ショーム・ノヴェスの場合

 夜もだんだん寒さが増してきた。コートを着なければ風邪をひきそうなくらいだ。そろそろ手袋も用意したほうがいいかもしれない。そう思いながらコートのポケットに両手を突っ込んだ。住宅の並ぶ誰もいない道を僕は黙って歩く。街灯なんて高価なものもなければ、今夜は月も星も出ていない。まるで漆黒の闇だった。ここまで暗い夜は初めてのことだ。男の身とは言え、ちょっと怖さを感じていたが、僕は別のことを考えて怖さをかき消した。


「――に比べたら――」


 僕は夜空を見上げた。当然真っ暗だ。見えるのは近くの家々の屋根だけだ。どこにも光はない。闇だけを見ていると、どうしてかそこに吸い込まれていくような感覚に陥る。吸い込まれた暗いその先に、何かあるとでも思えるような気がしてくる。


 と、僕は地面の石につまずいて我に返った。闇に答えを求めてどうするんだ。答えなら毎晩こうして探し歩いているじゃないか。睡眠時間を削っているせいで、疲れがたまってきているのかもしれない。昼間の研究時間を少し減らそうか......。


 独り言で考えているうち、前方にいつもの明かりが見えてきた。中央広場にある円形の花壇の周りに、手提げランプを持った男三人が談笑している。その中の一人、ロディエンが僕に気づいて手を振ってきた。僕もポケットから手を出して軽く振り返す。


「今日は遅かったな。もうみんなそろってるぞ」


「寒かったから、体が動かなくて......」


 これにロディエンは僕の背中をバシッと叩いた。


「じじくせえこと言ってんなよ。寒いのは俺らも同じだよ。だから防寒のために、家で酒飲んできたんだ。ショームも飲めるんだろ?」


 そう言うロディエンの息は、確かに少し酒の臭いが混じっていた。


「僕は、あんまり......」


 ここでは十八歳になれば酒を飲むことができる。僕は十九歳だから飲むことはできるが、以前友人に勧められてワインを飲まされたことがあったが、その夜は気持ち悪さが消えず一晩中トイレにこもっていた。友人達は笑うが、僕にはその時の感覚が今もトラウマのように残っていて、それ以来自分から進んで酒を飲んだことは一度もない。


「酒、飲まねえのか? もったいねえなあ。あんなうまいもんがわからねえなんてよお」


 ロディエンはまた僕の背中をバシッと叩いた。彼は決して酔っているわけではなく、普段からこういう性格をしている。証拠にろれつはしっかり回っている。


「よーし、それじゃそろそろ行くか」


 鍛冶屋のトーザがひげをなでながら言った。


「今日はどうする?」


 水夫のマニンが僕達を見回す。


「お前ら二人と、こっち二人でいいんじゃねえか?」


 ロディエンは僕と、トーザはマニンという組分けをした。僕も他の二人も特に異論はなかった。


「じゃ決まりだ。わしらは今晩、東側を回るぞ」


「俺らは西だな......んじゃ、また後でな」


 トーザ達は東へ、僕達は西へ歩き出し、お互いと別れた。


「ショーム、言いたいことがあったらすぐに言えよ。一番年下だからって遠慮なんかするなよ」


 歩きながらロディエンが言った。


「僕は遠慮なんて......」


「本当か? トーザのおやっさんが東って言った時、お前がっかりしてたろ」


 どきりとした。


「......顔に、出てたかな」


「はっきりな。もう子供じゃねえんだ。こうして自警団にも入ってる。行き先くらい、強い意思で決めろよ」


「次は、そうする......」


 ロディエンは励ますように僕の肩をポンっと叩いた。


 僕がこの自警団に入ったのは、ほんの二か月前のことだ。大学に通っている僕は、構内の掲示板に自警団員募集の張り紙を見つけ、すぐに書かれている場所へ向かった。その時、入団の面接をしたのがロディエンだった。


 自警団では主に体力や力に自信のある人間を入団させていたが、僕は机に向かって勉強するタイプの人間だったから、当然力も体力も他の団員と並ぶことすらできなかった。ロディエンは断ろうとしたらしいけど、僕がしつこく食い下がると、やっと入団を許してくれた。


 そもそもこの自警団ができたのには、ある事件が関係している。最近各地で、点在的に行方不明者が出ているのだ。犯人の痕跡もなければ理由もわからない。行方不明者同士も特に関係はなく、共通点もない。本当にある日こつ然と消えてしまったとしか言いようがない事件だった。これは町の住民達を大いに不安にさせた。何せ犯人の目的がわからない。金目的でもえん恨でもなさそうなのだから、次は自分が狙われてもおかしくないのだ。警察の捜査は行われていたが、犯人逮捕までは程遠い状況のようだった。これでは次の行方不明者がいつ出てしまうかわからない。そう感じた町の有志が、住民から募って作ったのがこの自警団だった。


