悩むあなたの背中を、少しだけ押す短編集

乙川アヤト

孤狼

 その老狼が聞いたのは、たしかに遠吠えだった。


 彼はこの満ちた月が浮かぶ夜空に、同類の声を聞いたのだ。あるいはそれは、ただのこだまだったかもしれない。やがてその声は、この深い森の木々の中に染み込んで消えていった。


 かつて彼はこの深い森において、孤高の存在として君臨していた。


 豊富な知識、強靭な自我。彼を取り巻く世界はそんな彼を前に、敬い、媚び、あるいは畏怖するのだった。


 唯一無二の存在。しかし彼の中には、何かがくすぶっているような気がした。


 周りにいる小動物たちが満たしてくれるのは、せいぜい小腹だけだ。


 今の自分にはない、何かもっと原初の感覚。長いあいだ、忘れていた。本能と言ってもいいような、胸のうちのわだかまり。


 その遠吠えを聞いたときに、それが疼くのを彼は感じた。


 ゆっくりと起き上がって、体を震わせる。巨躯に絡みついた塵が、宙に舞った。


 行かなくては。彼の本能が、たしかにそう告げていた。しかし踏み出そうとした肢に、わずかに躊躇いが絡みつく。


 ――辿り着けるだろうか。


 もうこの躰は老い、瞳は陰り、長い距離を歩くことは難しい。そして喉はとうに枯れてしまった。


 しかし。と彼は思う。


 もし仮に、あの声が幻だったとしても、行かなくてはならないのだ。この森を抜けて。自分という存在の事を、真に理解してくれる者のところまで。


 彼は一歩踏み出し、夜空の満月に高く吠えた。

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