ミラクルジョッキー

秋山如雪

第1章 競馬界の洗礼

第1話 プロローグ・北の大地のあの子

 北海道の冬は長く厳しいものだ。


 本州以南のいわゆる「内地」では考えられないくらいの雪が、半年以上も延々と降り続き、一面銀世界の大地がどこまでも続く。


 そして、そんな1月の最も過酷な季節に、彼女はその大地に降り立っていた。これは、一人の女性ジョッキーが経験した物語。



「マリモ!」

 私は、思いきって、「彼女」の首に抱き着いていた。


 2035年1月。

 北海道、日高地方の牧場。


 他の季節とはまったく違う、ある意味、一番北海道らしい季節でもあるこの真冬。日高地方は、太平洋側に面しているため、北海道の他の地域、特に日本海側や内陸部に比べると、雪が少ない地域だが、寒さという点では、もちろん本州以南と比較にならないくらいに寒い。


 気温が日中でもマイナス5度や6度は当たり前、朝晩にはマイナス10度や15度まで下がるのが珍しくない。


 そんな中、キャンプに使うような分厚い防寒着を着て、手袋とマフラーをつけ、イヤーマフ(耳当て)をした私のことを彼女は覚えてくれていた。


 私の名前は、石屋優いしやゆう。21歳。

 千葉県白井しろい市にある、競馬学校。騎手を養成する学校の3年生で、今年、卒業予定のいわば「騎手の卵」だ。

 身長155センチ、体重は44キロ。もちろん、「騎手」という特殊な職業を目指すために、徹底的に減量して、今の体重をキープしている。運動に適した形の、肩にかからないくらい短いセミロングというよりショートカットに近い髪が、冬の北海道では逆に不利だった。


 騎手の世界というのは、想像以上に過酷だ。

 しかも、私の実家は、牧場を経営していたが、日高地方にたくさんある、いわゆる「馬主」が持つ、競走馬の生産牧場とは違う、ただの「観光牧場」だった。


 だからだろう。

「騎手になりたい」

 と言ったら、両親が烈火の如く反対した。というより、主に母が反対した。


「女の子がそんな危ない仕事して大丈夫か?」

「怪我したらどうするの? それよりこの牧場はどうするの?」

 私は一人っ子だったから、両親は心配してくれたのだろう。その気持ちはわかったが、私は小さい頃からの「夢」を叶えたいと思っていたから、一歩も引かず、両親を強引に説得したのだった。


 特に、母はこの観光牧場を大切にしていたから、それを私に継いで欲しかったらしい。

 一方、父は普段から私の馬好きな部分をよく知っていたから、心配はしてくれたが、表立って反対という感じではなかった。

 そもそも私の馬好きな性格を作った原因は、この父にあるが、それはまた別の話。


「馬が好き」

 その思いが私の根底にはある。


 競馬界は、「競争」の世界で、厳しい。それはわかっていても、根っこの部分に「好き」という気持ちがないと続かないし、職業なんてのは、結局はどんなものでも「好き」な方が伸びる。

 その点、私が恐らく他人より勝っているのは、「馬が好き」という気持ちだけ。


 そして、厳しい競馬学校による3年間の修行の最中、卒業を間近に控えるこの時期。

 唯一許される、年末年始の休暇に、帰省していたのだった。


「ブルッ」

 首を動かしながら、私に首を擦りつけてきた、彼女の名は「マリモ」。21歳の牝馬で、我が観光牧場一の人気者だったが、実は元・競走馬だった。

 観光牧場には、たまにこういう元・競走馬が来る。

 競走馬としては、牝馬ながらも高松宮記念を制覇したGⅠ1勝の馬だったが、繁殖牝馬としては、あまりいい成績が残せなかった彼女は、10歳の時に、馬主が権利を放棄して、私の実家にやって来た。

 今から11年前。私が10歳の時だった。


 馬の寿命は短く、25~30歳くらいと言われており、彼女は人間で言えば、もうお婆さんだろう。

 だが、私は彼女と同い年であり、同じ年に産まれた。


 その意味でも、数多くいるこの観光牧場の馬たちの中でも、彼女には特別な思いを持っていた。

「マリモ。私、今年の春にデビューするよ」

 兄弟がいない私にとって、彼女は、それこそ「兄弟」、いや「姉妹」のように育った関係だった。


 物心ついた頃にやって来た彼女は、とても過酷な競争の世界で生きてきたとは思えないくらいに「穏やかな」で「優しい」馬だった。


 人を蹴ることもないし、噛むこともない。飼葉かいばをよく食べるし、健康的な彼女は、その性格ゆえに、競走馬よりも観光のために、人を乗せることの方がしょうに合っていたらしい。


 主に、本州以南からやって来た家族のために人をその背に乗せ、特に小さな子供には大人気で、いつも彼女の周りには、子供たちの笑顔が溢れていた。

 私は、地元の高校を卒業してから、上京して競馬学校に入学したため、同期と言っても、年下も多くいたが、それだけ彼女と一緒に過ごした時間は長かったし、馬の世話には慣れていた。


