『運のいい男』
一
私が目を覚ましたのは、仄暗い空間でした。
そこはかなり広くて、たくさんのワイン色の赤い椅子が階段状に並んでいました。それは間違いなく、映画館の中でした。
そのときは、自分がなぜこんなところにいるのか、見当もつきませんでした。だってそうでしょう? 映画館にいるということは、用はひとつ。映画を観ることです。でも私は映画を観るときは、必ず下調べをして、予告をみて、監督を調べて……。とにかくいろんなことを加味して、やっとチケットを予約するのですから。それを覚えていないなんて、おかしいと思いました。
「やあ、ようやくお目覚めだね」
そんな大きな部屋の中央。スクリーンの真正面に位置する私の席の隣。そこに少年が座っていました。
ブロンドの髪と、新品のキャンバスのように白い肌。そして、どこか楽しげにこちらを眺める瞳は、淡い緑をしています。一見して、少女のようにもみえました。
「きみ、起きるの遅すぎ。待ちくたびれちゃった」
あなたは、このとき私が抱いた奇妙な感覚がわかるでしょうか。
映画館のシアターで、客はおろかスタッフもおらず、隣には得体のしれぬ美少年。それも父と息子ほど年の離れた、です。これが奇妙でなくてなんなのでしょうか。
「いま何時ですか?」
私はその少年に、そう尋ねました。いま思えば、変な質問かもしれませんね。
きっとそのときの私は、いろいろなことを考えすぎていました。だから、それらにまるまる蓋をしたんだと思います。フレンチのコースを楽しむのに似ています。後になにが出てくるか考えるよりも、目の前の皿に集中したい。一口ずつ味わいたい。そういうときって、ありませんか?
「なぜそんなことを知りたいんだい?」
彼はそう答えました。
「さあ……。では、ここはどこでしょう?」
「ここは映画館だよ。4番スクリーン。君の席はE-5。やっぱ映画観るなら、ど真ん中にかぎるよねえ」
「そういうことではなくて」
「ま、そんなことどうでもいいじゃん。リラックスしなよ。君、もう死んでるんだから」
私は「はい?」と返しました。聞きまちがえかと思ったからです。
すると隣の少年は突然、けたけたと笑い始めました。
「あははは! やっぱり、突然そんなこと言われても、って感じ? みんなおんなじ反応するんだよなあ。このあいだの大学生なんかボクの胸ぐらつかんで、『おい、クソガキ。舐めてんのか?』だもん。笑っちゃうよ」
「いえ、特に面白くは……」
そう返すと、彼は突然「ああそう」と言って、ぴたりと笑うのを止めました。
「でもきみはもう死んでるんだよ。残念だけど」
私はその少年の若葉のような緑色の瞳から、目をそらしてしまいました。それはあまりにも曇りなく、私のことを見つめていたのです。彼のその瞳をみつめ続けていたら、気が変になっていたでしょう。
そこで私は、正面に視線を移しました。そこには何も流れていない、真っ黒なスクリーンがありました。それはまるで、私のそのときのあいまいな記憶を投影しているようでもあります。
「あのスクリーン、気になるでしょ? 自分は今からなんの映画を観せられるんだろう、って。きみはなにが観たい?」
私は少し考えてから、選べるなら恋愛ものを、と答えました。
「おっと、これは意外。てっきり、もっと大人向けな感じかと思ったけど。フィルム・ノワールとかそういうの。まあ観られないんだけどね」
少年はそう言って、肩をすくめました。
「今から観るのは、きみの人生だよ。きみがきみなりに、精一杯生きた人生。そのハイライト。ほら、始まるよ」
館内の照明がゆっくりと暗くなって、少年が正面を向きました。
私もそちらに目をやります。すると白い背景に黒い文字が浮かび上がっていました。
『運のいい男』
上映がはじまりました。
二
その映画に、セリフや効果音などはありませんでした。かわりに、クラシックに似た音楽がかかっています。
画面は白黒で、まるで昔の映画のようでした。その画面に、一人の赤ん坊が映し出されます。それは私でした。それがわかったのは、両親が映っていたからです。私の記憶にあるよりも、若い見た目をしていました。二人は笑顔で、こちらを向いています。そして母の腕の中には、赤ん坊がいました。自分のそんな姿をみることは、とても不思議な気分です。三人はとても幸せそうに見えました。
「おもかげあるね」
隣から少年のささやき声が聞こえてきました。
