19

「私、綺麗?」

 私は、言ってみたかった台詞を云ってみた。

 せっかく妖怪になれたんだし、言わなきゃ損だと思った。

 それに、言わなければいけないような気がした。

 そういう存在、として。

「ああ、君は綺麗さ」

 後尾車両からゆっくりと歩いてきた陰陽師は、私の背中に向けて云った。

「これでも、綺麗?」

 私は、振り向きながら、大きく裂けた口を微笑ませて云った。

 その瞬間、何だか更に身体の力が漲るような感じがした。

「ああ、それでも、君の――心は綺麗だ。醜くなんかない。でも、今の君は、とても綺麗とは言えない」

 陰陽師は、冷静に淡々と云った。

「ふん。やっぱり醜いと思ってるじゃない、私のこの顔を見て。このお母さんと一緒の顔を見て」

 私は、電車の窓に反射する自分の大きく裂けた口を見ながら云った。

「お母さん……ね」

 陰陽師はそう云って、私を睨みつけた。

 否、正確には、私の頭上数センチのところを。

「そうよ。私の願いを叶えてくれたのは、神様でも、ましてや、妖怪でもなく、お母さんだったの」

「……やはり、そういうことだったか」

 陰陽師はそう云いながら、懐に手を突っ込んだ。

 私は、その瞬間嫌な予感がしたから、右手に鎌を創造し、陰陽師に向かって勢いよく切りかかった。

「君ってやつは……!」

 陰陽師は、懐から出した護符……のようなもので防いだようだが、後方に吹き飛んだ。

「凄いわ、雨奈ちゃん。もうそんなことまでできるのね」

 私の影から、そう声が聞こえた。

 見ると、影から口裂け女――お母さんの顔が半分だけ見えていた。

「……ああ、君は本当に凄いよ。もうほとんど妖怪口裂け女と相違ない。それに、さっきから君は、僕の使う呪術をまるで知っているようだ」

 それも本に書いてあったのかい?と陰陽師は、ゆらりと立ち上がって云った。

「私の妖怪としての能力と雨奈ちゃんの知識があれば、たとえ最強の妖怪退治専門家であるあなたにだって勝てるわ」

 お母さんは、私の影から少しだけ顔を出したまま、笑いながら云った。

「君には聞いていないよ、口裂け女。君は、所詮残りかすさ。勘違いするなよ」

 陰陽師は、吐き捨てるように云った。

 そして、私を見据えた。

「美濃君、君は、人が嫌い、人が怖い、人と関わりたくないと思っているみたいだね。……でも、君が大好きな本だって人が書いたものだ」

「人は、戦わなければならない。その一生を通して、戦い続けなければならない」

 ただし、人と戦わないためにだ、と陰陽師は云った。

 そして――。

「そのために、先人たちが残してきた英知の結晶である本が存在するんだ」

 そう云って、私に向かって呪符を飛ばした。

 しかし、それは、私の影越しに床へと突き刺さっただけだった。

「やっぱり男は駄目ね、ろくでもないわ」

 私は、私の影に虚しく突き刺さっているその札を見下ろしながら云った。

 その私の言葉を聞いて、陰陽師は、一瞬笑みを浮かべたように見えた。

「うん、確かに僕は、駄目駄目だ。君を連れ戻すどころか、国上君を今度こそ危険に晒してしまっている。狸ちゃんにも傷を負わせてしまった。でも、男だから駄目ということにはしないでほしいな。僕のせいで不当に貶められてしまったのであれば、世の男性が可哀そうだ」