「ひょっとしてショーム、疲れてんのか?」


「それも、顔に出てる?」


「なんとなく覇気がねえな。週二、三回くらいに減らしてもいいんだぞ。自警団じゃお前だけだ、毎日こうして来るやつは」


「絶対に......許せないんだ」


「その強い気持ちはいい。俺はそれを買って入団させたからな。でもそれに体がついてこなきゃ、いざって時に動けねえぞ」


「僕は少しでも早く、犯人を見つけ出したい」


 ロディエンは宙を見ながら頭をかいた。


「お前の悔しさはよくわかるけどさ......」


 僕は今、大学に通っている。その寮にある日、父さんと母さんから手紙が届いた。手紙はお互いの近況を報告するために日頃から頻繁にやり取りしていたから、その手紙もいつものものだと思って開けた。でも、そこには信じられない言葉が書かれていた。


『シャルが行方不明になりました』


 シャルは大切な妹の名前だ。何度読み返してみても、行方不明としか読めなかった。僕は授業を休んで、すぐに両親のもとへ行った。泣き崩れる母さんを冷静な父さんが支える姿を見て、手紙の内容は現実なんだと実感した。シャルは町の東に一人で行った後、行方不明になったのだという。さっき行き先で僕ががっかりしたのは、これが理由だ。


 両親はすでに警察へ知らせていて、捜査は始まっているようだった。でもある時、家に来た警察官の一人が言った。


「これももしかしたら、連続行方不明事件の一つかもしれない」


 その事件は知っていた。でも僕には無関係なものだと思っていた。それが知らぬ間に自分のことになっていて、僕は動揺した。警察は強気の態度を崩していなかったが、この事件では何の成果も挙げておらず、陰では警察を無能呼ばわりする者もいた。それほどこの事件は解決するまでほど遠い状況だった。


 だから、僕は必死にならなければいけないのだ。捜査の進展をただ待つだけじゃなく、僕にできるやり方で犯人を捜すのだ。連れ去られたシャルはきっと今の僕以上に悲しく、そして恐怖に耐えているだろう。それに比べたら体の疲れくらいなんてことはない。シャルの笑顔を再び見るためなら、僕はなんだってするつもりでいる。


「ちょっと気負い過ぎじゃねえか? 確かにお前は妹思いのいいやつだよ。でもな、お前を心配するやつが周りにいることも忘れるな」


「忘れてはないよ。でも、今は犯人のことしか考えられない」


 これにロディエンは呆れたように夜空を仰いだ。


「お前、いい大学に行ってんだろ? 頭いいんだろ? だったら周りの気持ちもわかるだろ。正直、行方不明事件の犯人はすぐには捕まらない。警察も手こずってるほどだからな」


 捕まらないなんて意外な言葉だった。


「じゃあ、この自警団は何のために作ったっていうの?」


「俺らは犯人を捕まえるのが一番の目的じゃない。こうして見回ることで、少しでも抑止できればと思って作った」


「そんなのおかしい。町の住民を守りたいなら、犯人を捕まえる気で見回るべきだ」


「正体もわからないのに、俺らだけで突っ走るのは危険だ。もし犯人が凄腕の剣士とかだったらどうする? 束になってかかっても太刀打ちできない怪物だったらどうするよ」


「その時は......その時だ」


 僕のどうしようもない答えに、ロディエンはフッと笑った。文句を言おうかと思ったが、やめておいた。こんな答えじゃ笑われるのも当然だ。


 ロディエンは微笑みながら真っすぐ前を見ていた。


「俺、六年前に結婚したんだけどさ、その前は加減を知らない大酒のみでよ、大工の仕事もその酒が抜けきってないうちにやるから、金づちで指を打つわ、足場から落ちそうになるわで、年中体のどこかにあざや傷を作ってたんだ。でも、今の女房に出会ってからは、そんな無茶な飲み方は自然としなくなった。万が一足を踏み外してそのままあの世に行っちまったら、もう女房と会えなくなるからな。ただそれがいやだったんだよ。結婚して、ちっちゃい息子もできた。飲む量も今じゃだいぶ減ったよ。それもすべて、大事なものができたからだ。わかるか、ショーム」


 ロディエンは僕の頭に手をポンっと置いた。言いたいことはわかったつもりだ。


「お前に大事なものがなくても、お前が大事だと思うやつはいるんだ。年齢的にはもう大人だからって、一人で生きてると思うなよ。親から見ればお前はずっと子供なんだからな」


 僕にだって、シャルという大事なものがある――そう言いたかったが、僕はただうなずいておいた。僕はどうも昔から自分の気持ちを出せないところがある。本当はこう言いたいけど、そうしたら相手はどう思うだろう。そんなことを気にして本心を口に出すことができないのだ。僕はそんな性格が嫌いで、我ながらずるいと感じていた。だからシャルは家族の中で孤立してしまったんだ。


 シャルは僕と違って活発で、気が強い性格だった。だから気に入らないことがあれば、はきはきとなんでも言う。でも、その性格が父さんと合わなかった。父さんは国立の研究所の所長で、さまざまな植物の研究をしている。多くの部下を抱え、成果も挙げているから、所長としてのプライドは高い。まだ小さかったシャルは、そんな父さんの仕事を理解していなかったようで、遅く帰ってくる父さんを待っては、明日遊ぼうと約束していた。それは当然果たされないから、シャルはどんどん素直さを失っていった。


