことないです。だって、ぼくは歌が下手ですし」

「でも、鼻歌をするくらいには、すきなんでしょう? いつも、こんな歌を歌っていますよ」

 チェロさんはそういって、人さし指で指揮をしながら、鼻歌を歌いはじめた。

 それは、ぼくがさっき傘占いのときに心のなかで歌ったメロディーだ。

 歌い終わったチェロさんは、満足そうに息をついた。

「思い出しました? 歌のタイトル」

「タイトルはわからないですけど、いまチェロさんが歌ったのは、さっきぼくが傘占いのときに歌った歌です」

「ほんとうですか? じゃあ、さっそくタイトルを調べましょう」

 チェロさんは、急いで地下書庫への階段を駆け下りていく。

 数分してから、軽快な足取りで、チェロさんが店へと戻ってきた。

「わかりましたよ。タイトルが」

「な……なんでした?」

「ふふ。『魚はなに色の海で泳ぐでしょう』というタイトルでした」

「えっ。そのまんまですね……」

「そのまんまでしたね」

 こらえきれない、とばかりに、チェロさんが吹きだす。

 今日は、チェロさんがよく笑ってくれる。

 いろいろあったのに、それだけで、ぼくの心はあたたかくなってしまう。

「さて。しいらくんの歌っていた歌もわかったことだし、お茶の準備をしましょうか。しいらくん、手を洗ってきてくださいね」

「もう。子どもあつかいしないでください」

「ふふ。そうですね」

 チェロさんが、『アンブレラ フォーチュンテリング』を手に立ちあがった。

「こんな占いは、きみとの話のタネにしかなりませんからね」


 ■


 チェロさんと傘占いをした日から、ぼくは傘への興味が少しだけ強くなっていた。

 どんな新しい傘にしようかという気持ちが、日に日に増していく。

 いま使っている雑貨屋で買った黒い傘は、いよいよ完全に骨が折れてしまった。

 しばらくは傘立てで、静かに過ごしてもらうしかない。

 ぼくが住むアパートの部屋の傘立てには、黒い傘一本しか立っていない。

 次の雨の日までに、新しい傘を選ばなくてはならない。 

 でも、どんな傘にしようかと、ずっと悩んでいた。

 町には、さまざまな雑貨屋がある。

 いろんな店を周ったけれど、どの傘もピンとこない。

 そんなとき、いっそ、いざよいの森で探してみようかと思いつく。

 いざよいの森は必要としている人だけが招かれる店が、いくつもあるという。

 いまのぼくは、完全に傘を求めている。

 だったら、かならず辿りつけるはずだ。

 ぼくが求める、理想の傘が置いてある店に。


 思い立ったら、すぐ。

 ぼくは導かれるように、いざよいの森へ入った。

 いざよい堂書店は営業しているけれど、ぼくは休みの日だった。

 でも今日は、本を買うんじゃない。

 傘を探しに行くんだ。

 ぼくは、目的地がわからないままに、目的地へと歩いて行く。


 やがて、数十分後。

 あたりは、見覚えのない景色となっていた。

 色とりどりの紫陽花が咲きほこる、幻想的な風景。

 その真ん中に、ログハウスが紫陽花たちに守られるように建っていた。

 こぼれるように咲く紫陽花の玉が覆いかぶさるように、看板があった。

『傘あります』

 これは、店の名前なのかな。

 ぼくは、ログハウスの窓から、なかをのぞきこんだ。

 透明な窓ガラスがぼくを映している、その向こう側にゆらゆらとゆれているものがあった。

 天井から吊るされた開いた傘が、花のようにいくつも咲いていた。

 ここにある傘たちは、どこかふしぎは生地でできていた。

 虹の傘、夜空の傘、春の傘、夏の傘、朝焼けの傘、夕暮れの傘。

 見とれるほどの複雑な色あいで、傘たちは楽しげにゆれている。

 ぼくは、言葉もないままに、傘をながめていた。

「こんにちは」

 ビクッと、肩がはねた。

 あわてて振り返ると、まっ白な毛並みのトラが立っていた。

 黒の麻生地の着物に、透き通った紺の羽織をまとっている。

 トラは、しっぽをくるりと動かすと、ゆったりと腕を組んだ。

「傘を探してるのかな。大丈夫。ここは、おれの店だよ」

 さすがに、ぼくが傘を求めていることはわかってくれているみたいだ。

 でも、窓からなかをのぞきこんでいたなんて、失礼だったよね。

 ぼくは、深々と頭をさげた。

「あの、なかをのぞいてしまって……すみません」

「いいんだよ。というか、きみがはじめてじゃない。おれの店に来るお客さまは、おれの傘に興味津々みたいでね。だから、見栄えがするように、傘を天井から吊るして、展示してるんだ。窓枠が、額縁みたいで、おしゃれだろ?」

