三章 OとDK

 空の如雨露を手に玄関から入って来た和谷正気は、沓脱に立ってそこから見える二階への階段を見上げていた。

 十月十五日土曜日の晴れた昼下がりだが、正気の瞳は少しだけ揺れていた。薔薇の家紋のシールが貼りつけられている如雨露を玄関のシューズボックスの中にしまってリビングに向かうと、ソファに座った七海がげっそりした顔でミネラルウォーターを消費していた。

「まーくん」七海は二人きりの時は正気をそう呼ぶ。「さすがに水が減らな過ぎて誰かが買い足してんじゃないかと思うようになったよ」

 リビングには業者並みに水の入った箱が積み上げられている。

「神様はここを砂漠だと思ってるんだろうな」

「何語でお願いしたらやめてくれるのかしら……」

 正気が何も言わずに隣に座ると、七海はグラスをテーブルに置いて小さく息をついた。

「明日香、今日はまだ何も食べてないだろ?」

「うん」

「明日香の分も食い続けてたら、このままだと俺は太っちゃうな」

「大丈夫だよ、もう太ってるから」

 無感情にそう返されて、頭を掻いた。世間的に見れば、正気は小太りだ。力仕事を続けてきたので、プロレスラーみたいな体形と言っていい。

「散歩にでも連れ出してやろうかなぁ」

 天井を見上げる。

「もう二日も部屋にこもりっきりだから、難しいかも」

「俺も学校は嫌いだったから、親子だな」

 正気は笑ったが、七海は寂しそうな表情でその肩に寄り掛かった。頭を肩に乗せてつぶやいた。

「無理しなくていいよ、まーくん」

 明日香は昨日から学校を休んでいた。木曜日、学校から帰って来た明日香は頭から泥だらけになって、ドロドロのバッグを抱えるようにしていた。

「お、田植えでもしてきたのか?」

 正気が呑気に笑う中、すぐに七海が飛んでくる。

「どうしたの?!」

「別に。滑って落ちた」

 明日香はブレザーの上着を脱ぎながら間髪入れずに答えたが、七海たちと目を合わせないところからするとウソなのは明白なことだった。七海は深く聞かずに、娘を風呂場に連れて行った。

「なんか言ってた?」

 シャワーを浴びて、二階の自室に戻って行った明日香を見送って、正気は脱衣所の七海に声を掛けた。正気はこれから風呂場で、制服についた汚れを落とそうとしていた。

「何も言わなかった。でも、怪我はないみたい」

 服に泥がついたのも厭わない様子で、七海は眉尻を下げた。正気はシャワーを出しながら言う。

「この辺りでこんな泥があるのは、学校の近くの用水路ぐらいだろ」

 読者諸君のイメージを矯正するために書くが、用水路とは名ばかりのドブ川である。

「うん。でも、滑って落ちるような場所じゃないよね」

 正気の目が鋭く光った。

「これ」

 正気が差し出したブレザーの上着の背中に、くっきりと足跡がついていた。それが何を意味するのか分からない二人ではない。シャワーの音が充満する浴室の中で、正気は悲しげに制服の泥を落とした。

 七海は夕飯までの間、ずっと明日香の部屋にいたが、彼女は声もなく静かに泣くばかりで、何があったのか話すことはなかったという。夕飯は、明日香が好きだという近所の街中華・壽良記の出前を頼んだ正気だったが、結局食卓は二人で囲むことになり、明日香の好物の肉野菜あんかけラーメンは正気の胃の中に収まることになった。

 その日の夜、正気は肉まん二つを載せた皿を持って明日香の部屋を訪れた。

「落ち着いたか?」

 明日香は泣き疲れた顔で曖昧にうなずいた。ベッドの縁に腰かけていた明日香の隣に腰かけようとすると、実の娘が無言で小さなテーブルのクッションを指さされる。ベッドは明日香の聖域だ。皿をテーブルに置くと、正気は明日香の顔色を窺ってから、大丈夫だと判断したのか、肉まんを一つ頬張り始めた。