そのあと場面がとんで、画面には三歳の私が登場しました。三歳の私は、短い足でかつての我が家の居間を駆け抜け、椅子の上によじ登り、机に用意されていたケーキにささった三本の蝋燭を吹き消しました。
続いて現れた五歳の私は、クレヨンを手に、夢中でそれを塗りたくっているところでした。
画面にはそんなふうに、私の成長が映し出されていきました。
小学校の入学式、引っ越し、入り浸っていた中学校の図書室、初恋の相手との放課後、仲の良かった友人との別れ。そんなものが、とくに気の利いた演出もなく、淡々と流れていきました。
と、ここで私が内心、焦っていたことを告白しなければなりません。
だってそうでしょう? 誰だってみられたくない過去はあります。私だけでそんなものを観るのはまだ許せるにしても、隣にはさきほど出会ったばかりの少年がいます。それにその映像についても断片的で、編集されているような印象を受けました。つまり誰かの手が加えられているということです。そんなものは、プライベートの侵害です。
だから私は、上映の中断を少年に求めました。
「だめだよ。これはそういうことができるもんじゃない。ボクたち天使の仕事なんだ」
「天使?」
「あれ、言ってなかったっけ。まあ、死後の世界には天使がいるって、相場は決まってるじゃん?」
少年はスクリーンに目を向けたまま、そう言いました。
「ボクたちは死者と一緒に、その人の人生を振り返って、星をつけて評価するんだ。ま、今のところきみの人生は平々凡々。星3ってところじゃない? ボクあれ嫌いなんだけどね。だっておかしいよ。5つの星で評価するのに、0.5とかがあるんだよ。それじゃあ10段階評価じゃん。あ、ポップコーン食べる?」
いつの間にか、少年と私の席のあいだの肘掛けに、大きなポップコーンの箱が置かれていました。さきほどまでは、そんなものなかったはずなのに。
「ばかばかしい。何かの実験ですか、これは」
私は立ち上がりました。そしてそのまま、出口のある通路の前に行き、ドアの取っ手を握りました。
「おかえりー」
すぐ耳元で少年の声がしました。
彼は隣に座り、その黄金色の前髪を指でいじっています。
「なっ」
驚いたことに、私はまたスクリーン中央の席に腰掛けているのです。てのひらにはまだ、金属を触ったとき特有の、冷たい感触が残っています。
「だからいったじゃないか。ボクたちはここで、君のくそみたいにつまんない人生の総集編をみるんだ、って。それはボクたち天使の仕事でもあるけど、君の最後の務めでもあるんだ。もっ、んっ、らからほのすとめをはたさはいと、ほこにもひけないよ」
少年はポップコーンを口に頬張ったまま、そう言いました。
それから私は、何度もその部屋を出ようと試みました。走ってみたり、扉に体当たりしてみたり、別の出入り口を探してみたり。しかし結果は同じでした。
「おとなしく観てなよ。せっかく面白くなってきたのに」
私の心が折れかけたころ、少年が諭すように言いました。彼の言葉でふと画面を観た私は、愕然としました。そこに映っていたのは、倒れた女性と、放心状態の私……手を血に染めた私の姿だったからです。
三
もうおわかりかもしれませんが、私がさきほどプライベートという言葉をつかったのは、こういう理由からです。ひとつだけ断っておくと、私にはこの現場の記憶はありませんでした。とはいえ、私が許されるとは夢にも思いません。
スクリーンはその後、ゆっくりと立ち上がる私を映していました。
色がない白黒映像のせいでしょうか。私の瞳は、濁っていて虚ろでした。
その私は一本の太い縄を持ってきて、天井の梁にくくりつけました。その真下に椅子を置き、登って、その縄の結び目に頭を通し、椅子を倒しました。部屋の照明によって誇張された私の影が、壁に大きな弧を描いて揺れていました。
「なるほど」
少年が短く言います。
「最後の最後で、面白くなったね」
私はなにも答えられませんでした。全身が震え、暑くもないのに汗が止まりません。それでも少年に向けてなにか言おうと、懸命に次の言葉を探しました。
「そうか……私はついに過ちを犯してしまったわけですね」
私はなんとか、少年にそう告げました。
「過ち?」
「ええ……私は、自分のこの衝動を自覚していました。それもずっと以前から。正確にはいつからかわかりませんが、とにかく私は人体というものはなんと不思議なのだろう、という思いを抱きはじめたのです。体にはたくさんの血液や臓器が詰まっていて、針で刺せばたちまち弾けてしまう水風船のように思えてなりませんでした」
