第2話 主人が笑う、自転車に乗る

 第一主人は、顔も知らない組織テナントのボス。


 第二主人は、私のことを調整いじくってていた科学者。


 第三主人は、現場の責任者を任されたこの箱の店長。


 第四主人は、突然現れて箱を滅茶苦茶にした恐ろしい老婆。


 そして第五主人は、私よりは年上の、だけど、まだ大人にはなりきっていない、そんな少女。


 流れるような黒い髪に、どこかの高校の学生服を着て、いたずらめいた笑みで、じっと私を見ていた。


 私に対して、『命令』ではなく『お願い』と称して、握手を求めた不思議な人。


 聞きやすくて、なんでか頭の奥に残るようなそんな声で、私に『お願い』をしてきた人。


 でも、『お願い』なんて……されたのはいつ以来だったろう。


 すごく、記憶すら曖昧になるほど昔に、誰かに『それ』をされた記憶はあるのだけど。


 脳裏に浮かぶの光景は曖昧にぼやけて、私に何も教えてくれることはない。


 そんな私の手を引いて、私より少し背の高い少女は歩いていく。


 チトセ ハキリと呼ばれた彼女のもとで、私はこれから過ごすことになるらしい。


 『323』でも『クモ』でも『殺し屋』でも『それ』でもない。


 みつき、という不思議な名前を私に付けて。


 変な人だと想った。


 その変な人は、周りの大人と何やらやり取りをすると、早々に私の手を引いてさっさと歩き始めてしまった。死ぬまで付きまとうじゃないかって想っていた、二つの錠も、あっさりと外してしまって。


 そうして、彼女に手を引かれるまま研究所を後にした。



 数年ぶりに出た施設の外は、響き渡る風の音がいやにうるさくて。



 鼻をくすぐるコンクリートと砂が混じった匂いが、どこかわずらわしくて。



 ふと見上げた空は、底が抜けるような果てもない蒼い色のまま、途方もないほどに広がっている。



 そのまま手を引かれて、どこか覚束ない足取りのまま、私は黙って空を見上げた。



 そうしていると、丁度私のことを振り返ったチトセ ハキリが、私を見てにぃっと笑った。



 軽快に、楽しそうに、良く響く笑い声を上げながら。私の手を引いていく。



 今まで見てきた主人の笑みは、どれもかれも見ていると反射的に頭痛がしたものだけど。



 どうしてか、その笑顔だけは、私の身体になんの痛みを想いださせなかった。



 それどころか、身体中をずっと蝕んでいた痛みが、なんでかその笑い声を聞いてる時だけは感じなくなって。



 感覚はどこかぼやけるようで、なのに握られた手の温かさだけが、異様に鮮明に感じ取れる。



 なんでだろう。理由はわからない。



 だけれど、きっと、私はこれからずっと。



 この空と、この笑顔と、そしてこの人の声を。



 もう二度と、忘れることができないんじゃないかと。



 そんなことを考えた。



 そのわけすら知らないままに。




 ※



 「これは上位命令です。これからくる娘、『千歳 羽樹里』の外敵を排除なさい。命の危機があれば、そこからあの娘の命を守りなさい。たとえ―――――――お前の命が潰えてでも」


 「―――」


 「この命令はあの娘には伝えないこと。いいですね? 理解できたなら、復唱なさい」


 「復唱。これより識別番号323はチトセ ハキリの外敵を排除します。命の危機があれば、私の命に代えても守護します。この命令は対象には秘匿されます。復唱終わり」


 「よろしい、お前を遺して、あの子が死んだ場合は。当然ですがお前は始末されます。いいですね?」


 「――—了解。復唱しますか?」


 「……いりません。では、あの子がくるまでしばしここで待ちなさい。あの子のことです、必ずお前に目をつけるでしょうから」




 ※



 この人は私の命に代えてでも守るのだ。



 自分の首を少し撫でながら、そんなことを考えた。



 あなたは、そんなことは露も知らず、箱から出るなり何やら、ぼそぼそぼやいていた。


 「あれ? ちょっと、帰りの車がないんだけど……。おっかっしいなあ……。紗雪に頼んでたはずなんだけど……。ごめん、みつき、ちょっと待ってね」


 そう言ってあたりを見回している。状況把握も兼ねて、私も首を巡らせてみた。


 あたりにはどう見てもゴミと室外機の群れがあるだけで、車は一つも見当たらない。一応、遠くには黒服と黒いリムジンが見えるけど、あれはどうにも違うみたいだ。私の主人はそのリムジンを一瞥してから、少し嫌そうな顔をしてまた視線を別の所にやっている。