 ある日、シャルに通わせる学校を選んでいる時、父さんが選んだ学校をシャルは嫌がり、別の学校を選んだ。理由を聞いてもシャルはひねくれたことしか言わず、父さんを苛立たせた。結局父さんは自分の選んだ学校に無理やり入学させたのだが、その出来事が決定的だったのだと思う。それ以降、父さんはシャルとほとんど話さなくなった。


 シャルがこうなった原因は、できもしない約束をして失望させた父さんにあるのだと僕は知っていた。でも僕はそれを父さんに言えなかった。言えばきっと怒鳴られる。僕まで父さんと仲が悪くなってしまう。プライドの高い父さんのことだから、息子に注意されるなんてことは嫌いなはずだ。だから僕は見て見ぬふりをした。


 父さんがシャルを避け始めると、母さんもつられるようにシャルと距離を開け始めた。僕の家では父さんが絶対だ。母さんもきっと僕と同じ気持ちだったのだろう。夫と喧嘩したくないと。これまで僕と母さんは、父さんの言うことには全部従ってきた。間違ったことは言われなかったし、親子の関係に波風が立たないから、だから、これが一番いいことなんだと思っていた。


 でも、シャルの様子が日々変わっていくことに僕は気づいていた。活発だった性格はだんだん静かになり、学校から帰ってくればいつも笑顔で話していたのが、苛立った表情のまま無言で部屋に入ってしまう。たまに会話をしても、少しでも気に入らないことを言われれば怒りだした。魅力だった気の強さはひどい短気に変わっていた。こうなると両親はますますシャルに近づかなかった。見て見ぬふり――そんな二人を見て、僕は自分のしていることを知った。シャルを孤独にしているのは僕のせいでもある。言えるのに言わない、助けられるのに助けない、僕はずるいやつだった。今からでもシャルを救えるだろうか。心の支えになってやれるだろうか......。


 それから僕はシャルに何気なく話しかけ続けた。僕のぎこちない言葉に、シャルは無視する時もあったが、ある時、シャルが描いていた絵を褒めたら少しだけ笑顔を見せてくれた。お世辞で褒めたのではなく、絵は本当に上手だった。その後もシャルの素晴らしい絵を見ては褒めたが、もう笑顔を見せることはなかった。やっぱり僕だけが褒めても仕方ないのだ。シャルには親の愛情が必要だった。今は僕が独占しているような状況だけど、ここは意を決して両親に言わなければいけないと感じた。


 だが、ここで僕の悪さが出た。順調な大学生活に浸り、シャルを二の次にしてしまった。見て見ぬふり――それを後悔した時には、シャルはもう行方不明になっていた。


「後悔先に立たずってやつだ。大事な人を悲しませるようなまねは絶対にするなよ」


 笑顔のロディエンの言葉は、僕の胸を深くえぐった。後悔の念は今も消えない。だから、犯人を捕まえたい。シャルを見つけて、抱きしめて、謝りたい。もう孤独にはさせないとシャルの笑顔に誓いたい。僕はそうすることしかできないから......。


「酒が切れたかな、ちょっと寒いな」


 ロディエンは肩をすくませ、開いている右手で上着の前を合わせた。と、急にロディエンの足が止まった。


「......どうしたの?」


 ロディエンを見ると、その視線は前方に釘付けになっていた。僕も同じほうを見てみるが、暗い中に家々が建っているだけで特に何もない。


「今、白っぽいもんが見えなかったか?」


「僕は見えなかったけど......」


「そうか......あの路地を曲がったように見えたんだけどな」


「こんな時間に出歩いてる人なんて――」


 そう言いかけて、僕は息を呑んだ。隣のロディエンを見ると、その表情は険しくなっていた。今は町全体が深い眠りについている時間帯だ。事件の犯人とは言い切れないが、何かよからぬことを考えている人間の可能性は十分にある。


「確認するか......行くぞ」


 ロディエンが後ろの腰に手を回し、ベルトに挟んだ棍棒をつかむ。自警団員は危険に遭遇した場合に備え、全員自前の武器を携帯することになっている。僕もコートの内側に料理用のナイフを忍ばせている。右手でナイフがあることをしっかり確認して、僕はロディエンの後をついていく。


「ショーム、俺より前に出るなよ」


 僕は無言でうなずいた。もし相手が襲ってきても、多分僕じゃどうにもならないだろう。運動神経は人並みにあるとは思うが、腕力にはまったく自信がない。もみ合いになったら、僕より力のあるロディエンに頼るしかない。


