第四章 嵐の最中
第35話 婚約者は嫉妬する
「予想どおりですね」
ラチェス公爵家から派遣された騎士団の長が、戦況を示す地図と現場を見比べながら口にした。
「こことここ。少し薄いようです。補充をしなければなりませんね」
戦況図を指し示す彼に、全軍の司令官を務めるラスムスは首を振る。
「良い。人が足りぬのは、どこも同じだ」
ヴァラートの水軍がヴィシェフラド沖に現れてから、まる1日が過ぎていた。
その間ヴァラートは何もしかけてはこない。
青い海原にずらりと並んだ船影は不気味で、「さっさと降参せよ」と威圧感をまき散らしている。
「我らには女神ヴィシェフラドの加護がある。
案ずるな」
にやりと不敵に笑って、ラスムスは後ろを振り返った。
女神の加護、つまりリヴシェのことだ。現場に望んで出てきたリヴシェは、聖女として参加している。
「聞いてのとおりだ、聖女殿。
さっさと壁を張っていただこう」
今日何度目かの寵力の要請に、リヴシェはふぅとため息をついた。
宵闇が迫ってもまだ海岸線にいた。
漆黒の闇がとっぷりと辺りを覆う頃、さすがに今日は無理だろうとようやくリヴシェは解放された。
砦の一室で、くたりと床にへたり込む。
前世と違って10代の若い身体なら、一晩眠れば疲れはとれる。
多分とれる。
とは思うものの、かなり大がかりな寵力の発動、それを何連発もさせられると。
しんどい。
前線に出たいと言い出したのはリヴシェ自身だから、まあどんなにこき使われようと仕方ない。
そうは思うけど、それにしてもラスムスは容赦なかった。
上陸想定されるあちこちの現場に連れて行かれて、「さっさとしろ」と防御壁を要求される。もう文字どおり一日中だ。
おかげで昨夜も今日もへろへろで、食欲もない。お腹は空いているはずなのに、胃が受け付けないのだから。
「しっかり食べてね。ほらリーヴの好きな王都のお菓子だよ。
明日はきっと今日より忙しくなるからね」
いつもなら喜んで手を伸ばす焼き菓子も、今は見たくもない。バターやクリームの濃厚な香りに、うぇっとなりそうだ。
言葉こそラスムスよりは優し気だけど、ラーシュの言ってる内容はラスムスとほぼ同じだ。要するに明日もこの調子で頑張れってこと。
案外この二人、気が合うのかもしれないと思う。
「リーヴの防御壁、みんな喜んでるよ。おかげで通常の半分の人員で済んでるからね」
そう言うラーシュは、ほっとした様子で「ありがとう」と添えてくれる。
命を危険にさらす人が、一人でも減るのは嬉しかった。
それでこそ、吐き気をこらえてまで頑張った甲斐があるというものだ。
けれど気になることもある。
「あの壁ね、張る広さが広さだから。普通より薄いの。だから強い魔力や火力をあてられたら、穴が開くと思う」
ヴィシェフラドの海岸線全部を囲む壁なのだ。いくらリヴシェの寵力でも限界がある。
「大丈夫。そう簡単には破れないし、もし破れたとしても一か所がせいぜいだよ。
それならむしろ、こちらに都合が良いからね」
攻め入られる箇所が1つに絞れるなら、むしろ守りやすくなって良いということらしい。
なるほど……と頷いて、まじまじとラーシュの顔を見る。
「どうかした?」
「うまく言えないけど、いつもと違うなと思って」
ぴんと張りつめた空気が、ラーシュの周りにはある。口調や表情にもそれは影響していて、なんというかきりりとカッコ良い。
こんな状況でカッコ良いとは、かなり不謹慎な言い方だけど他に言い様がない。
「ヴィシェフラドの存亡がかかってるからね。僕だって真剣になるよ」
ラーシュはふいっと顔を背ける。
照れてる。長い付き合いだから、もうリヴシェにもわかった。
ラーシュはこうして面と向かって褒められると、どうも弱いらしい。
「頼もしいと思うわ」
国の存亡をかけたというのは、言い過ぎではなくて本当のことだ。負ければヴィシェフラドだけではなく、大陸全部がヴァラートの属国になる。
だから知力体力をフル稼働させて向かうのは、当然と言えば当然なんだけど。
それにしてもいつもどこか余裕のあるラーシュが、張りつめた空気を身にまとっているのは新鮮だった。
いつもより活き活きとして見える。
生きている瞬間を愛おしむような、そんな輝きが眩しい。
「そういえばラスムスも、ラーシュと同じ顔をしていたかも」
昼間見たラスムスの顔が浮かんで、ぽろりと心の声がそのまま漏れる。
「ふぅ……ん」
しまった!
気づいた時は遅かった。
ラーシュの顔に、「不」「機」「嫌」とゴシック太字フォントサイズ150くらいで書いてある。
「ラ……ラスムスとは昼間現場で会ったから。ちょっと思い出したというか、ふわっと浮かんだというか」
だめだ。言い訳をすればするほど、フォントサイズが大きくなってゆく。
「とにかく深い意味はないから」
気まずい沈黙が続く。
これ以上何か言わない方が良い。言ってはダメな場面だと、本能的に悟った。
「リーヴ、いつから皇帝を名前で呼ぶようになったの?」
そこですか。
「失われた王国」の男主人公の名前だから、そういう記憶があるから、ついつい気安く口にしてしまったけど、そうだった。今のリヴシェはヴィシェフラドの女王で、ラーシュの婚約者だ。ノルデンフェルトの皇帝を名で呼ぶのは、いかにも礼を失するというもの。
気をつけないと。
「ごめんなさい。気をつけます」
しゅんと項垂れてみせるが、ラーシュの不機嫌はいっこうにおさまってはくれない。
「謝ってほしいわけじゃないよ。いつからかって、僕はその方が気になるんだ。
ねえリーヴ、いつから君はあいつを名前で呼ぶようになったの?」
本当に「いつからか」が気になるようだ。適当なことを言っても、許してもらえそうもない。
こういう時は、本当のことと嘘とを上手に織り交ぜるのが一番だ。
「本人を目の前にしては、ないわ。『陛下』と呼んでる。
今はラーシュだけだから、つい気が緩んだの。気をつけないとね」
「ふぅん、まあいいや。今回は見逃してあげる。
でもね、リーヴ。僕は君が思うよりずっと、君が好きなんだ。
次は許してあげないよ?」
嫉妬で理性を失ったら、戦場でどうなるかわからないとか、味方と敵の区別がつかなくなるかもとか、怖いことをラーシュはぶつぶつと続けてくる。
国の存亡がかかっているから真剣になるって、言ってたでしょう。
今、色恋にうつつを抜かしている場合ではないでしょう。
言い返したかったが、とてもできない。
ラスムスにヴァラートの皇帝、それにカビーア皇子と、ここ最近リヴシェの周りはにぎやかになっている。
それが面白くないことだというくらい、いくら鈍いリヴシェにもわかるから。
ラーシュの白い頬に指を伸ばして、青い瞳を覗き込む。
「ごめんね、ラーシュ」
青い瞳に張った氷が、ようやくゆるやかに融けていった。
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