「いや、パパが食べんのかい」

 弱々しくツッコミを入れると、明日香はテーブルを挟んで正気の向かい側に座った。正気は口の中を肉まんでいっぱいにしながら口を開いた。

「ごごごのごどあ……」

「食べ終わってから喋って」

 正気は素早く咀嚼して飲み込んだ。

「明日香が子どもの頃は、甘いものが好きだったから、これがあんまんじゃないと知って泣いてたんだぞ」

「ねえ、またその話?」

 正気は娘の顔をじっと見つめると、太くて短い人差し指を向けた。

「今のお前は肉まんなのか、あんまんなのか分からない」

 明日香の心、つまりは中身がアタリなのかハズレなのか分からないと言いたいらしい。明日香は力なく笑った。

「今はどっちも好きだよ。でも、あの頃の私にとったら、今の私は肉まんかもね」

「ママが心配してる」

 明日香の視線が正気の肩越しに向けられる。正気が振り返ると、星飛雄馬の姉みたいに覗き込んでいる七海がいた。

「いつからいたの?」

「ベッドに座ろうとして拒否られたところから」

 身体を半分隠しながら答える七海を正気は手招きした。彼の隣に座った七海は躊躇なくもう一つの肉まんを手に取って口に運んだ。

「私の分は?!」

 今度こそ明日香は声を張り上げてクレイジーな両親に熱を帯びた眼を向けた。もぐもぐ夫婦が咀嚼を終えるまでの間、明日香は初対面のおじさんと二人きりの空間にぶち込まれたような顔をするしかなかった。

「で、何があったんだ?」

 明日香は口をきゅっと結んで、テーブルの上に視線を転がした。七海がその視界に顔を覗かせる。

「あすちゃん、急に可愛い娘が泥だらけで帰って来たら、さすがに心配するよ」

 明日香は観念したように苦笑した。

「まあ、そうだよね」

「さあ、話してもらおうか」

 辣腕の刑事ばりに身を乗り出す正気だったが、明日香はしれっと返した。

「お腹空いた」

 夜十時を過ぎていたが、ダイニングでインスタントラーメンを啜り切った明日香は、ほとんど一息にスープを飲み干した。

「火曜日から変だったんだ」

 ティッシュで鼻を噛んだ明日香はそう切り出した。

 三連休明けに登校した明日香は、教室前の廊下に机と椅子が乱雑に置かれているのを見つけた。生徒たちがそれを訝しみながら、あるいは笑いながら通り過ぎていく。教室の中に入ってすぐに気づく。それが自分の席だったのだと。

 嫌な予感がしていたのだ。月曜日には、剥がし屋のツイートが爆発的に広まっていた。まさか自分が標的にされるとは……、そのことを両親には言えずに、友人の澪と早苗だけに相談した。

「気にしなければ大丈夫だよ」

 二人はそう言っていたが、それだけでは済まないだろうことは分かっていた。正気がヘラヘラしながら受け取っていた荷物は、おそらくツイッターを見た誰かがイタズラでやったことだと明日香は考えていたから。

 朝から重い溜息を垂れ流して机と椅子を移動させた。マスクをしたクラスメイトたちの目だけがこちらを見ているような錯覚に、明日香は顔が熱くなるのを感じた。ふと見ると、澪も早苗も知らない振りをして談笑しているではないか。その理由がクラス中に聞こえるような声を上げながら近づいてきた。奥村組だ。ゼネコンみたいな名前だが、奥村組というのは、リーダー奥村を筆頭とする集団のことで、このクラスのカースト上位を独占している連中だ。別に何も建設したりしない。

「犯罪者の子どもが学校来てんじゃねえよ!」

 教室中に響くような声で奥村が言う。奥村はクラスで一番の低身長だが、歴史に名を刻むようなマフィアのボスがそうだったように、この男子高校生もやけにバイタリティに溢れていた。考えたくもないことだが、こういう人間が十年後にはそれなりの成功を収めているものである。

「別に犯罪者じゃ──」

「うるせえんだよ、喋んな!」

 ドラマで観たようなあの銀行の人のように目も口もひん剥いて威嚇する奥村に明日香は素直に従った。澪と早苗が知らない振りをしていたのも、この悪童のせいだというのは明日香にもすぐに分かった。奥村は明日香の机に十文キックをかますと、仲間たちを従えて教室の後ろのスペースに悠然と歩いて行った。

 結論から言うと、その日から明日香は〝いない者〟として扱われるようになった。ラインで送られてくる澪たちの謝罪の言葉がより胸の傷をえぐっていった。言葉で謝っても、それを行動で示すことはないのかという失望は明日香をひどく打ちのめした。自分の心が急速に彼女たちから離れて行くのを感じて、胸に穴が開いていることに気がつく。

