0-2
「…………おい……」
「…………おい!……きろ……!!」
「いい加減に……!!」
背中に重い衝撃が伝わり、肺に溜まっていた空気を一気に吐き出す。
「ぐはぁっ!?」
意識の覚醒と共に椅子から転げ落ち、視界は暗闇から教室の天井へと移る。
正体不明の容赦のない一撃のせいで背中が痛い、ついでに言えば椅子から落ちて尻と頭が痛い。
さらに言えばせっかくの新品の制服に埃が付いてしまった。
「どうしてくれるんだ。浅野」
「こっちの台詞だわ。なんでこんな時間まで寝てるんだか……」
「朝練で疲れてるんだよ、ほっとけ」
欠伸混じりの――我ながら呑気で横暴な台詞に、浅野は呆れていた。
浅野数屋。
俺と同じ中学卒業後、スポーツ推薦で同じ高校を選んでしまった腐れ縁。
高身長で体格も良く、前ボタンがはち切れそうな具合の胸元だから学ランがよく似合う。
黒の角刈りで俺と同じくサッカー部、ポジションはフォワード。
野球部みたいな見た目の癖にバンバン点を決めるチームの花形で、サッカー部の癖に彼女がいない。
それがなぜか女子にはギャップとして刺さっているみたいで、入学初日から彼の周りには黄色い声が絶えなかった。
対照的に俺は全くモテない、全然モテない。
サッカーの神童だとか、最強のミッドフィルダーだとか言われ、推薦も引く手あまただったのにモテない。
何がいけないんだ?チビだからか?やはり身長なのか?
「死んでしまえ」
「急に罵声!?俺、お前になんかしたか……?」
「なんもしてないから腹立つんだよ青春野郎。お前のモテパワーを少しでいいからよこせ」
唐突な悪口にも相手に寄り添い対処。
こいつがモテる理由がよく分かる、こんちくしょう。
「それで、色男が俺に何の用だ。また恋の相談か、ありもしない悪口もまたしても振りまいてやろうか」
「マジでやめてくれ。彼女は七人いて曜日別に遊んでるとか、サッカー部なのは合法的に男の玉を蹴る機会があるからとか、モテてる癖に彼女を作らないのはお前と付き合ってるからだとか……本当にしんどかったんだぞ」
「ちょっと待て、最後のは知らない。俺そんな噂流してない」
「もうこんな時間か。先に行ってるから、お前も早く来いよ」
「話を聞け!俺はそんな気味の悪い噂知らないからな!お前も否定したんだろうな!?真っ赤な嘘だって言ったんだろうな!?」
浅野は通学鞄を担いで、扉に手をかける。
「おいどこに行く!話はまだ終わってないぞ!!」
「どこって部活だよ。今日入部試験、まあ形式的なものだけど。これ行かないと部活入れないからな」
煩わしそうな顔をして教室から出て行ってしまった。
……そういえば、顧問がそんなことを言っていたような気がする。
『お前なら合格は容易いだろうけど、来ないと入部できないからな』
『冗談辞めてくださいよ。俺からサッカー取ったら何が残るんですか』
『それもそうだな』
『『ガッハッハッハッハ!!』』
みたいなやり取りを今朝したような――
「俺集合場所知らないんだけど!?」
あのクソ顧問言っておいてくれよ!?いや言ってたのか?もういい、分からん!
慌てて立ち上がり、自分の鞄をひったくるように持って、教室を飛び出した。
廊下前後を見渡すが既に浅野の姿はない。
「入部できなかった親になんて言われるか分かったもんじゃないぞ」
焦る気持ちのまま、すがるように叫んだ。
「おーい!浅野!!集合場所どこだよ!!」
はた迷惑な大声、一瞬の静寂、ワンテンポ遅れて浅野の声が聞こえてきた。
「第二――――だ!!」
やけに大きく響いてか、大事な部分がくぐもっている。
「もう一回言ってくれー!!聞こえなかったぞ!!」
今度は声が帰ってこない。
面倒になったのか、入学初日に大声を上げるのが恥ずかしくなったのか、どちらにせよ緊急事態。
第二がつく場所なんていくらでもあるだろ、手当たり次第に見ていくか?
いやそれじゃ時間がかかりすぎる。
手詰まり感が自分の中で漂い――半笑いになった。
「俺は馬鹿か!?」
普通に浅野の声を追いかければいいんだよ。
一度目声が帰ってきて、二度目言われなかったということは、二度目はおそらく人の多い場所――この時間に人が多いのは部室棟だろう。
浅野には敵わないが足には自信がある。
集合時間にはきっと間に合う!多分!
何度か行ったことのある部室棟までの経路を頭の中で描きながら、走り出した。
まだ履きなれないローファーと皺の少ない学ランを揺らす。
無人の廊下の窓からは学外の景色が見え、青々と伸びる草木、僅かに桜の花びらが散っている。
今年は遅咲きの桜で、ついほのぼのとした気分になってしまう。
入学式を終え、浮足立つクラスの中、一人睡眠に勤しんでしまったのもそれが理由、春眠暁を覚えずというやつだ、
別にクラスに馴染めないからとかじゃないよ、本当だよ?