「陽依ちゃんのことは心配しなくても結構。それに、別に世の男が可哀そうだとかどうでもいいわ。私は、大嫌いなの、男が」

 私は、陽依ちゃんの頭を優しく撫でながら、陰陽師――男に向かって、吐き捨てるように云った。

 陰陽師は、先程同様、徐々に私との距離を詰めてきている。

 そして――。

「美濃君、君は一つ勘違いをしている」

 ――天使に性別はないぞ、と陰陽師は云った。

 その指先は、私が大事に抱きかかえる陽依ちゃんを指していた。

「……は、はあ?」

 陰陽師の顔や漂う雰囲気の迫力に気圧され、私は少しよろけながら後退った。

「君が今大事そうに抱えているその彼女。君が大好きなその彼女。もし、その子が男だったらどうする?」

「ひ、陽依ちゃんが男だったら……?私は、この子が女だから友達になって……好きになったんだ。馬鹿馬鹿しいこと言わないで」

「でも、国上君は、男子にはもちろん、女子にも好意を持たれていたんだろう?それは、多少なりとも彼女に男性的な魅力があったからじゃないのかい?」

 陰陽師は、笑みを浮かべて、段々とこちらに歩いてくる。

 私は、背筋に、否、身体全体に嫌な感覚がした。

 この男が不気味に思えて仕方なかった。

「ち、違うわ。陽依ちゃんは、女らしく、美しく綺麗で可愛いから同性にもモテたの。私に向かって、彼女について知ったような口は利かないで」

 あなたを、殺したくなる、と私は、国上のだらんと垂れ下がった右腕を握りながら呟くよう云った。

 そして、陰陽師が一歩進む度に、私は、一歩後退った。

「女らしく、ね。でも、本当にそれだけかな。君は、国上君のどういうところに好意を持っているんだい?やはり、他の子と同様に、美しくて綺麗で可愛いからなのかい」

「そ、そうよ。だから何だって言うの」

「美濃君、この期に及んで嘘はつかない方がいい。いい加減自分の心に素直に従えばいいんだ。それは、決して悪いことでも、恥ずべきことでもない。君の好きな本――物語の作者だって、絶えず自分の内面を曝け出しているんだ。君も自由に解放されていいんだ」

 そう云う陰陽師の口調は、穏やかに感じたが、顔はどこか哀しそうだった。

「私は嘘なんかついてない!それに、今の私は、十分素直で自由で解放されてる。余計なお世話はいらない。……そう、私は、女として、女の陽依ちゃんが好きなんだ!」

 私は、叫ぶように大きな声で、はっきりと云った。

 その大声に自分が吃驚した。否、その声を発した自分自身に吃驚した。こんな大きな声を出して自己主張したのは初めてだった。

「うん。そんなに好きになれる人がいるなんて、僕は心底君が羨ましいよ。否、僕じゃなくても羨むだろうね、人間なら誰でも。しかし、君は、そろそろ気づいて認めなければならないんだ。自分の中にある男性性を」

「は……?わ、私の中の男性……性だって?」

「君は、女として、女の国上君が好きだと言った。そして、それは、主に彼女が可愛いからとも言った。つまり、君は、他のクラスの男子と何ら変わらないじゃないか。君が嫌悪している男子が女子を視る目、実はそれと大差ないんじゃないか。そのことに、聡明な君が気がつかなかったなんて言わせないよ」 

 君は、必死に気づかない振りをしていたんだろう。自分のその感情を封印するように、と陰陽師は云った。

「わ、私が……だ、男子と同じ……?」

「そう。君は、女としてだけではなく、男としても国上君のことが好きだった。他のクラスの女子だって、同じような子はいただろう。男子だって、女としても国上君を好きという子だっているはずだ。これは、当然色んなパターンが当てはまる。つまり、どんな人間にだって、男性性も女性性もあるんだ。それを己が自覚しているかはさておきね。また、これも当然程度の差は人それぞれだ。……美濃君、あまり人間の感情をなめない方がいい。これは、君達人間が思うより何倍も複雑で多岐に渡るものなんだ」

 そして、もちろん、国上君にも男性的な面はある、と陰陽師は、私の目を見据えて云った。

「そ、そんなことはないわ……。だって、女の人は、美しくて綺麗で可愛くて優しくて温かくて……。それに比べて男は……男なんて……」

「確かに、君の過去関わってきた男性はろくな人間しかいなかった……かもしれない。でも、それは、そういう人間だったというだけだ。そこに、男や女という性別は関係ないんだ」

「そ、そんな戯言認めないわ!も、もし例えそうだったとしても……陽依ちゃんは……陽依ちゃんだけは!」

 私は、何だか自分が急激に崩れていくような不安定さに陥って泣きそうになった。

「否、国上君だってそうさ。彼女の中にも男性性はあるんだ。君が認める認めないは関係ない。その国上君の男性性に好意を持っているクラスの男子や女子だっているはずだよ。そんなことは、君がとっくに一番わかっていることだろう」