 自分達の足音だけが響く中、白っぽいものが消えた路地を見つめながら進んでいく。白っぽい――頭の中でそう呟いて、僕はあることを思い出した。


「......ロディエン、こんな噂、知ってる?」


「何だ」


 ロディエンは背中を向けたまま聞く。


「行方不明の犯人についての噂で、その犯人はいつも白い服を着てるっていうんだ」


「誰か見たやつでもいるのか」


「いや、あくまで噂だけど、町じゃ結構有名な話らしい」


「ふーん、俺は初耳だな」


 僕も最近聞いた話だった。友人が僕の妹のことを知ってこの話を教えてくれたのだ。当然僕は噂話なんて信じなかった。何の手がかりもない謎めいた事件だ、そういう根拠のない話は作りやすい。それを広めて住人をもっと怖がらせようとしている趣味の悪い人間がきっとどこかで笑っているに違いない。頭ではそう思っている。でも、心のどこかでは、本当にただの噂なのかと疑う自分もいた。噂である以上、嘘とも本当とも決められない。つまり、本当だという可能性も残っているのだ。ロディエンの見た白っぽいもの、それが噂の犯人の服だということも十分あり得ることだ。


 でも、ふと冷静に返れば、それは自分の希望でしかないのだとわかっている。犯人に結び付くものが何もない状況で、それでも犯人を見つけたい僕が、ただ噂話にすがりついているだけなのだと。そうわかっていても、僕はこの噂を無視することができなかった。


「警察も知ってんのか」


「さあ......知ってるとしても、ただの噂としか見てないんじゃないかな」


「そうだとしたら、どうでもいい話だが......お前は違うんだろ?」


 ロディエンは立ち止り、僕に振り向いた。


「えっ......」


「俺が白っぽいもん見たから、この噂を言ったんだろ?」


「そう、だけど」


「すべてを疑ってみることは大事だ。俺はそう思う」


「はあ......」


 僕の気持ちを察してくれたのだろうか?


「じゃなきゃ、犯人なんて永遠に捕まりっこねえ」


 腰に手を置いたロディエンは満面の笑みを見せると、すぐに真顔に戻った。


「あそこだ」


 ロディエンの視線がすぐ先の路地に向けられる。


「こっからは静かに行く。離れるなよ」


「わ、わかった」


 一気に緊張が高まった。目的の路地は左に折れている。ロディエンは民家の壁沿いに歩き出した。歩幅の大きいロディエンと離れないように、僕は少し早歩きでついていく。


 路地の角に来て、ロディエンは一旦止まった。軽く息を吸い、顔を路地に出す。


「......いないな」


 そう呟いてロディエンは路地に入る。僕も離れずついていく。


 入った路地は左に大きく曲がっていて、道の先を見るには進むしかなかった。しかも周りには高い建物ばかりで、ほぼ暗闇と言っていい状況だった。目の前の暗がりからいつ誰が飛び出してくるか、神経を集中させないといけない。ロディエンの持つランプの小さな明かりを頼りに、僕達は静かに歩を進める。


 道を左に曲がりきると、先に路地の出口が見えた。大きな通りにつながっているようで、この路地よりは明るく、ぼんやりと浮かび上がって見えた。と、その隅に何か動く影があった。僕が何だろうと思っているうちに、その影は路地を抜けた通りに消えて行ってしまった。


「追うぞ」


 ロディエンはすぐに反応し、走り出した。僕も暗闇の路地をランプの明かりを追って走る。先に路地を抜けたロディエンは左右に振り向いて人影を探す。少し遅れて僕も路地を抜け、周りを見渡す。


「......あれだ」


 ロディエンが右のほうを指差した。その先には二つの人影が見えた。走ってきたおかげでそんなに距離は開いていない。


「どうするの?」


 僕が聞くと、ロディエンは右手を口元に添えた。


「おーいっ、そこのやつ!」


 突然大声で呼びかけた。僕は驚きで唖然とした。もし相手が犯罪者なら、走って逃げられてしまう。もっと距離を詰めて話しかけるべきなのは明白だ。


「ロディエン、なんでここから呼ぶんだよ!」


「近づいたら危ないだろ」


 まるで当たり前のようにロディエンは答える。


「何言ってるんだよ! 逃げられ――」


 そう言いながら二つの影を見ると、影は立ち止り、こっちに気づいて見ているようだった。その様子に逃げ出す素振りはない。それどころか、どんどんこっちに近寄ってくる。


「......おっ、来るねえ」


 ロディエンが意外そうに呟く。


「だ、大丈夫かな」


 ただの通行人だから来るのか、それとも、腕に自信があるから来るのか......僕は不安でたまらなかった。


「平気だよ。お前は俺の後ろにいろ」


「......わかった」


 まったくひるまないロディエンの言葉は心強かった。


 やがて二つの影の正体がくっきりと見え始めた。最初に見た白っぽいものというのは、二人が着ている白いローブだった。地面すれすれまである長い丈で、一歩足を出すごとに白い生地は優雅に波打つ。それを着ている二人はどちらも男性だった。二人ともすらりとした長身で、僕よりは年上のようだが、それでも二十代半ばと思える若さだった。


「......何か、ご用ですか?」


 右に立つ男性が、丁寧な言葉で聞いてきた。切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。その顔立ちは美男子の類に入るだろう。もう一人の男性は、さすがに美男子とは言えないが、大きな目に引き締まった口元から、快活そうな印象を受ける。