こんな話をするのは初めてのことです。家族にも友人にも、話したことはありません。私はこの暗い気持ちをずっと抱えながら生きていくのだ、と絶望したこともあります。
「どうしてもそういう衝動が抑えられなかったときは、スプラッター映画などを観て、誤魔化しました。他の人間がどうだかは知りませんが、私にとっては、作り物でもそれなりに価値がありました。演技とわかっていても、登場人物たちの恐怖に歪んだ表情を見ると、心のうずきが楽になりました」
「異常だね」
「……そうですね」
少年の瞳は瞬きもせずに、私のことをとらえていました。
その視線が、私の中にある罪の意識を肥大化させていったことは、言うまでもありません。彼の言葉には、糾弾のようなものも同情の色も、なにも感じられませんでした。あるいはそれは私の思い込みだったのでしょうか。
しかし私の中に芽生えた怒りについては、誰もが共感してくれるものと思います。
「確かに私は異常かもしれない。しかしなぜそんなことを、わざわざこうして目の前で言われなければならないのです? 私は長年いだいてきた妄想を現実のものにしてしまった。つまり、とうとう人を手にかけてしまったのです。それでも許されないことをしたのだ、という自覚をもっている。罪の意識をもっているのです! わざわざこんな回りくどいことをしなくても! その証拠に、観たでしょう。私が首を吊ったのを。それだけの葛藤があったからです。世の中には人を殺しても、反省の色など一切みせず、のうのうと生きている者たちもいます。それに比べれば私はいくらかマシな存在でしょう。それにこの映像のタイトル『運のいい男』とは、どういう皮肉でしょうか?」
次第に、体の芯の部分が熱を帯びてくるのを感じました。
しかしそんな私とは対照的に、少年の様子に変化はありません。
「皮肉じゃないよ。『あのお方』はそんなことはしない。『あのお方』のつけるタイトルにはいつだって意味があるんだ。それはこれからわかるよ」
少年の口調はとても穏やかなものでした。
ただその『あのお方』という単語には、彼の口からは珍しく、ある種の厳粛さが垣間見えました。
「ほら」
私は言われて、再びスクリーンに視線を戻しました。
四
画面に現れた女性には、見覚えがありました。それもそのはずです。忘れるわけがありません。その女性は、私が殺した人物でした。その顔を見ると、私の手のひらに彼女の皮膚を貫いたときの感触が戻ってくるようでした。
「ここからは『あのお方』が創造した、架空の未来だ。もし君が女を殺さなかったらどうなっていたのか、っていうね。『あのお方』はそういう力があるんだよ。さっき、ちょっとした暗転があっただろう? 実はあれが『あのお方』の演出の特徴で――」
ええと。
そのあと少年が何を言っていたかは、正確には覚えていません。なぜなら私はもうそのとき、スクリーンに惹き込まれていたからです。
彼女は鼻の高さが特徴的な、美しい人でした。髪は長く、艶がある黒で、垢抜けた雰囲気があります。つばの大きい麦わら帽から差し込むこまかい陽光が、彼女の横顔に光の粒を落としていました。
場所は私の知らない、公園のようなところです。
彼女はバスケットとともに、芝生の上に腰を下ろしていました。
休日のためでしょうか。周りにはたくさんの人がいて、子供が走り回っていました。そのうちのひとりの可愛らしい男の子が、彼女の前に立ちました。何事か、大きな口を開けて話しかけます。彼女が少し笑うと、白い整った歯がのぞきました。
男の子は彼女から、バスケットを受け取りました。彼は嬉しそうに飛び跳ね、家族のもとへ駆けていきます。それをみて彼女は立ち上がり、男の子と反対方向に歩き始めました。
次の瞬間。彼女の背後で、爆発が起こりました。
彼女は麦わら帽を手で抑え、衝撃をやり過ごしました。
その後、一度も振り返ることなく、混乱する人々を避け、その場を去っていきました。顔にはとても柔らかな表情を浮かべて。
ひゅう、と隣の少年が口笛を鳴らす音が聞こえました。
カメラは彼女がいなくなった後も、その空間を撮りつづけていました。舞い上がる噴煙、転がった片方だけの誰かの靴、爆風に巻き込まれて倒れたままの老人。そういうものを。
「これは――」
私は二の句がつげませんでした。
「テロだね」
少年の声が言いました。その声にはどこか嬉々とした響きがありました。待っていたものがようやく目の前に現れた、そんなふうな響きが。
映像が切り替わりました。次は街中を走るバスの車内でした。車窓の外には、ビルや駅といった風景が流れていきます。
