第三章

第29話 於恵湖と予波ノ島

 春色の季節から新緑が燃える季節へと巡り、京樂から予波ノ島に戻った東は、度々馬に乗ってひとりで出掛けていた。


 日頃、侍女として生活をしてはいるが、ほとんど青の妹のような扱いを受けていたこともあり、青に一言告げておけば外出したとしても咎められることはなかった。


 屋敷を空ける理由は、章子の懐妊で気が立っている幸子を避けるためでもあったが、他にも理由がある。


 それは、予波ノ島に封印された龍神を天に放つためだ。


 於恵湖に沈む龍神と予波ノ島に封印された龍神。


 両者を比べて東は気付いたことがある。どちらも閉じ込められていることには違いないのに、於恵湖の気は整い、予波ノ島の気は捩じれて乱れている。

 

 それはどうしてなのか。


 京樂に滞在している間に思案していた東はひとつの説を導き出した。


 元々、土地の変動で姿形を変えていた於恵湖の気は乱れていたはずだ。

 龍神を生き埋めにすることにより、悲しむ龍神の涙を利用して水源を確保したが、それだけでは気は整わないだろう。

 龍神が苦しみ、悲しみに暮れていたら波動は低くなる。


 だが、於恵湖はそうじゃない。


 龍神が受け入れている。

 自らが生き埋めになることで、人間の生活を守ろうと想ってくれている。

 だからこそ、湖が豊かになり気が整い始めたのかもしれない。


 そうだとしたら、予波ノ島は逆だ。


 予波ノ島の龍神は空に帰りたいと願っている。

 龍神が放つ苦しみの波動が、島全体を陰の性質に転じてしまっているのではないか。 


 もしも、太古の昔から予波ノ島を守護していた龍神が、地中に封印されたのだとしたら。龍神の存在で整っていた気が乱れることもあるのではないか。


 憶測でしかないが、的を得ているのではないかと東は思う。


 予波ノ島が渇水に脅かされているのも、妖魔が跋扈しているのも、予波ノ島を守護する龍神が封印されているからなのだ。


 時期に青が美弥藤家の当主となる。


 それまでには、予波ノ島の気を整えておいた方がいい。

 原来、予波ノ島の土地柄、東西に横たわる山脈の影響で渇水になりやすいのだろうが、村人たちの不安が無意識に雨を降らしにくくしている節もある。


 予波ノ島の住人ひとりひとりが『雨が降らない』と思い込むことによって『雨が降らない世』を創り出しているのだ。


 陰の気に闇の存在が集まり、陽の気に光の存在が宿るように、人の波動もまた、同じ波動を引き寄せてうつつを創造する。


 封印を解き、龍神を天に放てたからといって、村人たちが変わらず不安を抱いていては意味がないのだが、東はそのことは一切心配していない。


 青が当主に就けば、大丈夫だろう。


 自らを律することができる青ならば、村人に寄り添って、予波ノ島を豊かな島へと導くことができるはず。


 東はそう信じている。


 封印されている龍神を助けるためには、予波ノ島の周りを巡って地道に杭を抜いていくしかなかった。


 東は、手始めに原ノ森と上尾の境で初めて見つけた杭を抜きに行った。


 八年前は身体の芯が震えるほど杭の波動に気圧されていたが、今の自分には杭から放たれる波動に耐えられるだけの体力、能力が身についていた。


 抜ける、と直感で思った。


 皮肉にも、幸子に憑いている闇霧の力を借りることで能力の扱う術を知り、自らの能力を高めることができたのかもしれない。


 右手の人差し指と中指を立て、杭と地面を縫い留めている雷の鎖を切断するように横に滑らせる。すると東の直感通り、いとも簡単に鎖が解けた。次いで、杭は力を失って黒い煙をくゆらせるように消えていく。


 意気込んで杭を抜きに来た東は拍子抜けするほど呆気なかった。


 そして、杭が穿たれていた土地を浄化し終えた東は思う。


 あと何か所、杭があるんだ。


 原ノ森と上尾の境にある浜辺にあった杭は龍神の尾を刺していた。


 封印するならば一本で充分なはずだが、東の感覚ではあと五本はある。


 龍神を苦しめるためだけに刺しているのだとしたら性質が悪い。


 それから東は、龍神に穿たれた杭を抜くべく、数日に一度は美弥藤家を出て予波ノ島を巡っていった。馬を借りて行くが、予波ノ島に横たわる山脈を越えていかなければならず、野営をすることもある。


 初めて上尾を抜け出し、手つかずの自然が広がる予波ノ島の森に踏み入れた東は、何故か懐かしさを覚え、心地よさを感じた。


 緑豊かな森の澄み渡る空気が、穏やかな小川のせせらぎが東の魂に響く。


 猪や鹿、小鳥、栗鼠などの生き物が動く音。森に息づく生命を包み込むような柔らかい風。清籟せいらいにのって、森の精霊の爽やかな歌声が森中にこだまする。


 これが、本来の予波ノ島の姿なのだろう。


 東は森の中では頭巾も、布作面も外して森に棲む神や精霊たちとの会話を楽しんだ。


 予波ノ島に跳梁する妖魔から隠れるようにひっそりと生きている森の精霊たちは、東の存在を物珍しく、しかし、懐かしんでいた。


 昔は、伊予の一族に存在していた巫覡ともよく話をしていたのだと。


 人懐っこい人型の精霊、ぽわんと光を放つ指先ほどの可愛らしい丸い精霊、麗しい蝶の精霊……様々な精霊たちが東の元にわらわらと集まってくる。


 伊予の一族が作ったと思われる祠を直したり、浄化したりしながら森を巡るが、森の中に妖魔の存在がいないわけではない。


 森の中では、陰と陽の領域が侵されることなく共存していた。故に、森の中は上手く気が流れている。


 陰には陰の、陽には陽の居場所がある。


 無理やり自分の領域を侵されたら誰でも悲しかったり、憤ったりする。

 光の存在も闇の存在も関係ない。現世も常世も関係ない。萬世界の存在すべてに共通することだ。


 だから、予波ノ島に封印されている龍神も悲しんでいる。


 東の脳裏をかすめる、白銀の龍が大空に泳ぐ姿。

 龍神は大空に飛び立ちたいと願っている。


 ならば、俺が解き放つだけだ。


 それが自分にできるただ唯一のことなのだから。


 

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