「十文キックされて用水路に落ちたのか」

 正気は明日香のブレザーの背中についた靴の跡の大きさを思い出そうとしていた。一文は二・四センチ。正気が繰り出せば、だいたい十一文キックである。

「でも、誰にやられたかは分かんないよ。振り返る間もなくすごい衝撃でやられたから」

「きっとドロップキックだな。ドロップキックで用水路にドロップしたわけだ」

「全然うまくないんですけど」

 食器を洗い終えた七海が明日香の隣に座る。

「でも、怪我なくてよかったわよ。だって、ドロップキックで怪我したらプロレスラーだと思われちゃうものね」

「気にするところそこなんだ……」

 腹が満たされたからか、明日香は次第にいつもの彼女の姿を取り戻していた。正気は優しく笑みを浮かべた。

「制服はクリーニングに出しておいたから、明日は休んだらどうだ? 学校なんてつまらないだろ」

「パパじゃないんだからつまらないなんて思ってないよ」

「来週にはみんな元通りになってるだろうし、明日は休んだら?」

 両親にそう言われたから……そういう口実で明日香は家にいることを決めたようだったが、あの悪意渦巻く狭い空間は確かに彼女の心を削り取っていた。

 ここでようやくこの章の冒頭に時間は戻る。

 リビングの窓から小さな庭に咲く薔薇の花が見える。正気はその花を見ながら、寄り掛かって来た七海の頭を撫でた。

「時間できたから旅行行けるね」

 七海が言うと、正気は笑った。

「日本各地にうまいものがあるぞ」

 七海が心配そうな目で正気の顔を覗き込む。

「私もパートとか探さないとね」

 奇しくも我が子が用水路にドロップした日、正気は宇賀島建設から懲戒解雇通達を受けた。ツイッターでの炎上の件が、いくつかの取引が影響を受けた。会社は企業イメージを守るという理由で正気を切ったのだ。二十年以上勤めた会社との突然の別れだった。

「私たちどうなっちゃうのかな……」

 さっきはおどけていた七海だったが、その声が不安たっぷりなのは正気には分かっていた。木曜日の夜、明日香が部屋に戻ってから、七海は静かに泣き出した。愛娘がクラスで攻撃の的にされたのだ。明日香がなかなか喋りたがらなかったのは、こうやって母が悲しむのが嫌だったからだ。それも正気は分かっていた。

