八章 ささやかな復讐

「葵は、中学時代の俺の友人でした」

 十一月二十三日の祝日。蓮と明日香、梓の姿がスカイガーデン内のレストランにあった。彼らの席にはもう一人、来栖も加わっている。

 梓の言葉に来栖は驚きの声を漏らした。

「お友達だったのに、なぜ……?」

 葵が逮捕されたというニュースは日本中を一挙に駆け巡った。彼が剥がし屋に関わっているという報道は、すぐに剥がし屋=峰川葵という図式に変わり、ネット上では一斉に矛先が葵へと向けられることになった。彼に批判が殺到した理由はもうひとつあった。

「峰川さんは取り調べ中に警察官を暴行したらしいんです」

「もう完全に悪者になってるからね、そのせいで」

 明日香が、自業自得だ、というように反応すると、梓は密かに悲しそうな目をした。

「でも、なぜ彼がそんな暴挙に出たのかは分かっていないらしくて……」

「刑事さんに話を聞いたんですか?」

 明日香が尋ねると、来栖は苦笑いした。

「善養寺さんが警察署に乗り込んで行って、自分の知っていることを全て話したんだそうです。峰川さんの事情聴取をしていた部屋に押しかけたので、ちょっとした騒ぎになったと言っていました」

「厄介なことに巻き込まれないようにと思ってやってそう」

 来栖は思わす目を逸らした。図星だったようだ。梓は首を傾げる。

「でも、なんで葵は暴力を振るったりしたんだ?」

「追い詰められてどうしようもなくなったのかも」

 蓮がそう言うと、明日香は、

「考え方が優しすぎない?」

 と皮肉った。梓は首を振った。

「結局、ネットの連中は自分が正義だと思ってるだけで、自分の意志なんか持ってないんだよ。誰かの尻馬に乗って、全部を誰かのせいにしてる。腐った奴らなんだよ」

 それが分かっていたからこそ、梓はそういう人々を煽動しようと考えたのかもしれない。

「私もね」来栖が紅茶の入ったカップを傾ける。「過去にそういう目に遭ったことあります」

「来栖さんが? どうしてですか?」

 意外そうに目を瞠る明日香に、来栖は微笑み返した。

「私も善印賞の選考を受けたことがあって、結構ボロクソに言われたんです。それだけなら、まだ堪えられた。でも、問題はその選考の様子がネットに公開されてからの色んな人の反応でした。選考員の人たちの言葉を借りた人たちが、ネットもリアルも関係なく、私を一斉に攻撃し始めたんです。それが耐えられなかった。私は、何も悪いことをしていないのに……どうして? と思いました。それが原因で、一時は創作活動から離れたこともあったんです。誰もが、自分の声が小さいと思っているんだと思います。それが寄り集まった時の、あの恐ろしいほどの圧力を彼らは知らない」

 その話を受けて、梓は中学時代の話をし始めたのだった。話を聞き終えた時、来栖は静かに涙を流していた。予想外の反応に、三人が戸惑っていると、来栖は「ごめんなさい」と涙を拭った。

「これは、磯貝さんにはお伝えすべきことだと思うので、お話します」

 来栖が真っ直ぐに梓を見つめる。

「琴平フィルさんの本名は、堀北彩音さんなんです」

 明日香が息を飲んで、口元を押さえた。蓮は口を開け放して、今聞いたことを反芻している。梓は表情がすっかり弛緩して、放心状態だった。

「堀北さんが善印賞を受賞した『動き出した彼は私のために血に染まった』について、あの設定を考えるきっかけは何だったのか聞いたことがあるんです」

 存在しないはずのキャラクターが現実世界で犯行を繰り返すというのが、作品のコンセプトだ。

「彼女は言ったんです。中学生の頃に好きだった男の子がいて、ある時から冷たくされるようになったと。その理由は分からなかったけれど、彼との妄想をツイートし続けたんだそうです。そうすることで、自分の感情を軟着陸させたかったんだ、と」

