死んだふり令嬢、黒い噂の奴隷伯爵に嫁ぐ。
長岡更紗
前編
地下室には、絶対に近づくな──
ファリエール伯爵家に嫁いできたヴァネッサは、家令の男に強くそう言われていた。
なんで? なにかあるわけ?
やっぱりノワール様のあの噂は本当なの?
ヴァネッサは、地下室への階段を一歩降りる。
好奇心……いや、それとも使命感か。
ノワール・ファリエールは、奴隷商人からいつも子どもを買いつけている。そして、その子どもを屋敷の地下に幽閉している……という
しかも子どもを切り刻んで遊んでいるとか、食べているだなんて話まである。
本当にこの家でそんなことが行われているなら……助けなきゃ……!
ヴァネッサは、この屋敷の主人であり夫であるはずのノワールの顔を、まだ一度も見たことがない。
結婚したのは一ヶ月前だが、結婚式があったわけでも披露の宴があったわけでもない、ただ書類上の婚姻だった。
仕事で家にはほとんどいないと家令のブランに聞いてはいるが、それにしてもなんの音沙汰もないのはおかしい。
借金を返すためじゃなきゃ、こんなところになんて嫁いでこなかったわ!
落ち目の子爵令嬢だったヴァネッサは、人に騙されて多額の借金を背負った両親のために、仕方なくノワールの嫁となることを決めたのだ。
地下に行く以外には自由に過ごしていいと言われていて、好き勝手しているものの、どうにも薄気味悪さが拭えなかった。
姿を現さないノワール。仕事というのは嘘で、この地下室にいるのかもしれない。
怖い……この先に、一体なにがあるの……私は正気を保っていられるの……?!
一歩一歩、ヴァネッサはその階段を降りていく。
いやな汗が額から流れ、喉はいくら唾液で潤してもすぐにカラカラになってしまう。
薄暗い地下室への階段。壁に手を当てて伝い歩きしながら、地獄に吸い込まれるような感覚に襲われた。
己の心拍がドクドクとうるさく響く。
扉だわ……! ここに、子どもたちが……?
ヴァネッサは、意を決してそのドアノブに手をかけると、扉を開けた。
そこには──
「あれぇ、お姉ちゃんだれぇ?」
「新しい人?」
「………え?」
予想だにしない光景が、そこにはあった。
***
「地下室には近づくなと、あれほど言っただろう」
家令のブランが、長い前髪を逆立てて目を見せるのではないかと思うほど、怒りのオーラを発している。
ここは、近づくなと言われていた地下室。
腕や足がない子、咳が止まらずベッドに寝たきりの子、噂通りにたくさんの子どもたちがいた。
噂と違ったのは、地下室は思ったよりも清潔で、なによりも子どもたちには笑顔が溢れていることだ。
「ねぇ、どういうことなの? この子たちの病気や怪我は、ノワール様がやったの?!」
状況が理解できなかったヴァネッサは、ブランを呼んできた……というわけだ。
ブランは家令のくせに人当たりが悪く、いつもぶすくれている。やたら長い前髪のせいで目が見えないから、余計にそう感じるのかもしれない。
ヴァネッサの質問に、ブランはやはり無愛想に口を開いた。
「そう思いたいなら勝手にそう思えばいい」
「ちがうよー」
「ぼくは生まれつき手がないんだ」
「わたしは前のご主人様を怒らせて……」
ブランの言葉とは逆のことを子どもたちが教えてくれる。
どうやら、みんな奴隷だというは確かのようだった。なんらかの怪我や病気などで、使えないと判断されて処分されるはずの子どもたちを、ブランが密かに買い取っていたらしい。
ブランがこの子たちを救ってあげていたんだわ……!