 トラの牙を見せながら笑ってくれる店主さんに、ぼくはホッと胸をなでおろした。

 やさしい店主さんで、助かったな。

「あの、ぼく……しいらといいます。すてきな傘を探していて」

「なら、おれの店にたどり着くのは、当然だな。おれは、オルガンだ。よろしくな、しいら」

 オルガンさんは、ぼくを店のなかへと案内してくれた。

 なかで見る傘は、店の外から見るよりも、断然きれいだった。

 そして、ぼくは気づいた。

 この傘たちは、ふつうの傘じゃない。

「オルガンさんの傘の生地……ふしぎです。なんだか、動いているように見えます」

「その通りだ。動いているよ。雲の流れも、風のそよぎも、そのままさ」

「どういうことですか……?」

 信じられない気持ちで聞くと、オルガンさんは胸を張っていう。

「おれの傘は、晴れた日の風景を閉じこめている。雨の日でも、太陽の光を感じられる傘なんだ」

 作業台の横に置かれた傘立てから、オルガンさんは一本の傘を手に取った。

 トラの爪を器用に動かし、ネームバンドを外す。

 バサッと開かれた傘の生地には、この店の周りに咲きほこる紫陽花畑が閉じこめられていた。

 みずみずしい大きな葉っぱのうえに、ゆうゆうと進むカタツムリまで見える。

 これが、オルガンさんの作る、傘なんだ。

「きみは、どんな傘をご所望かな」

「ぼくがほしい傘は……」

 浮かんだのは、いざよいの森の景色。

 とりおくんと見た、冬の寒い朝。雪が降るかもしれないような空のした食べた、すみれの砂糖漬け。

 コナラの木のむれから、ニリンソウ畑をぬけたさきで、ホルン先生とおしゃべりをした、春。黄色いヘビイチゴの花が、きれいに咲いていた。

 でも……あれっ、とぼくは首をかしげた。

 チェロさんと過ごした景色が、ちっとも思いつかない。

 そうだ。チェロさんとはいつも、いざよい堂のなかで過ごしているから……。

 どうせ傘を買うなら、チェロさんと見た景色にしたいな。

 買ったら、ほとんどが、いざよい堂書店へ差していくための傘になるんだもの。

「どんな景色でも、いいんですよね」

「もちろん。お天気の日の景色なら、どんなものでも傘にするよ」

「予約してもいいですか? これから、その景色を決めたいので」

「それじゃあ、これを渡しておこう」

 オルガンさんは、一枚の透明な布を差し出した。

 水を布にしたような質感で、ひんやりと冷たい。

 ふしぎな触り心地だった。

「これは『傘布かさぬの』だ。傘布に、見た景色を覚えさせてきてくれ。そうすれば、おれがりっぱな傘にしてやるから」


 次の日。

 ぼくは、急いでいざよい堂書店へ出勤した。

 来店ベルを鳴らしながら、飛びこんで来たぼくを、チェロさんは目を丸くして見ていた。

 いいわけをしている時間はなかった。

 なにもいわずに、ぼくはチェロさんの手をとった。

「チェロさん! いっしょに来てください」

「ど、どうしたんですか。しいらくん」

「急がなくちゃ! お願い、走って!」

「わ、わかりました。さいきん、走っていませんが……がんばります」

 ぼくに引っぱられるままに、チェロさんは追いかけてきてくれた。

 いざよい堂書店を出たとたんに、ぼくはチェロさんといっしょに立ち止まる。

 目の前に架けられた、七色の橋。

 いざよいの森の端から端までを渡すような、大きな虹だ。