 梓の声が震える。

「……妄想?」

「そう。彼女がツイートしていたその男の子のことは、全て彼女の頭の中でだけ起こったことなんです。それが、『動き出した彼は私のために血に染まった』の着想の元になったんだと彼女は言っていました」

 梓の目から涙が零れ落ちた。身体が震えて、テーブルのそばに膝を突くと、胃の中のものを吐き出した。店員が飛んでくる。店内がざわめく。店員が床を片付けるそばを、梓はフラフラと歩き出して、レストランの外に出て行く。蓮は後を追った。前を行く梓の腕を蓮が掴んでも、それを振りほどいて歩みを止めない。

 ひと気のない場所までやってきて、梓はその場に崩れ落ちた。

「梓、大丈夫か……」

 梓の顔からは血の気が失せていた。

「全部……俺のせいじゃん」

 梓は小さく言った。

「いや、梓、そんなことは……」

 梓がギリッと蓮を睨みつける。

「彩音は死んだんだぞ」

 彩音のツイートを見て、葵のデマを広げた。その葵が剥がし屋である梓に、琴平フィルの情報を渡した。梓の中で、全てが繋がってしまったのだ。梓は頭を抱えるようにして嗚咽した。その様は、まるで誰かに許しを乞うているようだった。

 会計を済ませ、店員にお詫びを伝えた明日香と来栖は、梓たちを追ってレストランを出た。心配そうに顔を見合わせる。

「あんなこと、伝えなければよかったのかもしれません……」

 いまさら後悔してももう遅い。来栖は顔面蒼白だった。

「いや、でも、梓は知るべきだったと思いますよ」

 周囲に視線を散らばせながら、二人は通路を歩いていく。

「でも、理解ができないです」

 明日香は梓たちを探す目を動かしたまま、割り切れない思いを口にした。

「何がですか?」

「だって、峰川はどうして堀北さんを陥れるようなことをしたんでしょうか? 彼には梓に対する恨みはあっても、堀北さんにはそういう思いはないはずでしょう?」

「峰川さんは、磯貝さんを陥れようという動機があった、ということですか」

「峰川にとって、梓は自分のデマを広げた人物です。彼が何かのきっかけでそのことを知ったのだとしたら、十分動機にはなりますよね」

 来栖は考えを巡らせていた。

「峰川さんは琴平さんの正体を知らなかったのかも……」

 明日香は思わず振り返った。

「そんなことあり得ます?」

「事情聴取の席で琴平さんの正体を知ったから、彼はそれを認めたくなくて暴力を振るってしまったのかもしれません」

「そんなことってあります……?」

「峰川さんにとっては、磯貝さんを陥れるための手段として炎上しそうな人を選んだだけなのかもしれません」

「偶然ってことですか?」

「そう考えれば、辻褄は会います」

「……ウソでしょ」

 信じられない思いで通路の角を曲がった明日香の視線の先に、梓と蓮の姿が現れる。

「梓!」

 明日香が駆け出す。梓は人目も憚らず、床にへたり込んで、鼻水を垂らして泣いていた。


 十一月二十四日。

 劇的なことが起ころうと、日常というものは否応なしにやって来る。蓮は学校での授業を終え、自宅に帰ってきた。学校にいる間、気もそぞろだった。

 昨日、梓の両親が迎えに来て、彼を連れ帰った。初めはひどく憔悴していたらしいが、夜には落ち着きを取り戻し始めたという。

『今のところ、梓は名誉棄損で訴えられてないから、それがせめてもの救いかな』

 明日香はラインでそうメッセージを送ってきた。URLも送られてきた。リンク先は、名誉棄損の罰則や訴訟問題をまとめたウェブサイトだ。


三年以下の懲役または五十万円以下の罰金。


場合によっては、数百万円の示談金が発生することもある。


『確かに、今こんなもの食らったら、梓はタダじゃ済まないな』

 制服から部屋着に着替え、机に向かう。週末の推薦入試に向けて、小論文の練習をしようとしていたが、小一時間もすれば集中は途切れてしまう。椅子に背中を預けて、溜息をつく。昨日は人の生き死にや人生を考えて、世間を揺るがす事件に関与したというのに、今では小論文の練習をしているというのが、蓮には両立しえないほどの違和感だった。