まさかそういうことだとは思わず、ヴァネッサはブランを見る目が変わった。
いつも無愛想で不機嫌の塊かと思いきや、なかなか良いところがあると思うと、嬉しくなってくる。
「ふふ、やさしいところがあるじゃない、ブラン!」
「誰にも言うんじゃないぞ」
「あら、じゃあ今までずっとあなた一人で子どもたちのお世話をしてたの?」
「……まぁな」
「じゃあ、これからは私も手伝うわ!」
「いや、いらん」
「あなた、自由にしていいって言ったわよね。だから自由にするの」
ヴァネッサがにっこり笑うと、ブランは嫌そうな顔をしていたが、それ以上はなにも言われなかった。
私も、奴隷の待遇には疑問を持っていたのよね。
昔、街で奴隷らしきお兄さんが殴られているのを見て、すごく怖かった覚えがあるもの。
当時まだ五歳だったヴァネッサは父母の目を盗み、殴られ終わった奴隷のお兄さんのところへ行くと『げんきだして』とキャンディをあげたのである。
震える手でキャンディを受け取ったその人が、ぽろぽろと涙を流していたのが印象的だった。
周りで見ていた人たちには、『貧乏子爵の変わり者ヴァネッサだ』と冷ややかな目で囁かれてしまっていたが。
そのため、貴族でありながらも奴隷が虐げられることに厭忌していたヴァネッサは、地下室に通って子どもたちの世話をすることが生きがいになった。
貧乏子爵家で育ったので、使用人は雇えずに家のことは全部ヴァネッサがやっていたから、掃除や洗濯はお手のものだ。弟妹の面倒も見てきたので、子どもの扱いにも慣れている。
「今日は外に行きましょう! ずっとこんな地下室でいては、良くなるものも良くならないわ!」
「余計なことをするな、ヴァネッサ。夜には連れ出してちゃんと月光浴をさせているんだ」
ブランが苦虫を噛み潰したような顔をしてそう言ったが、ヴァネッサはビシッとその鼻先に人差し指を突きつける。
「ブラン! 子どもは太陽の元を駆け回ってこそ元気になれるのよ! 傷ついた奴隷を買って手当をしていることは素晴らしいわ。だけど地下に幽閉していては、奴隷への扱いと変わらないんじゃない?!」
むぐっとブランが言葉を詰まらせているのを見て、ヴァネッサはさらに続ける。
「それに、隠すから変な噂が立つのよ。子どもたちの元気な姿をお日様の下で見せれば、誰も勘違いなんてしなくなるわ!」
「だが」
「ノワール様には内緒で子どもたちを勝手に保護したんでしょ? バレるとまずいのはわかってるわ。でもノワール様はいつも仕事でここにはいないじゃない。ちょっとくらい平気よ」
なにか言いたそうにしているブランを押しとどめて、子どもたちを外に出して遊ばせてあげる。
病気の子はヴァネッサの部屋に移動させて、そこで寝かせてあげた。部屋にも太陽の優しい光が差していて、窓から外を見る様子は嬉しそうだ。
「勝手なことを……」
「あら、あなたは子どもたちのあんな素敵な笑顔を見たことがあって?」
ずずいと言いよると、ブランはぷいと顔を横に向けて。
「ない」
少し悔しそうにこぼした。
「ふふ。ブランって、素直じゃないわねぇ」
「なにがだ」
「本当は、子どもたちがああやって遊んでいるの、嬉しいんでしょ?」
ヴァネッサの言葉に、ブランは外にいる子どもを、その長い前髪の隙間からじっと見つめている。
「そう……かもな」
そう言うと同時に、ブランは口の端を上げた。
あら、ブランって本当に不器用なんだわ。
言い方は悪いし、やり方も間違ってたのかもしれないけど……この人には、しっかりと心がある。
「ふふっ」
「なんだ」
「ブランって、いい人だって思って。それが嬉しかったの!」
「やめろ」
「あらやだ、トマが転んでるわ。トマ、大丈夫ー?! ほら、ブラン、急いで行きま……」
ヴァネッサが屋敷を出ようと扉に向かいながら振り向くと、ブランはすでに窓から飛び出してトマに駆け寄っている。
その姿を見て、ヴァネッサの口元はほころんだ。
「ほら、やっぱりいい人」
ヴァネッサは嬉しくなりながら、玄関を出て彼の元に向かった。
それからもヴァネッサは、ブランと一緒に子どもたちの世話をし続けた。
結婚したはずのノワールには、三ヶ月経った今もまだ会ったことがない。
ノワール様って、どんな人なのかしら……
彼が帰ってきたら、私はノワール様に……
夫ではあるが、会ったこともない男に身を委ねなければいけないことを考えて、背中がぞわりとする。
黒い噂に関してはブランがしていたことが発端だったのだから、実際のノワールは悪い人ではないのだろうが。
でも、やだ……だって、私……
大きな洗濯かごに子どもたちの着替えを詰め込んで外に出ると、みんながきゃいきゃいと遊んでいる。