「俺らはここの自警団でね。町の見回りをしてんだ。おたくらはこんな時間に何してたんだ?」


 ロディエンは知り合いと立ち話でもする感じで聞いた。


「何をしていたと聞かれましても、何と答えていいものか......」


 美男子はあごに手を置き、宙を見上げて考え始めた。


「難しいことじゃないだろ。さっきまでしてたことを言うだけだ」


 腕を組んだロディエンは男性の答えを待つ。


「では、正直に、そのままを言いますと、私達は人間を見て歩いていました」


 僕とロディエンは同時に首をかしげた。


「何だそれ? 人間を見てって......どこにもいねえだろ」


 こんな真夜中に出歩く人はまずいない。そんな時間に人の姿を見るには、民家の中をのぞくしかないだろう。つまり――


「家を、物色してたって、こと?」


「なっ......!」


 ロディエンが男性達を険しい目で睨んだ。


「まったく。正直に言うとこうだ。なんで人間はこうもわからずやなんだ」


 もう一人の男性が呆れたように言った。印象通りの、威勢のある声だ。


「物色してたんじゃないなら、一体何なんですか」


 ロディエンの陰に半分隠れながら、僕は聞いてみた。


「だから、ちゃんと言っただろ。俺達は人間を見て――」


 急に男性の声が途切れた。その視線は僕を凝視したままだった。


「......あの?」


 目をそらしたかったが、そらしていいものかわからず、僕も男性を見つめ続けた。


「なあ、こいつ......」


「......ええ。そのようです」


 男性二人は、何やらこそこそと話し合うと、僕に聞いてきた。


「あんたに聞きたいことがあるんだ」


「......なん、ですか?」


「あんたの妹のことなんだけど」


 どきりとした。わずかに体がこわばった。


「こいつの妹のこと、知ってんのか?」


 ロディエンがいぶかしげに聞く。


「まあね。少し話したことがある」


 僕とロディエンは思わず顔を見合わせた。


「おい、それはいつのことだ」


「いつだったっけ......?」


 男性は隣の美男子に聞いた。


「約三カ月前のことです」


 はっとした。三か月前というのは妹のシャルが行方不明になった時期と極めて近い。この二人は行方不明になる直前のシャルを見ている......?


「あっ、あの、その話した子は、本当に、間違いなく、僕の妹だったんですか」


「シャル・ノヴェス。それが名前だったな」


 間違いない。二人はシャルと会って話している。


「ああ、あのっ、あのっ――」


「落ち着けよ。ゆっくり、一つずつ聞いてこう」


 焦る僕をロディエンは冷静になだめてくれた。そうだ。焦る必要はない。深く息を吸って吐いた。


「......あの、その時のシャルは、どんな様子でしたか?」


「家に帰りたくないって言ってたな」


「とても、寂しげでした」


 わかっていた。わかっていたのに、僕は......。


「でも、話しているうちに、だんだんと苛立ち始めてしまって」


「そうそう、仕舞いには俺達を無視してさ」


 シャルの変わってしまった性格、そのままだ。


「おたくらが怒らせるようなこと言ったんじゃねえのか?」


「まさか」


「じゃあ、何話してたんだよ」


「その子な、最初会った時、アリをつぶしてたんだ」


「アリを......?」


 シャルは相当なストレスを抱えていたんだ。人は、精神的なストレスがたまると、物などを壊したくなる衝動に駆られることがあると聞いたことがある。


「そんなことをする理由を聞いたら、どうやら親と上手くいってないらしくて。兄妹のあんたなら、なんか心当たりでもあるんじゃないか?」


 聞かれても僕は何も言えず、うつむくことしかできなかった。


「そのことについて、私達はあなたに聞きたいことがあるのですが」


 美男子の切れ長の目が、僕を見つめる。


「......なんですか?」


「シャルは、ご両親の愛を欲していたようです。それなのに、なぜ愛してあげなかったのでしょうか」


 まるで僕の家庭の中を見ていたような言い方に思えたが、シャルはそんなことまでこの二人に打ち明けたのだろうか。


「僕の両親は、気難しいんだ。特に父さんは......」


「俺の知ってる親っていうのは、自分の子には無償で愛を注ぐものだと思ってたんだけど、違うのか?」


「違うわけねえだろ。親は親になった瞬間から、そういうもんだ」


 ロディエンは力強く言い切る。


「そうですか。ではやはり、つながりが大きな原因だったのでしょうか」


「つながり......?」


 そう聞き返す僕の声には、小さな不安が混じっていた。


「なんだよ、つながりって。ショームの家族には強いつながりがなかったとでも言いたいのか? あいにくだがな、こいつはどこの兄妹よりも妹のことを心配して愛してんだよ。なあ?」