彼女は最後方の席に座っていました。今度は麦わら帽の代わりに、黒いシルクのスカーフを頭に巻いていました。腕にはあのバスケットを提げて。
「君が殺した女は、とんでもない人間だったんだね」
少年が心底、愉快そうに言いました。
その数分後、バスは吹き飛びました。
その後もいくつかそのような映像が続きます。美術館、研究所、スーパーマーケット。そういったところが次々に黒い煙に飲まれ、人々は我先にと逃げていきます。
彼女には見境も分別も、慈悲もありませんでした。
なんの主張も、なんの志もなく、ただただそうして殺戮を繰り返していくのみでした。
ただ一つ共通しているのは、バスケットと、それが炸裂した後の柔らかな表情です。まるで無人の図書館で読書でもしているかのような。
やがて、スクリーンが暗転し、映像が終わりました。スタッフロールはなし。いえ、正確に言えば『あのお方』という名前だけが、流れてきたのみです。なぜ私と彼女の名前がないのかは疑問でした。もしかしたら、『あのお方』にとってそれは、あまり重要ではないのかもしれません。
「いやあ、傑作だった!」
少年は私の感想など待つことなく、そう言いました。
「あの女の顔みた? あれは罪悪感なんか一欠片も持っちゃいない。巻き込まれる人数が多ければ多いほどいい。って顔だよ。子供だろうが老人だろうが、女だろうが男だろうが、ボン! きみとは大違い! でもこれで、なんで君の人生のタイトルが『運のいい男』なのかわかっただろう?」
彼のそんな興奮が、伝わってきたせいでしょうか?
さっきまで私の中にあった怒りは、とうに鳴りを潜めていました。
五
そのときの私の心情は複雑でした。混沌、と言ってもいいかもしれない。
胸のうちには、いままで考えたことがないような物事が押し寄せた。それらは次の、他の物事に押し出されるように、消え失せていきました。まるでベルトコンベアーです。
そして最後に残ったもの。それは意外にも、感謝でした。
『運のいい男』。
私は『あのお方』と呼ばれる超越的な何者かに、そう呼ばせるだけの存在だったわけです。
「わかりました。受け入れましょう。これは自分の運命なのだ、と。私は確かに、殺人衝動を持ち合わせていましたが、彼女と出会うことができた。自分よりも巨大ななにかに。宇宙全体でみれば、私など塵のような存在であるのと同じように。その巨大を肌で感じています。私が何をしようが、どんなことを考えようが、宇宙は揺るぎない。私はいまとても満ち足りた気分です」
「え? ああ、うん……そう。なんか、ちょっと違う気がするんだけど。これは君があの女を殺したことで、結局人がたくさん救われましたよ。運がよかったね。っていうオチであって……。いや、よそう。作品の解釈はひとそれぞれだしね」
少年は口ごもりながら、結局ひとりで納得してしまったようでした。
「きみはもう部屋から出られるはずだよ。ご苦労さん。じゃあね」
彼はそう言うと、紙を取り出して、なにやら熱心に書きつけていました。天使の世界にも、報告書のようなものがあるのかもしれません。
「さようなら」
私は席から立ち上がりました。
そのほかにも少々言いたいことはありましたが、彼はもう取りあってくれない気がしました。
それにもう、疑念はささやかなものになっていました。あんな映像をみせられただけで、私の心は驚くほど晴れてしまった。それだけは疑いようはありません。
部屋を出ると、そこは細い通路になっていて、進んでいくと、小さなホールに出ました。
そのホールでは、なにやら蝶の大群が、騒々しく飛び交っていました。それは異様な光景には違いありません。
しかしこのときの私にとってそれは、祝福のように感じとれたのです。色とりどりの花吹雪のように。新しい世界の扉。蝶たちはそれを彩るシンボルにも思えました。
その中の白色の一羽がこちらに向かって近づき、話しかけてきました。
「ご鑑賞、おつかれさま」
私は驚いて言いました。
「奇妙な天使の次は、しゃべる蝶ですか」
「あら、ここで天使と言えばワタシたちのことよ。あなたもしかして……」
蝶は私の指のさきにとまると、言いました。
「『あのお方』に会ったのね! すごい! ワタシたちの中でも、ほんの一握りの者しかお目にかかったことないんだから! あなた、『運がいい』わね!」
了
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