第三章 暗雲

第26話 風は東から吹いた

 東のヴァラート帝国は、ヴィシェフラドから海路でゆうにひと月分離れた遠方にある。

 それも足の速い船での計算だから、実際にはもっと時間がかかるはずだ。

 彼らの主神はシーヴ。戦神いくさがみらしい。

 

 ここ50年ほどの間に着実に国力をつけたヴァラートは、現在の皇帝クマール1世の即位後、急激に国際舞台に躍り出た。

 戦神シーヴの生まれ変わりとうたわれるクマール1世は、その名のとおり戦上手で近隣の国々をたちまち併呑していった。

 そして次の標的は、彼らにとっても異教徒の国。

 まずは最も近いヴィシェフラドに、照準を合わせたようだ。



「どうするのだ。ヴァラートの使者になぞ私は会わんぞ」


 すっかり色を失くしたヴィシェフラド国王が、軍務と外務二人の大臣の前でうろたえている。

 次期女王であるリヴシェも、玉座のすぐ傍でその様子を黙って見ていた。未来の王配たるラーシュも、当然その傍にいる。


「どうするとおっしゃいましても……。

 本気でヴァラートが攻めてくるのだとしたら、もって3日というところでしょうな」


 軍務大臣は顔色ひとつ変えない。優秀な魔術騎士でもある彼の前職は、騎士団長だった。さすがに歴戦の勇者、肝が据わっている。

 それにひきかえ、我が父のなんとも情けないことだ。


「女神ヴィシェフラドの加護ある国に、本気でやつらは攻め入ろうと言うのか」


 あわあわと早口でまくしたてているけど、多分考える前に口にしている。国王の言葉なのに、ほんと軽い。

 それに女神ヴィシェフラドの加護を言い立てる資格が、自分にあると思っているのだろうか。

 一夫一婦を厳しく定める女神に、つい先ごろまで堂々と逆らっていたのは誰なのか。

 都合の悪いことは忘れるんだなあと、我が父ながらつくづく情けない。

 

「陛下、ヴァラートは異教徒でございます。おそれながらヴィシェフラドの加護など、彼らにはまるで関心のないことでしょう」


 きっと呆れているに違いないのに、相変わらず無表情だ。さすが騎士、メンタルの鍛え方が違う。


「戦わず済む方法はないのか」


「ヴィシェフラドを差し出して縋れば、属領として生き延びる道もあるかもしれません」


 ちらりと軍務大臣の視線が、リヴシェに向けられる。

 え?

 どうしてこっちを見るの。

 数舜の間の後、リヴシェにもわかった。

 ああ、人質ね。

 戦わず降伏した場合、リヴシェはヴァラートに人質として差し出される。おそらくは皇帝クマール1世の側室として。


 シリアス過ぎる展開だ。

 断罪処刑もたいがい酷いけど、戦好きの皇帝に人質として出されるのもかなり酷い。

 なにしろリヴシェの前世は平和な日本人だ。これはガクブル恐怖のシチュエーションなのだが。

 でも。


 21世紀日本で生きてきた身には、正直なところ戦争の生々しい酷さはわからない。

 けれど知識だけはある。

 ヴィシェフラドいやこの大陸全体が、とても酷い目にあうかもしれない。

 判断を誤ればそうなる。のるかそるかのその際を、今目の前にしている。

 

「属領になれば、ヴィシェフラドは焼かれずに済むのですか?」

 

 大臣の考えを知りたかった。


「王女殿下」


 軍務大臣の灰色の瞳が、初めて優しく和む。

 

「おそらくそうはなりますまい。情報によればヴァラートは完全に侵略しつくすそうです。以前の文化を徹底的に破壊し、焦土と化した土地に新たにヴァラートの文化を植え付ける。

 属領になると降参してもしなくても、そう変わらぬことと」


 つまり戦わずに降伏することは、考えていないということだろう。

 3日しかもたないと言ったのに。それでも?

 大臣は数々の戦場を見てきた苦労人だと聞く。勝算なく無謀なことはしないはず。

 

「使者が来るだけではないか。友好を求めているだけやもしれぬ」


 張りつめた場に不似合いな、能天気なセリフ。

 吐いたのは、そうだそうに違いないと自分で納得する父国王だった。

 場の空気を読んでほしい。

 かなりイラっとした。

 ジェリオ親子のことで愛想は尽きていたが、まだ国王の座にしがみつく図々しさを目の当たりにすると、二コラの性格の一部は確かに父から譲り受けたものだと思う。

 3日しかもたないと言ったのは軍事の専門家だ。父には聞こえていなかったのか。聞きたくないことは聞こえなくなる、都合の良い耳を持っているのだろうか。

 この場に父は要らない。

 

「陛下はご気分がすぐれないようです。

 ここから先は、大臣とラチェス公爵でご検討いただけますか。

 その結果を、またあらためて奏上なさっては」


 渾身の力を振り絞って、リヴシェはバカ父の愚かしさに耐えた。

 今すぐ出て行けと言いたいのを抑えて、「また後で報告してもらうから良いわよね」と丸め込んだのだから、大した我慢だと思う。

 ぴくぴく動くこめかみを感じながら、それでは行きましょうと父の腕を取る。

 

(後は任せる!)


 視線でラーシュに伝えた後、弱った父を気遣う健気な王女リヴシェは退場した。

 



「もうダメだと思うの。

 これ以上、お父様をあのままにしてはおけない」


 その夜、ひそかに招いたラーシュに粛々と伝える。


「そうだね。僕もそう思うよ。

 けど良いの? 陛下はご自身から譲位するとはおっしゃらないよ。

 そうしたら穏やかではない交代になるけど」


 青い瞳が陰っているのは、リヴシェを心配してくれたからだろう。

 リヴシェは、父を引きずり下ろした悪者になるから。

 女神ヴィシェフラドの加護を賜る身で、ヴィシェフラドの習いに逆らうんだから、悪く言われるだろうなあとはわかっている。


「それはわたくしだって、悪く言われたくはないけど。

 それに即位早々戦だなんて、逃げられるものなら逃げたいわ」


 目立てば叩かれる。

 前世のリヴシェは、学校でも職場でもなるべく目立たないように、地味に努めてきた。

 穏やかに生きるために必要なスキルだったのだけど、今のリヴシェはそれをして良い立場にはない。

 見ないフリをして逃げたら、あのバカ父にヴィシェフラドは滅ぼされてしまう。

 それもめちゃくちゃに、再起不能なくらいにコテンパンにだ。

 小説の中で敵だったノルデンフェルトは、まだ情があった。ヴィシェフラド王家を滅ぼしはしても、その他、例えば国土や民をむやみに損ないはしなかったから。

 でもヴァラートは違うらしい。

 

「正直に言うとね、とっても怖い。

 でもわたくしにしかできないことなら、逃げてはダメなんだと思う」


 握りしめた両手が震える。

 その手を、ラーシュが包み込んでくれた。


「君を誇りに思うよ、リーヴ。

 大丈夫。

 リーヴの憂いは、みんな僕が背負ってあげるから」


 この上もなく優しくラーシュは微笑んで、リヴシェを抱きよせた。


「リーヴが覚悟を決めてくれたのなら、もう良いね。

 明日、ラチェスを動かそう」


 ヴィシェフラド国王交代劇は、その夜のうちに始まった。

 

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