 ペンをノートの上に投げ出す。

 スマホを取り出して、ツイッターを眺める。葵への凄まじいまでのバッシングが展開されていた。彼らの批判の矛先は歪な形のボールを床に落としたようにコロコロと飛ぶ先を変える。

 蓮はスマホもノートの上に投げ出した。

 気分転換がしたかったはずなのに、雑念ばかりが頭の中に渦巻いてしまう。蓮は机のブックエンドに立てかけてある地図帳に手を伸ばした。ふと、正気が言っていた街の名前を探そうと思い立ったのだ。

 あすとぴあは山口県宇部市の南部に位置していた。本当にあるんだという謎の感動を胸に、近くの道路を指でなぞって南に下ると、JR宇部線にぶつかる。今度はその宇部線を東の方へなぞっていく。こうやって地図の上を飛び回るのが、蓮は好きだった。新山口で山陽本線に切り替えて、ひたすらに東に向かうと、下松駅に辿り着く。ここは来栖の出身地だ。その駅を過ぎたあたりで目に飛び込んできた街の名前に、蓮は言葉を失った。

 蓮は慌ててスマホを手に取り、善印賞のウェブサイトに向かった。過去の選考状況がまとめられたページの中から、四年前のものを表示する。一次選考通過作品とその作者名がリストになっている。蓮はページ内を検索した。その名前がヒットする。


『アンロック』(堀北彩音)


 その瞬間に、全てが繋がったのだ。


 丸二日を入試の準備に全て注ぎ込んだ蓮は、試験を終えた次の日には、心を休めることなく、スカイガーデンの商業施設最上階、スカイテラスにやって来ていた。スカイテラスは、スカイガーデンの内部に作られた開放的な空間で、いくつかの飲食店などが周囲に並ぶフードコートのようになっている。その一角、背の低い木に囲まれた大きなテーブルのあるエリアに蓮たちの姿がある。

「無理を言って集まっていただいてすみません」

 蓮が頭を下げる。この場には、明日香と来栖、沢木、そして、星とニコラス刑事が顔を揃えていた。梓はあれ以来体調を崩し気味で、彼の心身を考慮して、この場には呼ばれていない。

「一体何が始まるんだ?」

 星はミステリの解決編の冒頭にはお馴染みのセリフを吐き出した。

「もうちょっと待って下さい」

 蓮はスマホに目を落とす。午後二時を過ぎている。もう約束の時間だ。すぐに、向こうの方から正気が堂々たる歩みでゆっくりとやって来る。隣には、ペストマスクを被った異様な人物が大きめのコンビニ袋をぶら下げている。

「待たせたな」

 正気の言葉には誰も反応しなかった。しれっと正気とともに席につくペストマスクに、明日香は思わず声を上げた。彼女の瞼の裏にトラウマが蘇る。

「いや、誰?!」

 ペストマスクは軽いノリで口を閉じたまま頭を下げた。ポリ袋がガサガサと代わりに喋る。

「じゃあ、全員揃ったところで、始めましょうか」

 蓮がそう言うと、一同は不信感を募らせた視線をペストマスクに向けながらも、事の成り行きを見守ることにした。

「まず、謝らなければいけないことがありまして……」

 蓮は星たちを見つめた。

「なんだ? 万引きでもしたか?」

「いや、そういうわけじゃなくて。先日、僕は星さんに不正アクセスの犯人の情報を伝えましたよね」

「あったな」

「アレは間違いでした」

「それはよかっ──えっ?」

「僕は早とちりしていたんです。峰川はただ単に梓を監視していて防犯カメラに映ったに過ぎなかったんです」

 ニコラス刑事は首を捻る。

「だから、彼が犯人なのでは? そういう話でしたよね?」

「それは、告発者=不正アクセス犯という図式が前提の考えで、それが間違いだったんです。不正アクセス犯が梓に情報を流したことは事実ですが、他の梓へのタレコミも全て不正アクセス犯によるものだというわけではなかったんです。峰川が梓の家の住所を晒したのは、暴徒が押し掛けるように仕向けて家を空っぽにすることが目的だと考えていたんですが、本当は単純に社会的制裁を与えるためにやったことだったはずなんです」