「じゃあ、ユーチューバーでもやるか」

「なんでよ!」

 七海が笑った。

 インターホンが鳴る。正気が玄関のドアを開けると、宅配業者の男が家の前に停めた車を指さした。

「大量にあるんで持ってきますね」

 そう言って、男はデカい段ボール箱を運んできた。

「何が入ってるんです?」

 送り状に目をやると、「衣類・消耗品」とある。男は不思議そうな顔を浮かべる。

「お客さんが注文したやつじゃないですか。……あと、四箱あるんで」

「四箱?」

 結局やって来たのは、玄関を埋め尽くすほどの箱だ。

「一万六千円です」

 正気は急いで財布を取って来て金を払った。ピザも水も、こうやって受け取ったのだ。正気の辞書に確認の二文字はない。

「なぁに……これ?」

 二人は苦労して箱を全てリビングに運び入れた。まるでリビングの広さが半分になったような圧迫感だ。箱を開けると、赤ちゃんの顔が現れた。

「うわぁっ!」正気は尻餅を突いて箱を指さした。「赤ちゃんが入ってる!」

 七海は箱の中に手を突っ込んで、冷静に中身を引っ張り出した。

「オムツじゃん」

 袋にプリントされた赤ちゃんが眩しい笑顔をこちらに向けていた。今、まさにオムツが必要そうな中年男性がここにいる。なお、サイズは合わない。

「オムツか……ビビらせやがって」

 オムツのパッケージで死ぬほど驚いた人間は、正気が世界で初めてだろう。おつむが心配である。

「どうするの……こんなに大量のオムツ……」

 ミネラルウォーターの箱がオムツの箱の後ろに行ってしまったので、後でまた箱を移動させなければならないことを二人はまだ気づいていない。

「ちょうどよかった」

 正気がそう言うと、正気を疑うように七海の眉間に皺が刻まれた。

「なんで? ウチ誰も使わないじゃん」

「伊勢くんのところに双子の娘さん産まれたんだよ、先月」

「伊勢くんって、会社の?」

「明日あたり持って行ってやろう」

「でも……もう会社クビにされちゃったでしょ……」

 正気はケロッとした顔で振り返った。

「なんで? そんなの関係ないだろ」

 七海はハッとしたが、すぐに微笑んだ。

「そうだね」

 再びインターホンが鳴る。ドタドタと足音を響かせて正気が玄関を開けると、寿司桶を二つ重ねて抱えている男が立っていた。

「プラチナのさらで~す」

 この街に最近できたデリバリー寿司店だ。なお、別の色のさらとは関係がないらしい。

「ああ、寿司か。いいね」

 どうやら寿司の口だったらしい正気が歯を見せると、男は言った。

「二万一三〇〇円になります」

 ポケットに入っていた財布から金を出すと、正気は寿司桶を受け取ってリビングに戻った。

「まーくん、この五分で四万近く遣ってるじゃん……」

「ホントだな。記録更新だな」

 そういうことが言いたかったわけではないのだが、七海は複雑な表情でテーブルに並べられた寿司を眺めた。

「こんなに食べられないよ……」

 七海が途方に暮れていると、三度インターホンが鳴った。玄関に向かう正気に、ついに七海は言った。

「ねえ、注文してないものが来たらちゃんと断らないと」

 正気は少しだけ考えてうなずいた。

「確かにそうだな」

 ここに来てようやく気付いたらしい。決然とした表情で玄関のドアを開け放った正気は、開口一番に言った。

「何も注文してないんですが」

 玄関先に立っていたのは、エロ──ではなくて、江口蓮だった。

 蓮は唐突な申し出に魂を抜き取られたような顔をした。

「……はい?」

「何も注文してないんですよ」

 蓮は自分が試されているのでは、という思いに駆られていた。

「……初対面でいきなりファミレスのコント仕掛けてきてますか?」

「いや、もうお寿司あるんで」

「あの、僕は和谷さんにお話を聞きたくて来たんですけど」

「そういう注文はしてないので……」

「いや、話聞きに来てっていう注文もおかしいでしょ。そうじゃなくて、剥がし屋のことですよ」

「剥がし屋……? あのアイドルの握手会にいる奴?」

「それはハガシですね」

「三〇〇円でたくさん買えるやつ?」

「ええと……、駄菓子ですかね」

「ダシ取る時に使うやつ」

「それは煮干し。僕が言ってるのは剥がし屋」

 正気は一丁前に顎に手をやったりして記憶の糸を手繰ろうとしている。

「そういえば、明日香がなんかそんなことを言ってたな……」

「明日香さん、娘さんですよね。俺も桜が丘高校に通ってるんです」

「同じクラス?」

「いや、学年は同じですけど、別のクラスです」

「話を聞きに来たって言ってたよな」

「そうですね。今のところ、ちゃんと話が聞けるかどうか不安です」

「ちょうどいい。上がっていってくれ」

 蓮は素早く首を振った。

「いや、いいです、ここで」

「君の力が必要なんだ」

「やっぱり困ってたんですね、剥がし屋の──」

「寿司がいっぱいあるんだ。食っていってくれ」

 あまりに真に迫った要求に、蓮は思わずうなずいてしまった。


「そういうことがあったのか」

 六割がたの寿司を平らげた正気は〝被害者の会〟の仲間である蓮に温かい視線を送った。蓮はガリをポリポリやりながら、もうコリゴリというような素振りをする。

「で、なぜウチが狙われたのかを調べるために、剥がし屋の行動を追ってきたんです。それで、和谷さんの許へ」

「大変だったでしょう?」

 七海が労うように言うが、蓮は微妙な反応を見せる。

「僕の父親があまりに気にしてないようで、僕だけがこんなことになってるんです。なんだかそれがバカバカしくて……」

 七海は隣の正気をじっと見つめた。

「ん? なに?」

「別に。似たような人もいるもんだなと思って」

 湯呑に残ったお茶を飲み干すと、蓮は本題を切り出した。

「どうして剥がし屋に狙われたんだと思いますか?」

「やっぱり、良い男ってのは、どこに──」

「そういうのじゃなくて、マジのやつで」

「あの動画を撮られたのがまずかったんだろうな」

 正気は切り替え鋭くそう答えたが、蓮にとっては納得のいく答えではなかったらしい。

「僕も観ましたよ、あの動画。でも、おかしいなと思ったんですよね。調べたところでは、元の動画がツイートされてから剥がし屋が剥がしツイートするまで、一時間もかかってないんですよ」

 正気は小さくげっぷをする。

「よく分からんけど、検索して探したんじゃないのか?」

「元のツイートは、検索しようとしても引っ掛かるようなワードがありませんでした。つまり、剥がし屋は動画を実際に観て、剥がすかどうか判断してたと思うんですよ」

「じゃあ、そうしたんだろうな」

 事はそう単純じゃない、と蓮は主張したげだ。

「でも、一時間もしないうちに和谷さんの素性を調べるなんてことができるでしょうか?」

「凄腕の連中いるだろ。アメマスとかクニマスとかいう……」

「なんで川魚なんですか。アノニマスでしょ。でも、どっちみち、剥がし屋はもともと和谷さんを狙ってたとしか思えないんですよ」

 正気は短く刈った頭を撫でた。ザリザリと音がする。

「俺もついに有名人か……」

 蓮は、どこかで聞いたような正気の反応にげんなりした。父親の顔がチラつく。

「僕の父もそんなこと言ってましたけど、ウチも剥がし屋に狙われてたかもしれないんですよ」

「どうしてそう思うの?」

 七海が首を傾げると、蓮はスマホを取り出して剥がし屋のツイートを表示させた。江口整体院への剥がしツイートだ。

「ここにある内容は、どうやら別の整体院に寄せられた口コミっぽいんです。少なくともウチじゃない。でも、剥がし屋はこれをウチの仕業だと思わせようとしていた。もしかしたら、剥がすような内容がないから炎上案件をでっち上げたのかもしれないんです」