 ロディエンは自慢げな表情で僕の肩をバシリと叩いた。その痛みで苦笑する僕を、美男子の目は無感情に見てくる。


「確かにあなたは、シャルのことを大事に思っているようですね。ですが、それは兄としてですか?」


 心臓がほんの一瞬、止まったように思えた。


「当たり前だろ。兄妹なんだぞ」


 ロディエンが当然のように言う。


「つながりのない兄妹ですが」


 僕の体は身動きできないくらい固まっていた。


「あー......さっきからつながりつながりって何なんだよ。あいまいな言い方すんな」


「あいまいでしたか。では、血縁関係と言ったほうがわかりやすいでしょうか」


「血縁......?」


 ロディエンが僕に振り向く。その顔には驚きが見える。


「......本当なのか?」


 僕はゆっくりうなずいた。


「シャルは母親の実子、であんたは父親の実子。このこと誰にも話してないのか?」


 男性に聞かれ、僕はまたうなずく。


 その通りだ。シャルと僕の間に血のつながりはない。離婚した父さんに引き取られた僕が五歳の時、今の母さんと再婚した。その一年後、シャルは生まれた。父さんは自分の子だと思っていたらしいが、後に母さんが前の夫の子だと告白して、父さんはそれにひどく落胆していたのを憶えている。父さんと再婚した時、母さんのお腹にはすでに子供がいたのだ。それがシャルだ。


 生まれたシャルは、当然父さんのことを実父と思い込んでなついていた。だから両親はきっと、本当のことを言う必要はないと考えたのかもしれない。十代になった僕に両親は、血のつながりがないことを本人に言わないよう強く約束させられた。平穏を望んでいた僕は、それで今の幸せが続くならと、今日まで約束を守ってきた。しかし――


「どうして、そのことを知ってるんですか?」


 わざわざ口止めした両親が誰かに話すことは考えにくいし、もちろん僕も約束を破ったことはない。シャルが知る余地はまったくないはずだが......。


 これに二人は困惑の顔を見せた。


「この質問は毎度困るんだよね。正直に言っても、言わずに隠しても、どっちともいい顔されないからさ」


「それでも、正直な答えを言ったほうが、よろしいですか?」


「当たり前だ。嘘も隠すのもだめに決まってんだろ」


 語気を荒げてロディエンが言う。すると、美男子が僕の目をまっすぐ見た。


「私達は、あなたの中を見て、知ったのです」


 真面目な表情と声で、ふざけているわけではないようだったが、僕には意味がわからなかった。


「中......って、つまり、僕の心を読んだって言いたいんですか?」


「いえ、心とかそういうものではなく、中です」


「その、中って......?」


「わかっていただけませんか。それを言葉で説明するのは難しいですね......。私には中としか言いようがありません」


「おい、ふざけんな。こっちは真剣に聞いてんだ」


「あのなあ、こっちだって真面目だよ。これだから嫌なんだ」


「なんだと......!」


 男性とロディエンは、今にもつかみ合いの喧嘩でもしそうな雰囲気で睨み合っていた。


「おやめください。こんなことは無意味です」


 美男子が男性をなだめる。


「そ、そうだよ。ロディエン、冷静に......」


 僕も落ち着かせようと、ロディエンの腕を引いた。


「大丈夫だよ。俺は十分冷静だ」


 言いながらロディエンは腕をつかむ僕の手をゆっくり外した。


「ところでおたくら、ここの人間じゃないだろ。どこから来た」


「どこ? どこって言われてもなあ......」


 男性はあごに手を当て、考え始めた。


「怪しいな......じゃあ名前は」


「......さあ? なんだろな」


 おどけるふうもなく、男性は肩をすくめる。


「名前も言いたくないってのか。ますます怪しいとしか言えねえな」


 するとロディエンは僕に振り向いた。


「ショーム、こいつらの言うことは信用ならねえ。お前の妹のことも、全部でたらめかもしれねえぞ」


 でたらめ? 本当にそうだろうか......。


「でも、僕はそう思えないよ。話してくれたこと、その全部がシャルの状況とぴたりと合ってるから......」


 何より、僕と両親しか知らないことを、この二人は知っていた。どうやって知ったのかは知らないけれど、それだけシャルのことを知っているんじゃないだろうか。


「それにしたって怪しすぎんだろ。お前が誰にも話してねえことまで知ってんだぞ。そんなこと、事前に詳しく調べなきゃわかんねえことじゃ――」


 その時、お互いの視線がカチリと合った。言葉には出していなくても、相手の言いたいことは伝わってきた。ロディエンもきっと、僕と全く同じ考えを持っているはずだ。


 僕達はゆっくり白いローブの二人に向き直る。


「おたくらにもう少し詳しく聞きたいんだが、いいか」


「何だ?」


 ロディエンが目で、僕に聞くよう促してきた。一度深呼吸し、自分を落ち着かせる。


「シャルについてですが......シャルとはどこで話したんですか?」


「えっと、どこでだったかな」


「この町の東の細い路地です」


 美男子が代わりに答えた。シャルが消えた場所と同じだ。


「じ、じゃあ、その後、話し終えた後、シャルがどこに行ったか見ましたか?」


「ああ、鳥の声がうるさいって、その家を探しに行ったよ。俺達のこと無視して」


「それが、最後ですか?」


「最後に見たのは、その後ろ姿だな。その後、消しちゃったから」


 僕の鼓動が途端に速くなった。次に質問することが恐ろしく感じた。


「......そのことは、人間には言わないほうが」


「あ、そうだったな。ついつい......」


 二人は慌てることも、ごまかすこともせず、そう言った。できれば、僕の想像していることとは違う意味であってほしい。でも、消したなんて言葉を、他にどんな意味で理解できるだろうか。聞きたくなかった。それでも、聞かなければ前に進まない......!


