第37話 悪役は逃れられないか

 カビーア皇子の魔力は怖い。

 さんざんラスムスに脅されて、正直なところリヴシェの神経はかなり張りつめていた。

 けれど今のところ昨夜と変わらない、静かな時間が過ぎている。

 

「おまえが傍にいれば、俺が安心できる。何事もなければ、それはそれで良い」


 部屋へ戻ってきたラスムスは、ゆったりとした部屋着に替えて居間のソファでくつろいでいる。

 赤ワインを片手に優雅なものだけど、左手のすぐ傍に長剣を置いていた。

 緊張と余裕とを、上手に制御できる男だ。仕事のできるタイプで容姿も良い。前世の職場にいれば、優良物件として争奪戦の対象になったろうなと思う。

 

 リヴシェ用に持ち込ませた簡易寝台は、ラスムスが使うと言い張った。


「愛しい番に、こんなものを使わせると思うか」


「困りますわ。それはわたくし用にと持ち込んだもので……」


「嫌なら同じ寝台で休むか? 別に俺はかまわんが?」


「いいえ、けっこうです!」


 こんなやりとりの後、もともとラスムスのものであった大きな寝台を、リヴシェが使うことになった。

 居間のラスムスに先に休むと声をかけたところへ、扉を控えめにノックする音が響く。


「ヴィシェフラド女王陛下に申し上げます」


 21時過ぎだ。急ぎの用だろうか。

 入室を許すと、ラチェスの騎士がリヴシェの前で膝をついた。


「ラーシュ様より、急ぎおいでいただきたいとお言伝でございます」


 側で聞き耳をたてていたらしいラスムスが、ふんと鼻を鳴らした。

 あきらかに不機嫌のオーラが立ち上っている。

 でもラーシュの心配は、もっともだと思う。

 政略とはいえ、ラーシュは婚約者だ。リヴシェが他の男と同じ部屋で休むと聞いては穏やかでいられないだろう。

 わかったと騎士に返してから、部屋着の上にシルクのガウンを羽織る。

 

「すぐに戻れ。明日も早い」


 不機嫌オーラ全開ながら、ラスムスは止めはしなかった。


「名のみとはいえ、まだ婚約者だからな。忌々しいことこの上もないが」


 イライラしている様子がなんだかとても幼く見えて、かわいらしい。

 くすりと笑いそうになって、慌てて口元を引き締めた。

 こんな感情を抱いて良い相手ではない。相手の気持ちに応えられないのなら、それっぽい素振りはするべきではない。それをするのは、ジェリオ伯爵夫人のような女のすることだ。あれと同じになんて、絶対にいやだ。


「すぐに戻ります」


 短く事務的に言い置いて、ラーシュの部屋へ向かった。




 リヴシェの部屋履きは、神殿時代から使い続けているものだ。かなり傷んでいる。

 あちこちでこぼこと凹みのある砦の床は、傷んだソールに優しくなくて、時々かくんと身体が傾ぐ。

 さすがにそろそろ取り換え時かと思いながら、ラーシュの部屋の前に立った。

 ラチェスの騎士がリヴシェを認めて敬礼する。


「陛下がおいでです」


 扉が開く。

 ゆっくりと。


 え……。


 息を飲んだ。

 心拍数が急激に上がる。


「お久しぶりですね。お姉さま」


 聞きたくもない、ねばりつくように甘ったるい声。

 幻聴?


「本物ですよ、お姉さま」


 緑の瞳が意地悪く嘲っている。

 形ばかり羽織ったガウンの胸元は、しどけなく乱れていて。

 ふわふわとした金の髪もそれは同じで。

 絶対にわざとだ。わざとリヴシェに見せつけようとしている。


「返してって、前に言いましたよね、わたし。

 でもお姉さまは無視なさった。

 だから返してもらったんです」


 完了形で言ってから、くすくすと笑う。


「お姉さまが余計なことをするから、お話しが変わっちゃったでしょ。

 本当なら、とうにわたしのものだったのに。

 悪役なら悪役らしく、ちゃんと断罪されてくれないと」


 聖殿に入る前に、確かに彼女はそれらしきことを言った。

 やはりそうだ。彼女もリヴシェと同じだ。前世の記憶を持つ、転生者。

 だけどどうしてここにいるのか。

 二コラは月の皇子と共にいるのではなかったか。

 