 だって、誰よりも彼女のことを想っているのは君じゃないか、と陰陽師は、厳しく、しかし、どこか優しい口調で云った。

 そして、私は――。

「……そ、そうよ……。私は、陽依ちゃんのことを可愛いと思うと同時に、格好いいと思ってる。それに、私は、あなたの言う通り、彼女の身体を私が最も嫌悪する目と同じ目で見ていた。獣の欲望のままに……。陽依ちゃんは、いつも強くて頼りになって……。私は、陽依ちゃんの……男らしさに惹かれ……それを求めていた」

 私は、左腕で抱えている彼女の胸を掴むように、そっと触った。

「男らしさ……なんて言葉は使わなくていいんだ。彼女、国上君がそういった魅力を持った一人の人間である、そして、それを君が好きになった、ただそれだけのことなんだ。君は、それを自分自身で認めてあげればいい」

 陰陽師はそう云うと、ゆっくりとため息を吐いた。

「陽依ちゃんのことを女としてではなく……一人の人間として……す、好きに……」

 私は、彼女の顔を見下ろしたが、すぐに恥ずかしくなって目を逸らした。

 ――私は、恋愛感情として、彼女の女性性に惹かれていた。

 また、私は、ずっと母親の影を追っていた。

 そして、それを彼女に見出していた。

 でも、そんなの間違っているって心のどこかで気づいてもいた。

 彼女は、私と対等に、対等の友達として接してくれていたのに。

 それなのに……私は……。

 ――そして、それだけじゃない。

 きっと私は、彼女に父親の影も重ねていたんだ。

 否、少し違って、理想の父親としての影を重ねていたんだ。

 そう、男性性の理想化として、彼女のことを見ていた。

 私は、本当は彼女の男性的なところも好きだったんだ。

 これも、心のどこかで気づいていたけど、必死に見て見ぬ振りをしていた。

 そんな自分の感情を認めたくなかった。

 自分の気持ちに嘘をついていた。

 でも、その結果こんなことに……。

「男女――人間は、そうやってお互いを理想化し合っているんだ。何も君だけが負い目を感じることではないよ」

 陰陽師がそう云い終ると同時に――。

「あ、雨奈ちゃん!そんな男の言うことなんか聞かないで。あなたは、私と一緒に行くのよ、楽園へ」

 そう影から声が聞こえたが、それは、私の後方ではなく、何故か私の前方から聞こえた。

「影が……離れている……?」

 私の影は、私から分離し、独立していた。

「口裂け女、君は、美濃君のお母さんを早く解放しろ」

 陰陽師はそう云って、先程刺さった札を私の影から勢いよく引き抜いた。

 そして、その瞬間――。

「ぎ、ぎゃああああああ!!」

 狭い電車内いっぱいに恐ろしく、また、耳障りな叫び声が轟いた。

 と同時に、生暖かい風が吹いた――ような気がした。

 そして、私の影、だったものから、長身の若い女性がすぅーと現れた。

 その身には、血で染まったかのような禍々しい真っ赤なロングコートを纏っていた。

 真っ黒な艶のあるロングヘア―が地に着く程伸びていた。

 後ろ姿からでも、その美しさは想像できた。

 電車の窓に反射する顔には、その半分程も覆う大きな白いマスクを着けていた。

 この世の者ではないもの、人ではないもの――妖怪が現れた。

「ようやっとお出ましか、口裂け女。美濃君とお母さんは返してもらう」

「やれるものならやってみなさい!今の私の力は、全盛期……否、それ以上よ」

 感謝するわよ、雨奈ちゃん、と口裂け女は、私の方に振り向いて云った。

 マスクをしているから、はっきりと見えはしないのだが、その下は、大きな口を開けて笑っているように思えた。

 否、嘲笑っているように思えた。

「私、綺麗?」

 口裂け女はそう云うと、返事を待つ間もなく、その大きな白色のマスクを外した。

 そこで、ふと電車の窓に目をやると、そこに映る私の姿は――元に戻っていた。

 大きく裂けた口も、窮奇の耳と尻尾も、ドッペルゲンガーの闇も、いつの間にか夢のように跡形もなく消えていた。

 ――人間に戻っていた。

 そして、全身を一気に疲労感が襲った。

 力が全身から抜けるようで、立っていることすらままならなかったから、その場に倒れるように座り込んだ。

「まもなく、終点、※※~、※※~」

 怪しげなアナウンスが車内に響いた。

 相変わらず、終点の名称は聞き取れなかった。

「相変わらず、現代妖怪は凶暴な奴が多いな。もう時間がないってのに」

 陰陽師はそう云って、口裂け女に攻撃したようだった。

 口裂け女は、それを楽しそうに応戦している。

 でも、もう私には、どうでもいいことだった。

 お母さんは、お母さんじゃなかった。

 やっぱり、もうどこにもいないのだ。

 そう、この世のどこにも。

 陽依ちゃんごめんね、巻き込んじゃって。

 でも、優しい陽依ちゃんなら許してくれるよね。

 もう私は、つかれちゃったんだ。

 