「消した、とは......?」


「その通り、消したんだよ」


 男性の表情に、動揺も後悔もない。まるで日常の出来事を話すように平静な口調だった。僕は聞き返したかったが、胸に何かが詰まったような感覚で、声が喉から上手く出てきてくれなかった。


「はっきり言わせてもらうが、それは......殺した、ということなのか」


 僕の代わりにロディエンが聞いてくれた。殺した――それは頭の隅に追いやっていた言葉だった。


「殺しただって? そんな馬鹿なことするわけないだろ」


 男性は呆れたように言う。


「それなら、消したって意味はなんだ」


「だから、そのままの意味だって。この世界から消したんだ」


 この、世界......?


「じゃあシャルは、もう、どこにもいない......?」


「そういうことだ」


 言い淀むことなく、男性は言い切った。シャルは、いない。この世に、いない――僕の頭の中は、ざわざわと騒がしくなっていた。


「ショーム、しっかりしろ。......てめえら、人殺しておいて、よくも堂々としてられるな!」


「何度言わせんだ。俺達は人殺しなんてしてないって!」


「どうもこの方々は、あなたの行為と殺人の区別ができていないようですね」


「なんでわかんないかなあ。俺は一切傷つけてないんだけど」


「傷つけなきゃ人殺しじゃねえって言うのか? てめえら、頭おかしいぜ」


「おかしいのはどっちだ! 俺の言葉が理解できないやつに言われたくないな」


「人殺しの言葉なんか理解してたまるか!」


 二人の言い争う声は聞こえている。でも、僕の頭の中の騒音と混ざって、言葉までは聞き取れない。ただわかっていることは、目の前の白いローブを着た二人組が、シャルを殺したと告白したことだ。かつて見たシャルの笑顔をもう一度見ることは、もう叶わなくなってしまった。それでも、僕の決意は変わらない。シャルのためなら、何だってするつもりだ。僕がどうなろうとも......。


「――とにかく、てめえらは俺と一緒に警察に来い!」


「警察には今のところ用事はないし、行く気もないね」


「ふざけんのもいい加減にしろ! てめえらは罪を犯した。そうじゃねえってんなら、警察で弁明しろ」


「......もう、面倒くさいよ。どうすりゃいいんだよ」


「説明しても、わかってもらえそうにありませんね。ここはひとまず大人しく従い、それから――」


「シャルを、返せ」


 僕は息苦しい喉からやっと声を出した。


「ショーム......」


 ロディエンが心配そうに呼んだが、僕は正面の二人を見据えた。見ているだけで悲しみと怒りが湧き上がってくる。それを言葉に出さずにはいられなかった。


「大事な、人だった。一方的でも、僕はそれで十分だった......」


「やはり愛していたのですね。妹としてではなく、異性として」


 横でロディエンが絶句しているのがわかった。自分でも認めたくなかったが、でもそれが紛れもない真実の気持ちだ。何も否定する気はなかった。


 幼い頃は普通に妹として接していた。しかし、シャルとは血がつながっていないことを強く意識し始めると、妹という感情が次第に薄らぎ、友達という感覚に変わっていった。それからお互いが十代になると、僕はだんだんシャルの笑顔に引かれている自分を知った。それは妹を可愛がる兄の気持ちと最初は理解していた。だが、それだけでは説明のできない気持ちがあることに僕は気づいてしまった。何かおかしいのかもしれない――僕は自分を疑った。血はつながっていないが、世間から見れば歴とした兄妹なのだ。恋愛感情を持つことは異常としか思えない。そうわかっていても、僕のシャルへの気持ちは治まることはなかった。もう受け入れる他ないと思った。これが報われないものでも、異常な感情でも、僕は兄を装い、シャルを思い続けることにした。だから、シャルには絶対幸せになってほしかった。そう密かに願い続けた。それなのに――


「なんで、殺した」


「私達は殺したつもりはまったくないのですが、あなた方からすると、そう見えてしまうようですね」


「シャルが何をしたんだ。殺されるほどのことをしてたのか!」


「ああ、正確には、しようとしてた」


 予想していなかった言葉に、僕は男性を凝視した。


「......一体、何をしたっていうんだ」


「ニワトリを絞め殺そうとしてたんだよ」


 顔をゆがめながら言う男性に、僕とロディエンは唖然とした。


「もしあのまま行かせてたら、ニワトリの次に学校にいる鳥まで命を奪われてたな、多分」


 聞き返す気も起らなかった。僕の中では抑えきれない感情が増幅し、頭の騒音が一段と大きく鳴り響き始めていた。


「......てめえら、本気で言ってんのか? たかがニワトリで――」


「たかが? それこそ本気で言ってるのか? シャルはうるさいってだけでニワトリを殺そうとしたんだ。そんなことで命を奪っていいと思うのか」


「人間とニワトリ、どっちの命を優先するべきか、そのくらいもわかんねえのか!」


「人間の命が一番重いとでも思ってるのか? 言っとくが、命ってもんはみんな平等だ。序列があると思ってるなら、それは大間違いだからな」


「......だめだ。こいつら完全にいかれてやがる。ショーム、頼むが戻って応援を――」


 シャルは、どれだけの苦しみと恐怖を味わったのだろう......。


「......おい、ショーム、どうした?」


 僕の想像じゃあ、きっと足りないくらい怖くて、苦しかったんだろう。だから――


「ショーム、聞こえてんのか?」


 僕が今できる苦しみと恐怖を――


「......っおい!」


 目の前の犯人に与えてやる!