 七海は正気の横顔を見つめていた。そして、残念そうに言う。

「ウチは、この人のやったことは事実だから……」

「ちょうど煽り運転のニュースを観た後だったんだ。で、明日香が傷つけられるかもしれないと思ったら、どうしようもなくなってしまって」

 蓮は腕組みをして考えを巡らす。正気の行動が事実でも、剥がし屋はそれを首を長くして待っていたことになるではないか。

「この人、昔から娘のこととなるとちょっと暴走しちゃうのよ」

「そんなリーアム・ニーソンみたいな一面があったんですか……」

「娘が小学生だった頃、娘に悪口を言っていた男子に口喧嘩を仕掛けに行ったり……」

「なんて大人げないことを……」

 正気が笑う。

「まあ、負けたんだけどな」

「いや、そこは勝って下さいよ」

「あとは……」七海の頭の中にある〝正気の正気じゃない黒歴史リスト〟が火を吹く。「娘がピアノ教室に通ってた頃は、『うまく弾けない』って娘が泣くと、この人がキーボードを叩き割ろうとするの」

「××××じゃないですか」

 コンプライアンスを重視して蓮の発言は伏せさせていただいた。内容はご想像にお任せする。ひどい言われようなのに、なぜか正気は愉快そうだ。

「二年くらい前には、娘が誰かの彼氏だって誤解されたとかで、暴れ回ってたのよ」

「さだまさしの歌だったら一発殴らせろどころじゃなくなりそうですね」

 蓮が合の手を入れる。七海は当時を思い出して困ったように顔を歪めた。

「しかもPTAの会合で」

「どこで暴れてるんですか。っていうか、まさか〝ダイナミックな話し合い〟がここで繋がるとは思いませんでしたよ」

 正気はニヤリとした。

「あ、聞いたことある? 伝説の会合」

「なんで誇らしげなんですか。とにかく、和谷さんは狙われてたはずなんです。だから、明日香さんもあんなことに……」

 七海は声を潜めた。

「ねえ、あすちゃんに何が起こってるの?」

 蓮は目を丸くした。

「知らないんですか?」

「用水路に落とされたことは聞いたけど、深くは……。あまり話したくなかっただろうし」

「じゃあ、別に知らないままの方がいいと思いますよ……。とりあえず、SNSで結構ひどい言われようだったんで。学校でも……」

 七海が悲しい顔をした。蓮は思わず顔を背けてしまう。

「俺のアレが原因なのか?」

 グイっと顔を突き出す正気に、蓮は遠慮がちにうなずいた。

「でも、無理矢理に炎上させているように思えましたけど」

 夫婦の間に冷たい沈黙が漂った。自分の子どもが災いの渦中にいるなど、認めたくない事実だろう。蓮は咳払いで居心地の悪さを払拭しようとした。

「それで、明日香さんは?」

 正気は神妙な面持ちで人差し指を天に向けた。その仕草に蓮はビビってしまった。

「え、まさか……明日香さんは天国に──」

「二階に部屋があるの。ずっと一人でいるみたい」

 七海が解説を加えると、蓮はずっこけた。

「天国に行ったみたいな雰囲気でそういうことしないで下さいよ」

 冷や汗を拭う蓮たちの頭上で、どしん、と何か大きな物が倒れるような音がした。七海が天井を見上げて言う。

「あすちゃん……?」

 蓮は飛び上がった。そのままリビングを走り抜けて、階段を駆け上がる。三部屋あるうちのドアが閉まった部屋に飛び込む。後から正気たちも慌てて蓮を追って階段を上がってきた。

「ちょっと!」

 蓮が叫んで明日香の部屋の奥に足を踏み入れた。窓際のカーテンレールが外れて、その下に明日香が倒れて泣いていた。首に細いベルトが巻きつけられていた。

「明日香!」

 悲鳴にも似た声を上げて七海が駆け寄って明日香を抱き寄せた。明日香は声を上げて泣いていた。際限なく流れ落ちる涙を受け止めて、七海は声を押し殺して泣いた。茫然と膝を突く蓮の横を正気が静かに通り過ぎて、七海と明日香を抱きしめた。

 その日のうちに和谷一家と蓮は病院へ向かった。検査の結果、身体的な異常は見られなかったものの、自殺企図が認められることとなった。その頃には、明日香もいくぶん落ち着きを取り戻し、バカなことをしたと後悔の言葉を口にしていた。総合的に入院の判断は先送りされたが、明日香はしばらく通院することになった。

