第40話 聖女は前線を離れる
にらみ合いのまま
ヴィシェフラド東海岸の防御陣は、当然ながら解かれていない。
小さな港がいくつかあるだけの言ってみれば田舎町に、3万強の騎士や従者が集まっている。それがヴィシェフラド、ノルデンフェルト、セムダールの連合軍ともなれば、統制をとるのも一苦労だ。誇り高い騎士とはいえ、皆が皆高潔というわけではない。中には町の酒場でもめ事を起こす者もいた。それを見つけて処罰するのは、ノルデンフェルト皇帝直轄の騎士団だ。通称「
「昨日の逮捕者リストです」
黒狼騎士団長ヴィレム・ペトラーシュは、昨日捕らえた騎士のリストをラスムスに差し出した。
武勇で名高いペトラーシュ辺境伯の次男である彼は、ラスムスの最も信頼する側近の一人らしい。
短く揃えられた髪は燻した銀の色で、瞳は暗く沈んだ森の色。すっきりした長身だけど、鍛えられてるのは一目でわかる。
前世風に言えば、細マッチョという感じだろうか。
「ヴィシェフラドから5名、ノルデンフェルトから1名、セムダールから20名出ています」
3万のうちの27名か。大軍だからこの手の犯罪がゼロとはいかないだろうけど、町の人に迷惑をかけるのはよろしくない。
普段は平和な田舎町に見知らぬ人々が押しかけてるだけでも不安に違いないのに、酒場で酔っ払って暴力沙汰まで起こせば「出てってくれ」となりかねない。
「セムダールの指揮官は誰だ? ここへ呼べ」
氷の皇帝に叱られる指揮官を気の毒に思うけど、管理職たるもの部下の行動には責任がある。
青くなってすっとんできたらしい騎士団長は、氷点下の冷気にさらされてひたすらに頭をさげていた。
ラスムスの叱り方は、ねちっこくないのが良いとこだ。
何が問題なのか、どういう変容を求めるか、これまでの注意回数と日付。最後にどうしても行動変容ができないと認められればどうするか。
これらを端的に並べて行く。
普通に怖いから、長々やる必要はない。でもこれを、ぐずぐず長々やる上司がけっこう多いものだ。
青い顔をしたセムダールの指揮官がよろけるように出て行ったすぐ後、黒狼の騎士が一人、あわただしく入ってくる。
「両陛下に申し上げます。ハータイネンで奇妙な病が流行り始めております。
仔細はこちらに。大至急ご覧下さい」
ハータイネン、大陸の西の端の国だ。古くから交易の盛んなところで、ヴァラートとも付き合いが長い。
嫌な予感がした。
症状はまず頭痛や軽い発熱から始まることが多い。顔や胸、背中あたりに斑点状の発疹が現れ時間の経過と共に全身、または一部に集中して帯状に拡がる。
発疹は痒みを伴い、数日内に小さな水ぶくれに変わり
なんだか、この症状聞いたことがあるような……。
これって水疱瘡じゃないだろうか。
この世界では水疱瘡って、奇妙な病扱いなのか。てことは幼少期に皆罹患してない。当然ワクチンもないんだろう。
前世日本では、ほとんどの子供がかかる病気だった。かゆがる子供を看病するお母さんお父さんたちは大変そうだったけど、子供のころに罹患しておけば比較的軽くすむらしい。
だけど大人になって初感染すると重篤化しやすい。ワクチンで予防する方法もあると、確か前世の健康管理センターからの案内にあったと思う。
その大人になって初感染のケースで、ハータイネンで流行中ということか。
「ハータイネン国王陛下より、聖女リヴシェ様へのご協力を願う書状が届いております」
やっぱりそう来たか。
重篤化した帯状疱疹に38度前後の発熱、痛みと痒み、未知の症状の患者が次々に現れたら、おそらくハータイネンはパニック状態だ。
これを収めるにはリヴシェの寵力に頼る他ないと、この世界の設定ならそれが自然だ。
「戦の最中ではありますが、曲げてご来援いただきたいと」
戦の最中、確かにタイミングは最悪だ。
ついこの間、ラーシュがカビーア皇子の放った刺客にやられたばかりで、リヴシェがラスムスから離れるのには時期が悪すぎる。
と、ここまで考えて気づいた。
わざとだ。
わざとリヴシェをラスムスから遠ざけようとしている。
女神の寵を得たリヴシェを殺害することはできないから、おそらく目的は誘拐。
月の皇子カビーアの、美しい微笑が目の裏に浮かぶ。
ハータイネンにウィルスをばらまいたのも彼に違いない。
戦の最中、リヴシェがどうしても大陸最西端のハータイネンに出向かないといけなくするために。
ラスムスは最前線を離れられない。
ほんっと、たちの悪い罠だ。
けど行かないという選択肢はない。病が拡がれば、いずれ隣国のセムダール、ノルデンフェルト、ヴィシェフラドにも被害は出る。
「わかりましたと、セムダール国王に伝えてください」
リヴシェの隣で、ラスムスが拳を左掌にぶつける。
バチンと大きな音。
「あのクソ皇子、よほど死にたいと見える」
ラスムスにも、この罠のいやらしさがわかったんだろう。彼は有能な皇帝だ。リヴシェが気づくようなこと、当然気づく。
「多分ヴァラートから持ち込んだ病だと思う。ヴァラートでは予防法や治療法もあるのよ。だから彼らは安心してばらまいた。自分たちは安全だから」
「そうだな。であれば話は簡単だ。治療法と予防法を奪い取る」
どうやってと聞きかけたけど、そこはラスムスに任せよう。
あまり穏やかな方法とは思えないけど、罠を仕掛けてきた方も人の命を質にとるようなことをしてるんだから。
とにかく急いで出向かないと。
「陛下、わたくしを転移魔法でお送りいただけますか。
一刻を争います」
「リーヴを一人で? だめだ、心配で俺がおかしくなる。
誰か腕の立つ者を10人、いや100人くらい……。
いっそ騎士団2つほど連れて行け」
リヴシェの両肩を掴んだラスムスの薄い青の瞳は、本当に不安げに揺れている。
「それでも不安だ。
あのクソ皇子! 必ず後悔させてやる」
掴まれた肩にかかる力がぎゅうぎゅうと強くなった頃、見計らったかのように扉が開かれた。
「恐れながら陛下、私が随行いたします」
ずいぶん快復したらしいラーシュが、恭しく頭を垂れている。
「むろんラチェスの精鋭も連れてまいります。それに高位の神官を幾人か」
「神官だと?」
ラスムスの薄い青の瞳が、微笑を浮かべたラーシュの青い瞳をのぞきこみ、数舜それは続き。
「我が行けぬからには仕方あるまい。
リーヴの身、必ず守れ」
その1時間後、リヴシェはハータイネンに発つ。
何を考えているのか、ほとんど口を開かないラーシュは不気味なほどで、もしかしたらまだ体調が思わしくないのではと心配になる。
ラーシュはゆっくりと首を振った。そしてとても
「大丈夫だよ。僕は今とてもわくわくしてるんだよ。
あの男に、ようやくお礼ができるんだからね」
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