「よせっ......」


 ロディエンの手を振り切って、僕はコートの内ポケットから料理用のナイフを取り出し、白いローブ目がけて突進した。


「ん?」


 男性が僕のほうを見た。その瞬間、握っていたナイフは男性の脇腹に勢いよく食い込んだ。


「お前......なんてことを......」


 後ろでロディエンが力なく呟いた。


「これが、シャルの痛みだ!」


 刺さったナイフを、僕はさらに押し込んだ。シャルの苦しみはこんなものじゃない。絶命するまでこんな痛みを味わわなければいけなかったんだ。死ぬまで、死ぬまでこのナイフは離さない。絶対に!


 僕は両手で握ったナイフに力を込める。見つめた自分の手はわずかに震えていた。頭に残る理性が、しでかした重大さに怯えている。そんなところだけは正常なんだなと、やけに冷静な自分が言っていた。


「くそっ......とにかく、そうだ......応援を、すぐに応援呼んでくるからな......」


 慌てふためくロディエンがそう早口で言いながら、僕の側を走って離れて行った。


「あれ、行っちゃった」


「これで警察へ連れて行かれる心配はなくなりましたね」


 二人は平然と話す。そこに焦りも恐怖も感じられない。それは逆に僕を怖がらせた。なぜなら、僕は男性の腹にナイフを突き刺したままだ。それなのに二人は、まるで僕を無視している。痛みにもがくわけでも命乞いするわけでもなく、男性は真っすぐ立って話している。その姿は異様としか思えなかった。


 自分の震える手を見つめた時、僕はあることに気づいた。ナイフが刺さっている脇腹に、赤い染みが見当たらなかったのだ。一瞬刺さっていないのかと思ったが、そんなわけはなかった。ナイフは刃の根元まで埋まり、手には柔らかな肉を貫いた感触が直に伝わってきている。完全に刺している。それなのに、血は一滴も噴き出してこない。僕の頭にはなぜ、どうしてという言葉しか浮かんでこなかった。


「これ、張りぼてみたいなもんだから」


 顔を上げると、男性が僕を見下ろしていた。驚いた僕は思わずナイフから手を離し、男性から離れた。


「おい、これ持ってってくれよ」


 脇腹に刺さったナイフを男性は自分でつかみ、平然と引き抜いた。その刃にはやはり血はついていない。男性はナイフを僕に投げてよこした。落としそうになりながら僕はそれを受け取った。


「もしかして、俺達を殺そうとしたのか?」


「と、当然だ」


 震えそうな声だった。


「俺達も今は一応人間だ。同じ仲間をなんで殺す?」


「シャルを殺した人間を仲間だなんて思うか。お前達は悪魔だ」


「じゃあ、悪魔と思った人間は、殺していいのか?」


「少なくとも、お前達は僕が殺してやる!」


 強気な言葉でも、どこかに怯えがあった。でも、僕はシャルの仇を討たなければいけないんだ。投げ渡されたナイフをもう一度握り直す。


「人間には、法と刑罰というものがあるようですが、あなたはそれを利用しないのですか?」


「......うるさい!」


 僕は再び突進した。すべては、シャルのために――


「聞く耳ないってさ」


 男性が肩をすくめて僕を見た。その時、夜空の闇が僕の全身を覆った。


          *


「......あ、聞きたいこと、ちゃんと聞くの忘れてた」


「でもそれは、なんとなくですが、わかったのではないですか?」


「父親が気難しいってことか?」


「いえ、血縁のことです。人間は血縁という小さなことを気にするようですね」


「ああ、それね。隠してたくらいだったから、人間には血ってもんが結構重要らしいな。俺には仲間は仲間としか思えないけど」


「しかし、血縁を気にする生物は人間だけではないようですから、おそらくそれなりの理由があるのでしょう。まだまだ知らないことが増えていきそうですね。......ところで、あなたの体、また元に戻りましたね」


「これか? いやあ、いろいろ試した結果、子供はそこそこ動きやすいけど、視界が悪い。老人は動きも視界も悪い。やっぱり若くて大人のこの体が一番いいんだってことがわかった」


「男性にしたのは?」


「女より男のほうが、少し動きやすいんだよね。動きも速いし」


「そうですか。では、私の体も、このままでよさそうですね」


「ちょっと走ってみないか? 人間の足がどれだけ速いのか見てみたい」


「想像がつきますから、私は結構です」


「乗り悪いなあ」


「先ほどの男性が戻ってきてしまいます。さっさとこの場を離れますよ」


「......つまんないやつ」

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