「いや、でもなあ、もう逮捕しちゃったしな……」

 星の顔色がみるみる失われていく。また署内でバカにされる未来を思い浮かべているのだろうか。

「それに関しては、すみません」

 蓮が深々と頭を下げると、星は即答した。

「ホントだよ……」

「人の意見を採用しといて、よく確かめなかったくせに!」

 明日香が一喝すると、星もニコラス刑事もしゅんとしてしまう。

「そもそも、峰川は不正アクセスをするための情報を得ることができなかった。だから、彼は容疑を否認しているんだと思います」

 星は頭を抱えた。

「また霜田警察は無能だと言われる……」

「いいじゃないですか」明日香はあっけらかんと言う。「どうせ無能なのは変わらないし」

「そうだな……って、おい!」

 イチャつく明日香と星を尻目に沢木が口を開いた。

「ちょっと待って下さい。じゃあ、誰がウチの会社に?」

「太鼓判編集部第一グループに所属する人か善印賞の選考員の中にいると思います。つまり、善印賞の選考状況を知っていて、あのウェブサイト更新用のパソコンにアクセスできた人ということになります」

「いや、でも、それは……」

 沢木が反論しようとする前に、蓮は先を続ける。

「それを考えるより前に、ひとつの疑問について考えなければなりません」

「疑問?」

 明日香が蓮の顔を覗き込む。

「中学時代、堀北さんはなぜ梓たちと疎遠になってしまったのか?」

 一同は面食らってしまった。来栖が苦笑する。

「ええと……そのことと今回のことと、何の関係が?」

「堀北さんは四年前、善印賞に本名で応募していました」蓮はそのまま話を続けてしまう。「皆さんもご存じの通り、善印賞は選考過程がネットに公開され、それがなかなかに辛辣だった。来栖さんが選考員として参加するまで、ストッパーとなるような人がいなかったそうですね」

 蓮に水を向けられて、沢木は思わず目を逸らしてしまう。どこかでやましい思いを抱えていたのかもしれない。

「四年前といえば、来栖さんが選考員として参加する前の年です。堀北さんも、例によってボロカスに批判されたんでしょう。それが理由で、堀北さんは学校の女子から疎まれ始めたんです」

「なんで女子だけ?」

 明日香が疑問を投げかける。

「梓は言っていた。『男子は女子と違って文学なんかとは無縁だった』って。つまり、女子にとっては、善印賞での堀北さんに対するボロカスな選考員の言葉は、そのまま堀北さんを攻撃する言葉だった。女子に陰口を言われるようになって、峰川は堀北さんから離れて行くことになるわけです」

「全然イコールじゃないと思うけど。なんで女子が陰口を言ったから峰川が離れて行くことになるの?」

「女子が陰口を言っているのを聞いて、峰川は真に受けてしまったんだと思う。本当に堀北さんが陰口の通りの人間だと思い、離れて行ってしまった」

 明日香は呆れ果てる。

「男子の考え方って、時々本当に意味が分からない……」

「とにかく、そういう経緯があって、トリプルエーの三人はバラバラになってしまった。それがやがて、梓が峰川のデマを流すことになり、峰川が梓に恨みを抱くわけです。そして、おそらくは、梓が峰川をいじめたという情報を駒田くんに教えたのは、峰川本人だったんでしょう」