「ヴァネッサさまぁ! お洗濯、手伝いますー!」
そのうちの数人がヴァネッサに気付いて、手を振ってくれた。
「じゃあ、干す時に手伝っ……きゃっ?!」
「おい、危ない」
足元に置いてあった洗濯桶に気づかずに転びそうになった時、後ろからすっと抱きしめるように支えてくれる人がいた。
「ブ、ブラン!」
「気をつけろ」
「洗濯桶、ブランが用意しておいてくれたの?」
「……悪かったな」
「ううん、ありがとう! 今から取りに行こうと思ってたから!」
ヴァネッサがそう言うと、ブランは口の端だけで笑った。
うっすらと見えるその瞳は優しく細められているようで、ヴァネッサも微笑み返す。
ブランが結婚相手だったらよかったのに……
最初は高圧的な態度に見えたブランも、知っていくうちに彼の内側の優しさが見えてきた。
知れば知るほど、ブランに惹かれてしまう。
ヴァネッサが井戸端で洗濯をし、ブランに手渡すと彼はぎゅうっと搾り上げてくれる。
それをまた子どもたちが受け取り、自分の洗濯物は自分で干していく。
「ぶらん〜、背がとどかない〜!」
洗濯紐にまで届かない子が、ぴょんぴょんジャンプしながらブランを呼ぶ。
するとブランは「まったく」と面倒くさそうな顔をしながら抱き上げて、その子自身に干させてあげていた。
ブラン、自分でわかってないんだろうな……
子どもを抱き上げた瞬間は、幸せそうな顔してること。
「ヴァネッサ様、またブランを見てにやにやしてるー!」
「してるー!」
「し、してないわよ?!」
「顔あかーい!」
「あかーい!」
「赤くないったら!」
ヴァネッサが子どもにからかわれてワタワタしていると、ブランに視線を向けられた。
目が合ってしまうと、さらに顔が熱くなる。
「ヴァネッサ様、かわいいー!」
「かわいー!」
「ねぇ、ブランもそう思うよね?!」
きゃーー、ちょっとやめてーー?!
内心大慌てだが、子どもたちを叱るわけにもいかず、行き場のない手だけがうろうろとする。
子どもたちに急に話を振られたブランは、ヴァネッサを見たあと、すぐにそっぽを向いてしまった。
う……やっぱりブランは私のことなんか……
「そう、だな……」
……え?
ブランの返答にヴァネッサの頭は追いつかず、一時思考停止した。
そうだなって……私をかわいいって思ってるってこと?!
ばくんばくんと胸を打ち鳴らしながらブランを見ると、彼の横顔は耳まで赤くなっているではないか。
「ブランも顔まっかー!」
「まっかー」
「うるさい。洗濯物を干し終わったんなら、さっさと遊びにいけ」
「おこったー!」
「ぶらんがおこったー!」
子どもたちはきゃーきゃー叫びながら去っていき、その声が遠ざかっていく。
後にはヴァネッサとブランだけが残った。
ど、どうしよう……意識しちゃう!
もしかして、ブランも私のこと?
やだ、嬉しい……っ
「ヴァネッサ」
「は、はい?!」
心臓が飛び跳ねて、しゃきんと背筋を伸ばす。
もしも愛の告白だったら、私はブランと駆け落ちだってするわ……!!
一歩一歩近づいてくるブランはどこか嬉しそうで、ヴァネッサの期待も次第に高まっていく。
「重大な知らせがある」
「な、なにかしら?」
「ノワールが、今夜帰ってくる。ヴァネッサに会いたいそうだ」
「………え?」
さっきまでの浮かれた気分は一転、地獄に叩き落とされた。
頭がクラクラとする。
しかもブランはいつも無愛想な顔ではなく、どこかそわそわとしていた。
そんなにもこの家の主人が帰ってくるのが嬉しいの……?
私は今夜、その人に抱かれなきゃいけないっていうのに……
ブランは私のこと、好きなわけじゃなかったんだわ……!
ショックが重なり合って、胸が悲鳴をあげるように苦しくなる。
わかっている。わかっていた。
いつかは夫である男に抱かれなければいけないことは。
ブランと共に駆け落ちなど、夢物語だということは。
しょうがないじゃない……私、こんなにブランのことが好きになっていたんだんだもの!!
どれだけ強く想おうと、ヴァネッサの気持ちがブランに届くはずもないのだ。そわそわとしている彼を見ると、ヴァネッサの心が締めつけられそうになる。
「だから、夕食後は歩き回らず、部屋にいるように」
「……わかったわ」
「それと、俺はしばらく仕事でこの屋敷を出なければならないが、子どもたちのことは他の者に任せるから心配しなくていい」
「……そう」
子どもたちのお世話ですら必要のない人間と見られていたのかと思うと、涙が込み上げてきそうになる。しかしブランの前で大泣きするわけにもいかず、その場はなんとか耐えたのだった。
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