 「あ、来た来た。連絡。えー、なになに『ゴミ山に自転車埋めといたんでそれを使ってください』。…………? …………もしかせんでもこれのこと?」


 しばらくスマホを眺めていた私の主人は、こわごわと言った感じに、ゴミ山の中に横向きで転がされていた車輪に目を向ける。


 言われた通り、確かにゴミ山の中に自転車はあった。といっても、生ごみがあちこち引っ付いて、塗装もところどころ剥げて錆が見えている、そんな真っ黒な自転車だけど。


 鍵はかかってないみたいで、こわごわと私の主人が引っ張り上げるとからからと音を立てて車輪が回りだす。


 彼女は軽くため息をつきながら、着ている服の裾で最低限サドルとハンドル、あと後ろについてる荷台を拭いていた。


 それからしばらく少し迷ったように遠くの黒リムジンを眺めていたけれど、諦める様にためいきをつくと、その自転車に勢いよく跨った。ガシャンとどことなく頼りない金属音が狭い路地裏に響き渡る。


 「ま、背に腹は変えらんないよね。みつき、悪いけどこっから私の家まで、自転車二人乗りタイムみたい。まー、悪いけど付き合って」


 そう言った後、後輪の荷台を指さした。ここに乗れということらしい。


 無駄だとは想うけど、一応、尋ねるだけ尋ねてみる。


 「あっちの車に乗るのは?」


 「あの車に乗ると、帰り道まで、あのばばあの顔を見ないといけなくなるのでNGなのだ。ああ、みつきだけ先に送ってもらって私だけ自転車で帰るって手もあるな。ただあのばばあ、口うるさいとおもうから、それだけ気を付けて」


 私の主人はそう言うと、たははとかるく困ったように笑いを浮かべた。


 私だけあっちの車に乗るという選択肢もあるみたいだけど、私の任務にこの主人の護衛が含まれている以上、残念だけどそっちがわは成立しない。


 なので、私にはこのまま主人と一緒に自転車に乗って帰り道を行くという選択肢しかないわけだ。


 私はそれだけ納得すると、軽く身体を跳ねさせて自転車の荷台に跨った。


 自転車というものに乗ったことはないけれど、後輪の軸に足を乗せてバランスを取るくらいは簡単にできた。


 そんな私を見て、主人は少し意外そうに見ていたけれど、やがて微笑ましそうにペダルに足をかけると「じゃあ、行きますか」と言って、ゆっくりと自転車を漕ぎ始めた。それから、背後の私に向けてすっと何かを差し出した。


 なんだろうと差し出されたものを見ると、さっきまで主人が持っていたスマホだった。画面には既にどこかの住所がセットされていて、そのナビゲートが始まっている。


 「じゃあー、最初のお仕事だ。我が家までの道案内をよろしくね」


 「それは命令?」


 「え? あー、うん命令……かな。いや別にしなくてもいいんだけどさ。自分でも見れるし」


 「命令なら実行する。このスマホを受け取ってもいいの?」 


 「むしろ受け取られるのを待ってる。片手運転は自信ないんだよね」


 『命令』をされる分には安心する。この主人の声が聞き取りやすいから、特にそう思うのかもしれない。


 言葉を告げた後、主人はゆっくりと自転車を進めながら苦笑する。私が言われた通りスマホを受け取ると、よっこいせと口に出しながら、がたんがたんと音を立てて自転車が勢いよく進み始める。


 ゴミの山を少し抜けて、路地の据えた暗がりの先へ先へと進んでいく。


 ペダルが大きな音を立てて回っていく。私は身体を支える腕に力を込めながら、スマホの画面をじっと見つめる。


 「最初の進路は?」


 「そのまま、まっすぐ」 


 自転車を漕ぎながらでもよく通る声に負けないように、スマホに表示された通りの答えを返した。まっすぐいくとさっきのリムジンが止まっていて少し邪魔な気もするけれど。


 「おっけー、みつき、私の腰掴める? おもいっきり漕ぐからちゃんと掴まって?」


 少し逡巡した。


 だってそうやって抱き着いてしまえば、とっさの動きが少し遅れる。それは主人の護衛に支障を来す。ただこれも命令の一環だとも想えたので、結局、言われるがままに荷台に当てていた手を彼女の腰に抱き着くように回してみる。


 薄いカーディガン越しに柔らかな女性特有の腹部が感じられた。少しだけ鍛えてはいるけれど、まあ人並みで年相応の感触だった。とりあえず、この主人には自衛とかはあんまり期待できなさそう。それはまあ、今までの主人もそうだったけど。


 「うし、じゃあ帰るか私たちの家に」


 そう言って主人は、思いっきり自転車のペダルをがあんと踏み込む。私たちは生ごみを蹴散らして、路地の先へと自転車を漕ぎ出した。路地から抜けるときにゴミが勢いよく跳ねて、リムジンの近くに立っていた護衛が数人慌てたように私たちに目を向けていた。