 明け方まで降っていた雨が運んできてくれた、光のプレゼント。

 ぼくは、チェロさんの手を、ぎゅっと握った。

「ぼく……昨日、傘のお店に行ったんです」

「え? オルガンくんのところの、ですか?」

 意外そうに、チェロさんがいう。

「アンティーク傘の雑誌を読んでいたのは知っていたのに、きみが、そこまで傘へのこだわりを持っていたなんて、思いもよりませんでした。いってくれたら、相談に乗ったのに」

「いえ。はじめは、ぼんやりと想像していただけなんです。いつも買うのとは違う傘にしたいなって。でも、チェロさんと傘占いをやってから、だんだんともっともっとすてきな傘はないかなって考えはじめて……だから、オルガンさんのお店へたどりつけたんだとおもいます」

 ぼくは、通勤リュックからオルガンさんから預かった、傘布を取り出した。

 それを、ぎゅっと胸に抱える。

「だからこれは、ぼくの思いつきなんです。でも、それにはチェロさんの協力が必要なんです」

「水くさいですよ。ぼくは、きみの頼みなら、なんだって聞いてあげたい」

「ほんとうですか?」

「ええ」

 チェロさんのあたたかな手が、傘布を持つぼくの手に重なる。

「チェロさんと見た風景を、傘にしたいなっておもっていた、次の日に、こんなに大きな虹が出るなんて……これはもう、傘にしてもらうしかないって、急いで家から走ってきたんです!」

「ふふ。ではさっそく、この景色を傘布に見せましょう」

 チェロさんに導かれるように、ぼくは傘布を空にかかげた。

 すると、透明だった傘布にじんわりと色が浮かんでいく。

 水あめに色水を混ぜたように、ソーダにクリームを浸したように、傘布に色どりが与えられていく。

 空に架けられた七色の虹の風景が、傘布にすっかり写し取られていく。

 チェロさんは、これまで見たこともないような喜びを浮かべ、トナカイの笑みをにじませた。

「……ぼくときみの思い出を、傘にしてもらえるなんて、こんなにうれしいことはありません」

「はい。せっかくならって、おもったんです」

 すると、チェロさんはなぜか黙りこんでしまった。

 きょとんとしているぼくに、チェロさんはおそるおそるといったふうに、たずねてきた。

「せっかくならっていうのは……えっと、他ならぬぼくと見た風景を傘にしようとおもってくれたわけですよね」

「だって、チェロさんはいつも引きこもっているから、なかなか外での思い出がないなっておもって。いざよい堂へ通うための傘ですし、どうせならチェロさんとの思い出の風景がいいなっておもったので」

「……そうですか」

 なぜか、チェロさんは少し残念そうにしている。

「あの、どうかしました?」

「いいえ。なんでも」

「……やっぱり、傘布にしちゃ、だめですかね?」

「だめなわけありません」

 早口でいうチェロさんに、ぼくは驚きつつも、ホッとした。

 せっかくチェロさんと、きれいな虹を見れたんだから、傘にしない手はないもんね。

「それじゃあ、今日のお昼休み。オルガンさんのところへ行っていいですか?」

「そうですねえ」

 一瞬だけ考えたあと、チェロさんは「ふふん」と鼻を鳴らした。

「ぼくもいっしょに行きましょう。きみの、引きこもりのトナカイだというイメージを払しょくするためにも」

 そういって、得意げに笑った。

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