「あの……」沢木は困惑している。「長々と説明していただきましたけど、それが一体……」

「僕が言いたいのは、峰川は梓を恨んでいて、告発者にはなり得るけど、太鼓判への不正アクセス犯にはなり得ないということなんです」

「さっきから同じことをグルグルと……。堂々巡りしてるぞ」

 星は飽きが来たように、貧乏ゆすりをした。蓮は先を続ける。

「さっき、僕は不正アクセス犯の容疑者になり得る人を挙げましたけど、一人だけ、その容疑から外れ続けている人がいたんです」

 一同の呼吸が止まる。

「琴平フィルさん……つまり、堀北さんです」

 少しの沈黙の後、「いやいやいやいや……!」とガヤ芸人のような声が蓮に襲いかかったが、蓮は真剣な表情のままだった。

「堀北さんは、善印賞を公に発表する前に自分が賞に選ばれたことは知っていた。それに、来栖さんは言っていましたよね。彼女が編集部で作業をしていた、と。彼女にはパソコンにリモートアクセスする情報を入手する機会があったということなんですよ」

「いや、でもさ、そうなると、自分を炎上させるような情報を梓にタレコミしたってことにならない? そんなことあり得なくない?」

 明日香の指摘に一同はうなずく。ペストマスクもうなずくので、ポリ袋がガサガサと言う。蓮は椅子の下に置いていたバッグから一冊の地図帳を取り出して、テーブルの上に置いた。付箋を貼ったページを開く。山口県の南東エリアだ。蓮は地図のある場所を指さした。

「山口県下松市……琴平町」

「琴平……」

 沢木が目を丸くする。

「下松市っていえば、来栖先生の……」沢木の視線の先で、来栖が表情を強張らせていた。「……先生?」

「先日、和谷さんが山口県出身だと言った時に、来栖さんはパッと表情を明るくしてお話されていました。同郷だと意気投合しやすいですよね。堀北さんも山口県に関係があるんじゃないですか?」

 蓮に投げかけられたが、来栖は口を噤んだままだ。

「考えてみれば、堀北さんと来栖さんには大きな共通点があります。お二人とも、善印賞で心に傷を負った。琴平フィルという名前をフックにして、お二人が心を交わすようなことがあったんじゃないでしょうか」

 星が咳払いをした。

「すまん。話が見えてこないんだが」

「刑事さんたちも見ましたよね。善養寺真のあの態度を。僕にはとても好かれるような人には見えませんでした」

「若者にこんなことを言うのもアレだが、あんなクソみたいな奴は世の中にごまんといるんだよ。それが社会ってやつさ」

 星はなぜか熱を持ってそう言った。蓮はサラッと言い返す。

「善養寺真に恥をかかせてやりたいと思う人は、太鼓判の中にいくらでもいるということですよ」

「あー……」星は目をクルクルさせた。「さっきから何が言いてえんだ?」

「不正アクセスをした人間は、堀北さんでも太鼓判の社員でも、そこら辺に動機を持っている人はいくらでもいるということですよ。そして、その誰かが不正にウェブサイトを更新して、梓の家に侵入して、ハードディスクを入れ替えた。問題は、不正アクセスをしたのが誰かなのではなくて、あの編集部には、そういうことをし得る人がいるという構造があるっていうことなんです」

 ニコラス刑事が言う。

「アガサ・クリスティーみたいな話ってわけですか?」

 蓮は曖昧に濁した。クリスティーの有名なアレを知らないのだろうか。

「堀北さんは梓たちに言っていたそうです。『四〇〇万円があったら何がしたい?』と」

 星は爆発しそうになっていた。そう書くと、宇宙規模の話に見えるが、こちらはそれに比べれば相当ショボい出来事だ。頭を掻き毟って、鼻の頭に皺を寄せた。

「だーかーらー、さっきからなに言ってんだ? 話が取っ散らかってんだよ」

 蓮は静かに応える。

「一二〇〇万を三等分すれば四〇〇万です」

「一二〇〇万んん?」

 素っ頓狂な声を上げる横で、沢木がハッとする。

「善印賞の賞金」

「そうです。中学時代から、堀北さんは善印賞を獲りたいと思っていた。だけど、その目標のせいで、三人はバラバラになってしまった。堀北さんにとって、善印賞は……もっと言えば、善養寺真は復讐の対象だった。そして、その思いに呼応したんじゃないですか、来栖さん?」