 太陽のない世界。

 そこは、きっと生きとし生けるものが最後に辿り着く終着駅。

 学校も勉強も宿題も試験も会社も仕事も病気もない。

 親や先生、クラスメイト、嫌な大人達もいない。煩わしい人間関係もない。

 未来もない。だから、不安もない。

 争いもない。貧困もない。

 欲がない。食欲も睡眠欲も性欲もない。

 完全な自由で解放された世界。

 そこには、もちろん、感情もない。だから、恐怖も宗教もない。

 ――つまり、神様もいない。ましてや、妖怪なんて。

 何もない世界。

 ただそこにいるのは、鬼と悪魔、だけ。

 

「美濃君、君は、まだその世界に行く時じゃない!」

 口裂け女と戦闘中の陰陽師は、座り込んで俯く私にそう叫んだ。

「君にも何かやりたいことがあったはずだ!」

「それは、夢なんていう曖昧な言葉なんかで表さなくていい。君の生きる糧として、大切に持っていればいいものなんだ。夢なんてものは、寝ている時に見るので十分なんだ」

 だから、早く目を覚ませ、と陰陽師は云った。

 私は、陰陽師のその言葉を聞いて、腹の底に溜まっていたものを我慢できなくなった。

 だから、吐き出した。

「う、うるさい。うるさいうるさいうるさい!一体あなたに私の何がわかるって言うの!?私の心の中を覗いたんでしょ!?私の孤独と絶望を……。だったら、何で……」

 やっぱり私には、陽依ちゃんしかいないんだ、と私は云った。

 ずっと、ずっと、我慢していた涙が一粒頬を伝って、陽依ちゃんの顔に落ちた。

 そして、堰を切ったかのように、私の心が、気持ちが、感情が、溢れ出した。

 長年、頑張ってせき止めていたものが、とめどなく流れ出した。

「あなたは、私のことを我儘で贅沢だとか、羨ましいとか言った。そんなのは、自分が一番わかってる。自分が恵まれていること、自分が普通なことくらいわかってる。いっちょ前にくだらないことを悩んでるってわかってる。でも、じゃあ、そんな普通の子は、それを吐き出しちゃいけないの!?我慢しなきゃいけないの!?何も願っちゃいけないの!?」

 君ぐらいの不幸な人なんていくらでもいる……なんて言葉はもう聞き飽きたの、と私は、急に冷めたようにゆっくりと云った。

 陰陽師の男にこんなこと言っても、何も意味なんてないことはわかっている。

 この状況で、意地悪なことを言っていることなんてわかっている。

 でも、もう自分でも止めることはできない。

「そう、私は、もう自分を偽らない。私は、贅沢で我儘で結構。あなたは、陽依ちゃんがいるにも関わらず、とも言ったけど、だから、それだから、私はこの子と一緒に行くんだ!」

 永遠にずっと一緒に、二人だけで、それ以外には何もない無の世界へ。

「ああ、そうだ。君は、国上君がいるにも関わらず、贅沢で我儘だ。羨ましいよ、僕は生まれた時からずっと一人だ。もちろん、これからも。でもね、その世界に行ったら――死んでしまったら駄目なんだ!」

 陰陽師は、口裂け女を相手にしながら続ける。

 息が上がり始めていて、苦しそうだった。

「人……否、生命は、いつか必ず絶えるじゃない!それは、決して悪いことなんかではないわ。それだったら私は、汚れて老いる前に……」

「そうさ、決して悪いことなんかではない。死は、無に還ることなんだ。だから、ここに良し悪しや善悪なんてないよ。そして、また、老いることも、悪なんかではない。それに、たとえ身体は老いても、心だけはいつまでもいつまでも成長して強くなっていくんだ」

