第3話 東雲

 一歩踏み出すと、ひたっと冷たい石畳の感触が東の足の裏を凍らせた。


 思わぬ感触に驚いた東は素早く足を離した。途端に、均衡が保てなくてふらついてしまう。


 そのとき、何かに身体を抱きとめられ、ふわりと花の清香が東の鼻孔を擽る。


「大丈夫か」


 耳朶に触れたその凛とした高い声に、東が顔を上げると脳裏に映像が過った。


 白い面を被ったひとりの女性の姿。

 鋭い眼が描かれた獣の面には、眼を縁取るように朱色や黒色で模様が描かれ、鹿の角が施されていた。

 微細な光を織り込んだかのように透ける白い衣を身に纏い、朱色の帯が蝶のように靡いている。

 七彩の光が降り注ぐ中、刀剣を煌めかせる女性は舞いを踊っていた。


 それは、瞬く間の出来事だった。


 鮮明に過った映像は何だったのだろう、と東が小首を傾げていると、声の主が鋭く問うてきた。


「直政の弟だな? 直政はどうした?」


 直政が言っていた友人と思しき女性に東は小さく言う。


「兄は、先に行け、と」


 東が言い終えると、荒々しい舌打ちが聞こえた。


「直政め……端から約束を違える気だったな」


 ここで待っていろ、と怒気が孕んだ声が聞こえたのち、家の中から空を切り裂くような甲高い笛の音が響き渡った。瞬時「逆賊、捕えたり!」と裏口の扉の向こうから野太い声が轟く。


 再び舌打ちをしたその人は、東の手首を掴んで裏口とは逆方向に走り出した。手首に食い込む痛みに顔を歪めた東は慌てて声をかける。


「兄は、どうしてこのようなことを……?」


 怒りが収まりきらないのか、苛立ったようにその人は言う。


「直政は、おまえらの父親を失脚させたかったのだ。ひとつ不信感を抱かせたら、主上――私の父は、洗いざらいおまえらの父親を調べるだろうからな。……誤解してくれるなよ。おまえの存在を明らかにしたかったわけではない。証拠に、今の騒動に紛れておまえを連れて、共に中央へ行こうと決めていたのだ」


 馬に乗れるか、と問われた東だが一度も馬に乗ったことがなく、恥じるように俯いた。


「俯くな。乗れないのなら堂々と乗れないのだと言えばよい」


 途端に、浮遊感に襲われた東が驚いていると「軽いな」と苦笑交じりの声が聞こえてきた。温かい馬の体温を感じたとき、不愉快だったのか馬が嘶いた。


「私の客人だ。落ち着け、雲母きらら


 その一言で馬が落ち着きを取り戻し、荒い鼻息を鳴らしていた。東の背後に飛び乗ったその人の温もりに背中が覆われる。


「真面目すぎるんだよ、直政は……」


 口惜し気な声が落ちてきたのち、馬が走り出した。


「私は青だ。色彩の青。おまえは、東だろう? 直政からおまえの話は聞いていたよ」


 東は頷くことしかできなかった。労わるような青の優しい声とは反して、背中から伝わる青の温もりからは、別離の悲しみが帯びている。


 不意に『私は私の罪を償わねばならん』と直政の言葉が東の耳の奥で蘇った。

 

 罪を償うとは、どう償うのだろう。

 白人である自分の存在を主上に露見した兄の罪とは。


 なんのために、兄さんは家に残ったんだろう。何をするために。

 自分が青と共に逃げてしまっては、兄が嘘をついたことにはならないのだろうか。

 主上に嘘を――。


 そこまで思い至った東は振り返り、慌てて馬から降りようとすると、青の腕に阻まれた。


「おまえの家族を皆殺しにしたいか?」


 青の厳しい声に東は奥歯を噛み締める。自分が家に戻れば、自分と同じ血が流れている家族は皆、断罪だ。


 そんなの、知ったことじゃない。僕の家族は兄さんだけだ。


 青の一瞬の隙をついて、東は馬から転がり落ちた。


「待て!」と背後で青の咎める声を聞きながら、東は立ち上がって走り出した。が、被っている打掛に足を取られてしまい、地面に突っ伏してしまう。


 あっという間に雲母の足音に先越されてしまった。それでも東は地を這いながら起き上がる。気配で雲母を避けて走り抜けようとしたところを、雲母から飛び降りた青に首根っこを掴まれた。


 刹那、青が東の頬を叩いた。


「おまえの見ていた直政がすべてだと思うな。……直政は、真面目で弱い。自分に打ち勝てなかったのだ」

 

 青が何を言っているのか、東にはわからなかった。

 弾かれた頬の痛みが、じんじんと熱を帯びてくる。青に再び雲母に乗せられた東は、呆然としていた。

 

 自分が見ていた直政がすべてではないと青は言う。いくら考えても青の言葉の真意が読み取れない。


 だけど、何の取り柄もない自分に優しく接してくれていた直政がいたことは事実だ。世の中で何が起きているのか話してくれたり、倭ノ国に残る伝承や異国の書物を読み聞かせてくれた。


 人外の気配や色を感じる妙な感覚も信じて受け入れてくれる寛容な兄だったのだ。

 唇を噛みしめる東の瞳に、うっすらと涙が滲む。


「夜が明ける。……光に弱いのだったな。東は」


 青は、朝日に照らされないよう東が被っていた打掛の裾を前に引っ張った。


 ふと、東の耳の奥で直政の言の葉が蘇る。


『お前の紅の瞳は、太陽のように燃えているようにみえた。いつか、お前が暗闇から抜け出して、朝日を浴びることができるよう願いを込めて、母上が東と名付けたんだ』

 

 つぅ、と深紅の瞳から一筋の涙が流れ落ちていく。


「兄さんが、青さんによろしくって言ってた……」


 ふん、と青は憮然と鼻を鳴らした。


「何がよろしくだ。……気に入らんな」


 素っ気ない物言いではあったが、青の声音は震えていた。はたはたと東が静かに涙を落としていると、青がそっと背中を撫でてくれる。青の手のひらが柔らかくて温かくて、東は堪え切れずに嗚咽を漏らして泣いた。


 清らかな光の粒が降り注ぐ朝日の中、二人を乗せた白馬が屋敷町を駆け抜けて行った。

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