階段を降りて、三又に分かれた廊下を左に曲が――
「きゃっ!」
「うお!?」
人とぶつかったような衝撃で倒れ、尻餅をついた。
本日二度目、俺のお尻は大丈夫だろうか。
誰もいないと思い、調子に乗って速度を出し過ぎていたのが原因だ。
非は俺にあるし、相手を責めることはできない。
「大丈夫ですか?お怪我はありませんか?すんません、私が前を見ていなんだばっかりに」
「全然平気ですよ。運動部なんで、このくらいなんともないです!」
「そら良かったわあ。手持ちはないし、お兄さんが怖い人やったらと思うとドキドキするで」
差し伸べられた手に引っ張られて、立ち上がる。
少女はニコリと糸目で笑い、藤納戸のぱっつんショートを僅かに揺らした。
身長は俺より少し小さいくらい、胸は慎ましやかで、黒のセーラーが良く似合う、子気味良い少女だった。
スカーフの色からして……二年生だろう、先輩だったのか。
人とぶつかって倒れないとか、体幹強いなあ。
発言とは裏腹に少女は心配そうに僕の体をきょろきょろと見ながら、あちこちを触っている。
触診のつもりなのだろうか、人とぶつかって外傷ができるなんて思えないけど。
藤納戸の髪がふわふわと動いて、なんだかくすぐったい。
「あの、痛いとこないので。どこも傷なんてないので。そろそろやめてもらっても」
「あかんで強がったら。こういうのはお姉さんの方が詳しいんやから。素人はじっとしとき」
「素人って言うか俺の体なので、違和感があれば分かるので」
頼もしい言葉ではあるが、少女の目つきはいやらしい。
というか手つきも変態的だ、さっきから筋肉ばかり触ってきて、息を荒くして――
じゅるり。
少女を押しのけ、一歩引く。
「こわいこわいこわい!!何の音ですか!?よだれ垂れてるし!俺を襲う気ですか!?別いいですけど、今は急いでるんでまた後でしましょう!!」
「拒んでるように見えて、全然ノリノリやんか。きげきちゃんは筋肉にしか興味ないから安心していいで」
なんだ、筋肉目当てか。
俺じゃないのか。
「そんな露骨に凹まんといて。あ、そや、あめちゃんいる?」
「本当に関西圏の人って飴常備してるんですね。いただきます」
フルーツの飴を手渡してくる。
袋を割いて口の中でころころと転がす。
イチゴ味だ。
「そんなわけないやん。今日はたまたま。入学式やからね。こういう運命の出会いに備えて、お姉さん買っておいたんよ」
「ほうはんへふか」
「飴ちゃんほっぺた入れて喋りや。なんて言ってるか分からへん」
「そうなんですかって言いました」
「そんくらいわかるて」
「…………」
なんだこいつ。
「そういや、なんでお兄さん急いどったの?部室棟の方向やし、やっぱ入部なんたら?」
「はい。あの、第二ってつく部活関連の場所ってどこか分かりますか?」
「ずいぶんアバウトやね」
「俺サッカー部入るんですけど、そこの集合場所が第二ってつくどこかなんですよ」
「ははーん、ちゃんと聞いてなかったんやな?きぃつけなあかんで……そやなあ。第二と言えば、やっぱ第二美術室ちがう?」
「第二美術室?」
「知らんの?この学校で一番有名な”第二”といえば第二美術室やで」
少女の言い草に少し違和感を覚える――が、そんなこと聞いている場合ではない。
雑談のせいで大幅なタイムロスだ、はやく行かないと。
「ありがとうございます!行ってみます!」
「ちょいちょい!場所知らんやろ!?お姉さん地図描いてあげるからちょっと待ち!」
そう言って少女はメモ帳に地図を描き、手渡す。
丁寧に経路まで描かれているそれは迷いようがないようがなく感じた。
「だいぶ遠いですね」
「そんなことあらへん。行ったらすぐやすぐ」
「じゃあ今度こそ」
「うん。行ったらっしゃい、お土産期待してるで」
小粋なジョークで俺の背を叩き、別れを告げた。
地図は即席にしては分かりやすく、迷わず行けるだろうという確信があった。
人だかりとは言えずとも、ある程度生徒が行き交う部室棟では思うように走るわけにはいけない。
時間はギリギリ、間に合うかどうか。
「あった……」
ある程度賑わいを見せていた階層からは遠く離れた部室棟四階の端に第二美術室は居を構えていた。
第二美術室は他の教室に比べて少し小さいように見える。
サッカーの名門たる高校の新入部員がここに収まるとは思えないが。
「遠近法だよな」
ついでに言えば、中からは人の気配がない。
声もしないし、生活音も聞こえない。
「無茶苦茶真剣に何かやってるんだよな」
今思えば、サッカー部の試験場所が部室ですらないのはどうなんだ。
「…………」
恐る恐る、第二美術室の扉に手をかけて、力を込める。
鍵はかかっていないが、少し開けづらく、軋む音をさせている。
ずっと使われていなかった教室の雰囲気。
嫌な予感がした。
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