 彼女は、耳をふんわりと左右に倒し、円らな瞳を向け、口元はゆったりと緩んでいた。これは、馬が親愛の情を示す時の行動だ。


 観光用とはいえ、客がほとんど来ない、冬季は厩舎に入れられているか、牧場に自由に放牧されていることが多いマリモは、もちろん馬銜はみすらつけていない。


 彼女は、わかっているのか、わかっていないのか、もちろん私にはわからないが、ただどことなく、甘えるように、頭や首を擦りつけてくるのだった。


「優」

 彼女の首を撫でていると、牧場の彼方、家の方から、真冬の雪かき用のゴム長靴を履いて、雪の中を歩いてきたのは、母だった。母の名は尚美なおみ

 雪かき用に使うような、分厚くて、色気がない男物のロングコートを羽織り、手袋をはめた、ショートカットの髪。この時、48歳の母は、私にはどちらかというと厳しかった。特に躾に関しては、しっかりしていたから、逆に私は父の方に懐いていた。


「お母さん」

「お父さんが呼んでるわ。寒いから行きましょう」


「うん」

 マリモに別れを告げるように、彼女の首筋から鼻にかけてを優しく撫でた後、私は母に従って、家に入る。


 家、と言っても豪勢なものではなく、草原の中に築かれた、どこにでもありそうな民家。

 北海道の家の特徴とも言える、大きな玄関フードと、二重窓があり、屋根は四角いトタン屋根。その上に、融雪用のヒーターが申し訳程度に載っている。家の脇にはもちろん灯油貯蔵用タンクがあった。


 玄関フードを開けて、中に入る。

「あったかーい」

 居間に入るだけで、石油ストーブの暖かさが身に染みるくらいに、鼻先から暖気が入ってくる。


 内地と違い、北海道の家は、完全防寒なので、冬は常に暖かい。私は暑すぎるくらいの暖かさに満足し、上着を脱いで、一旦、居間を出て、コートを玄関先にある大きなハンガーにかけてから、居間に入った。


 父は、大きなテーブルの前で、座布団を敷いて座っていた。32型のテレビはついておらず、その部屋には、石油ストーブが立てる、「ゴーッ」という静かな物音だけが響いており、どこか緊迫感が漂っていた。

 それは、父の表情からも伺えた。父は、この時、52歳で、名前は宗一郎そういちろう。古めかしい名前の割には、新しい技術を使うことには躊躇がない人だった。短く刈った短髪に、家用のセーターを着て、使い古したスラックスを履いていた。


「おう、来たか、優」

「なあに、お父さん」

 私は目の前に出された緑茶が入った、湯呑みを触りながら座布団に座り、テーブルを挟んで父に向かい合う。


 母は、無言のまま、その父の横に座り、私を睨むように見つめていた。


「どうだ、競馬学校は?」

「どうって?」


「大変だろ。お前は、本当にジョッキーになれるのか?」

「なれるよ」


 私が発した言葉が、思いの他、力強かったのだろうか。それを予想していなかったように、父は、一瞬、目を見開いたが、逆に母が、突っかかるように尋ねてきた。


「優。女の子がジョッキーなんて、無理よ。大怪我しないうちにやめなさい。あなたはこの観光牧場を継げばいいの」

 そう言われて、私は思わず頭に血が上り、売り言葉に買い言葉のように、言い放っていた。


「お母さんはそればっか! 女が騎手を目指して何が悪いの? 男も女も関係ないよ。私は馬が好きだからジョッキーになるの!」

 母の気持ちはわかるし、このやり取りは今まで何度も繰り返してきたが、それでも私はやはりなりたかったのだ。ジョッキーというものに。そして、見たかったのだろう。その先にある風景を。


「優」

 再び、父が口を開くが、その瞳はいつになく真剣だった。


「『馬が好き』だけで、やっていけるような甘い世界じゃないのはわかってるか?」

 その一言が、実は後々まで私を苦しめることになるのだが、この時の私はわかっていなかった。


「わかってるよ。でもやりたいの」

 口ではそう言っても本当は、私は「わかっていなかった」のだが、それはまた別の話。


「そうか。じゃあ、やりたいようにやれ」

「お父さん。ありがとう」

 騎手学校に通い始める時にも、この父はそう言って、私の背中を押してくれた。


 父は、母が「観光牧場のことはどうするの?」と突っかかると、決まって、「その時は、優の婿に継いでもらうか、聖一に継いでもらう」と言っていた。

 聖一とは、父の弟の子、つまり私の従兄弟であり、3つ年下で、現在、高校3年生だったはずだ。私と同じく馬が好きな男の子で、今は浦河うらかわ(浦河町)にある高校に通っている。


「ただし」

 その後の父の言葉が、私を苦しめることになる。


「30歳までに結果を残せ」

「結果? 結果って何?」


 父は、わずかに口元を緩め、私を試すかのように、運命の一言を言い放ってきた。

「別にGⅠを勝てとは言わん。せめて、重賞の勝利。それと最低でも200勝。それを達成しなければ、お前を強引に日高に返す」


「200勝! いやいや、無理でしょ」

「お前の信念とはそんなに薄っぺらいものなのか?」

 父は、眉一つ動かさず、そう告げてきたが、後から考えると、30歳までに200勝というのは、難しくもあるが、そう「無茶な」要求ではなかったのだ。

 ただし、それは「男子」に限るが。

 単純計算でも、あと9年で200勝。1年平均で22勝。女子には過酷な条件だ。


「わかった。それでいいよ。でも、やるからには、私だって、GⅠを勝ちたい!」

「勝ちたいだけで、勝てるほど甘い世界じゃねえけどな」

「……」


 父の言葉が、身に染みるくらいに、私は競馬界の恐ろしさを思い出していた。

 話は、つい2週間前に遡る。

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