「え?」明日香が蓮と来栖の顔を交互に見る。「善印賞の炎上は、堀北さんと来栖さんが仕組んだって言いたいの?」

「僕の考えは、そうだ。今回のことがあって、善印賞には批判の目も向けられるようになりました。そして、琴平フィルの遺族は、すでに一二〇〇万を受け取ったことは報道されている。善印賞の賞金は善養寺真のポケットマネーです。今回の計画は、善養寺真から一二〇〇万円を騙し取るものだったんですよ」

 沢木は口元を覆った。

「自分の命と引き換えに……そんなことを……?」

 一同の目は来栖に注がれる。彼女はじっと黙りこくっている。

「と、そう思うじゃないですか」

 蓮がそう言うと、一同はさらに混乱の坩堝に叩き落とされる。

「一体どういうこと?」

「それで、彼に来てもらったんです」

 蓮はついにペストマスクを指さした。ペストマスクの男は「いいの?」というような仕草をして、マスクを取り去った。現れたのは、金髪の男だった。

「いや、誰!」

 明日香の声がスカイテラスに響く。金髪の男は答える。

「藤嶋建です」

「だから、誰!!」

 賢明な読者諸君なら、ロナルド・ノックスやヴァン・ダインが「犯人はぽっと出ではいけない」と言っていたのをご存じだろう。だから、ミステリの最終盤で新キャラが出てくるのは、あまり良くないことだ。

 藤嶋はポリ袋をごそごそやって、黒いウィッグを取り出して装着した。そして、警察の帽子を被った。その瞬間に、沢木が驚きの声を上げた。

「あの時の警察の方?!」

「え、面識があるんですか?」

 星もまた驚いてそう問いかける。沢木はうなずいた。

「琴平さんが亡くなったということを知らせて下さった方です……」

 星は口をあんぐりと開けた。

「……あんた、一体何者なんだ?」

「俺は、ぶーどぅー・ぱぷわです」

 藤嶋はそう言って敬礼をしたが、一同はポカンとしたままだ。沢木が大声をあげて立ち上がる。

「あなたがぶーどぅー・ぱぷわさん?!」

「ちょと、ごめん!」明日香が場を落ち着かせる。「ぶーどぅー・ぱぷわって何?」

 蓮が微笑む。

「善印賞の選考員で、ウェブ覆面作家のぶーどぅー・ぱぷわさんだよ。梓が言ってただろ。来栖さんとオンラインの創作講座をやっているって」

「え、待って待って」胡散臭いツイートをする枕詞みたいに明日香が口走る。「善印賞の選考員なのに、なんで沢木さんが知らないわけ?」

「俺、誰にも素顔を見せたことないので」

 藤嶋がそう言っておどけてみせる。沢木は崩れ落ちるように椅子に腰を落とした。

「じゃあ、琴平さんは……」

 蓮は彼女の言葉を引き継いだ。

「死んではいないんです」

「そんなバカな……」

 星が絵に描いたような驚きの表情を顔に貼りつける。

「ずっと不思議だったんです。来栖さんが堀北さんの話をする時、まるでまだ生きているかのような口振りだったことが」

「あの子は……」

来栖がついに口を開いた。全員の目が彼女に向けられる。

「あの子は、家族と一緒に過ごしていますよ」

「一体どこに?」

 星が詰め寄るが、来栖は頑として語らなかった。代わりに、ゆっくりと話し始める。

「二年前のある日、私のツイッターにDMが送られてきました。堀北さんからでした。彼女と電話をして、そこで彼女が善印賞の選考で全てを失ったことを知りました。同じ経験をした私には、こういう苦しみを抱えた人が今も生み出され続けていることに怒りを覚えました。私が善印賞の選考員の話を受けたのも、あのひどい選考に歯止めをかけようと思ったから……。でも、善養寺は反省の色を全く見せないどころか、先日、選考の方針に口を出した私を選考員から外そうとまでしました」