「カビーア皇子に送ってもらったのね?」


 初めて二コラに直接話しかけた。

 さすがに無視できる状況にはない。


「あの人、見た目は良いんだけど中身が面倒臭いの。

 でもお姉さまを引きずりおろすのには使えそうだったから。

 利害が一致したの」


 もはや最低限の敬語もない。

 中身がリヴシェと同じ転生者であれば、こちらこそが本性なんだろう。


「ヴィシェフラドの女王はわたしだし、ラスムスの皇后もわたしなの。

 ラーシュはわたしに片思いして、ラスムスとわたしを争うの。

 元に戻すだけだから、悪く思わないでね」


 寝乱れた金の髪をかき上げて蓮っ葉に笑う様、見下したように睨めつけてくる視線。どう見ても女主人公ヒロインの名に似つかわしくない。

 けっこう年齢がいってる前世だったのかもしれない。

 前世の職場に、直属の上司ではなかったけど、年齢不詳の女性管理職がいた。彼女を思い出す。

 バツイチだというその人は、みるからに高価なオーダースーツでびしりと決めて、髪の先から爪先までまるで隙がなかったけど、常に若さや美しさに執着していてどこか生臭かった。

 彼女に似ている。


「痛々しいのよね」


 こぼれた本音に、二コラの顔が怒りに染まる。


「なっ! えらそうに、小娘が!

 今、見せてあげるわ。あんたが捨てられたんだってことを」


 小娘ときたか。その言葉で前世の年齢がわかる。

 けど、そんなことを思えたのもその瞬間だけだった。


「ラーシュ、こっちへ来て」


 人工甘味料をひと瓶まるごとぶちこんだような、あざとく甘ったるい声。

 乱れた寝台からのっそりと起き上がる人影があって。


「ねぇ、早くぅ」


 その腕にしなだれかかる女を抱きしめる。

 ぼんやりと曇った瞳にリヴシェが映る。


「何しに来た?」


 聞いたこともない冷たい声。


「ラーシュ?」


「なれなれしいね。君にそう呼ばれるとぞっとするよ」


 嫌悪に歪んだ顔をして、眉間に皺まで寄っている。

 ああ、これが魅了というヤツかとすぐに気づいた。

 けど気づくことと、受け容れることは別物だ。

 昨日までの優しいラーシュではない。

 これはけっこう、いやかなり堪える。


「君との婚約は、なかったことにしてほしい。

 君にも都合が良いんじゃないのかい?

 僕を愛していたわけじゃないんだからね」


 昨今流行の婚約破棄、鉄板のお約束だ。

 でもこれも、直接言われるとつらいものだ。

 ラーシュの青い瞳に、昨日まで確かにあった情はまるでない。


 ラーシュの曇った瞳から、どろんと淀んだ魅了の魔力が臭う。

 カビーアの魔力の匂いだ。

 何が起こったのかは、想像できた。けどリヴシェの心が、理解することを拒んだ。

 べたりと二コラの貼りついたラーシュの腕を、その背を、汚らわしいと思ってしまう。

 

 人の気持ちに不変なんてない。

 どんなに仲の良かった友達も、仲間も恋人も、ほんのちょっとのことであっけなく壊れた。

 前世で見てきたことが、ここでも起こっているだけだ。

 失望する必要はない。その価値もない。

 冷静に冷静にと、自分に言い聞かせる。

 

 わかったと素直に言ってあげるべき?

 だってそれが小説どおりだから。

 リヴシェが変えたストーリーなら、二コラに戻されても文句は言えない?


 いや、そんなことは今関係ない。小説にないストーリーに切り替わっている今、二コラに折れてやることはなんの解決にもならない。 

 寵力を発動してすべてを片付ける。

 魅了されたラーシュを癒し、破られた結界を張り直して。


 しなければならないことはわかっているのに、心がついて来ない。

 思ったよりもずっと衝撃を受けている自分に、リヴシェは戸惑っていた。

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