……そう、だからこそ君は、君達は、まだ行くべきじゃないと言っているんだ!と陰陽師は云った。

 しかし、口裂け女に押されているようだった。

「無駄話をしている暇ないわよ、安倍晴明」

 口裂け女は、楽しそうに云った。

「無駄な話なんかじゃないさ。君を退治する立派な攻撃だよ」

「虚勢を張ったってどうにかなる場面じゃないわよ!」

 口裂け女の攻撃が激しくなる。

「いいか、美濃君。君は、生きていることに罪の意識を持っているようだね。でも、それは、死ぬことの肯定なんかではない。それは、己の生をより良く全うするための鎖だ。そして、人間は、本来どんな時だって自由で、何にも囚われてはいないんだ。だから、人間は、自分で自分を縛っているに過ぎないんだ」

 陰陽師の言葉が私の頭――心の中にこだまのように反響する。

「……はぁ……はぁ……」

 そして、私の動悸が何故か速まる。

「表も裏も全てを含めて自分という一人の人間なんだ。全ての短所は、長所の裏返し。逆も然りだ。つまり、人間に良いも悪いもないんだ。強いて言うならば、あるのは得意と苦手だけだ。そして、それは、もちろん人の価値というものには全く関係ない。そもそも、人に価値なんて言葉を使うべきじゃないんだ。それに、役に立つ人間なんかじゃなくていい。だって、役に立つなんて道具なんかに使う言葉だろう」

 私は、今まで自分が必死に積み上げてきたものが崩れ去るのを感じていた。

 その上に立っていた私は、当然ぐらぐらと不安定になる。

「死にたい、ということは、生きることに真面目であるということ……そう、これも裏返しなんだ」

 ――そして、土台が崩れ去った私は、落下した。

 下界に真っ逆さまに堕ちた。

「所詮私と同じような存在のくせに、何を偉そうに語っている!」

 口裂け女は、鋭く大きな鋏で陰陽師の顔に切りかかった。

「ああ、だからさ。だから、僕は、君を退治しにきた」

「は?」

 陰陽師は、寸でのところで鋏を躱した。

「美濃君、独りでいては、良くも悪くも何も起こらない。人と出会わなければ、物語は生まれないんだ。これも、僕なんかより君が一番よくわかっていることだろう。現に、この世界にいなかった国上君が来てから、君の物語は進みだしたんだ」