 沢木は胸を貫かれるような思いで来栖の話に耳を傾けている。来栖は憤りを滲ませる。

「あの男は、夢を餌にして、多くの未来ある若者の心を傷つけ、不幸にしてきました。堀北さんは明確に、善養寺に復讐をしたいと言ったんです。私がそんな言葉を無碍にできると思いますか? その時から、私たちの復讐は始まったんです」

「でも……、あんな奴とは距離を取ればよかったのに……」

 明日香が悲しげに言うと、来栖は小さく笑った。

「和谷さんは優しいのよ。私があの男のそばにいるのは、あいつを社会的に抹殺する準備を整えるため」

「社会的抹殺? 穏やかじゃねえな」

 星がスーツのジャケットを腕まくりする。

「善養寺はパワハラやセクハラが当たり前の人間でした。それが理由で会社を辞めていった人も大勢います。選考員たちは、力のある善養寺の言いなりになっていて、それが善印賞のひどい選考の温床になっていたんです」

「そこで、彼女は俺に声を掛けてくれたんです」

 急に藤嶋が急に話し出すので、明日香もつい「うわ、喋った」と口にしてしまった。

「俺もあの選考の雰囲気に良くないものを感じ続けていました。彼女が俺と手を組むことで、社内にも善養寺に反発する隠れ派閥が次第にできていったんです」

「社会的抹殺って、具体的に何を?」

 沢木が問いかける。彼女は何も知らないらしい。来栖は無表情のまま答える。

「善養寺の発言を全て録音しています。あの男を訴えて、どん底に叩き落とすくらいの力はあるでしょう。一二〇〇万円を騙し取る計画は、そのほんの一部です。巨万の富を築いた善養寺にとって、一二〇〇万なんて、大したお金じゃありません。これは、ささやかな復讐なんですよ」

「いや、そうは言ってもなぁ……」

 星は途方に暮れたように呟いた。蓮はずっと疑問に思っていたことを来栖にぶつけた。

「でも、善養寺真からお金を騙し取るには、堀北さんの作品が大賞に選ばれないといけない。選考員を買収することなんてできなかったんじゃ……?」

「あの子はずっと温めてきた作品があると言っていました。それを私がリライトすれば、きっとうまくいくと」

「それで、あなたが書いた作品が──」

「いえ。賞に出したのは、あの子が書いた作品そのものです。彼女には内緒にしていましたけど」

「え、じゃあ、堀北さんは……」

「あの子には、本当に素晴らしい才能があるんです」

 一陣の風が駆け抜けていく。沢木は来栖をじっと見つめた。

「でも、あなたは世間を騙したことになる」

 来栖は沢木をじっと見つめ返した。

「死んだのは、琴平フィルという作家。そういう風に言うこともできます」

「そんな言い訳は通用しませんよ……」

 来栖はそれでもまだじっと沢木の瞳を見つめる。まるで、網膜の裏側、頭の中まで見通すような視線に、沢木は屈してしまう。

「炎上させた相手が、もし死んでしまったら? みんなその最悪な未来について考えていると思いますか? 彼らはきっと、知らない振りをして、次の日には別の誰かを攻撃するでしょう。私も堀北さんも、名前も顔も分からない誰かに苦しめられました。毎日、あの男に酷い言葉を浴びせられているあなたに、その苦しみが分からないはずがない」

 沢木は何も言えなくなってしまった。

「刑事さん」来栖は星たちの方を見た。「すべてお話しました」

 星は来栖の視線を真正面に受けた。しばらくして、彼は片手で頭を掻き毟りながら、スカイテラスを後にしようとした。ニコラス刑事が追いすがる。

「ちょっと、星さん! いいんですか?!」

「うるせえ! 黙ってろ!」

 そのまま二人は立ち去っていった。

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