「友達にも見放されて、部屋の中で、一人で携帯を見ていて、辛くなってしまって……」

 明日香はそう説明した。明日香のSNSアカウントには多くの非難が届いていた。

「しばらくスマホは見ない方がいいな」

 正気がそう提案すると、明日香は大きくうなずいた。明日香にとって、なによりも辛かったのは、医者の話を聞く間、ただ涙を流すだけでじっとしている七海の姿だっただろう。待合室のベンチで、明日香は七海の胸に顔を埋めた。

「ごめんなさい……」

 しゃがれた声でそう言う明日香の頭を七海はずっと撫でていた。ずっと三人についていた蓮はいたたまれない思いだった。

「誰かが来て、ずっと話しているから、私のことだと思ったんです。きっとパパとママが嫌なことを言われていると思って……それが辛くって……」

 その明日香の言葉に、蓮は打ちのめされた。誰かを傷つけようと思って和谷家を訪れたのではない。しかし、それが結果的に明日香に引き金を絞らせてしまったのだ。謝罪の言葉を明日香にかけられないまま、蓮たちは正気の運転する軽自動車に乗り込んだ。助手席に収まった蓮は、後部座席から明日香が小さな声で、

「ごめんね、変なところ見せちゃって……」

 と声をかけられて、身体が芯から凍えるような思いだった。

「いや……、俺も……、ごめん」

 後ろを振り向くこともできないまま、蓮はそう返した。

 家まで送て行くという正気の申し出を丁重に断って、蓮は自宅への分かれ道で車を降りることにした。もう辺りは真っ暗だ。家には連絡を入れていたから問題ないが、夜の帳が下りた街は、今の蓮には寒すぎた。

「ちょっと待ってくれ」

 正気が運転席から大きな身体を滑らせてやって来た。

「今日はすまなかったな」

「いや、僕の方こそ……」

 正気は車の方を小さく振り返ると、蓮の背中に手を回して、少し離れたところまで歩いていく。マスク越しに声を低めた。

「君は剥がし屋のことを追っているのか?」

 蓮は困惑してしまった。

「……追っているのか、自分でも分かりません。でも、ウチの父親が誤解されたままなのが許せないという思いはあります」

「俺たちで剥がし屋を剥がさないか?」

「え? 正気ですか?」

「俺は正気だ」

「いや、そういうことじゃなくて……」

「明日休みだろ?」

「ですけど、勉強しないと……」

「ほんの気分転換だ」

 笑顔だが、どこか凄味のある迫力に蓮は思わずうなずいてしまった。


 霜田区にある南禅寺公園は広大な敷地がある区民の憩いの場だ。その駐車場の一角に正気の軽自動車が停まっている。曇りがちな涼しい日曜の午後、身体を動かすにはちょうどいいが、窓を開けた車内では、マスクをした正気と蓮が手元のタブレットに熱心な視線を注いでいた。

「で、剥がすってなんだ?」

 唐突に正気が言った。

「分かってて言ったんじゃないんですか?」

「昨日は熱くなっててノリで言ったんだ。なにを剥がすんだ?」

 お先真っ暗感に苛まれつつ、蓮はゆっくりと説明した。

「匿名の仮面を剥がすってことです。SNSは顔も本名も隠して匿名でやるものじゃないですか」

「そうなのか? 俺は素揚げだぞ」

「なんで揚げるんですか。ウチの父もそうですけど、丸出しでSNSやってる人なんて著名人以外じゃ滅多にいないんですよ」

「そうだったのか。気にしたことなかったな」

「〝丸出し人間〟って呼ばれてもおかしくないですよ」

「新しいあだ名だ」

「貶されてるの分かってます? まあ、いいや。とにかく、剥がし屋が出現してから、みんなSNSの使い方を考えるようになったんですよ。そういう面では、ネット上ではわりと評価高いみたいです」

「怖がって縮こまってるだけだろ」

「そうかもしれないですけどね」

「だが、明日香があんなことになったんじゃ、黙ってるわけにはいかないな」

 強い意志を宿した目が光る。目頭に目ヤニがついていなければサマになったのだが。

「明日香さんは大丈夫なんですか?」

「何でもないように振る舞ってはいる」

「こんなことしてていいんですか? 明日香さんのそばにいてあげた方が……」

 正気は深く息をついた。

「ママが一緒にいるから大丈夫だとは思う。それに明日香のような子を出さないためには、やるしかないんだ」

「どうやって剥がし屋を剥がすつもりなんですか?」

「分からん。なぜなら、熱くなってノリで言ったから」

 蓮は額を押さえて首を振った。

「昨夜、めちゃくちゃ考えを練ってた僕がバカみたいじゃないですか」

「恥ずかしがらないで話してみなさい」

「どういう感情でそんなスッとした顔できるんですか」

 蓮はぶつくさ言いながら膝の上のタブレットの上に指を滑らせた。

「僕が注目したポイントは二つあります」

「もう一声」

「いや、調子が出てきたらもう一個増えるシステムじゃないんですよ。まず僕は剥がし屋のことをあまり知らなかったので、基本的なことを調べてみました。剥がし屋とは何者なのか?」