 それは、向こうの世界でも一緒だったんじゃないのか、と陰陽師は云った。

「君は、強い子だ。一人だって生きていける程。だからこそ、その子と、国上君と生きろ。美濃君と国上君、二人で生きていくんだ!」

 ――そう、そうだ。私は……。

 ――ずっと誰かに認められたかった。

 ――ずっと誰かに言ってもらいたかった。

 ――生きていてもいいということを。

 私は、涙が止まらなくなった。

 まるで生まれたての赤ちゃんのように、わあわあ声を出して泣いた。

 大量の涙が頬を伝って、ミケランジェロのピエタ像のように抱きかかえる陽依ちゃんの顔にぽたぽたと落ちる。

 雨のように。

 温かい雨粒が降り注ぐ。

「いい加減うるさいね!ちょっと寝ててもらおうか」

 口裂け女は、もの凄い速さでこちらに向かってきた。

 手には、大きな鋏を持って。

「ちっ、止せ!」

 その青白く光る刃物が目の前まで迫った。

 私は、恐怖と反射で目をつむった。

 しかし、痛みは襲ってこなかった。

 そして、恐る恐る目を開けると、そこには――。

「ふぅ~、危ない危ない。念のため狸ちゃんの毛を一本貰っておいてよかったよ。私もやられっぱなしとはいかないぜ」

 陽依ちゃんが口裂け女の攻撃を防いでいる光景が、目の前いっぱいに広がっていた。

「……それで、美濃ちゃん。まだ直接聞いてないよ」

 助けてって、と陽依ちゃんは、こちらに顔を向けて笑顔で云った。

 太陽の光が私の顔に射した。

 彼女の顔が可愛くて格好よくて堪らなかった。

「……うん……今までごめんね……陽依ちゃん……」

 私は、その顔を見て、声を聞いて安心したのか、もう涙は止まっていた。

「いいよ、優しい陽依ちゃんが許してあげる。あ、雨奈……ちゃん。それより……」

「うん。陽依ちゃん、ありがとう」

……た、助けてっ、と私は、陽依ちゃんの顔を、目を見てはっきりと、そう口に出して云った。

 その台詞の内容とは裏腹に、声の調子は、底抜けに明るかった。

「任された!」

 陽依ちゃんは、狸ちゃんの毛ソードで口裂け女の鋏を弾くと、その腹を思いっ切り蹴飛ばした。

「おお!剣道部の友達にちょっと教わってたのが活きたぜ」

 流石陽依ちゃん、運動神経も抜群で、友達も多い。

「ちっ!おまけの小娘が」

 口裂け女はそう云いながら、また攻撃をしかけようとしてきた。

 ――しかし、様子が変だった。

「やっと僕の術が効いてきたみたいだね……」

 いつの間にか陰陽師は、口裂け女のすぐ背後に立っていた。

 その姿は、ぼろぼろで、ふらついていた。

「き、貴様あああ!!」

 口裂け女の叫び声が響いたが、すぐに別の音にかき消された。

「ここは、終点、※※~、※※~」

 車内に目的地の到着を告げるアナウンスが響いた。

「今なんて言った!?てか、何かやばそうじゃん!」

 陽依ちゃんは、電車の窓の外を見ながら云った。

 そこは真っ暗闇で、ただ反射する自分達の姿が映っているだけだった。

 しかし、目を凝らしてよく見てみると――。

 そこには、何もない真っ暗な闇の――砂漠が広がっていた。

 その地平線は、当然見えない。

 否、ないのだ。

 ただひたすらに、無限に広がる大地。

 もちろん、大地と言っても、木や草、花……生命の気配は微塵も感じられない。

 異界――そう表現するしか言葉が見つからなかった。

「くははは、もう手遅れだぞ、貴様ら……」

 どうやら身動きできないであろう口裂け女は、笑いながらそう云った。

 私は、その姿を見て、気高く美しいと思った。

「ど、どうすればいいんですか!?古本屋さん」

 陽依ちゃんは、事態が逼迫しているのを察して云った。

「……」

 陰陽師は、顎に手を当てながら考えこんで黙っている。

「さあ、雨奈ちゃん。あなたが臨んだ世界よ。最後の願いごとがようやっと叶うわ」

 口裂け女はそう云って、高笑いした。

 電車のスピードが徐々に緩まっていく。

 停車駅は、もうすぐそこなのだ。

「どうしようどうしよう!……古本屋さん!」

 陽依ちゃんは、頭を抱えながら走り回っている。

「国上君、ちょっと黙っててくれ」

 陰陽師はそう云いながら、懐から取り出したもので何かを準備しているようだった。

 その間も高笑いを続けていた口裂け女だったが、急に静かになり黙った。

 ――そこで、目の前が真っ白になった。

「雨奈ちゃん、雨奈ちゃん、ようやっと声が届いた……」

 それは、懐かしく、聞き覚えのある声だった。

「こんなに大きくなって、お母さん嬉しいわ。でも、できることなら、その成長をこの目でちゃんと見たかった……。この先の成長も……」

 お、お母さん……?

 そうだ。今度こそ、きっとそうだ。

 朧げな過去に聞いた声。

 懐かしく、優しい声。

 大好きだった声。

 お、お母さん!お母さん!

 そう必死に叫んだつもりだったが、声は出なかった。

「ごめんね、雨奈ちゃん。勝手にいなくなって。あなただけが、私の最後の心残りだった……。でも、私、もう我慢できなかったの……ごめんね、ごめんね……」

 謝らないでお母さん!私も気づいてあげられなくてごめんね!

 精一杯叫んでいるのに声が出ない。喉が張り裂けそうな程叫んでいるのに。

 話したいことがたくさんあるのに。

「素敵な友達ができたようで嬉しいわ。そう、だから……」

「まだ、あなたは、ここに来ちゃ駄目なの。これは、勝手なお願いかもしれないけど……」

 私の分まで生きて……。

 その子と一緒に……。

 私、これからは、ずっとあなたと一緒よ。

 愛しているわ、雨奈。

「お母さん!!」

 やっと声が出た、と思ったら――。

 目を開けると、そこには、真っ白い病院の天井が見えた。

 私も愛しています、お母さん。

 これからは、ずっとずっと一緒だよ。

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