 「お嬢様?!」とか「おい、取締役に連絡を!」とか声が聞こえるけれど、うちの主人は気にした様子もない。


 笑いながら彼らに向けて、「ごめん、先帰るね、私! 佐伯さんは色々とよろしくねー!」とだけ告げた後、横滑りしながらリムジンの脇を抜けて勢いよく路地から抜け出した。





 そうして路地を抜けた瞬間にばっと視界が広がった。






 青い。



 空だった。



 路地の隙間から見えていたのとも少し違う。



 視界一面に広がる青い空。



 そうしてそこから延々と降り注ぐように私たちを陽の光が照らしていた。



 もう随分と見た覚えのない、そんな光景。



 いつか、本当にいつのことだったかさえ忘れてしまった、失われた憧憬。



 暖かくも、まだどこか涼しさと湿っぽさが残る、そんな空気。



 常に一定の気温と湿度に調整されていた箱の中じゃ到底感じられない外の空気。



 そういえば、この世界には季節というものがあったみたいで。



 今は春と言う時期なのだと、使うことすら忘れていた知識が蘇ってくる。



 運搬の時以外に、初めて外に出た。多分、十年ぶりくらいに。



 そんな事実を本当に、今更、想い出した。



 「いやあ春でよかった! きもっちいい! ねえ、みつき」



 主人の声に、なんでか私は喉が詰まって上手く答えを返せなかった。



 「とっころでさあ、こっからうちまで、いったい何キロあるんだろ」



 答えない私をよそに、主人はうーんと唸りながらそんな疑問を口にしている。


 少し呆けた後、私は少し気を引き締め直して、手元にあるスマホを見た。そのまま画面に映し出される情報を口にする。少しのどに何かが引っかかって言葉が上手く出にくかったけど。


 「……17キロ340メートル。予測到着時間59分」

 

 そんな私の声に、主人は呻くように声を漏らした。


 「まっじかあ……結構あるね。……まいっか、ゆっくり景色でも楽しんでこっか」


 路地を抜けてしばらくすると、ビル群が突然なくなって周りが開けた。


 大きな道に沿って山と林が周囲にあるだけのただの道だけが続いてる。


 画面越しでも小さな格子越しでもないそんな緑の風景を見ることさえ新鮮だった。


 というか、私はここから見えるありとあらゆる景色がもういつぶりかも想いだせない。


 前に箱を出たのだって、一体いつのことだったっけ。


 ちぃちぃと鳥の声がする。


 風に木々が揺れてさわさわと音が広がっていく。


 電柱が影を作って、アスファルトが光を照らし返している。


 何より空を見上げれば青い、雲一つない青い空が広がっている。


 そんな最中を、人肌の触れる感覚を感じながら、自転車がカラカラと音を立てるのを聴いている。



 その全てが、いつ以来だったか、もう思い出せそうにもなくて。



 「ありゃ、泣いてる?」



 そう言って私の主人は笑いながら声をかけてきた。


 穏やかで静かで、でも無関心ともまた違う。


 そう言った言葉の紡ぎ方を、『優しい』と呼ぶことを。


 知識では知っていたはずだけど。


 今になって、私は、ようやく想い出した。


 ―――そんな気がした。



 「気のせいか。…………うん、気のせいだね」



 主人はそう言うと、それから黙ってぐんぐんと自転車を漕ぎ続けた。


 少しだけ遅れて、私は自分の頬から何かが零れていることに気が付いた。


 それが涙という名前であることも、いったいいつ以来忘れていたんだったっけ。


 どうしてそれが零れるのか、知識では知っているけれど、今の自分にどうあてはめればいいのかはよくわからなかった。悲しみも、喜びも、どうにも今の自分には上手くあてはまりそうもない。


 そもそもこんな感情、一体いつ以来忘れていたんだったっけ。


 風の音がする。


 抱き着いている私の主人は、どこかご機嫌に鼻歌を歌っていた。

 




 「ねえ、みつき。一つ『お願い』があるんだけどさ。―――できたら、できたらでいいからね?」



 ――――?



 「できるだけ、私より長生きして、幸せにね、なってみて」



 幸せ?



 「うん、そう幸せ。私より長生きは……簡単だと想うけど」



 …………わからない。長生きも……幸せも。……何をしたら幸せになるの?



 「―――あはは、さあ? そんなの君が決めるんだよ」



 そう言ってあなたは笑ってた。



 その笑顔を見て、その声を聴いて、再び想う。



 もしかしたら、私はこの一瞬を、永遠に忘れることができないのかもしれない



 たとえ、これから数多の人と出会って、数えきれないほどの笑顔や、その笑い声を聞いたとしても。



 今、この瞬間だけは、きっとずっと忘れることができないんだと―――。



 そんな気がしていたんだ。

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