 剥がし屋がツイッター上に出現したのは、二〇二一年の一月のことだった。人気大食いユーチューバーの〝かみぞの〟が、動画の合間に、平らげるべき料理を捨てている様子がチャンネルのスタッフのツイッターアカウントで暴露された。暴露されたツイートは直後に削除されたが、それを拡散したのが剥がし屋の剥がしツイートだった。

「当時、ネットは大炎上しました。『食べ物を粗末にするな』っていう感じで」

「親みたいなこと言うんだな」

「で、そのツイートがバズったからなのか、そこから色んな人の悪事だったり、非常識な発言だったりを取り上げていきました。それがだんだん炎上元のSNSの情報を統合したりして、個人情報も載せるようになったんです」

 剥がし屋はそれから現在まで、およそ三十の剥がしツイートを投下。そのほとんどが炎上に繋がっている。

「どんな人たちが剥がされてきたんだ?」

「色々ですよ。芸能人もいれば、偉い感じのおじさんもいますし、今話題の琴平フィルも剥がし屋が関わってます」

「ああ、あの女子高生作家とかいう……」

「そうです。和谷さんでも知ってるくらいですから、かなり有名ですよね」

 正気は完全に舐められているのに気づかずにうなずいた。

「明日香と同世代だ」

 蓮は、あっ、と声を漏らした。

「そういえば、剥がし屋に剥がされた人の中にウチの高校の生徒ももう一人いましたよ」

 正気は訝しげに眉を持ち上げた。

「俺だったり、君の親父さんだったり、ずいぶん近場の人間がやられてるな。剥がし屋自体は何者か分かってないのか?」

「分かってないですね。なにしろ、個人を特定するようなツイートがないので、絞り込みようがないんです」

 口をへの字にしてシートに身体を預けた正気は、皮肉っぽく口を開いた。

「そんな小さな画面の中に真実はあるのか?」

「でも、事件は画面の中で起こってるんですよ」

 正気はおもむろにスマホを口の前に持っていった。

「事件は現場で起きてるんじゃない、画面の中で起きてるんだ! ……ってか?」

「う~ん、なんかそう言われるとめちゃくちゃショボくなった感じになっちゃうんですけど、まあ、そうですね」

 正気は勝手に興が乗って来たらしい。表情を作って叫んだ。

「どうして現場に血が流れるんだ!」

「すいません。そのうるさい口、封鎖して下さい」

 正気はにやけ面で口を閉ざした。封鎖できたらしい。

「まず、僕が気になったのは、剥がし屋はどういう基準で剥がす対象を選んでいるのかっていうことなんです」

「手当たり次第やってるんじゃないか? 色んな人間が剥がされてるんだろ?」

「手あたり次第って言いますけど、SNSなんて年がら年中炎上してるじゃないですか。その全部に関わってるわけじゃないんですよ。すでに炎上してるものには首を突っ込まないんです。剥がし屋は必ず自分が火付け役になってます」

「週刊誌の記者みたいなもんか」

「そんな感じですね。だから、余計なことをツイートしていなくて……。本当はそういう情報を集めて、どこに住んでいるのかとか特定したかったんですけどね」

「今日日、SNSに一から十まで自分のことを書いてる奴がいるなんて、そんな都合の良いことがあるわけないだろ~」

 正気は笑った。

「丸出し人間に言われたくないんですけど」

「で、注目ポイントその二は?」

「剥がしツイートの投稿時間です。深夜だったり夕方だったり……とにかくバラバラで」

「つまり、時間に余裕があるような奴ということか」

「と思うじゃないですか、でも、剥がし屋のツイートには『Twitter Web App』ってあるんですよ」

 蓮はいくつかの剥がしツイートを表示させて正気に見せた。

「なんだ、これ?」

「これは、どういう環境からツイートされたのかを表していて、この場合はウェブブラウザからツイートしてるってことを示してるんですよ」

「女子が着る……」

「それはブラウス。ブラウザはインターネットを見るアプリのことですよ」

「つまり、そのブラウザってのを使っているというわけか!」

 正気は叫ぶと、運転席のドアを開けて飛び出そうとした。

「ちょいちょいちょい!」蓮の声がその背中を捕まえる。「飛び出して行けるほど絞れてないですから!」

「事件の真相に気づいて走り出すやつ、やってみたかったんだ」

「そういうのありますけど、普通は決定的になった時にやるんですよ」

「そうか。で、サウザーがどうしたんだ?」

「実は優しかったね~、じゃないんですよ。サウザーじゃなくてブラウザ! ツイッターはブラウザからだと予約投稿っていうのができるんです。つまり、時間を指定してツイートができる。自分の生活リズムを隠せるってことです」

「なるほど……」

 正気は剥がし屋のツイートに目を通して深くうなずいた。

「だから、本当はどこかの会社とか学校に所属していて、ある程度規則正しい生活を送ってる人間なんじゃないかと思うんです」

「でもな……」正気は蓮のタブレットを指さした。「二十一時七分とか十七時四十三分とか、そんな中途半端な時間に予約なんてするのか? 普通は二十一時ぽっきりにするだろ」

 ぽっきりじゃなくてぴったりだ、と言い返すのも忘れるくらい、蓮は正気にズバンと反論されて目をパチクリさせてしまった。

「言われてみれば……。先の時間に予約していたら、他の誰かが先に剥がしてしまって、自分が火付け役になれない可能性も出てくる……。じゃあ、剥がし屋は、いわゆるそういう人間ってことですか? ニート的な」

「その可能性はある。つまり、日本中のニートを集めれば剥がし屋を見つけ出せる」

「労力エグすぎますよ。しかも、日本に住んでるかどうかも分からないですからね」

「捜査は振出しに戻ったか……」

 正気は残念そうに溜息をついた。

「今ずっと振り出しのところで話してるんですけどね」

「まあ、とにかく、何とかして剥がし屋を見つけ出さないとな……」

 正気はそう言いながら腕時計を一瞥した。蓮は正気の様子に、ずっと抱いていた疑問をぶつけることにした。

「なんでこんなところまで来たのに車の中で話してるんですか、僕らは?」

 江口家か和谷家か、どちらかの家で作戦会議をするものとばかり思っていた蓮は、それがずっと引っ掛かっていたらしい。ちょっとした誘拐みたいなものだ。正気はバツが悪そうに口を開く。

「実は、二人には内緒にしてここに来てる」

「は? どういうことですか?」

「こうして二人で会うなんて、ママには言えないだろ……」

「……なんで不倫してるみたいな言い方してんですか」

「すまんすまん、それは半分冗談だ」

「全部冗談にして下さいよ」

 正気は寂しげな微笑を浮かべていた。

「あの二人は俺が剥がし屋を見つけ出すとか言うと絶対にやめろって言うだろうしな……。あの二人が剥がし屋と戦う必要はないだろ」

 良い話風の雰囲気が流れようとしていたが、蓮は目の前にいるのが暴走しがちなおっさんだと思うとやっぱり気後れするのであった。

「俺には時間もあるし、俺が適任でもあるんだよ」

「仕事どうするんですか」

「クビになったよ」

「え? なんでですか? 仕事できないからですか?」

 蓮の煽りに気づかないまま、正気は淡々とクビになった経緯を説明した。蓮はここで初めて正気が剥がし屋の被害を受けていたことを知ったのだ。

「絶対抵抗すべきだったでしょ。長年勤めた会社だったんですよね」

「まあ、仕方ないだろ。俺がいると取引にも影響があるらしい。会社としても、やばい奴を置いておくってことはリスクがデカい」

「でも、あれは向こうの車が煽って来たのが悪いわけじゃないですか」

「いや、それはもういいんだ」

「なんでですか……」

 蓮には理不尽を飲み込む大人の気持ちが分からなかった。

「昔から古畑任三郎に憧れてたんだ」

「急になに言ってんですか?」

「いや、信じてくれ。本当なんだ」

蓮には理不尽な正気の気持ちの切り替えが分からなかった。

「疑ってないですけどね。さっきまでは和谷さんの子と応援したいって思ってたんですけど、不思議なことに今はその気持ちがどこかに行っちゃいました」

 正気は大真面目な顔で告白する。

「俺もパッと事件を解決したいわけよ」

「でも、古畑任三郎も、アレ給料もらってやってますからね」

「剥がし屋に嫌がらせしてやるんだ」

「ウチの父親、古畑任三郎に逮捕されたことあるって自慢してましたよ」

「お父さんの名前は?」

「江口洋介」

「あの?」

「その江口洋介じゃないですけどね」

「羨ましいな。俺も逮捕されたかった」

 刑事と犯人の間を能天気に揺れ動く正気を前に、蓮は暗澹たる思いを抱えることになった。

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